蔦屋重三郎
良いものを作れば、それだけで人に届くのか。 本は、どんな形なら人から人へ流れていくのか。
吉原の貸本屋から江戸出版の中心へ、「届く形」の設計で知と笑いを流通させた版元
- 出版
- 仕掛け
- 黄表紙
- 耕書堂
- 目利き
金と遊びと才気が集まる江戸で笑いの本が花開き、やがて幕府がその笑いを取り締まりはじめる — ひらく
時代の空気
18世紀後半の江戸は世界最大級の都市で、読み書きできる町人が本を借り、買い、回し読みした。吉原は遊郭であると同時に、流行と評判が毎晩生成される情報の街だった。田沼の時代、金と遊びと才気が集まり、武士も町人も虚名で狂歌の座に混ざり、本は説教ではなく遊びの器になった。板木を彫る者、摺る者、貸す者、改める者 — 一冊の黄表紙の背後には分業の網がある。やがて松平定信の寛政の改革が、その笑いを取り締まりはじめる。蔦重の生涯は、前半が自由の設計、後半が統制との交渉だった。
011794年、無名の絵師への賭け
1794年、江戸。日本橋の版元・(こうしょどう)が、一人の絵師の役者絵を一挙に売り出した。絵師の名は(とうしゅうさい・しゃらく)。それまで誰も名を知らない、正体不明の男だった。
しかも刷りは、高価な黒雲母摺。費用のかかる技法である。描かれた役者の顔は、美しく飾ることを拒んだ、異様な似顔絵だった。
売れ行きは振るわなかったと伝わる。写楽は約十か月で姿を消した。その正体をめぐる議論は、今も続いている。
この賭けを打った版元の名は、蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)。通称、蔦重。わずか三年前、彼は幕府の処罰で財産の半分を失ったと伝わる男だった。
なぜ、傷の癒えないうちに、無名の絵師へ大金を賭けたのか。なぜ、この外れ方までが、後の世に語り継がれるのか。答えを探すため、時を二十年あまり前に戻そう。
02大門口の小さな店
1773年ごろ、蔦重は23歳だった。場所は江戸の遊郭・吉原。その入り口の大門へ続く五十間道(ごじっけんみち)に、彼の小さな店があった。
売っていたのは(よしわらさいけん)。遊郭の店や遊女を載せた、定期的に出るガイドブックである。あわせて本の貸し出しもしていた。
吉原は遊郭であると同時に、情報の街だった。武士も町人も出入りし、欲望と噂が毎晩通り過ぎる。流行と評判が、毎晩ここで生まれる。その入り口の店は、江戸で何が読まれ、何が話題になるかを毎日見張れる場所でもあった。
のちに耕書堂で働いた作家・(きょくてい・ばきん)は、蔦重をこう評している。
風流も学もない。だが世の中と人を見る才は、人に勝っていた
馬琴は同じ本で、こうも書く。吉原で財産を失う者は多い。だが吉原から身を起こして大きな商人になった者は、めったにいない。遊び場の入り口の店に、何があったのか。
03源内の序文
1774年、蔦重24歳。細見『嗚呼御江戸(ああおえど)』に、平賀源内(ひらが・げんない)の序文が載った。源内は、当時いちばんの人気文化人である。筆名は福内鬼外(ふくうち・きがい)。
この細見の版元は、まだ鱗形屋(うろこがたや)という別の店だった。蔦重がどこまで深く関わったかは、資料によって揺れる。ただ、この刷新に加わったとされている。
マンネリ化した遊郭ガイドに、手が入った。判型(本の大きさ)を変え、遊女の等級マークを付けた。中身の改良である。同時に「源内が序文を書いた」という話題そのものが、仕掛けとして作られた。本の中身と、本が語られる場を、一つの編集として扱う。蔦重の仕事の原型が、ここにある。
同じ年、蔦重が出した最初の本が『一目千本(ひとめせんぼん)』である。絵は北尾重政(きたお・しげまさ)。吉原の遊女を、生け花にる趣向だった。見立てとは、あるものを別のものに重ねて楽しむ、江戸の美学である。彼にとって見立ては遊びだった。同時に、読者の欲望はどんな器に注げば流れるのか、という問いへの答えの一つだったのではないか。
やがて蔦重は細見の版元になる。1775年ごろには、その刊行をほぼ手中にした(経緯の細部は資料により揺れる)。遊郭の入り口で情報を握った男は、次にどこへ向かうのか。
04通油町へ
1783年、蔦重は33歳になっていた。この年、吉原の場末から日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)へ店を出した。(じほんどんや)とは、江戸の娯楽本を出す版元のこと。その店がひしめく、出版の中心地である。看板は耕書堂。はずれの情報屋が、江戸出版の真ん中に座った。
同じころ、蔦重は(つたのからまる)という名で狂歌を詠んでいた。狂歌とは、五七五七七に笑いと風刺を込めた歌である。当時の江戸では、(てんめいきょうか)と呼ばれる大流行が起きていた。武士も町人も、仮の名で座に混ざった。蔦重は(おおた・なんぽ)ら作者たちと同じ座敷で、自分も笑う側に回った。版元が注文主としてではなく、遊びの仲間として座にいる。この距離の近さが、次の器を生む。
主力商品は(きびょうし)だった。絵と言葉が一体になった、大人のための絵入り娯楽本である。1785年、(さんとう・きょうでん)の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』。1788年には朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』が大当たりした。風刺と言葉遊びは、読者が流行と時事を知っていて、はじめて笑いになる。器が読者を選ぶのではない。読者の暮らしに合わせて、器が設計されていた。では、その座から生まれたのは、本だけだったのか。
05座から生まれる本
1788年、狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』が出た。絵は(きたがわ・うたまろ)。狂歌の座の熱を、そのまま商品に変えた本である。
巻末には、歌麿の師・鳥山石燕(とりやま・せきえん)の跋(ばつ、あとがき)が添えられた。そこでは、幼いころから虫を写生していたという歌麿の来歴が語られる。無名に近い絵師を、作品だけでなく来歴ごと編集して世に出す。才能に、器と座と資本と物語を与える。共同制作の仕掛けである。
作品は作者一人からは生まれない。版元・絵師・彫師・摺師・読者の座から生まれる。蔦重の店は、その座の結び目だった。しかし、笑いと遊びの座に、やがて上から手が伸びてくる。
06取り締まりの手
1790年、老中・(まつだいら・さだのぶ)によるが始まった。幕府の立て直しの一環として、好色な本や風刺が禁じられていく。
翌1791年、蔦重は41歳。山東京伝の(しゃれぼん) — 遊郭を舞台にした会話中心の小説 — の三部作が、禁制に触れた。三作は絶版。京伝は手鎖(てぐさり)五十日。両手に錠をかけられたまま過ごす刑である。蔦重は重過料(じゅうかりょう)、つまり重い罰金を科された。財産の半分を失ったと伝わる。ただし「身上半減(しんしょうはんげん)」の語は通説であり、裏づける同時代の史料は見つかっていない。
三部作には、教訓の本という体裁がかぶせてあった。それは見抜かれた上での処罰だった。仕掛けを設計してきた男が、仕掛けごと罰せられたのである。それでも、店は畳まれなかった。
07ふたたび、1794年
処罰の翌年、1792年ごろ。曲亭馬琴が手代(てだい、店の使用人)として耕書堂に住み込んだ。先に引いた人物評を残す、あの馬琴である。その馬琴と入れ替わるように、1794年には(じっぺんしゃ・いっく)が店に寄宿し、紙の加工などを手伝った。
歌麿の美人(おおくびえ) — 顔を大きく描く様式 — も、この再建の時期に打たれた手だった。そして冒頭の場面、1794年の写楽である。財産を半分失った男が、無名の絵師の役者大首絵を、高価な黒雲母摺で一挙に刊行した。
なぜか。彼のやり方を思い出してほしい。良いものを作れば読まれる、と信じる代わりに、彼は逆の順序で考えていた節がある。誰が、どこで、何を面白がるのかをまず観測する。届く器 — 判型、ジャンル、話題 — を設計してから、中身を流し込む。本は中身だけでは届かない。届く形まで作って、はじめて文化になる。写楽の賭けは、その順序を貫いた男の、大きな賭けだった。当たりだけでなく、外れ方までもが後の世に語り継がれたのは、そのためである。
1797年、蔦重は47歳(数え年で48)で没した。死因は脚気(かっけ)と伝わる。彼はまとまった著述を残していない。届く形を作る知恵は、書物ではなく、店に出入りした人々の手に渡っていた。
風流も学もない。だが世の中と人を見る才は、人に勝っていた
書かなかった人を、書いた人たちの書架に置く理由は何か。良いものを作れば、それだけで届くのか。丁寧に作ったものが届かなかった夜、あなたなら、次に何を設計するだろうか。
08関係性
蔦重と直接仕事をした人々 — 平賀源内、山東京伝、喜多川歌麿、曲亭馬琴ら — のうち、書架に既にいるのは平賀源内だけである。1774年の細見『嗚呼御江戸』の源内序文は、話題そのものを設計する蔦重的な仕掛けの原型に立ち会っている(関与の深さは資料により揺れる)。源内の戯作が耕した笑いの土壌の先に、蔦重の黄表紙と洒落本の文化が育った。
ベンジャミン・フランクリンとは、蔦重の生まれた1750年からフランクリンが没する1790年まで、四十年にわたり生きた時代が重なる。フランクリンは印刷業から新聞・暦・図書館という公共知の装置と国家の建設へ向かい、蔦重は遊興の周縁から都市娯楽の文化を組織した。「印刷が社会を作る」という18世紀の問いへの、東西二つの型である。
エラスムスは、作者の側から印刷工房と組んで人文主義を流通させた。アルブレヒト・デューラーは、作者自身が版画の制作と販売を握った。蔦重はその逆で、作らない側 — 編集と資本と目利き — から市場を設計した。知の流通という同じ問いに、作る側と運ぶ側から接近した人々として並べられる。
本居宣長は真の同時代人である(1730-1801)。江戸の娯楽の出版と、のような学問の出版 — 18世紀後半の日本では、知の流通の変化が遊びと学問の両面で進んでいた。福澤諭吉へは、出版を社会を動かす装置として設計した江戸の先例、という先行の線が引けるが、直接の影響を示す史料はない。
手塚治虫との線は、最も慎重を要する。黄表紙は絵と言葉が一体の商業娯楽出版であり、後世の研究はこれを江戸の漫画本文化として論じてきた。ただしその研究自身が、黄表紙を近代漫画の直接の祖先ではなく、平行する文化と見ている。直系の先祖としてではなく、絵物語を商業出版として成立させたモデルの先行として、この線は張られるべきだろう。
つながり
- 平賀源内
先駆 — 1774年の吉原細見に序文を寄せた戯作者。その笑いが耕した土壌の先に、蔦重の出版文化が育つ。
- ベンジャミン・フランクリン
対比 — 同じ頃、海の向こうの印刷人は、新聞と暦と図書館 — 公共知の装置から国家建設へ向かった。
- 手塚治虫
継承 — 黄表紙が「江戸の漫画本」と論じられるとき、その平行線の先に置かれる現代の漫画家。
- 本居宣長
同時代 — 同じ時代、知の流通のもう一面。版元との協働で『古事記伝』を世に出した学問の人。
- 福澤諭吉
継承 — 知の流通を握る者が時代を動かす — その系譜の明治の側に立つ人。直接影響の史料はない。
- エラスムス
対比 — 西では、作者の側から印刷工房と組んで人文主義を流通させた学者がいた。
- アルブレヒト・デューラー
対比 — 作者自身が版画の制作と販売を掌握する — 複製メディア市場のもう一つの型が西にあった。
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主人公・題材べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜
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