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マルティン・ブーバー

Martin Buber·1878–1965·オーストリア/ドイツ/イスラエル·

目の前の人を「あなた」と呼ぶとき、 何が変わるのだろう?

ハシディズムとドイツ観念論を縒り合わせ、「我と汝」の対話を20世紀ユダヤ思想の中心概念に据えた哲学者=翻訳家

  • 我と汝
  • 対話主義
  • ハシディズム
  • 二民族共生
  • ユダヤ思想
帝国が崩れ、国を持たないユダヤ人が「どこで、誰と生きるか」を迫られた時代 — ひらく

時代の空気

ハプスブルク末期のウィーンに生まれ、ガリツィアの祖父の家で東欧ハシディズムの息遣いを浴びた人だ。ライプツィヒ・ベルリン大学でディルタイとジンメルに学び、ヴァイマル期独語圏ユダヤ知識人サークルの中心編集者となる。シオニズムは政治的国家建設を急ぐヘルツル路線と、文化的・精神的再生を重んじるアハド・ハアム=ブーバー路線が同居していた。1933年ナチ政権成立後はドイツ国内でユダヤ成人教育を組織、1938年にエルサレム亡命。建国前パレスチナにはユダヤ・アラブの共生案がまだ複数残り、1948年イスラエル建国期に少数派の声となる。ローゼンツヴァイク、レヴィナス、マルセルら同時代の対話哲学が並走していた。

01追い出された街の教会で

1953年、フランクフルトのパウル教会。一人の老人が壇に立った。マルティン・ブーバー、75歳。ユダヤ人の哲学者である。この街の大学は、20年前に彼を職から追い出した。

彼はドイツ書籍商協会の平和賞を受け取りに来ていた。戦争が終わって8年。ドイツに戻るのは、これが初めてである。目の前にいるのは、ドイツ人の読者たちだ。彼の同胞がこの国の名のもとで殺されてから、まだ10年もたっていない。

彼が語ったのは、怒りではなかった。許しの宣言でもなかった。ドイツ人に、対話をもう一度始めようと呼びかけたのである。ユダヤ人としての記憶は消さない。しかし、ドイツ人との関係の扉も閉ざさない。

なぜ、追い出した側の国へ自分から戻れたのか。なぜ、扉を閉ざさないと言えたのか。答えは、一人の男の子の話から始めないと見えてこない。時は72年前に戻る。

02帰って来ない母、祖父の書斎

ウィーンの家の二階に、三歳の男の子がいた。1881年、両親が離婚した。母はその家から姿を消した。ある日、窓辺で隣の家の少女が、男の子に告げた。お母さんはもう帰って来ない、と。

この瞬間を、ブーバーは一生忘れなかった。80歳を過ぎて、短い自伝『』(Begegnung)を書く。その中で、彼はこの体験に名前をつけた。「」(Vergegnung)。出会えるはずの人と、出会いそこねること。出会いと不出会いは、彼の考えの出発点になった。

母を失った少年は、遠い町へ預けられた。ガリツィア地方(今のウクライナ西部)のリヴィウである。祖父ソロモン・ブーバーの家だった。祖父はミドラシュを研究する大学者である。ミドラシュとは、ユダヤ教の古い解釈の書物のこと。信仰も深く、ラビ(ユダヤ教の教師)たちが伝えた本を、生涯かけて整えて出版した人である。

少年はその書斎でヘブライ語を学んだ。祖父が古い本の文字を、一つひとつ照らし合わせる。その姿を間近に見て育つ。学問と信仰が一つになった家。それが、彼が初めて体で知ったユダヤ教だった。

同じ地方の村々には、もう一つ別のユダヤ教があった。18世紀の後半に生まれた(敬虔派)である。ユダヤ教の神秘主義(カバラ)の流れをくむ。律法の勉強より、祈りと喜びを大事にした。村ごとの指導者ツァディク(義人)を敬う人びとである。少年は近くの小さな祈祷院で、信徒たちが歌い踊るのを目にした。

きびしい学問の家と、熱く歌う村の人びと。この二つのあいだで、少年の考えは育っていく。けれどもその前に、彼はいったんユダヤの世界から遠ざかる。

03ニーチェ、二人の教師、パウラ

1896年、18歳でウィーン大学に入った。哲学、美術史、ドイツ文学、心理学を学ぶ。この頃の彼が夢中になったのは、ニーチェである。『』をポーランド語に訳そうとしたほどだった。

ニーチェの説くは、ひとり高みに立つ。だが、その孤独がやがて彼には物足りなくなる。ずっと後に、彼はこう書いた。「ニーチェは生涯私の対話相手だったが、ついに私の先生ではなくなった」。

1898年にライプツィヒ大学、1899年にベルリン大学へ移る。そこで二人の教師に出会った。は、人間の学問は「体験」と「理解」から始まると説いた哲学者。は、人と人のあいだの小さな関係をこまかく調べる社会学者である。二人の学問が、彼の考えの骨組みになった。

1899年、彼はチューリヒで一人の女性と出会う。パウラ・ヴィンクラー。バイエルン出身のカトリックの作家だった。二人は1901年に結婚する。彼女は後にユダヤ教に改宗した。ゲオルク・ムンクという筆名で、小説も書いた。生涯の伴走者となる人である。

1904年、26歳で博士号を得た。論文は「個体化問題の歴史」。神秘思想家ヤコブ・ベーメを中心に、ニコラウス・クザーヌスも論じた。だが同じ頃、彼は学問の外で、もっと大きなものを探し始めていた。

04シオニズムと、祖父の村の物語

話は少し戻る。1898年、20歳の彼は運動に加わっていた。ユダヤ人が自分たちの国を持とうとする運動である。呼びかけた人は。運動の指導者だった。1901年から、ブーバーはヘルツルの機関紙『ディ・ヴェルト』の文芸欄を編集する。

けれども、二人の考えは最初から違っていた。ヘルツルが急いだのは、国際法の上で認められるユダヤ国家をパレスチナに作ること。ブーバーが求めたのは、ユダヤ人が新しい共同体として生まれ変わる場所だった。1901年、バーゼルで第5回世界シオニスト会議が開かれる。彼はヴァイツマンらと「民主分派」を作った。文化政策をめぐって、ヘルツルと対立したのである。

彼の考えは、思想家アハド・ハアムの流れをくむ。文化的シオニズムと呼ばれる立場だ。パレスチナは、ただの逃げ場ではない。そこに住むアラブ人との共生は、最初から彼の構想の中心にあった。

1904年頃、彼はもう一つの宝を掘り起こす。祖父の家で聞いた、ハシディズムの物語である。始祖バアル・シェム・トブ、ブラスラフのラビ・ナフマンらの逸話を集めた。それをドイツ語に書き直す。『ラビ・ナフマンの物語』(1906)、『ベシュトゥの物語』(1908)。この仕事は40年以上続いた。1949年の大著『』にまとまる。

ドイツ語の読者は、これで初めて東欧ユダヤの神秘の世界を知った。カフカ、ヘッセ、ショーレムら、同じ時代の作家や学者にも届いた。1916年、第一次世界大戦のさなかに、月刊誌『』を創刊する。ローゼンツヴァイク、カッシーラー、ショーレム、ベンヤミン。20世紀前半のユダヤ思想家のほぼ全員が、この雑誌に書いた。

38歳で、彼はドイツ語ユダヤ文化の中心にいる編集者になった。だが、彼自身の一冊は、まだ書かれていない。

05『我と汝』、二つの言葉

1923年、45歳。ブーバーは主著『』(Ich und Du)を世に出した。150ページに足りない、詩のような文章の三部作である。この小さな本が、20世紀の「対話の哲学」の中心の書になった。本は、妻パウラに捧げられている。

人間は世界に向かうとき、二つの言葉のどちらかを口にしている。ブーバーはそれを「二つの根源語」と呼ぶ。一つは「」(Ich-Es)。相手を調べ、使い、説明するときの言葉だ。世界の大部分は、この「それ」として私たちの前にある。

もう一つは「」(Ich-Du)。汝とは、古い言い方で「あなた」のこと。一本の木、犬の目、恋人の顔、祈るときの神との向き合い。そこでは私は相手を分析しない。相手も私に使われない。二つの存在が、同時に、まるごと立ち現れる。この瞬間に「」。

はじめに関係がある。二つの根源語は、人間の態度をかたちづくる ― 我-汝、そして我-それ。

— 『我と汝』第一部(1923)。冒頭で人間の二つの態度を示した一節

彼はさらに言う。あらゆる我-汝の関係は、神につながる遠い予兆を含む。神とは、(das ewige Du)のことだ。神は「それ」として説明できない。ただ呼びかけ、応えてもらう相手としてだけ現れる。

三歳の窓辺で失った「出会い」を、45歳の彼は言葉にした。そして同じ頃、もう一冊、双子のような本が生まれていた。

06ローゼンツヴァイクと聖書、そして追放

(1886-1929)。ブーバーより8歳若いユダヤ思想家である。彼の『救済の星』は、人と人の対話から神を考える本だった。『我と汝』と対をなす書物である。

1924年、ブーバーはフランクフルトの自由ユダヤ学院で教え始める。ローゼンツヴァイクが主宰する学びの場だった。1923年には、フランクフルト大学の員外教授(正式な席を持たない教授)になった。1930年には、正規の宗教学教授へ上がっている。

1925年、二人は途方もない仕事を始めた。旧約聖書(ヘブライ語聖書)を、新しくドイツ語に訳すのである。ルターの訳から400年。原語の音と息づかいを、そのままドイツ語に写し取ろうとした。1926年、第一分冊『創世記』が出る。後にと呼ばれる訳である。

だがローゼンツヴァイクの体は、病に少しずつむしばまれていた。ALSという、筋肉が動かなくなる病である。1929年、42歳で死去。以後ブーバーは一人で翻訳を続ける。完成するのは、はるか先の1961年である。

1933年、ヒトラーが政権を取った。55歳のブーバーは、その年の10月、大学の職を辞めさせられる。1935年には秘密警察ゲシュタポが、彼の公開講義と講演をすべて禁じた。それでも彼はドイツを離れなかった。ユダヤ成人教育中央局を作る。追い出されつつあるドイツのユダヤ人のために、教え続けたのである。

その5年は、いつか終わる。1938年、彼はついに国を出た。

07エルサレム、二つの民のあいだ

1938年、60歳。ブーバーはエルサレムに移った。ヘブライ大学の社会哲学教授になる。若い日に夢見た、パレスチナへの移住である。だが、そこにあったのは夢の共同体ではなかった。ユダヤ人とアラブ人の対立が、日ごとに深まる土地だった。

1939年2月、彼は一通の長い手紙を書く。相手はインドの指導者ガンディー。ガンディーは「ユダヤ人はパレスチナでなく、ドイツで抵抗すべきだ」と書いていた。ブーバーは友人ユダ・マグネスと連名で『二つの民への手紙』を出し、応じた。ホロコーストの予兆の中で、非暴力()の限界を問う。しかし同時に、アラブ人と共に生きる倫理を、宗教の言葉で語り直そうとした。抗議であり、同時に対話だった。

1942年、彼は(統合)という団体を作った。仲間はマグネス(ヘブライ大学初代総長)、経済学者ルピン、植物学者ソルドらである。掲げたのは、ユダヤ人とアラブ人が政治的に平等な連邦国家だ。二つの民族が、一つの国を分かち合う案である。

1947年、国連はパレスチナの分割を決めた。1948年、イスラエルが建国され、アラブ諸国との戦争が始まる。ブーバーの共生案は、ユダヤ人の中でも少数派に追いやられた。アラブ人の指導者の多くにも、受け入れられなかった。

それでも彼はやめなかった。晩年まで、アラブ人との対話を説いた。軍の力で国境を引くことに反対した。国家の主権を絶対にすることを、批判し続けた。どちらの側からも受け入れられにくい場所に、彼は立ち続けたのである。なぜそこまで、と人は思う。

はじめに関係がある

— 『我と汝』第一部(1923)。二つの民のあいだに立った晩年、彼が手放さなかった出発点

08対話の哲学の系譜 ― 思想の考証

『我と汝』の「関係の第一性」は、デカルト以来の「我思う」の独我論に対する根源的な異議申し立てだった。同時に、キルケゴールの「神の前の」の定式を、ブーバーは相互の汝として引き受け直す ― 単独性を経由しつつ、しかし最終的には「二人の間(das Zwischen)」が哲学の場になる。ユダヤ思想のシェマ・イスラエル(「聞け、イスラエル」)の呼びかけ構造、ハシディズムの祈りの相互性、そしてドイツ観念論(ヤコビ、ヘーゲルの相互承認、ジンメルの関係社会学)の糸が、この一冊に縒り合わせられている。ディルタイの「生の哲学」(精神科学の基礎づけとしての体験と理解)と、ジンメルの「関係の社会学」(個人と形式のあいだの微細な分析)が、その骨格を支えた。

『我と汝』は宗教的実存主義の書でもある。あらゆる我-汝の関係は、永遠の汝としての神への遠い予兆を含む。神は対象(それ)として語ることはできず、ただ汝として呼びかけられ、応えられる相手としてのみ現れる。後年の論文『(しょく)』(Gottesfinsternis、1952)は、この定式をさらに押し進め、20世紀の神的不在を、ニーチェの「」ではなく「神の蝕」として描いた。

聖書翻訳の詩学もまた、この対話の思想の実践である。原語の語根(シュタム・ヴォート)の反復を訳語で保存し、複数形・単数形の交替を逐語的に再現し、音節のリズムを独特のドイツ語で写す。ルター訳以来400年ぶりに、ヘブライ語の音響と呼吸を徹底的に写し取ろうとする試みだった。1961年、35年目にしてついに完訳に至ったこの訳は、ドイツ語ユダヤ文化の最終的な知的記念碑である。

晩年の著作群 ― 『預言者の信仰』(Der Glaube der Propheten、1942)、『人間の問題』(Das Problem des Menschen、1943初版、戦後改訂)、『善と悪の像』(Bilder von Gut und Böse、1952)、『神の蝕』(1952)、自伝的覚書『出会い』(Begegnung: Autobiographische Fragmente、1960) ― は、この対話の哲学を人間学・倫理・宗教哲学の各領域に展開したものである。

受容の広がりも、哲学の専門領域を越える。カール・ロジャーズ(心理療法)、マルティン・ルーサー・キング(公民権運動)、エマニュエル・レヴィナス(哲学)、ガブリエル・マルセル、エーリッヒ・フロム ― ブーバーの『我と汝』は、20世紀の対話と関係の思想の基底文書になった。レヴィナスは『我と汝』の対称的関係(我も汝も対等な二人)に対して非対称的倫理(こそが私に先立って私に命じる)を対置したが、これもブーバーとの内部論争としてこそ生まれた応答である。1953年のフランクフルトでの姿勢は、マルセル、パウル・ティリッヒ、キングら同時代の宗教的知識人から深い敬意を集めた。

09再びフランクフルト、そしてオリーブ山

1953年のパウル教会に戻ろう。75歳のブーバーは、ドイツ人に対話を呼びかけた。それは、何か新しいことを言ったのではなかった。三歳の窓辺で知った「不出会い」。祖父の書斎と、歌い踊る村の人びと。『我と汝』の二つの言葉。そして二つの民のあいだで、どちらからも受け入れられにくかった年月。

彼にとって、相手を「それ」として閉じることは、いちばん避けたいことだった。それは、追い出した側の国に対しても同じだったのである。記憶は消さない。だが扉は閉ざさない。教会に立った老人は、45歳のときに書いた本を、自分の体で生きていた。

あらゆる真の生は、出会いである(Alles wirkliche Leben ist Begegnung)

— 『我と汝』第一部(1923)。三歳の不出会いから42年後に書かれた一句

1958年、妻パウラが亡くなった。それでも彼は、エルサレムの家の書斎に立ち続けた。1960年には自伝の断片『出会い』を書く。1961年には、35年かけた聖書の翻訳が完成した。83歳だった。

1965年6月13日、エルサレムの自宅で、87歳で息を引き取った。葬儀には、ヘブライ大学の同僚、イスラエル政府の代表が並んだ。そしてアラブ人の指導者たちも、参列した。彼が生涯求めた「二つの民族の対話」の、象徴的な一瞬である。オリーブ山のユダヤ人墓地に、眠っている。

あなたは今日、誰かを「それ」として通り過ぎなかっただろうか。その人を「あなた」と呼び直すとしたら、そこで何が始まるのだろう。

10主要な出来事と著作

  1. ウィーンのユダヤ系家庭に誕生
  2. 両親離婚、ガリツィア・リヴィウの祖父ソロモン・ブーバーのもとへ
  3. ウィーン大学入学、哲学・美術史・心理学を学ぶ
  4. シオニズム運動に参加、文化的シオニズムの立場
  5. パウラ・ヴィンクラーと結婚、生涯の伴走者となる
  6. ヤコブ・ベーメ論で博士号、ハシディズム再発見
  7. 『ラビ・ナフマンの物語』『ベシュトゥの物語』刊行
  8. ユダヤ学月刊誌『デア・ユーデ』創刊編集
  9. 『我と汝』刊行、対話主義哲学の中核書
  10. ローゼンツヴァイクと聖書のドイツ語共訳を開始(1961年完訳)
  11. フランクフルト大学宗教学教授
  12. ヒトラー政権で公職を追われ、ユダヤ成人教育を組織
  13. エルサレムに移住、ヘブライ大学社会哲学教授に
  14. イフード結成、二民族連邦国家案を主唱
  15. ドイツ書籍商協会平和賞受賞、戦後ドイツとの対話再開
  16. 35年の聖書翻訳が完結、83歳
  17. 6月13日、エルサレムで死去。享年87、オリーブ山に埋葬

残した思想の輪郭

  • 我-汝と我-それ ― 世界への二つの根源的態度。対象化と呼びかけ、使用と出会いの対比
  • はじめに関係がある ― デカルト的独我論に対し、関係の第一性を哲学の出発点に据える
  • 永遠の汝としての神 ― 神は対象として語れず、ただ呼びかけられる汝としてのみ現れる
  • ハシディズムの救済 ― 東欧ユダヤ神秘主義を哲学と文学の言葉で再定式化し、世界に紹介した
  • 二民族共生のシオニズム ― 国家主権の絶対化に抗し、ユダヤ・アラブの政治的平等と対話を生涯主張
  • 聖書翻訳の詩学 ― ヘブライ語の語根と呼吸を写すドイツ語訳として、翻訳を思想的実践に昇華
1965年6月13日、エルサレムの自宅で87歳で死去。エルサレム・オリーブ山のユダヤ人墓地に埋葬された。葬儀にはユダヤ人・アラブ人・キリスト教徒が並んで参列した。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

マルティン・ブーバーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

マルティン・ブーバーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • マルティン・ブーバー・ハウス(ヘッペンハイム)住居

    ヘッペンハイム, ドイツ

    1916-1938年に家族で暮らした家。『我と汝』の執筆とローゼンツヴァイクとの聖書独訳はここで始まった。現在は国際キリスト教徒ユダヤ教徒協議会(ICCJ)本部

  • ハル・ハメヌホト墓地墓所

    エルサレム, イスラエル

    1965年没、エルサレムのハル・ハメヌホト(安息の山)墓地に葬られた

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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