ヤスパース
避けられない状況の中で、 どのように自分であり続けるか?
精神病理学者から哲学者へ転じ、限界状況と交わりのなかで「実存」を照らそうとしたハイデルベルク・バーゼルの思索者
- 実存主義
- 限界状況
- 哲学
- 包括者
- 精神病理学
時代の空気
19世紀末ヴィルヘルム期の北西ドイツ・オルデンブルクに生まれた。フッサール『論理学研究』(1900-01)が現象学を切り拓き、ヤスパースは精神医学から哲学へ歩む。第一次大戦の崩壊、ヴァイマル共和制の動揺、ハイデガーとの12年の親交。1933年ナチ・アーリア条項、ユダヤ人妻ゲルトルートを守るため1937年大学追放、出版禁止、移送予定日の14日前にアメリカ軍がハイデルベルクを解放。戦後復職して『罪責の問題』(1946)で4種の罪を区別し、脱ナチ化の遅さに絶望して1948年バーゼルへ。1949年「軸の時代」、アーレントとの生涯の往復書簡を残し1969年没。
01オルデンブルクの銀行家の家 ― 病弱な少年期
1883年2月23日、北西ドイツ・オルデンブルクの裕福な家に生まれた。父カール・ヴィルヘルム・ヤスパース(法律家にして地方銀行の頭取、のちにオルデンブルク州議会議員)は法と金融の境界を生きた人物で、母ヘンリエッテ・タンテンはハノーファー近郊の商家の娘出身、敬虔なルター派の信仰を持つ静かな女性だった。5人きょうだいの長男として、弟エンノ、妹エルナ、アンナらと育つ。
幼少から気管支拡張症と心機能の不全を抱えた。少年期の彼は、学校の他の子どもと同じ速度で走ったり、泳いだりすることができなかった。医師は「35歳までしか生きられないだろう」と家族に告げた(結果的に彼は86歳まで生きる)。1922年、39歳のヤスパースは米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックで正式に気管支拡張症の診断を受ける ― それまで漠然と抱えていた身体の限界に、はじめて医学的な名前が与えられた瞬間だった。この身体の制約が、一つの決定的な習慣を彼に与える ― 毎日、自分の身体の状態を冷静に記録し、できる活動とできない活動を区別し、限られた時間を何に使うかを選ぶ習慣である。後年の(Grenzsituation)の哲学は、この少年期の体感から遠いものではなかった。
オルデンブルクのギムナジウムを卒業、1901年ハイデルベルク大学に入学した。最初は法律を選んだが、父の職業を継ぐための選択だった。しかし2学期後、彼は法律を放棄して医学に転じる。より自分の病身と、より多くの病む人々とに近づきたかったのだろう、と後年の自伝(『自伝的書簡』1977)で記している。
02医学から精神医学へ ― 『一般精神病理学』1913
1902年から1908年まで、ベルリン・ゲッティンゲン・ハイデルベルクの各大学で医学を学んだ。1908年ハイデルベルクで医学博士号、論文は「犯罪者の郷愁」(故郷から引き離された犯罪者の精神状態を分析)。1908年から1915年まで、神経病理学者フランツ・ニスル指揮下のハイデルベルク大学精神科病院(現存するハイデルベルク大学神経科クリニックの母体)で、無給の臨床助手として働いた。1909年に医学博士号を取得した。
当時の精神医学の状況は、クレペリンの症候分類学とフロイトの精神分析のあいだで揺れていた。ヤスパースはどちらにも全面的には与せず、第三の方法を模索した。1913年刊行の『(Allgemeine Psychopathologie)』は、27歳のヤスパースがハイデルベルク大学から心理学の教授資格(Habilitation)を得た記念碑的著作であり(以後生涯改訂を重ね第9版1959)、精神病理学の方法論自体を問い直した大著として、以後の現象学的精神医学の主要な参照文献となった。
彼はここで二つの方法を区別した ― 了解心理学(verstehende Psychologie)と説明心理学(erklärende Psychologie)。了解とは、患者の内的体験を内側から感受し直す方法、説明とは、外側から因果連関で辿る方法。この区別はヴィルヘルム・ディルタイの精神科学=自然科学区別を精神医学に導入したものだが、精神医学内部での体系的適用はヤスパースが初めてだった。この方法論は、後の現象学的精神医学(ルートヴィヒ・ビンスワンガー、ヴィクトール・フランクルら)、ロナルド・レイン、現代のジャック・リュプシャらに影響する。
1910年、裕福なユダヤ系商家の娘と結婚した。ゲルトルートの兄エルンスト・マイヤーはヤスパースの友人だった。結婚は生涯続き(子はなく、二人だけの長い対話の生活)、ゲルトルートはヤスパースの思想の最も近い対話相手であり、1933年以降の恐怖の日々を彼と共に歩む。
031919年『世界観の心理学』 ― 哲学への転回
1913年、マックス・ヴェーバーの推薦でハイデルベルク大学の心理学の員外教授となった。以後の彼はヴェーバー、その兄弟アルフレート・ヴェーバー、ゲオルク・ジンメル、エルンスト・トレルチュ、フリードリヒ・グンドルフ(ゲオルゲ・クライスの詩人・文芸学者)、マックス・ホルクハイマー(当時の若い学生)らハイデルベルクの知的環境と深く関わる。
1919年、『世界観の心理学(Psychologie der Weltanschauungen)』を刊行した。副題は明示されていないが、事実上「哲学的類型論」の試みである。彼は、人間が世界を受け止める姿勢を、対象的・実体的・反省的の三層で類型化し、さらに無限の探求に開かれた姿勢を限界状況(Grenzsituation)の体験として描いた。
本書は精神医学の教科書としてではなく、哲学書として書かれた。これは大学内での彼の転身の公示でもあった。1921年、ヤスパースはハイデルベルク大学哲学科の正教授に転じた(精神医学からではなく心理学からの異動という経路で、古典的哲学研究者からの抵抗は強かった)。彼のキャリアは、以後、哲学者のものとなる。
同年、マルティン・ハイデガー(当時フライブルクでフッサールの助手、32歳)と初めて会った。二人の関係は、以後12年にわたる交流として続いた ― 「闘争共同体(Kampfgemeinschaft)」と二人は呼び合った。
041932年『哲学』三巻 ― 実存開明と限界状況
1931年『現代の精神的状況(Die geistige Situation der Zeit)』を刊行した。当時のドイツの時代診断であり、大衆社会・機械化・無際限の技術化の中で人間の実存が薄められていくことへの憂慮を、明晰な散文で書いた。ナチ党が次第に勢力を伸ばしつつあった頃のこの小著は、ベストセラーとなり、ヤスパースの公的な声を初めて広いドイツ市民層へ届けた。
翌1932年、ヤスパースは『哲学(Philosophie)』三巻(第1巻『哲学的世界定位』、第2巻『(Existenzerhellung)』、第3巻『形而上学』)を刊行した。これは彼の体系的主著である。
第1巻は、世界(Welt)の中で人間が科学と日常を通じて自分の位置を定める作業 ―「世界定位」― を分析する。科学は世界の中で確かな知を与えるが、全体としての世界そのものは科学の対象になりきらない(ここでカントの物自体の系譜が響く)。
第2巻「実存開明」が、ヤスパースの独自の領域である。彼は、人間を単なる存在者ではなく、可能的実存(mögliche Existenz)として把握する。可能的実存は、対象として客観化できない、自由によって自らを選ぶ内的可能性である。これは以下のような場面で「照らし出される(erhellt)」。
- コミュニケーション(Kommunikation) ― 他者との実存的交わり。単なる情報交換でも、感情の共有でもなく、互いが互いを変えながら真実に向かって進む対話。
- 限界状況(Grenzsituation) ― 死、苦しみ、罪、闘い、偶然など、避けることができない人間の条件。これらは通常の生活の中では覆われているが、直視したとき、人はただ世の中にあるという次元を超えて、世の中を越える何かへの関わりを意識する。
第3巻「形而上学」は、実存がそれ自体としては到達しえない(Transzendenz)と、それを指し示す暗号(Chiffer)(自然・歴史・芸術・神話のうちに読み取られる痕跡)を論じる。ヤスパースの超越は、キルケゴールの信仰の跳躍ほど一義的ではなく、単一の神学ではない。世界宗教の多元性と、それぞれが超越の一つの暗号として読まれるという立場は、後の『大哲学者たち』(1957)や『啓示に対する哲学的信仰』(1962)で敷衍される。
051933年 ― ハイデガーとの決裂、自らの沈黙
1933年1月30日、ヒトラーがドイツ首相に就任した。4月7日、ナチ党は「職業官吏再建法」を発布し、その第3条すなわちアーリア条項(Arierparagraph)により、ユダヤ系の血を引く公務員と、ユダヤ系を配偶者に持つ公務員の追放を始めた。5月、マルティン・ハイデガーがフライブルク大学の総長に就任し、ナチ党に入党、総長就任演説で「学の自己主張」を掲げた。
ヤスパースはこの出来事をハイデルベルクで受けた。妻ゲルトルートはユダヤ人である ― この一点で、夫妻は最初の時点からアーリア条項の標的になっていた。ヤスパースの大学内の立場は急速に悪化した。1933年夏、ヤスパースはハイデガーに書簡を送って説明を求め、ハイデガーは回答を避けた。1933年9月、ハイデガーがハイデルベルクを訪ねた際の会話 ― 後にヤスパースが『ハイデガーへの覚書』(没後出版)で記したところによれば、ハイデガーは「ユダヤ人の国際的な繋がりは危険です」といった類の発言をし、ヤスパースは一言も反論しなかった。沈黙は、その場で引き裂かれた友情の記録となった。
1937年、ナチ当局はヤスパースを大学から追放した(妻がユダヤ人であることと、彼自身の自由主義的な過去の言動による)。1938年以降、出版禁止も追加された。ヤスパース夫妻はハイデルベルクの自宅で、1937年から1945年までの8年間、公的な声を封じられて暮らした。妻は強制収容所への移送を常に恐れ、二人は共に青酸カリの毒薬を持ち歩いたと戦後の書簡で明かしている ― 移送が確定した瞬間に共に死ぬためだった。覚悟は哲学の言葉ではなく、ベッドサイドの引き出しに置かれた小さな瓶として、毎晩そこにあった。
ヤスパースはこの期間、出版を諦めた草稿として『真理について(Von der Wahrheit)』(1947刊行、第一巻のみ、以後の巻は未完)を書き続けた。大著の執筆は、沈黙の強制の中で続けられた私的な哲学の持続だった。1945年4月1日、アメリカ軍のハイデルベルク占領 ― ゲルトルートの強制移送の予定日(後に判明したところでは1945年4月14日)からわずか13日前の解放だった。連行の朝までの距離は、二週間に満たなかった。
06戦後の責任論、バーゼルへの移住
1945年8月、ヤスパースはハイデルベルク大学に復職し、再建委員会に加わって脱ナチ化の作業に関わった。1946年1月から2月、ハイデルベルク大学で講義『(Die Schuldfrage)』を行い、同年夏に刊行した。
『罪責の問題』では、罪責を四層に区別した。
- 刑事的罪(kriminelle Schuld) ― 法廷で裁かれるべき具体的犯罪
- 政治的罪(politische Schuld) ― 市民として国家の行為に対して負う共同責任
- 道徳的罪(moralische Schuld) ― 自分の良心の前での罪
- 形而上学的罪(metaphysische Schuld) ― 他者が苦しみ、殺されるのを知りながら生き残った者の、存在そのものの罪
この四層区別は、ドイツの戦後知識人の責任論の基本的枠組みとなった。ハンナ・アーレント ― 1928年にハイデルベルクでヤスパース指導のもと『アウグスティヌスにおける愛の概念』で博士論文を書いた25歳上の師から30年下の弟子だった彼女 ― は、戦後の往復書簡でこの四層論を深く受け止め、『全体主義の起源』(1951)『エルサレムのアイヒマン』(1963)へと議論を引き継いだ。1956年から1969年までの二人の往復書簡は、後に『ハンナ・アーレント=カール・ヤスパース往復書簡集』(1985)として刊行される。
しかし、ドイツの脱ナチ化は遅々として進まず、元ナチ党員が大学・司法・行政に復帰していく状況にヤスパースは繰り返し公に苦言を残した。1948年、彼は65歳で、スイスのバーゼル大学へ移籍した。ハイデルベルクの知的風土を愛していた彼の移住は、多くのドイツ人知識人に一つの抗議として受け取られた。
1949年、バーゼルで『(Vom Ursprung und Ziel der Geschichte)』を刊行した。本書で彼は「軸の時代」(Achsenzeit、英訳 Axial Age)の概念を導入した ― BC8世紀からBC2世紀にかけて、ギリシャ(ソクラテス・プラトン)、イスラエル(預言者たち)、ペルシア(ザラトゥストラ)、インド(ブッダ・ウパニシャッド)、中国(孔子・老子)でほぼ同時に、それぞれ独立して人類の精神的飛躍が起きたとする歴史観である。これらの社会は互いを知らず、互いに影響を与えなかった。にもかかわらず、世界の意味を問い直す根本的な問いが、紀元前数百年のあいだに、ユーラシア大陸の四つの離れた地点から同時に立ち上がった ― ヤスパースが見つめたのは、この同期性の不思議だった。この概念は20世紀後半以降の世界史・比較宗教・比較哲学に広く引用され、K・アーマストロング、ロバート・ベラー、チャールズ・テイラーらの仕事にも再浮上している。
07冷戦下の公的発言、1969年の静かな死
1950年代から60年代、バーゼルのヤスパースはスイス市民権を取得(1967)し、ドイツ語圏知識人の最長老の一人として、冷戦下の政治的問題に繰り返し声を上げた。
- 『原子爆弾と人類の将来(Die Atombombe und die Zukunft des Menschen)』(1958) ― 核兵器を「人類史上前例のない限界状況」として論じ、東西両陣営の軍拡競争を批判。本書でドイツ書籍協会平和賞(Friedenspreis des Deutschen Buchhandels)を受賞。1961年には核兵器再武装に反対する公開声明を出している。
- 『自由とドイツの未来(Freiheit und Wiedervereinigung)』(1960) ― 東西ドイツの統一を「自由の回復」より優先させる当時のアデナウアー政権的立場に警告。
- 『ドイツはどこへ?(Wohin treibt die Bundesrepublik?)』(1966) ― 西独の大連立政権と緊急事態法の議論を批判、「第二の全体主義への滑り」への警鐘。
これらの著作は、若いときの実存哲学者が老いて冷戦の政治哲学者になった、という読まれ方をする時期もあった。ヤスパース自身は、核戦争もドイツの再全体主義化も、個人と国家の限界状況をめぐる問題として書き続けていた、と本人の自伝的書簡に記している。
1969年2月26日、バーゼルの自宅で86歳で没した。心不全が直接の死因だった。35歳までしか生きられないと告げられた少年が、50年長く生きた末の静かな終わりだった。妻ゲルトルートは1974年に没し、夫の隣に葬られた。ハイデガーは1976年没 ― ヤスパースと結局和解せずに終わった友情だった。
08主要な出来事と著作
- オルデンブルクに誕生、幼時から気管支拡張症と心疾患
- ハイデルベルク大学、法律から医学へ転じる
- 医学博士号、ハイデルベルク精神病院で無給助手
- ユダヤ系商家のゲルトルート・マイヤーと結婚
- 『一般精神病理学』― 了解心理学と説明心理学の区別、以後生涯改訂
- 『世界観の心理学』― 哲学への転回の公示
- ハイデルベルク大学哲学科正教授、ハイデガーと知り合う
- 『現代の精神的状況』
- 主著『哲学』三巻(実存開明、限界状況、超越の暗号)
- ハイデガーのナチ党入党、ハイデガー=ヤスパース友情の断絶
- ナチ当局により大学から追放
- 出版禁止、以後12年沈黙
- 米軍占領、妻のユダヤ人移送予定日直前に救われる
- 『罪責の問題』― 戦後ドイツの四層罪責論
- ドイツ脱ナチ化の遅さに絶望しバーゼル大学へ
- 『歴史の起源と目標』― 枢軸時代(Achsenzeit)
- 『大哲学者たち』第1巻 ― 哲学者の比較伝記
- 『原子爆弾と人類の将来』、ドイツ平和賞受賞
- スイス市民権取得
- バーゼルで死去、86歳
残した思想の輪郭
- 了解と説明(精神病理学の方法二元論) ― 内的体験の感受と外的因果の追跡を区別、現象学的精神医学の基礎
- 限界状況(Grenzsituation) ― 死・苦・罪・闘い・偶然 ― 避けられない状況でこそ実存が照らされる
- 実存的コミュニケーション ― 他者と互いに真実へ向かって変化しあう、情報交換ではない対話
- 包括者(das Umgreifende) ― 主観と客観を包む地平、対象として把握する以前の存在の地平
- 超越の暗号(Chiffer der Transzendenz) ― 自然・歴史・芸術・神話・宗教が指し示す痕跡、多元的読みを許容
- 四層罪責論 ― 刑事・政治・道徳・形而上学的罪の区別、戦後ドイツ責任論の枠組み
- 軸の時代(Achsenzeit、枢軸時代) ― BC8-2世紀のギリシャ・イスラエル・ペルシア・インド・中国の精神的同時飛躍、比較哲学史の基本概念
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1932年刊行の三巻本『哲学(Philosophie)』第2巻「実存開明」第6章で、ヤスパースは死・苦しみ・闘争・罪を「限界状況(Grenzsituation)」と名づけた。医学から精神病理学、哲学へ...
一次資料を開くJaspers 財団公式。Philosophie 1932 Springer 刊、Bd. II Existenzerhellung Kap. 6 Grenzsi...
- 文脈原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 1946年、ハイデルベルク大学で再開された哲学講義をもとに刊行された『罪責論』の中心命題である。刑事罪・政治的罪・道徳的罪・形而上学的罪という四つの区別を導入し、最後の「形而上学的罪」を、目の前で同じ...
一次資料を開くJaspers 財団公式。1946 年 Lambert Schneider Heidelberg 刊、1945/46 冬学期 Heidelberg 大学講義「D...
- 抜粋解釈として提示要旨訳
要旨訳: 限界状況にあって、私たちは初めて、自分がただ世の中を生きているのではなく、世の中を超える何かへと関わっている存在であると気づく
- 出典二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: 『哲学(Philosophie)』第2巻「実存開明(Existenzerhellung)」第6章「限界状況」(1932)
- 出典原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: jaspers.mdx pullsource『罪責論(Die Schuldfrage)』(1946) は pullquote (jaspers-2、philoglyph quotes.ts) の出典と...
一次資料を開くJaspers 財団公式。1946 年 Lambert Schneider Heidelberg 刊、1945/46 冬学期 Heidelberg 大学講義『D...
つながり
- キルケゴール
先駆 — ヤスパース『現代の精神的状況』(1931)および『哲学』三巻(1932)は、キルケゴールの「実存(Existenz)」概念を20世紀の哲学用語として体系的に再導入した。特に『哲学』第2巻「実存開明(Existenzerhellung)」は、キルケゴールの『死にいたる病』『不安の概念』の絶望と自由の分析を、限界状況(Grenzsituation)論として世俗化・学的化する試み。キルケゴールとニーチェを「現代の哲学の不可避の例外者」として並べて読む読法もヤスパースの貢献
- ニーチェ
先駆 — ヤスパース『ニーチェ ― その哲学する営みの理解への入門』(1936)は、ニーチェを体系的哲学者としてではなく「真理の限界において哲学する人」として読む解釈を確立した。キルケゴールと並んでニーチェを「例外者」として位置づけ、二人を自らの実存哲学の双極と見なす。ナチ期のニーチェ「党派的占有」への学的反駁としての意味も持ち、戦後ハイデガーの『ニーチェ』講義(1936-40)とは対照的な穏健な解釈として継承された
- ハイデガー
対比 — 1920年フッサールを介して出会って以来、1933年までは「闘争共同体」と呼び合った親友。ハイデガー『存在と時間』(1927)はヤスパース『世界観の心理学』(1919)の長大な書評に多くを負う。しかし1933年ハイデガーのフライブルク総長就任演説と党入党でヤスパース(妻ゲルトルートがユダヤ人)との関係は決裂、戦後も1949-50年の往復書簡を経てもヤスパースは和解に応じなかった。1966年『ハイデガーへの覚書』(没後出版)で最終的な思想的袂別を刻む
さらに読むならFurther Reading
ヤスパースの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門哲学入門
カール・ヤスパース / 訳: 草薙正夫 / 新潮文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ヤスパースが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ホルンリ墓地墓所
バーゼル, スイス
ヤスパースが1969年に埋葬されたバーゼル市郊外の大墓地
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
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Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Karl Jaspers"
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