マルティン・ブーバー
目の前の人を「あなた」と呼ぶとき、 何が変わるのだろう?
ハシディズムとドイツ観念論を縒り合わせ、「我と汝」の対話を20世紀ユダヤ思想の中心概念に据えた哲学者=翻訳家
- 我と汝
- 対話主義
- ハシディズム
- 二民族共生
- ユダヤ思想
帝国が崩れ、国を持たないユダヤ人が「どこで、誰と生きるか」を迫られた時代 — ひらく
時代の空気
ハプスブルク末期のウィーンに生まれ、ガリツィアの祖父の家で東欧ハシディズムの息遣いを浴びた人だ。ライプツィヒ・ベルリン大学でディルタイとジンメルに学び、ヴァイマル期独語圏ユダヤ知識人サークルの中心編集者となる。シオニズムは政治的国家建設を急ぐヘルツル路線と、文化的・精神的再生を重んじるアハド・ハアム=ブーバー路線が同居していた。1933年ナチ政権成立後はドイツ国内でユダヤ成人教育を組織、1938年にエルサレム亡命。建国前パレスチナにはユダヤ・アラブの共生案がまだ複数残り、1948年イスラエル建国期に少数派の声となる。ローゼンツヴァイク、レヴィナス、マルセルら同時代の対話哲学が並走していた。
01追い出された街の教会で
1953年、フランクフルトのパウル教会。一人の老人が壇に立った。マルティン・ブーバー、75歳。ユダヤ人の哲学者である。この街の大学は、20年前に彼を職から追い出した。
彼はドイツ書籍商協会の平和賞を受け取りに来ていた。戦争が終わって8年。ドイツに戻るのは、これが初めてである。目の前にいるのは、ドイツ人の読者たちだ。彼の同胞がこの国の名のもとで殺されてから、まだ10年もたっていない。
彼が語ったのは、怒りではなかった。許しの宣言でもなかった。ドイツ人に、対話をもう一度始めようと呼びかけたのである。ユダヤ人としての記憶は消さない。しかし、ドイツ人との関係の扉も閉ざさない。
なぜ、追い出した側の国へ自分から戻れたのか。なぜ、扉を閉ざさないと言えたのか。答えは、一人の男の子の話から始めないと見えてこない。時は72年前に戻る。
02帰って来ない母、祖父の書斎
ウィーンの家の二階に、三歳の男の子がいた。1881年、両親が離婚した。母はその家から姿を消した。ある日、窓辺で隣の家の少女が、男の子に告げた。お母さんはもう帰って来ない、と。
この瞬間を、ブーバーは一生忘れなかった。80歳を過ぎて、短い自伝『』(Begegnung)を書く。その中で、彼はこの体験に名前をつけた。「」(Vergegnung)。出会えるはずの人と、出会いそこねること。出会いと不出会いは、彼の考えの出発点になった。
母を失った少年は、遠い町へ預けられた。ガリツィア地方(今のウクライナ西部)のリヴィウである。祖父ソロモン・ブーバーの家だった。祖父はミドラシュを研究する大学者である。ミドラシュとは、ユダヤ教の古い解釈の書物のこと。信仰も深く、ラビ(ユダヤ教の教師)たちが伝えた本を、生涯かけて整えて出版した人である。
少年はその書斎でヘブライ語を学んだ。祖父が古い本の文字を、一つひとつ照らし合わせる。その姿を間近に見て育つ。学問と信仰が一つになった家。それが、彼が初めて体で知ったユダヤ教だった。
同じ地方の村々には、もう一つ別のユダヤ教があった。18世紀の後半に生まれた(敬虔派)である。ユダヤ教の神秘主義(カバラ)の流れをくむ。律法の勉強より、祈りと喜びを大事にした。村ごとの指導者ツァディク(義人)を敬う人びとである。少年は近くの小さな祈祷院で、信徒たちが歌い踊るのを目にした。
きびしい学問の家と、熱く歌う村の人びと。この二つのあいだで、少年の考えは育っていく。けれどもその前に、彼はいったんユダヤの世界から遠ざかる。
03ニーチェ、二人の教師、パウラ
1896年、18歳でウィーン大学に入った。哲学、美術史、ドイツ文学、心理学を学ぶ。この頃の彼が夢中になったのは、ニーチェである。『』をポーランド語に訳そうとしたほどだった。
ニーチェの説くは、ひとり高みに立つ。だが、その孤独がやがて彼には物足りなくなる。ずっと後に、彼はこう書いた。「ニーチェは生涯私の対話相手だったが、ついに私の先生ではなくなった」。
1898年にライプツィヒ大学、1899年にベルリン大学へ移る。そこで二人の教師に出会った。は、人間の学問は「体験」と「理解」から始まると説いた哲学者。は、人と人のあいだの小さな関係をこまかく調べる社会学者である。二人の学問が、彼の考えの骨組みになった。
1899年、彼はチューリヒで一人の女性と出会う。パウラ・ヴィンクラー。バイエルン出身のカトリックの作家だった。二人は1901年に結婚する。彼女は後にユダヤ教に改宗した。ゲオルク・ムンクという筆名で、小説も書いた。生涯の伴走者となる人である。
1904年、26歳で博士号を得た。論文は「個体化問題の歴史」。神秘思想家ヤコブ・ベーメを中心に、ニコラウス・クザーヌスも論じた。だが同じ頃、彼は学問の外で、もっと大きなものを探し始めていた。
04シオニズムと、祖父の村の物語
話は少し戻る。1898年、20歳の彼は運動に加わっていた。ユダヤ人が自分たちの国を持とうとする運動である。呼びかけた人は。運動の指導者だった。1901年から、ブーバーはヘルツルの機関紙『ディ・ヴェルト』の文芸欄を編集する。
けれども、二人の考えは最初から違っていた。ヘルツルが急いだのは、国際法の上で認められるユダヤ国家をパレスチナに作ること。ブーバーが求めたのは、ユダヤ人が新しい共同体として生まれ変わる場所だった。1901年、バーゼルで第5回世界シオニスト会議が開かれる。彼はヴァイツマンらと「民主分派」を作った。文化政策をめぐって、ヘルツルと対立したのである。
彼の考えは、思想家アハド・ハアムの流れをくむ。文化的シオニズムと呼ばれる立場だ。パレスチナは、ただの逃げ場ではない。そこに住むアラブ人との共生は、最初から彼の構想の中心にあった。
1904年頃、彼はもう一つの宝を掘り起こす。祖父の家で聞いた、ハシディズムの物語である。始祖バアル・シェム・トブ、ブラスラフのラビ・ナフマンらの逸話を集めた。それをドイツ語に書き直す。『ラビ・ナフマンの物語』(1906)、『ベシュトゥの物語』(1908)。この仕事は40年以上続いた。1949年の大著『』にまとまる。
ドイツ語の読者は、これで初めて東欧ユダヤの神秘の世界を知った。カフカ、ヘッセ、ショーレムら、同じ時代の作家や学者にも届いた。1916年、第一次世界大戦のさなかに、月刊誌『』を創刊する。ローゼンツヴァイク、カッシーラー、ショーレム、ベンヤミン。20世紀前半のユダヤ思想家のほぼ全員が、この雑誌に書いた。
38歳で、彼はドイツ語ユダヤ文化の中心にいる編集者になった。だが、彼自身の一冊は、まだ書かれていない。
05『我と汝』、二つの言葉
1923年、45歳。ブーバーは主著『』(Ich und Du)を世に出した。150ページに足りない、詩のような文章の三部作である。この小さな本が、20世紀の「対話の哲学」の中心の書になった。本は、妻パウラに捧げられている。
人間は世界に向かうとき、二つの言葉のどちらかを口にしている。ブーバーはそれを「二つの根源語」と呼ぶ。一つは「」(Ich-Es)。相手を調べ、使い、説明するときの言葉だ。世界の大部分は、この「それ」として私たちの前にある。
もう一つは「」(Ich-Du)。汝とは、古い言い方で「あなた」のこと。一本の木、犬の目、恋人の顔、祈るときの神との向き合い。そこでは私は相手を分析しない。相手も私に使われない。二つの存在が、同時に、まるごと立ち現れる。この瞬間に「」。
はじめに関係がある。二つの根源語は、人間の態度をかたちづくる ― 我-汝、そして我-それ。
彼はさらに言う。あらゆる我-汝の関係は、神につながる遠い予兆を含む。神とは、(das ewige Du)のことだ。神は「それ」として説明できない。ただ呼びかけ、応えてもらう相手としてだけ現れる。
三歳の窓辺で失った「出会い」を、45歳の彼は言葉にした。そして同じ頃、もう一冊、双子のような本が生まれていた。
06ローゼンツヴァイクと聖書、そして追放
(1886-1929)。ブーバーより8歳若いユダヤ思想家である。彼の『救済の星』は、人と人の対話から神を考える本だった。『我と汝』と対をなす書物である。
1924年、ブーバーはフランクフルトの自由ユダヤ学院で教え始める。ローゼンツヴァイクが主宰する学びの場だった。1923年には、フランクフルト大学の員外教授(正式な席を持たない教授)になった。1930年には、正規の宗教学教授へ上がっている。
1925年、二人は途方もない仕事を始めた。旧約聖書(ヘブライ語聖書)を、新しくドイツ語に訳すのである。ルターの訳から400年。原語の音と息づかいを、そのままドイツ語に写し取ろうとした。1926年、第一分冊『創世記』が出る。後にと呼ばれる訳である。
だがローゼンツヴァイクの体は、病に少しずつむしばまれていた。ALSという、筋肉が動かなくなる病である。1929年、42歳で死去。以後ブーバーは一人で翻訳を続ける。完成するのは、はるか先の1961年である。
1933年、ヒトラーが政権を取った。55歳のブーバーは、その年の10月、大学の職を辞めさせられる。1935年には秘密警察ゲシュタポが、彼の公開講義と講演をすべて禁じた。それでも彼はドイツを離れなかった。ユダヤ成人教育中央局を作る。追い出されつつあるドイツのユダヤ人のために、教え続けたのである。
その5年は、いつか終わる。1938年、彼はついに国を出た。
07エルサレム、二つの民のあいだ
1938年、60歳。ブーバーはエルサレムに移った。ヘブライ大学の社会哲学教授になる。若い日に夢見た、パレスチナへの移住である。だが、そこにあったのは夢の共同体ではなかった。ユダヤ人とアラブ人の対立が、日ごとに深まる土地だった。
1939年2月、彼は一通の長い手紙を書く。相手はインドの指導者ガンディー。ガンディーは「ユダヤ人はパレスチナでなく、ドイツで抵抗すべきだ」と書いていた。ブーバーは友人ユダ・マグネスと連名で『二つの民への手紙』を出し、応じた。ホロコーストの予兆の中で、非暴力()の限界を問う。しかし同時に、アラブ人と共に生きる倫理を、宗教の言葉で語り直そうとした。抗議であり、同時に対話だった。
1942年、彼は(統合)という団体を作った。仲間はマグネス(ヘブライ大学初代総長)、経済学者ルピン、植物学者ソルドらである。掲げたのは、ユダヤ人とアラブ人が政治的に平等な連邦国家だ。二つの民族が、一つの国を分かち合う案である。
1947年、国連はパレスチナの分割を決めた。1948年、イスラエルが建国され、アラブ諸国との戦争が始まる。ブーバーの共生案は、ユダヤ人の中でも少数派に追いやられた。アラブ人の指導者の多くにも、受け入れられなかった。
それでも彼はやめなかった。晩年まで、アラブ人との対話を説いた。軍の力で国境を引くことに反対した。国家の主権を絶対にすることを、批判し続けた。どちらの側からも受け入れられにくい場所に、彼は立ち続けたのである。なぜそこまで、と人は思う。
はじめに関係がある
08対話の哲学の系譜 ― 思想の考証
『我と汝』の「関係の第一性」は、デカルト以来の「我思う」の独我論に対する根源的な異議申し立てだった。同時に、キルケゴールの「神の前の」の定式を、ブーバーは相互の汝として引き受け直す ― 単独性を経由しつつ、しかし最終的には「二人の間(das Zwischen)」が哲学の場になる。ユダヤ思想のシェマ・イスラエル(「聞け、イスラエル」)の呼びかけ構造、ハシディズムの祈りの相互性、そしてドイツ観念論(ヤコビ、ヘーゲルの相互承認、ジンメルの関係社会学)の糸が、この一冊に縒り合わせられている。ディルタイの「生の哲学」(精神科学の基礎づけとしての体験と理解)と、ジンメルの「関係の社会学」(個人と形式のあいだの微細な分析)が、その骨格を支えた。
『我と汝』は宗教的実存主義の書でもある。あらゆる我-汝の関係は、永遠の汝としての神への遠い予兆を含む。神は対象(それ)として語ることはできず、ただ汝として呼びかけられ、応えられる相手としてのみ現れる。後年の論文『(しょく)』(Gottesfinsternis、1952)は、この定式をさらに押し進め、20世紀の神的不在を、ニーチェの「」ではなく「神の蝕」として描いた。
聖書翻訳の詩学もまた、この対話の思想の実践である。原語の語根(シュタム・ヴォート)の反復を訳語で保存し、複数形・単数形の交替を逐語的に再現し、音節のリズムを独特のドイツ語で写す。ルター訳以来400年ぶりに、ヘブライ語の音響と呼吸を徹底的に写し取ろうとする試みだった。1961年、35年目にしてついに完訳に至ったこの訳は、ドイツ語ユダヤ文化の最終的な知的記念碑である。
晩年の著作群 ― 『預言者の信仰』(Der Glaube der Propheten、1942)、『人間の問題』(Das Problem des Menschen、1943初版、戦後改訂)、『善と悪の像』(Bilder von Gut und Böse、1952)、『神の蝕』(1952)、自伝的覚書『出会い』(Begegnung: Autobiographische Fragmente、1960) ― は、この対話の哲学を人間学・倫理・宗教哲学の各領域に展開したものである。
受容の広がりも、哲学の専門領域を越える。カール・ロジャーズ(心理療法)、マルティン・ルーサー・キング(公民権運動)、エマニュエル・レヴィナス(哲学)、ガブリエル・マルセル、エーリッヒ・フロム ― ブーバーの『我と汝』は、20世紀の対話と関係の思想の基底文書になった。レヴィナスは『我と汝』の対称的関係(我も汝も対等な二人)に対して非対称的倫理(こそが私に先立って私に命じる)を対置したが、これもブーバーとの内部論争としてこそ生まれた応答である。1953年のフランクフルトでの姿勢は、マルセル、パウル・ティリッヒ、キングら同時代の宗教的知識人から深い敬意を集めた。
09再びフランクフルト、そしてオリーブ山
1953年のパウル教会に戻ろう。75歳のブーバーは、ドイツ人に対話を呼びかけた。それは、何か新しいことを言ったのではなかった。三歳の窓辺で知った「不出会い」。祖父の書斎と、歌い踊る村の人びと。『我と汝』の二つの言葉。そして二つの民のあいだで、どちらからも受け入れられにくかった年月。
彼にとって、相手を「それ」として閉じることは、いちばん避けたいことだった。それは、追い出した側の国に対しても同じだったのである。記憶は消さない。だが扉は閉ざさない。教会に立った老人は、45歳のときに書いた本を、自分の体で生きていた。
あらゆる真の生は、出会いである(Alles wirkliche Leben ist Begegnung)
1958年、妻パウラが亡くなった。それでも彼は、エルサレムの家の書斎に立ち続けた。1960年には自伝の断片『出会い』を書く。1961年には、35年かけた聖書の翻訳が完成した。83歳だった。
1965年6月13日、エルサレムの自宅で、87歳で息を引き取った。葬儀には、ヘブライ大学の同僚、イスラエル政府の代表が並んだ。そしてアラブ人の指導者たちも、参列した。彼が生涯求めた「二つの民族の対話」の、象徴的な一瞬である。オリーブ山のユダヤ人墓地に、眠っている。
あなたは今日、誰かを「それ」として通り過ぎなかっただろうか。その人を「あなた」と呼び直すとしたら、そこで何が始まるのだろう。
10主要な出来事と著作
- ウィーンのユダヤ系家庭に誕生
- 両親離婚、ガリツィア・リヴィウの祖父ソロモン・ブーバーのもとへ
- ウィーン大学入学、哲学・美術史・心理学を学ぶ
- シオニズム運動に参加、文化的シオニズムの立場
- パウラ・ヴィンクラーと結婚、生涯の伴走者となる
- ヤコブ・ベーメ論で博士号、ハシディズム再発見
- 『ラビ・ナフマンの物語』『ベシュトゥの物語』刊行
- ユダヤ学月刊誌『デア・ユーデ』創刊編集
- 『我と汝』刊行、対話主義哲学の中核書
- ローゼンツヴァイクと聖書のドイツ語共訳を開始(1961年完訳)
- フランクフルト大学宗教学教授
- ヒトラー政権で公職を追われ、ユダヤ成人教育を組織
- エルサレムに移住、ヘブライ大学社会哲学教授に
- イフード結成、二民族連邦国家案を主唱
- ドイツ書籍商協会平和賞受賞、戦後ドイツとの対話再開
- 35年の聖書翻訳が完結、83歳
- 6月13日、エルサレムで死去。享年87、オリーブ山に埋葬
残した思想の輪郭
- 我-汝と我-それ ― 世界への二つの根源的態度。対象化と呼びかけ、使用と出会いの対比
- はじめに関係がある ― デカルト的独我論に対し、関係の第一性を哲学の出発点に据える
- 永遠の汝としての神 ― 神は対象として語れず、ただ呼びかけられる汝としてのみ現れる
- ハシディズムの救済 ― 東欧ユダヤ神秘主義を哲学と文学の言葉で再定式化し、世界に紹介した
- 二民族共生のシオニズム ― 国家主権の絶対化に抗し、ユダヤ・アラブの政治的平等と対話を生涯主張
- 聖書翻訳の詩学 ― ヘブライ語の語根と呼吸を写すドイツ語訳として、翻訳を思想的実践に昇華
つながり
- キルケゴール
先駆 — 「単独者」と神との関係 — その定式を、ブーバーは「汝」への呼びかけに引き受け直した。
- ニーチェ
対比 — 青年期のブーバーが深く傾倒し、のちに距離を取った相手 — 神の死の後に「超人」を置いた人。
- レヴィナス
批判的継承 — 『我と汝』の対称的な相互性を批判的に超え、「顔」の倫理へと出ようとした哲学者。
さらに読むならFurther Reading
マルティン・ブーバーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門我と汝・対話
マルティン・ブーバー / 訳: 植田重雄 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
マルティン・ブーバーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- マルティン・ブーバー・ハウス(ヘッペンハイム)住居
ヘッペンハイム, ドイツ
1916-1938年に家族で暮らした家。『我と汝』の執筆とローゼンツヴァイクとの聖書独訳はここで始まった。現在は国際キリスト教徒ユダヤ教徒協議会(ICCJ)本部
- ハル・ハメヌホト墓地墓所
エルサレム, イスラエル
1965年没、エルサレムのハル・ハメヌホト(安息の山)墓地に葬られた
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
マルティン・ブーバーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「マルティン・ブーバー」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Martin Buber"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Martin Buber"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Martin Buber (1878—1965)"
Internet ArchiveEnglishI and Thou(Walter Kaufmann 英訳) — Internet Archive
『我と汝』英訳