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知の革新

アラン・チューリング

Alan Turing·1912–1954·イングランド·

機械は、 考えることができるか?

計算可能性と暗号解読で戦争の勝敗を変えた数学者

  • 計算機械
  • 模倣ゲーム
  • 暗号解読

時代の空気

1930年代のケンブリッジは、ヒルベルトの形式化計画とゲーデルの不完全性定理(1931)の余波に揺れていた。チャーチがラムダ計算で決定問題に挑むのと同じ年、若い数学者は機械という言葉で同じ問いに別の答えを与えた。やがて第二次大戦が来た。バッキンガムシャーの政府暗号学校に集められた者たちは、ポーランド人が遺した解読の種を引き継ぎ、ドイツ海軍のエニグマと向き合った。戦後の英国は同性愛を犯罪とし続け、機密扱いの戦功は語れず、安全保障審査が科学者を縛った。彼の名誉が回復されるのは2009年の首相謝罪、2013年の女王恩赦、2017年のチューリング法を待ってのことだった。

01インド植民地官僚の子

1912年6月23日、ロンドンのマイダ・ヴェール地区で生まれた。父ジュリアス・チューリングはインド総督府に仕える文官ぶんかん(Indian Civil Service)、母エセル・サラはサントン家の娘で、婚姻後しばらくは夫の任地インドに住んだ。アランは兄ジョン(二歳上)とともに英国に留まり、両親の長い不在のあいだ里親夫妻の家で育った。

1926年、14歳でドーセット州のシャーボーン校に寄宿きしゅく入学した。ストライキで列車が止まった登校初日に、彼は60マイル余りを自転車で漕いで予定どおり寄宿舎へ着き、地元紙にも報じられた。古典語と宗教を重んじる校風に馴染まず、ラテン語や聖書より数学と化学に熱中した。校長は「もし数学の専門学校に行くなら彼を落とすことはできないが、ここで公教育を受けている以上、彼は教育されているとは言えない」と嘆いた。

16歳の冬、一歳年上のと出会った。共に天文学と相対論と数学を語り合う友情だった。1930年2月13日、モーコムは少年期に汚染された牛乳から感染した牛結核(ウシ型結核菌)で18歳の若さで世を去った。アランは深く打ちのめされ、モーコムの母エシルへ長い手紙を書き続けた ― 「彼の知性はどこへ行ったのか」という問いが、後の機械的思考論の遠い源となる。

02ケンブリッジ、キングズ・カレッジ

1931年、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに数学奨学生として入学した。1934年に最終試験を首席級(Wrangler)で終えて卒業し、翌1935年、22歳でキングズ・カレッジ特別研究員(フェロー)に選出された ― ガウス分布の中心極限定理を独立に証明した習作論文が評価されたという。

1936年、24歳のチューリングは論文「、ヒルベルトの決定問題への応用とともに」を執筆した(翌1937年に『ロンドン数学会誌』に掲載)。ヒルベルトが1928年に提起した決定問題 ― 任意の数学的命題を機械的に真偽判定できる手続きは存在するか ― に答えるため、彼はという抽象的装置を考案した。無限のテープ、読み書きヘッド、状態遷移の一覧。この想像上の機械で計算可能な関数を定義し、決定問題が一般には解けないことを証明した。ゲーデルの不完全性ふかんぜんせい定理(1931)が「証明できない真理がある」と示した数年後、チューリングは「判定はんていできない問いがある」と機械の言葉で言い直した。

同じ問題には米国のアロンゾ・チャーチがラムダ計算で独自に答えを出していたが、チューリングの「機械」モデルは、コンピュータが世界に現れる前にコンピュータの理論的本質を描き出していた。両者は後にチャーチ=チューリングのテーゼとして等価性が示され、計算理論の土台となる。

1936年秋、チューリングはプリンストン大学に留学し、チャーチの指導下で博士論文(順序数による論理)を1938年に提出した。同じ高等研究所には亡命中のゲーデル、ジョン・フォン・ノイマンがおり、フォン・ノイマンは助手の口を提示したがチューリングは断ってケンブリッジへ帰った。アメリカ滞在中、彼は二進法の電気乗算機を自作し、暗号と機械の手触りを覚えた。

03ブレッチリー・パーク、エニグマ

1939年9月4日、英国がドイツに宣戦布告した翌日、チューリングは政府暗号学校(GC&CS, Government Code and Cypher School)に召集しょうしゅうされ、バッキンガムシャー州に赴任した。ここが戦時下の英国暗号あんごう解読の中心基地となる。

ドイツ軍のエニグマ暗号機は、毎日変わる設定で事実上無数の組み合わせを生む電気機械式の暗号だった。ポーランドの数学者(マリアン・レイェフスキら)が1930年代に部分的な解読法を確立し、ボンバ(Bomba)と呼ばれる先駆的な機械を作っていた。1939年7月、ワルシャワ近郊で英仏ポの暗号機関が会合し、ポーランドの蓄積は英国へ引き継がれた。チューリングはこの基礎の上に、ゴードン・ウェルチマンの「対角板」改良を組み込み、新しいボンブ(Bombe)を設計した ― エニグマの鍵設定を高速に試す並列処理機械である。最初のボンブ「ヴィクトリー」は1940年3月に稼働を始めた。

チューリングが率いたのは Hut 8、ドイツ海軍エニグマ専従の解読班だった。1941年からは三輪式 M3、1942年2月以降は四輪式 M4(連合国側呼称シャーク)へとドイツ側が機構を変えるたび、Hut 8 はその裏をかき続けた。海軍エニグマの解読は大西洋たいせいようの戦いの趨勢を変え、輸送船団の損失を大幅に減らした。歴史家の多くは、ブレッチリーの仕事が戦争を二年から四年短縮し、結果として何百万の命を救ったと評価する。ただし全ては機密扱いで、戦中・戦後長らく公表されなかった。

1941年春、チューリングは同じ Hut 8 の暗号解読者ジョーン・クラークに求婚した。彼女は受け入れたが、彼は数か月後に自分の同性愛を告げて婚約を解消した。二人は以後も友情を保った。1942年11月から翌年3月にかけては米国へ派遣され、ワシントンで暗号協定の交渉を行い、ベル研究所では音声暗号装置 SIGSALY の評価に加わって、米英の諜報ちょうほう協力の橋渡しをした。

04戦後 ― 電子計算機と模倣ゲーム

1945年から1948年まで、チューリングはテディントンの国立物理学研究所(NPL)で電子計算機 ACE(Automatic Computing Engine)を構想した。彼の詳細な設計案はストアドプログラム方式の早期の青写真の一つだったが、組織内の足並みは揃わず、彼の在籍中に完成したのは縮約版の Pilot ACE(1950年5月稼働)にとどまる。1948年、戦時の同僚マックス・ニューマンの招きで、彼はマンチェスター大学計算機研究所の副所長に転じた。前年の試作 Manchester "Baby"(1948年6月)の成果を引き継ぎ、1949年に運用が始まった Manchester Mark 1 では、チューリングはプログラミング・王立おうりつ学会発表用デモ・利用者マニュアルの整備を担った。

1950年10月、哲学誌『マインド』に論文「」を発表した。「機械は考えることができるか」という問いを、彼は操作的に再定式化した ― 模倣ゲーム(後の)。別室の応答者が人間か機械か、文字応答だけで質問者が判別できないなら、その機械を「考える」と呼んで何が悪いのか。論文の後半は、神学・意識・数学・身体性など九つの反論への丁寧な応答に充てられている。

この論文は、人工知能研究の出発点となった。「2000年までに、5分の対話で70%の質問者を騙せる機械が現れるだろう」という彼の予測は、21世紀の大型言語モデルの水準で部分的に現実化している。1951年3月、彼は王立協会フェローに選出された ― 戦時の貢献は機密のままだったから、選定理由は1936年の論文だった。

同時期、チューリングは形態けいたい形成(morphogenesis)の数理モデルにも取り組んだ。1952年8月『王立協会哲学紀要B』に発表した「の化学的基礎」は、二種以上の化学物質の反応と拡散かくさんの差から、動物の縞や斑点といったパターンが自発的に生じることを微分方程式で示した。実験的検証が進むのは数十年後で、数理生物学・化学・発生生物学に静かな根を張った。

「機械は考えることができるか」という問いは、無意味と言えるほど議論の余地がある。しかし50年の終わりには、言葉の使い方と教育された意見が変わり、機械が考えると語ることに違和感はなくなるだろうと信じる。

「計算機械と知能」(1950)

05逮捕 ― 1952年、同性愛罪

1952年1月、マンチェスターでチューリングは19歳の青年アーノルド・マレーと短期間の関係を持った。マレーの知り合いがチューリングの家に空き巣に入ったため、彼は警察に届け出た。捜査の過程で、彼は警察に自分の関係を率直に話した ― 同性愛を犯罪としない世界が当然だと、彼は信じていたのかもしれない。しかし当時の英国では1885年刑法改正法第11条「グロス・インディーセンシー(重大猥褻)」罪で、男性間の性行為は違法とされ続けていた(撤廃は1967年の性犯罪法改正を待つことになる)。

1952年3月31日、チューリングはマンチェスター巡回裁判所で有罪を認めた。裁判所は刑務所かホルモン療法(合成エストロゲン DES の投与)の選択を提示し、彼は後者を選んだ。一年間、女性ホルモンの投与により、乳房の発達、性欲の消失、深い鬱が続いた。化学的去勢きょせいと呼ばれる扱いを、暗号解読で英国を救った男に祖国が科した。安全保障クリアランスは剥奪され、GCHQ への助言の道は閉ざされた。冷戦下の英国情報部は、ケンブリッジ・ファイブ事件(1951年バージェスとマクリーンの亡命)以来、同性愛者を「ソ連に脅されうる脆い者」として遠ざける審査を強めていた。

友人や母サラは彼を支え続けた。表面上は明るく振る舞い、形態形成の研究を続け、彼は周囲に絶望を見せなかったと伝わる。1953年夏のノルウェー旅行や、ジャック・パリー医師の精神分析的会話など、生の手触りを取り戻そうとする試みも残されている。

06ウィムズローの寝室、齧られたリンゴ

1954年6月8日月曜朝、家政婦がチェシャー州ウィムズローのチューリングの家を訪れ、寝室で彼の遺体を発見した。41歳。ベッドサイドには齧られたリンゴが半分残され、部屋には青酸せいさんガスのかすかな臭気があった。警察の検視でリンゴ自体からは青酸は検出されなかったものの、遺体には青酸中毒の徴候が明らかで、同年6月10日の検死審問は自殺じさつと結論した。

検視審問の公式結論は自殺であり、これが今なお通説である。母サラは事故死を信じ続けた ― 自宅二階では金メッキの電解実験のため青酸カリを扱っており、不注意で気化した蒸気を吸い込んだ可能性は残るとする立場である。哲学者ジャック・コープランドら近年の研究者も事故説を再検討しており、暗殺説まで含めて少数意見はあるが、検死の公式判断と現在の通説は自殺のままである。彼が生前リンゴを食べる習慣を持ち、愛読した童話『白雪姫』に似た象徴性を楽しんでいた、との伝承も残る。

アップル社の齧られたリンゴのロゴが彼への追悼だという都市伝説があるが、ジョブズとデザイナーのロブ・ジャノフはこれを否定している。それでも象徴的な連想は世界に広がり、彼の遺した像をやさしく覆っている。

1983年、アンドルー・ホッジスの評伝『アラン・チューリング:エニグマ』が刊行され、ブレッチリーの仕事と1952年の起訴を初めて結びつけて世に伝えた。2009年9月10日、ゴードン・ブラウン首相は英国政府として公式に謝罪した ― 「私たちはあなたに本当に申し訳ないことをした、あなたはもっとずっと良い扱いを受けるべきだった」。2013年12月24日、エリザベス2世は大権による王室恩赦おんしゃをチューリングに付与し、有罪判決は公式に取り消された。2017年の「アラン・チューリング法」は、同様の有罪歴を持つ約五万人の男性へ死後恩赦の道を開いた。2021年6月、50ポンド紙幣の肖像はチューリングに改められた。映画『イミテーション・ゲーム』(2014)はホッジスの評伝を原案とする。

07主要な出来事と著作

  1. 6月23日、ロンドン・マイダ・ヴェールに誕生。父はインド文官
  2. シャーボーン校に寄宿。1930年2月、親友クリストファー・モーコム18歳で病死
  3. ケンブリッジ、キングズ・カレッジで数学(Wrangler 卒業)
  4. 22歳でキングズ・カレッジ特別研究員に選出
  5. 「計算可能数について」執筆・刊行。チューリング機械を提示
  6. プリンストン大学。チャーチ指導下で博士号、ゲーデル・フォン・ノイマンと同時期
  7. ブレッチリー・パーク Hut 8 主任。ボンブ設計と海軍エニグマ解読
  8. 米国出張。ベル研究所で音声暗号 SIGSALY の評価
  9. NPL で Pilot ACE を構想。1948年マンチェスター大学副所長へ
  10. 10月、『マインド』に「計算機械と知能」発表。模倣ゲームの提唱
  11. 王立協会フェローに選出
  12. 8月、形態形成の化学的基礎(反応拡散モデル)を発表
  13. 1月、同性愛で起訴。3月31日有罪判決、ホルモン療法を一年
  14. 6月7-8日、ウィムズローの自宅で青酸中毒死。享年41。検死は自殺と結論
  15. アンドルー・ホッジスの評伝『アラン・チューリング:エニグマ』刊行
  16. 9月10日、ゴードン・ブラウン首相による英国政府公式謝罪
  17. 12月24日、エリザベス2世による死後の王室恩赦
  18. 「アラン・チューリング法」、同種の有罪歴へ死後恩赦の道

残した思想の輪郭

  • チューリング機械 ― 計算可能性を定義した抽象的数学モデル、現代計算機の理論的原型
  • チャーチ=チューリングのテーゼ ― 実効的に計算可能な関数はチューリング機械で計算可能な関数と一致する
  • 模倣ゲーム(チューリング・テスト) ― 機械が思考するかを操作的に判定する哲学的提案
  • ボンブ装置とエニグマ解読 ― 実戦下で計算理論を戦略兵器化した応用数学の極致
  • 反応拡散方程式 ― 生物の縞模様・斑点の発生を説明する数理生物学の基礎
1954年6月8日朝、チェシャー州ウィムズローの自宅寝室で家政婦により遺体が発見された(死亡は6月7日夜から8日未明と推定)。41歳。検死審問は自殺と結論した。
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  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 私は、『機械は考えることができるか』という問いを考察することを提案する

    一次資料を開くMind LIX no. 236 (October 1950), p. 433, Section 1 'The Imitation Game' opening ...

  • 思想二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 1950年、雑誌Mindに掲載された論文「計算機械と知能」の後半部での一文である。エニグマ解読に従事した戦後五年、チューリングは「考える」という語の意味に悩むより、外から区別できない対話の実演を試す「...

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1954 年 6 月 8 日に英国チェシャー州ウィムズローのアラン・チューリング (Alan Turing, 1912-1954) 自宅で家政婦が遺体を発見、同年 6 月 10 日の検死審問は青酸中毒...

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 機械は考えることができるか — この問いは問うに値しないほど無意味である、と私は信じる

    一次資料を開くMind LIX (236), Oct 1950, pp. 433-460. §1 冒頭 'I propose to consider the question...

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 「機械は考えることができるか」という問いは、無意味と言えるほど議論の余地がある。しかし50年の終わりには、言葉の使い方と教育された意見が変わり、機械が考えると語ることに違和感はなくなるだろうと信じる。

    一次資料を開くMind LIX, no. 236 (October 1950), pp. 433-460. Section 6 末尾に Turing 直筆: 'The ori...

  • 出典一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: turing.mdx pullsource '「計算機械と知能」(1950)' は Alan M. Turing 'Computing Machinery and Intelligence' (Min...

    一次資料を開くOxford Academic Mind 誌書誌レコード。Vol. LIX, Issue 236, October 1950, pp. 433-460。著者 A...

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生きた跡を辿るPlaces

アラン・チューリングが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • キングス・カレッジ、ケンブリッジ所属

    ケンブリッジ, イギリス

    チューリングが学生・フェローとして在籍、計算機械論文を構想した場所

  • ブレッチリー・パーク記念館

    ミルトン・キーンズ, イギリス

    第二次大戦中の暗号解読拠点。エニグマを破ったチューリングの Hut 8 が保存展示

  • アラン・チューリング記念像(サックヴィル公園)ゆかり

    マンチェスター, イギリス

    晩年を過ごしたマンチェスターのゲイ・ビレッジに立つ記念像

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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