ベンジャミン・フランクリン
知と美徳は、 どう両立するか?
印刷工から発明家・外交官・建国の父へ ― 自伝で自己陶冶を実演した啓蒙家
- 自伝
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時代の空気
18世紀北米は英領十三植民地、生まれたボストンは清教徒気風の港町、後に根を下ろすフィラデルフィアは印刷と公共結社が交錯する都だった。買い取った『ペンシルヴェニア・ガゼット』を植民地随一に育て、ジャント倶楽部、会員制図書館、アメリカ哲学協会、ペンシルヴェニア病院といった市民インフラが、ここから次々と組み上がっていった。1752年の凧実験で雷の電気的性質を示した啓蒙の科学者は、印紙法に抗してロンドン公使を務め、独立宣言起草の五人委員会に名を連ね、ラファイエットらと結んだパリで仏米同盟を成立させ、81歳の老体で憲法制定会議の調停役となった。
01ボストンの末息子
1706年1月17日、マサチューセッツ湾植民地ボストンのミルク・ストリートに生まれた。父ジョサイア・フランクリンはろうそく・石けん製造業者で、ベンジャミンは三度の結婚にわたる17人の子の15番目、男子のなかでは末子だった。母アバイア・フォルジャーはマーサズ・ヴィニヤードのフォルジャー家出身で、敬虔な会衆派プロテスタントの気風が一家を覆っていた。
10歳で学校教育は終わった。父の工房で蝋を煮、芯を切り、石けんを刻む仕事を二年。蝋の匂いは合わなかった。1718年、12歳で兄ジェームズ・フランクリンの印刷工房に九年契約の年季奉公に出された。版を組み、新聞を配達し、夜には借りてきた本を読み漁った。ロック、アディソン、シャフツベリー、プルタルコスの文体を模写しては、自分の文章を鍛えた。
1722年、16歳の彼は「サイレンス・ドゥーグッド(黙認の善行さん)」という未亡人の仮名で兄の新聞『ニュー=イングランド・クーラント』に14通の風刺文を匿名投稿した。装った寡婦の声は人気を博したが、兄は投稿者が弟と知って激怒した。
02フィラデルフィアへの逃亡
1723年、17歳のベンジャミンは兄との軋轢に耐えかね、年季奉公契約を破ってボストンから逃亡した。船でニューヨーク、さらに陸路でフィラデルフィアへ。彼の自伝に残る有名な一場面 ― 所持金ほぼゼロ、パン三つを両腕に抱え、後の内縁の妻となる少女の前を無様に歩く若者 ― がここだ。
フィラデルフィアの印刷工房で職を得た。ペンシルヴェニア総督ウィリアム・キースに気に入られ、イギリスで印刷技術を学ぶ機会を約束された。しかし1724年に渡英すると、キースの約束は空手形だった。18歳の彼はロンドンの印刷工房で18ヶ月働き、英国の出版文化、哲学クラブ、水泳を学んだ(後にフランクリンは米国水泳殿堂入りする)。
1726年、フィラデルフィアに帰った。1728年、自分の印刷所を開業。翌1729年、『ペンシルヴェニア・ガゼット』を買収し、植民地随一の新聞に育てた。1730年9月、デボラ・リードと事実婚の共同生活を始めた ― 彼女が16歳で結婚した最初の夫ジョン・ロジャースが借金を抱えて西インド諸島へ消えたまま生死不明だったため、重婚罪を避けて正式婚は法的に取れなかった。同じ1730年、ベンジャミンは私生児ウィリアムを得た。母の名は当時から本人も明かさず、デボラが家庭に迎えて育てた。
03『貧しいリチャードの暦』と13の徳
1733年、『貧しいリチャードの暦(Poor Richard's Almanack)』創刊。リチャード・ソーンダースという架空の人物の名義で、天候予測・星暦・農事助言に軽妙な格言を添えた年鑑だった。「時は金なり(Time is money)」「神は自ら助くる者を助く」「早寝早起き」 ― アメリカ民衆の常識となる処世訓の多くはここから広まった。1758年まで25年連続で刊行され、年に一万部を超える発行は、フランクリンに安定した収入と全植民地への影響力をもたらした。
フランクリンはまた、20代後半に自分自身を改造する実験を始めた。節制・沈黙・規律・決断・倹約・勤勉・誠実・正義・中庸・清潔・冷静・貞潔・謙虚 ― 13の徳を定め、毎週一つに集中する方式で自己陶冶の計画を立てた。第二部で詳述されるこの計画は完全には成功しなかったが、彼は「ともかく以前より良い人間になった」と書いている。
1727年、彼はフィラデルフィアで「ジャント(Junto)」という相互教化のクラブを始めた。若い職人と商人が金曜の夜に集い、読書・道徳・社会改善の問いを順に持ち寄った。そこからフィラデルフィア市立図書館(1731、アメリカ初の会員制貸出図書館)、(1743)、ペンシルヴェニア大学の前身アカデミー(1749)、(1751)、消防団・街路照明・清掃組合 ― フィラデルフィアの市民インフラが次々と派生していった。1736年にはペンシルヴェニア議会の書記、1751年には議員に選ばれ、印刷工は次第に公人になっていく。
04電気実験と避雷針
42歳の1748年、フランクリンは印刷業を共同経営者デイヴィッド・ホールに任せ、「哲学的暇」に入った ― 自然科学の研究に専念する贅沢だった。
1749年前後から彼は電気の研究に没頭した。プラス・マイナス電荷の概念、電流の保存則、雷と電気的火花の同一性 ― 彼はこれらを粘り強い実験で示した。有名な凧実験(1752年6月?)では、雷雲の下で凧を揚げ、凧糸を通じて金属鍵に電気を集め、ライデン瓶に帯電を確認したとされる。この実験の実施記録はジョセフ・プリーストリーが後年記述したもので、フランクリン自身の一次記録は乏しく、現代史学ではその細部 ― 本人が危険な実験を自ら行ったかどうか、また具体的な装置配置 ― には疑問も呈されている。ただし雷の電気的性質を示した彼の着想そのものは、当時ヨーロッパで実施された類似実験(フランスのトマ=フランソワ・ダリバール、1752年5月)で先行的に追認されている。
この研究から生まれた避雷針は、世界中の教会と建物を落雷から守る実用的発明となった。フランクリンは特許を取得せず、人類への贈り物とした。王立協会はコプリー・メダルを授与し、彼をヨーロッパ中の知識人の目に止まらせた。オックスフォード、セントアンドリュースから名誉学位を受け、「電気のプロメテウス」と呼ばれた。
読むに値することを書くか、書かれるに値することを為すかのいずれかだ。
05ロンドン、パリ、そして建国
1757年から1762年、フランクリンはペンシルヴェニア植民地の公使としてロンドンに滞在し、領主ペン家との税権争いを議会に持ち込んだ。1764年から1775年は再びロンドン、今度は複数植民地の代理人として、1765年の印紙法(課税法)に抗して撤廃を引き出した。ヒューム、アダム・スミスら英国啓蒙の知識人とは友情を深めていく。当初は帝国内の自治を訴える帝国主義者的立場だったが、議会の植民地軽視を眼前で見るうちに、次第に独立志向へと傾いた。1774年、ロンドン不在中の妻デボラが脳卒中で死去。夫が帰国するのを見ぬままだった。
1775年に帰国した直後、70歳近い彼は第二回大陸会議のペンシルヴェニア代表となった。同じ夏、英王党側に立った息子ウィリアム ― ニュージャージー王領総督 ― との父子の話し合いは決裂した。父子の断絶はそのまま生涯続く。1776年、起草の五人委員会の一員としてジェファソンの草稿に手を入れた。「we hold these truths to be sacred and undeniable」をフランクリンが「self-evident」に直したとする伝承は出典が確かではないが、五人委員会全体で多数の修正が加えられたのは確かである。
1776年12月、70歳でフランス特使としてパリへ渡った。毛皮帽をかぶった「新世界の賢者」の姿はパリの社交界を魅了し、ヌイイのマダム・ブリヨンや、オートゥイユのマダム・エルヴェシウス(哲学者の未亡人)らとの戯れの恋愛文通も、当時のパリでは公然たる作法のうちにあった。1777年のサラトガ勝利を契機に、1778年2月、を締結させた(この外交的勝利なしに独立戦争の勝利はなかった)。ラファイエット侯ら親米派のフランス人脈が動いていた。1783年9月、パリ条約の交渉団の一員として独立を国際承認させる講和を結ばせた。
1785年、79歳で帰国。1787年5月から9月、フィラデルフィア憲法制定会議の最長老として、体力衰えウィルソンに演説を代読させながら、意見の異なる代議員たちを調停した。最終日、彼は完璧でないとしながらも憲法に署名するよう一同に説いた。
06晩年、奴隷制廃止、死
81歳、フランクリンはの会長に就任した(1787)。若い頃には自身も奴隷を所有し、新聞でその売買広告を扱って収入の一部とした時期があった。しかし晩年には奴隷制を「我々の国にとって恥辱」と公然と批判するようになり、1790年2月、死の二ヶ月前、初代連邦議会に奴隷貿易廃止請願を送った。請願は南部諸州の反発で棚上げされたが、最初の連邦議会記録に廃止運動の文書として残った。
1790年4月17日、84歳でフィラデルフィアの自宅にて胸膜炎により死去。娘サラが枕元にいた。最期の言葉は諸説あるが、娘に楽な姿勢をとるよう勧められて「死にゆく者に楽な姿勢はない」と答えたと伝わる。葬列には約2万人がフィラデルフィアの通りを埋めた。亡命先の英国にいたウィリアムの姿は、そこにはなかった。
墓碑銘は若い日の自分の手になるもの ― 「ここに印刷工B・フランクリン 古い本のように 表紙は破れ 文字と金箔は剥げ落ちたが 必ずや新しく美しい版で 著者の校訂のもと再び現れるであろうと信ず」。
07主要な出来事と著作
- 1月17日、ボストンに誕生。父はろうそく製造業者、男子の末子
- 12歳、兄ジェームズの印刷所に九年の年季奉公
- 16歳、サイレンス・ドゥーグッド名義で14通の匿名投稿
- 17歳、年季奉公を破棄しフィラデルフィアへ逃亡
- ロンドンで印刷工として滞在
- フィラデルフィアで印刷所を開業
- 『ペンシルヴェニア・ガゼット』を買収
- デボラ・リードと事実婚。同年、私生児ウィリアム誕生
- ジャント倶楽部を結成
- アメリカ初の会員制貸出図書館を創設
- 『貧しいリチャードの暦』を25年連続で刊行
- アメリカ哲学協会を共同設立
- 印刷業から退き自然科学研究に専念
- ペンシルヴェニア病院を開設、PA議員に当選
- 凧実験(伝承)。避雷針を考案
- ロンドンでペンシルヴェニア公使
- ロンドンで植民地代理人、印紙法撤廃に動く
- 妻デボラ、不在中に脳卒中で死去
- 帰国、息子ウィリアムと決裂
- 独立宣言起草五人委員会。12月、フランス特使としてパリへ
- 仏米同盟条約を締結
- パリ条約締結、独立を国際承認
- 79歳で帰国
- 憲法制定会議に81歳で参加。PA奴隷制廃止協会会長
- 2月、議会に奴隷貿易廃止請願。4月17日、フィラデルフィアにて胸膜炎で死去。享年84。葬列に約2万人
残した思想の輪郭
- 実用的啓蒙 ― 理論より実験、抽象より発明、思想より市民制度の設計
- 自己陶冶 ― 13の徳による意図的な人格改造の計画
- 市民共和主義 ― 相互教化クラブ・図書館・病院・大学を民間から立ち上げる自治の精神
- 帝国から独立へ ― 帝国内自治から共和制独立への段階的転回
- 科学への開放性 ― 特許を取らず避雷針を公共財として贈与した科学者倫理
- 揺らぎを抱える人 ― 私生児を抱え、息子と袂を分かち、奴隷を所有した過去から廃止運動へ転じた、矛盾を生きた身体
出典と確認メモ
6件- 解釈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: フィラデルフィアで印刷業から身を起こし、42 歳で事業を下りて公共実験と政治活動に専念しはじめた年、フランクリンが書いた小冊子『Advice to a Young Tradesman』(1748)の一...
一次資料を開くNational Archives 公開 Franklin Papers digital edition。'Remember that Time is Mone...
- 最期二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1790年4月17日、84歳でフィラデルフィアの自宅にて胸膜炎により死去。娘サラが枕元にいた。最期の言葉は諸説あるが、娘に楽な姿勢をとるよう勧められて「死にゆく者に楽な姿勢はない」と答えたと伝わる。葬...
一次資料を開くFranklin 主治医 John Jones M.D. 1790年4月の最期の病状記録 primary。empyema 膿胸 → pleurisy 症状の医学...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 時は金なり
一次資料を開くNational Archives 公開 Franklin Papers digital edition (Yale Vol. 3 1961)。'Remembe...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 読むに値することを書くか、書かれるに値することを為すかのいずれかだ。
一次資料を開くNational Archives 公開 Franklin Papers digital edition (Yale Vol. 2 1960)。Poor Ric...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: franklin.mdx pullsource '「若い商人への忠告」(1748)' の attribution 評価。Benjamin Franklin, 'Advice to a Young Tr...
一次資料を開くNational Archives 公開 Franklin Papers digital edition (Yale Vol. 3 1961)。'Advice ...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: わずかな一時の安全のために本質的な自由を手放す者は、自由も安全もともに値しない
一次資料を開くNational Archives 公開 Franklin Papers digital edition (Yale Vol. 6 1963)。'Those w...
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生きた跡を辿るPlaces
ベンジャミン・フランクリンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- クライスト・チャーチ埋葬地墓所
フィラデルフィア, アメリカ
1790年没、妻デボラらと家族の墓に葬られた。歴代独立宣言署名者5人が眠る。「1ペニー節約は1ペニーの稼ぎ」の言葉から硬貨を置く慣習が残る
- ベンジャミン・フランクリン博物館(独立国立歴史公園)記念館
フィラデルフィア, アメリカ
フランクリン晩年の邸宅跡に建つNPS運営博物館。印刷業者・外交官・科学者としての軌跡を展示
さらに辿るならExternal References
ベンジャミン・フランクリンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ベンジャミン・フランクリン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Benjamin Franklin"
Project GutenbergEnglishAutobiography of Benjamin Franklin — Project Gutenberg
フランクリン自伝原著
公式EnglishThe Papers of Benjamin Franklin(Yale University)
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