魯迅
長く眠った民族を、 どんな痛みで目覚めさせるか?
仙台で医学から文学へ転じ、「人を食う礼教」を書いて中国近代の精神の苗床を掘り返した作家
- 阿Q正伝
- 狂人日記
- 仙台医専
- 左翼作家連盟
- 国民性批判
時代の空気
古い秩序が音を立てて崩れる時代だった。1905年に科挙が廃止され、千数百年続いた読書人の梯子が一夜にして消える。義和団事件と八カ国連合軍侵攻の屈辱はまだ生々しく、辛亥革命(1911)が運び込んだのは新中国ではなく袁世凱の帝政復活と軍閥混戦だった。日本に渡った若い留学生は仙台や東京で「弱国の民」という視線を背負い、帰国した彼らを待っていたのは1919年の五四運動と白話文運動の沸騰だった。1930年代の上海では国民党と共産党の角逐の只中で左翼作家聯盟が結成され、検閲と銃殺の影が文芸の傍らに常にあった。近代中国の魂をどう救うか——その問いだけが、揺らぐ世界の輪郭を確かめ直す唯一の手がかりだった。
01紹興──没落する読書人の家
1881年9月25日、浙江省紹興の新台門周氏の家に、本名周樹人、字は豫才として生まれた。周家は代々書香(学問)の家系で、祖父周福清(1838-1904)は清朝の翰林院庶吉士(科挙合格者の最上位ランク)、父周伯宜も秀才だった。紹興は黄酒と硯、そして王陽明・陸游を生んだ江南の文化的中心地で、少年周樹人は幼少から四書五経・唐詩選・古典小説『西遊記』『水滸伝』を読み、科挙に備える古典教育を受けた。
しかし1893年、祖父周福清が科挙試験の贈収賄事件(子の周伯宜を合格させるため試験官に賄賂を送ろうとした件)で投獄される。家は急速に没落し、田畑の大半を売却して祖父の減刑嘆願費用に充てた。さらに1896年、父周伯宜がアヘンと酒で健康を害し35歳で早逝、家族は完全に困窮に陥った。13歳の樹人は、薬屋と質屋のカウンターを往復し、父の病薬のために質入れする日々を送った。この没落した読書人の子としての経験──「昔は家族に頭を下げさせていた人々が、今は自分に頭を下げろと言う」という階層転落の感覚──が、後の魯迅の中国社会への冷徹なまなざしの原型となる。
1898年、17歳で紹興を離れ、授業料免除で入学できる南京の江南水師学堂(海軍教育機関)に入った。翌年江南陸師学堂附属路鉱学堂(鉱山鉄道技術者養成校)に転校、ここで初めて英語・ドイツ語・化学・地質学を学んだ。当時、康有為の戊戌変法(1898)が失敗し、義和団事件(1900)と八カ国連合軍侵攻(1900-01)を経て、清朝の崩壊が現実のものになりつつあった。古典教育から西洋新学への転換は、一個人の選択ではなく時代の要請だった。
02日本留学──弘文学院と仙台医学専門学校
1902年3月、21歳で清朝官費留学生として日本に渡った。東京の弘文学院(日本語予科)で2年間日本語を学び、1904年4月、仙台医学専門学校(後の東北大学医学部)に入学した。仙台を選んだのは、東京にいる中国人留学生(当時約1万人)の群れから離れて、日本社会の中に単独で飛び込むためだった。魯迅自身が後に(1926)で書くように、仙台は彼にとってただ一人の中国人として生きる最初の経験の場だった。
仙台医学専門学校で最も親密に接した教師は、藤野厳九郎(1874-1945、解剖学教授)だった。藤野は魯迅の講義ノートを毎週添削し、解剖図の間違いを赤字で直し、「中国は清朝末期の混乱の中で医学的に遅れている。日本から医学を持ち帰る君のような留学生こそ、中国を救う」と励ました。藤野との関係は、後年『藤野先生』として漱石風の追悼文として書かれ、中国人にとっての「日本」の複層性を示す代表的テクストとなる。
1906年1月、細菌学の授業で決定的な事件が起きた。当時は授業の余白の時間に日露戦争(1904-05)の幻灯片(スライド)が上映される習慣があった。ある日の幻灯片に、中国人のロシアスパイが日本軍に銃殺される場面と、それを無表情で取り囲んで見物する大勢の中国人群衆が映されていた。教室内の日本人学生は「万歳!」と叫んだ。魯迅はその場面を見て、医学で身体を救っても、精神が麻痺した民族は救えない、と強烈に感じた。この瞬間が、彼の生涯の転機となる。
1906年3月、仙台医学専門学校を退学し、東京に戻った。文学者として生きる決意を固めていた。東京で弟の周作人(後の著名な随筆家)と共に『新生』という文芸雑誌を構想したが、資金と協力者の不足で刊行には至らなかった。1909年には弟周作人と共訳で東欧・北欧の短編を集めた『域外小説集』を東京で自費出版したが、売れたのは二冊本合わせて40部余りに留まり、無名の翻訳者の挫折として終わった。1907年には、ニーチェ・バイロン・シェリー・ミツキエヴィチら西洋・東欧ロマン派を紹介する『摩羅詩力説』を書いた。この論考で、魯迅は「悪魔詩派(摩羅詩派)」──権威に反逆する詩人たちを、中国に不在の精神の型として紹介した。ニーチェの「超人」「偶像破壊」が、この時期の彼の思想的背骨となる。
1909年、28歳で帰国。日本留学7年で持ち帰ったのは、医学資格ではなく、文学という武器で国民性を改造するという構想だった。
03『狂人日記』と『阿Q正伝』──中国近代文学の出発
1909年帰国後、魯迅は故郷紹興と杭州の学校で生物学・化学を教えたが、辛亥革命(1911)後の1912年、蔡元培の招きで教育部の僉事(中堅官僚職)として南京臨時政府に入り、間もなく北京政府の移転に従って北京へ移った。1912-26年の14年間、教育部の役人としての日中と、図書館・古書店・古代碑拓の収集に没頭する夜、という二重生活を続けた。とりわけ袁世凱の帝政運動が高まる1915-16年前後、彼は古碑の拓本を黙々と書き写し、仏典を抄経する日々に没頭した──書誌学への退却の形を取った、政治的絶望の自己療法でもあった。辛亥革命が実質的な社会改革に至らず、袁世凱帝政・軍閥混戦・復古主義の横行を目撃する、幻滅と無力感の時期だった。
1918年5月、37歳のとき、を誌に発表した。本作は中国最初の現代口語小説として文学史に刻まれる。体裁は「被害妄想の狂人の日記」で、狂人は自分の周囲の人々全員が自分を食べようとしていると疑う。しかし小説の核心は最終頁の「救救孩子(子供を救え)」の叫びにある。狂人の見た「人が人を食う」現象は、中国の礼教(儒教的道徳秩序)そのものが人を精神的に食い続けてきた歴史の比喩だった。1年を遡って読み直すと、「礼教、仁義、道徳」と印字された書物の行間から「食人」の二字が滲み出てくる。この作品で初めて、中国近代の精神状況が文学的に定式化された。ペンネーム「魯迅」はこの作品で初めて使用され、以後本名を超える作家名となる。
1921年12月-22年2月、を『晨報副刊』に連載した。主人公阿Qは、貧しい日雇い農夫で、名前もはっきりせず、家も財産も教育もない。小説の特徴は、阿Qが負けても負けても「」で自分を勝者と思い込む自己欺瞞の構造である──実際に殴られても「これは息子が父親を殴っているようなもの(自分の方が格上)」と思い込み、階級的・人格的劣位を心的置換で転倒させる。阿Qは最終的に、辛亥革命の混乱の中で間違った容疑で銃殺されるが、最期の瞬間まで「精神勝利法」は機能し続ける。
『阿Q正伝』は個人の風刺であると同時に、中国民族全体の「国民性」の肖像として読まれた。アヘン戦争以降の連続した敗北と屈辱を、中国社会がどう内面化したか──それを「精神勝利法」という独特の自己欺瞞機制として剥き出しにする文学的手術だった。作品発表後、「自分は阿Qではない」と激しく反発する読者が続出したこと自体が、作品の診断の正確さを示していた、と後に魯迅は皮肉に書く。
04北京から上海へ──国民党検閲との闘い
1918-26年の北京時代、魯迅は北京大学・北京師範大学・北京女子師範大学で文学史を講義し、『吶喊』(1923、短編集)、『彷徨』(1926、短編集)、『朝花夕拾』(1928、回想文集)、(1927、散文詩集)など主要作品群を次々と書いた。短編『故郷』(1921)では、20年ぶりに紹興に帰郷した語り手が、少年時代の友人で今は寡黙な小作農となった閏土と再会する場面を通して、階級と時間が人と人の間に降ろしてゆく重い隔ての層を描いた。『孔乙己』(1919)は、科挙落第者の没落した読書人を笑う酒場の常連客の視線を借りて、礼教と階層の残酷さを浮き上がらせた。特に『野草』は魯迅作品中最も難解かつ抒情的で、影・夢・過客・死など実存的主題を短い散文詩で扱う。ニーチェ・ボードレール・ツルゲーネフ散文詩の影響が濃い。
この時期、魯迅は北京女子師範大学の校長楊蔭楡が学生自治を弾圧した1925年の「女師大事件」で、教え子たちの側に立って公開書簡を発し、文部当局と長く対立した。1926年3月、三・一八事件(段祺瑞政府による学生デモ銃撃、47人死亡)で、魯迅が指導していた女子師範大学の学生劉和珍らが殺害された。魯迅は追悼文『劉和珍君を記念して』を書き、政府批判の論陣を張ったため、要注意人物として追われ、北京を離れざるを得なくなった。厦門大学(福建省)・中山大学(広州)で短期間教えたが、いずれも政治的摩擦で辞任。1927年10月、上海租界に移り、以後死去まで9年間上海に定住した。広州時代の教え子で長年の伴侶となる許広平と上海で事実婚の生活を始めたのも、この移動の延長線上にあった。
上海時代の魯迅は、小説を書くことをほぼ止め、雑文(短評・エッセイ)を集中的に書いた。『華蓋集』『三閑集』『二心集』『南腔北調集』『偽自由書』『花邊文学』『且介亭雑文』など、死までに16冊の雑文集を出版した。雑文は即時的な政治批判・社会批判の短文で、国民党検閲を掻い潜るため、隠喩・寓意・古典引用を駆使する独特の文体を発達させた。上海の国際租界(フランス租界・英米共同租界)は清国法の外側にあり、そこに住む中国知識人は相対的な言論の自由を享受できた。魯迅が終生上海租界から動かなかったのは、この自由の保持のためだった。
1930年3月、(左連)が上海で結成され、魯迅は名義上の指導者となった。左連は中国共産党の外郭組織で、瞿秋白(党指導部、後に紅軍の長征直前に国民党に処刑される)や郭沫若(後の中華人民共和国科学院院長)と深い交流を持った。ただし魯迅自身は共産党員ではなく、党に加入することも最後まで拒んだ。1931年2月、左連の若い盟員柔石・胡也頻・殷夫ら五人が、国民党警察に上海龍華警備司令部で銃殺される「左聯五烈士」事件が起きた。魯迅は身を潜めて生き延び、二年後に追悼文『忘却のための記念』を発表して若い友人たちの死に応えた──その低い筆致は、検閲の壁の向こう側でなお死者の名前を刻もうとする抑えた怒りに満ちていた。1934-36年、左連内部の路線対立(「二つの標語」論争)で、魯迅は周揚らの教条主義的党指導部と激しく対立し、独立した文学者としての立場を守り続けた。
1930年代、魯迅は外国文学の翻訳にも精力的に取り組んだ。ファデエフ『壊滅』、ゴーゴリ『死せる魂』、ゴーリキーの短編集、日本からは夏目漱石『吾輩は猫である』(部分訳)・芥川龍之介『鼻』『羅生門』、さらに日本プロレタリア文学(島田正郎、葉山嘉樹)を中国語に訳した。漱石への言及は生涯続き、『朝花夕拾』の追想に東京・本郷の下宿近くの「伍舎」時代(1908頃、魯迅・周作人・許寿裳・銭均夫が共同生活)で、漱石の家(西片)を「遠く」眺めていた記述が残る。
05国民性批判──その内在的位置
魯迅の中心主題は、「中国の国民性改造」だった。『阿Q正伝』『狂人日記』『孔乙己』『薬』『祝福』の短編群は、中国民衆の心的構造を剥き出しにする診断書として読まれる。しかしこの「国民性批判」は、外部から中国を見下す視点ではなく、自分自身の中にも阿Qがいる、という内在的な痛みを伴っていた。
魯迅自身が繰り返し強調したのは──彼の批判対象は中国人一般ではなく、2000年の封建的礼教が民衆の精神に刻んだ奴隷的気質である。「仁義道徳」の行間から「食人」が滲み出すのは、礼教が民衆を精神的に去勢してきたためであって、民衆自身が本来そうだからではない。この構造的批判は、後に単純な「中国人=阿Q的」という本質主義的読解に陥る危険を常に伴ったが、魯迅の本意は構造分析だった。
しかし、彼の国民性批判はしばしば絶望の調子で響く。「」の比喩(『呐喊』自序)──密閉された鉄の部屋の中で眠り続ける人々を起こすべきか、それとも目覚めたまま窒息死させるべきか、という逆説的な倫理的問い──は、啓蒙主義の根本的限界に触れていた。魯迅は、単純な「文明による救済」の物語を信じなかった。1920年代の彼の散文詩集『野草』は、この絶望の最も純粋な表現となっている。
他方、魯迅の絶望は虚無主義に陥らず、常に行動への意志と並走した。『故郷』(1921)結びの有名な一節──「希望とは、本来あるものともないものとも言えない。それは地上の道のようなものだ──もともと地上には道はなかった。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」──は、この絶望と行動の弁証法の古典的定式となった。同じ構造が、晩年の雑文にも『野草』にも反復する。
魯迅の文学的先達としてのニーチェの痕跡も、この絶望と行動の並立に関係する。ニーチェが神の死の後に「超人」を置いたのに対し、魯迅は礼教の虚偽の後に「真の人」を置いたが、「真の人」はまだ存在せず、これから作られる対象だった。『狂人日記』最終頁の「子供を救え」は、現在の中国人は既に食人の共犯であり、救いは未来の、まだ汚染されていない子供にしかない、という厳しい倫理的裁断だった。
06上海の終わり──民族魂として死ぬ
1936年、魯迅は55歳で、慢性化した肺結核が急速に悪化していた。前年の1935年5月からほぼ寝たきりに近い状態で、それでも雑文を書き続け、ゴーゴリ『死せる魂』の翻訳を進めた。左連内部の路線対立(「国防文学」vs「民族革命戦争の大衆文学」という二つのスローガンの論争)は、瀕死の魯迅を最後まで消耗させた。
10月18日深夜、突然の激しい呼吸困難。翌19日午前5時25分、上海フランス租界・大陸新村9号の寓居で死去。享年55。妻許広平(北京女子師範大学時代の教え子、1925年から事実婚)と息子周海嬰(7歳)が看取った。遺言の一つは「葬儀は簡素に。誰の罵倒も赦すな、自分も誰をも赦さない」──生涯の戦闘的姿勢を死の間際まで貫いた。
葬儀は上海国際租界の万国殯儀館で執り行われ、参列者は1万人を超えた。棺には、宋慶齢(孫文の未亡人)・蔡元培(前北京大学学長)・沈鈞儒(知識人の長老)ら中華民族の良心を代表する人々が作った「民族魂」の三字を刻んだ旗が掛けられた。国民党政府は弔意を示さず、共産党は延安で盛大な追悼集会を開いた。
遺体は上海の虹橋万国公墓に埋葬された。1956年、中華人民共和国建国後の毛沢東の揮毫する「魯迅先生之墓」の墓碑銘とともに、虹口公園(現・魯迅公園)に改葬された。毛沢東は『新民主主義論』(1940)で魯迅を「中国文化革命の主将」と評価し、以後魯迅は共産党公式の文化英雄として神格化された。この神格化は、魯迅自身が生涯闘ったあらゆる偶像化への皮肉な帰結でもあった。
同時代の中国で、魯迅と並ぶ作家は何人かいた──周作人(魯迅の弟、日本占領期の日本軍協力者となり戦後失脚)、林語堂(『吾国吾民』でアメリカで成功)、胡適(白話運動の旗手、アメリカ帰り、後に台湾中央研究院院長)。しかし20世紀中国文学で、最も広く、最も深く読まれ、今日まで教科書に載り続けているのは、魯迅一人である。彼の文章は、後発民族が西洋近代と向き合うときの屈辱と怒りと皮肉の原型を定式化した。同じ時代、日本で夏目漱石がより穏やかな色調で近代化の困難を書いたとすれば、魯迅は中国の傷の内側から、赤裸々な言葉で同じ問いを書き残した。
07主要な出来事と著作
- 浙江省紹興の読書人家系に生まれる、本名周樹人
- 祖父周福清の科挙贈収賄事件で家が没落
- 南京・江南水師学堂、翌年路鉱学堂に転校
- 日本留学、東京・弘文学院で日本語を学ぶ
- 仙台医学専門学校入学、藤野厳九郎に師事
- 仙台幻灯片事件、医学を捨てて文学へ転じ東京へ戻る
- 『摩羅詩力説』、ニーチェ・バイロン・シェリー紹介
- 帰国、浙江・紹興で教員
- 北京・教育部職員、北京大学講師として文学史を講じる
- 『狂人日記』を『新青年』に発表、ペンネーム「魯迅」初出
- 『阿Q正伝』を『晨報副刊』に連載
- 短編集『呐喊』『彷徨』、散文詩集『野草』
- 三・一八事件で北京を追われ厦門・広州へ
- 上海フランス租界に移住、以後9年間定住
- 中国左翼作家連盟(左連)結成、名義上の指導者に
- 10月19日上海で肺結核により55歳で死去、葬儀に「民族魂」の旗
残した思想の輪郭
- 『狂人日記』 ─ 中国最初の現代口語小説、礼教=食人の寓意、「子供を救え」
- 『阿Q正伝』 ─ 精神勝利法による国民性批判、阿Q=中国民族の病理的自己像
- 『呐喊』 ─ 短編集、『孔乙己』『薬』『故郷』『祝福』など社会診断の小品群
- 『野草』 ─ 散文詩集、絶望と行動の弁証法の純粋な表現、魯迅作品中最も難解
- 『朝花夕拾』 ─ 追想文集、『藤野先生』『阿長と山海経』など少年期と仙台時代
- 雑文16冊 ─ 上海時代の政治批判・社会批判、隠喩と古典引用による検閲回避の文体
- 国民性批判の内在性 ─ 自分自身の中にも阿Qがいるという痛みを伴う構造分析
- 鉄の部屋の比喩 ─ 啓蒙主義の根本的限界への逆説的自問
- 『故郷』結び ─ 「道は歩く人が多くなればできる」という希望の弁証法的定式
- 左翼作家連盟の指導者 ─ 共産党員ではなく、党に加入することを拒みつつ同伴者として戦う独立文学者の立場
- 民族魂の葬儀 ─ 1万人の参列、国民党黙殺と共産党追悼、死後の神格化と偶像化の皮肉
つながり
- ニーチェ
共鳴 — 日本留学中(1902-09)にニーチェを読み、『狂人日記』(1918)『摩羅詩力説』(1907)に「超人」「偶像破壊」の響きが色濃い。ただし中国の文脈では西洋近代の超克というよりは、封建的儒教道徳(「礼教、人を食う」)を告発する武器として再機能化
- 胡適
伴走 — 1917-23年ともに『新青年』誌に寄稿し五四新文化運動の双璧として活動。胡適『文学改良芻議』(1917)が白話文運動の綱領となり、魯迅『狂人日記』(1918)が最初の現代口語小説として応答した二人三脚の関係。1925年以降の政治的立場(胡適=自由主義・国民党穏健派、魯迅=左翼作家連盟)で分岐するが、1936年魯迅死去時に胡適は追悼文を書き「文学革命の最大の成果」と評価した
さらに読むならFurther Reading
魯迅の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門故郷/阿Q正伝
魯迅 / 訳: 藤井省三 / 光文社古典新訳文庫
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魯迅 / 訳: 竹内好 / 筑摩書房
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生きた跡を辿るPlaces
魯迅が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「魯迅」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Lu Xun"
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