ベンジャミン・フランクリン
かしこさと、よい心は、 練習で手に入るのか?
印刷工から発明家・外交官・建国の父へ ― 自伝で自己陶冶を実演した啓蒙家
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イギリスの植民地だったアメリカが、自分たちの国を作ろうと動き出した時代 — ひらく
時代の空気
18世紀北米は英領十三植民地、生まれたボストンは清教徒気風の港町、後に根を下ろすフィラデルフィアは印刷と公共結社が交錯する都だった。買い取った『ペンシルヴェニア・ガゼット』を植民地随一に育て、ジャント倶楽部、会員制図書館、アメリカ哲学協会、ペンシルヴェニア病院といった市民インフラが、ここから次々と組み上がっていった。1752年の凧実験で雷の電気的性質を示した啓蒙の科学者は、印紙法に抗してロンドン公使を務め、独立宣言起草の五人委員会に名を連ね、ラファイエットらと結んだパリで仏米同盟を成立させ、81歳の老体で憲法制定会議の調停役となった。
01決裂の夏
1775年の夏、フィラデルフィア。69歳のベンジャミン・フランクリンは、十年ぶりにアメリカの土を踏んでいた。ロンドンで植民地の代理人を務めていた間に、妻は脳卒中で亡くなっていた。夫の帰りを見ることはなかった。
帰国した彼は、すぐに第二回のペンシルヴェニア代表になった。大陸会議は、イギリスに立ち向かう植民地の集まりだ。老いた印刷工は、いま国を作る側に立っている。
同じ夏、彼は英王党側に立った息子ウィリアムと向き合った。は、ニュージャージーの王領総督だった。国王に仕える息子と、国王に背く父。話し合いは決裂した。父と子の断絶(だんぜつ)は、そのまま生涯続くことになる。
十五年後、フランクリンの葬列にはおよそ二万人が集まる。けれど、その中に息子の姿はなかった。
図書館も病院も、国と国の同盟も、彼は一生かけて人をつなぐものを作ってきた。なぜその人が、自分の息子とだけ、つながり直せなかったのか。時は六十九年前、ボストンのろうそく屋に戻る。
02ろうそくの匂いと活字
1706年1月17日、ベンジャミンはボストンのミルク・ストリートで生まれた。父ジョサイアは、ろうそくと石けんを作る職人だった。三度の結婚で生まれた17人の子の15番目、男の子では末っ子だった。母アバイア・フォルジャーの家は、信仰の固いプロテスタントの家風だった。
学校は10歳で終わった。父の工房で蝋(ろう)を煮て、芯を切り、石けんを刻む。二年やっても、蝋の匂いにはなじめなかった。1718年、12歳で兄ジェームズの印刷所に出された。九年の年季奉公(ねんきぼうこう)、つまり住み込みの見習い契約だった。
昼は活字を組み、新聞を配った。夜は借りてきた本を読みふけった。ロックやシャフツベリーといったイギリスの思想家。随筆家アディソン、古代ギリシャの伝記作家プルタルコス。その名文を書き写しては、自分の文章をきたえた。
1722年、16歳のとき、彼は仮名で筆をとった。「サイレンス・ドゥーグッド(黙認の善行さん)」という未亡人の名をかたる。兄の新聞『ニュー=イングランド・クーラント』に、風刺の手紙を14通も匿名で送った。読者は喜んだ。だが書き手が弟だと知った兄は、激怒した。年季は、まだ五年も残っていた。
03パン三つの若者
1723年、17歳のベンジャミンは兄との軋轢(あつれき)に耐えかねた。契約を破り、ボストンから逃げた。船でニューヨークへ、そこから陸路でフィラデルフィアへ。に有名な場面がある。お金はほとんどない。パンを三つ両腕に抱え、通りを不格好に歩く若者。その姿を見ていたのが、少女デボラ・リードだった。のちに彼の内縁(ないえん)の妻となる人だ。
フィラデルフィアの印刷所で職を得た。総督ウィリアム・キースに気に入られ、イギリスで印刷を学ぶ話をもらう。1724年、18歳で海を渡った。ところが総督の約束は空手形(からてがた)だった。頼れる人はいない。彼はロンドンの印刷所で18か月働いた。出版の世界、哲学を語るクラブ、そして水泳を覚えた。のちにアメリカの水泳殿堂(でんどう)に入るほどの腕になる。
1726年、フィラデルフィアに帰った。1728年、自分の印刷所を開く。翌年には新聞『ペンシルヴェニア・ガゼット』を買い取り、植民地一番の新聞に育てた。1730年9月、デボラ・リードと暮らし始めた。ただし正式な結婚ではない。彼女には16歳のとき結婚した夫ジョン・ロジャースがいた。借金を抱えて西インド諸島へ消え、生きているかも分からない。正式に結婚すれば、重婚の罪になりかねなかった。
同じ1730年、ベンジャミンには婚外の息子ウィリアムが生まれた。母親の名は、本人も生涯明かさなかった。デボラはその子を家に迎え、育てた。この子が、四十五年後に父と向き合うことになる。
04暦と13の徳
その少し前、1727年のことだ。21歳の彼は、仲間を集めていた。という名の、学び合いの会である。若い職人や商人が金曜の夜に集まる。読んだ本、道徳の問い、町を良くする案を、順に持ち寄った。
1733年、を創刊した。リチャード・ソーンダースという架空の人物の名で出した年鑑だ。天気の予測や星の動き、農作業の助言に、軽い格言を添えた。「時は金なり」「神は自ら助くる者を助く」「早寝早起き」。アメリカの人びとの常識になる言葉の多くが、ここから広まった。暦は1758年まで25年続き、年に一万部を超えた。安定した収入と、全植民地への影響力が、印刷工の手に入った。
同じころ、彼は自分自身を作り直す実験を始めた。節制、沈黙、規律、決断、倹約、勤勉、誠実。正義、中庸(ちゅうよう)、清潔、冷静、貞潔(ていけつ)、謙虚。を決め、毎週一つに集中する。この計画は『自伝』第二部にくわしく書かれている。完全にはうまくいかなかった。それでも彼は「ともかく以前より良い人間になった」と書いた。
ジャント倶楽部からは、町の仕組みが次々と生まれた。1731年のフィラデルフィア市立図書館は、アメリカ初の会員制の貸出図書館だ。1743年には、1749年には後のペンシルヴェニア大学となる学校。1751年には。消防団、街灯、道路の清掃組合も続いた。1736年に議会の書記、1751年には議員に選ばれた。印刷工は、しだいに公の人になっていく。そして42歳のとき、彼は店を離れる決断をする。
05雷をつかむ
1748年、42歳のフランクリンは印刷業を共同経営者デイヴィッド・ホールに任せた。自分では「哲学的暇(ひま)」と呼んだ。自然を調べることだけに時間を使う、ぜいたくな暮らしだった。
1749年ごろから、彼は電気にのめり込んだ。電気にはプラスとマイナスがある。電気の量は、全体では保たれる。そして雷は、電気の火花と同じものだ。彼はこれらを、ねばり強い実験で示していった。
有名なのが、1752年6月ごろとされる(たこじっけん)だ。雷雲の下で凧を揚げ、糸の先の金属の鍵に電気を集める。それをという蓄電の道具にためた、と伝えられる。ただし、この話を書き残したのは友人ので、後年のことだ。フランクリン本人の記録はとぼしい。危険な実験を本人が本当にやったのか、装置はどう置かれたのか。いまの歴史学には、細部を疑う声もある。それでも「雷は電気だ」という彼の考えは正しかった。同じ1752年5月、フランスのトマ=フランソワ・ダリバールが実験で確かめていた。
この研究から避雷針(ひらいしん)が生まれた。世界中の教会や建物を落雷から守る発明だ。彼は特許を取らなかった。人類への贈り物にしたのだ。イギリスの王立協会はコプリー・メダルを贈った。オックスフォードやセントアンドリュースの大学から名誉学位を受けた。人は彼を「電気のプロメテウス」と呼んだ。神々から火を盗んで人に与えた、ギリシャ神話の巨人の名である。だが彼を次に待っていたのは、実験室ではなく政治だった。
読むに値することを書くか、書かれるに値することを為すかのいずれかだ。
06ロンドンの十八年
1757年、51歳の彼はロンドンに渡った。ペンシルヴェニア植民地の公使(こうし)、つまり植民地の代表としてだ。相手は植民地の領主ペン家。税をめぐる争いを、イギリスの議会に持ち込んだ。1762年に一度帰るが、1764年からは再びロンドンに住む。今度は複数の植民地の代理人だった。
1765年、イギリスはを作った。新聞や証書に税をかける法律だ。植民地は激しく反発した。フランクリンは議会に働きかけ、撤廃を引き出した。
ロンドンでは、スコットランドの哲学者ヒュームや経済学者アダム・スミスと友情を深めた。はじめ彼は、イギリスの中で植民地が自分たちのことを決められればよい、と考えていた。だが議会が植民地を軽く見るのを、目の前で見続けた。考えは、しだいに独立へと傾いていく。
1774年、フィラデルフィアに残していた妻デボラが脳卒中で死んだ。夫はまだ帰らなかった。彼女は夫の帰りを見ずに逝った。翌年、69歳の彼は船に乗る。帰り着いた先に待っていたのが、あの夏だった。
わずかな一時の安全のために本質的な自由を手放す者は、自由も安全もともに値しない
07独立宣言と毛皮の帽子
物語は、はじめの夏に戻る。1775年に帰国した彼は大陸会議の代表になり、息子ウィリアムとは決裂した。父は植民地の側、子は国王の側。ふたりが選んだ道は、もう交わらない。
1776年、を書く五人委員会に入った。ジェファソンの草稿に、彼は手を入れた。草稿には「we hold these truths to be sacred and undeniable」とあった。聖なる、否定できない真理、という意味だ。それを「self-evident」、自明の真理に直したのがフランクリンだと伝えられる。ただし、この言い伝えの出典は確かではない。五人委員会の全体で多くの修正が加えられたことは、確かである。
同じ年の12月、70歳の彼はフランスへ渡った。アメリカの特使としてだ。毛皮の帽子をかぶった「新世界の賢者」は、パリの社交界を魅了した。ヌイイのマダム・ブリヨンと、戯れの恋文をやりとりした。哲学者の未亡人マダム・エルヴェシウスとも同じだった。当時のパリでは、それも公然の作法のうちだった。
1777年、アメリカ軍がサラトガで勝つ。この勝利を足がかりに、1778年2月、を結ばせた。フランスが味方につかなければ、独立戦争の勝利はなかった。若い貴族ら、アメリカを応援するフランス人の人脈が動いていた。1783年9月、パリ条約。イギリスはアメリカの独立を認めた。彼はその講和(こうわ)の交渉団の一員だった。国と国を結んだ男は、二年後に故郷へ帰る。
08最後の署名
1785年、79歳で帰国した。1787年5月から9月、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれた。彼は最年長の代議員だった。体力は衰え、演説は同僚のウィルソンが代わりに読んだ。意見の合わない代議員たちの間を、彼は取りなした。最終日、彼は一同に説いた。完璧ではない。それでも署名しよう、と。
同じ1787年、81歳での会長になった。若いころ、彼自身も奴隷を持っていた。新聞に奴隷の売買広告を載せ、収入の一部にした時期もある。だが晩年には、奴隷制を「我々の国にとって恥辱」と公然と言うようになった。1790年2月、死の二か月前のことだ。初代連邦議会に、奴隷貿易の廃止を求める請願(せいがん)を送った。南部の州が反発し、請願は棚上げになった。それでも最初の連邦議会の記録に、廃止運動の文書として残った。
1790年4月17日、84歳。フィラデルフィアの自宅で、胸膜炎(きょうまくえん)により息を引き取った。枕元には娘サラがいた。最期の言葉には諸説ある。楽な姿勢をとるよう娘に勧められ、「死にゆく者に楽な姿勢はない」と答えたと伝わる。葬列にはおよそ二万人が通りを埋めた。息子は、イギリスに亡命したままだった。ウィリアム・フランクリンの姿は、そこにはなかった。
墓碑銘は、若い日に自分で書いたものだ。「ここに印刷工B・フランクリン 古い本のように 表紙は破れ 文字と金箔は剥げ落ちたが 必ずや新しく美しい版で 著者の校訂のもと再び現れるであろうと信ず」。
自分を毎週数え直し、街を作り、雷をつかみ、国と国を結んだ。憲法さえ「完璧でなくても署名を」と説いた人だ。その人が、息子との断絶だけは、最後まで直さなかった。それとも、直せなかったのか。校訂を待つ「新しい版」に、彼は何を書き直すつもりだったのだろう。
09主要な出来事と著作
- 1月17日、ボストンに誕生。父はろうそく製造業者、男子の末子
- 12歳、兄ジェームズの印刷所に九年の年季奉公
- 16歳、サイレンス・ドゥーグッド名義で14通の匿名投稿
- 17歳、年季奉公を破棄しフィラデルフィアへ逃亡
- ロンドンで印刷工として滞在
- フィラデルフィアで印刷所を開業
- 『ペンシルヴェニア・ガゼット』を買収
- デボラ・リードと事実婚。同年、私生児ウィリアム誕生
- ジャント倶楽部を結成
- アメリカ初の会員制貸出図書館を創設
- 『貧しいリチャードの暦』を25年連続で刊行
- アメリカ哲学協会を共同設立
- 印刷業から退き自然科学研究に専念
- ペンシルヴェニア病院を開設、PA議員に当選
- 凧実験(伝承)。避雷針を考案
- ロンドンでペンシルヴェニア公使
- ロンドンで植民地代理人、印紙法撤廃に動く
- 妻デボラ、不在中に脳卒中で死去
- 帰国、息子ウィリアムと決裂
- 独立宣言起草五人委員会。12月、フランス特使としてパリへ
- 仏米同盟条約を締結
- パリ条約締結、独立を国際承認
- 79歳で帰国
- 憲法制定会議に81歳で参加。PA奴隷制廃止協会会長
- 2月、議会に奴隷貿易廃止請願。4月17日、フィラデルフィアにて胸膜炎で死去。享年84。葬列に約2万人
残した思想の輪郭
- 実用的啓蒙 ― 理論より実験、抽象より発明、思想より市民制度の設計
- 自己陶冶 ― 13の徳による意図的な人格改造の計画
- 市民共和主義 ― 相互教化クラブ・図書館・病院・大学を民間から立ち上げる自治の精神
- 帝国から独立へ ― 帝国内自治から共和制独立への段階的転回
- 科学への開放性 ― 特許を取らず避雷針を公共財として贈与した科学者倫理
- 揺らぎを抱える人 ― 私生児を抱え、息子と袂を分かち、奴隷を所有した過去から廃止運動へ転じた、矛盾を生きた身体
つながり
- トマス・ジェファソン
伴走 — 1776年、独立宣言起草委員会をともにした年下の起草者がいる。
- 蔦屋重三郎
対比 — 同時代の江戸に、もう一つの型があった。遊興の周縁から都市娯楽の文化を組織した出版人。
- 平賀源内
同時代 — 凧の実験から24年後の江戸で、エレキテルを復元した男がいた。同じくアカデミーの外を走った。
さらに読むならFurther Reading
ベンジャミン・フランクリンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門フランクリン自伝
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生きた跡を辿るPlaces
ベンジャミン・フランクリンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- クライスト・チャーチ埋葬地墓所
フィラデルフィア, アメリカ
1790年没、妻デボラらと家族の墓に葬られた。歴代独立宣言署名者5人が眠る。「1ペニー節約は1ペニーの稼ぎ」の言葉から硬貨を置く慣習が残る
- ベンジャミン・フランクリン博物館(独立国立歴史公園)記念館
フィラデルフィア, アメリカ
フランクリン晩年の邸宅跡に建つNPS運営博物館。印刷業者・外交官・科学者としての軌跡を展示
さらに辿るならExternal References
ベンジャミン・フランクリンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ベンジャミン・フランクリン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Benjamin Franklin"
Project GutenbergEnglishAutobiography of Benjamin Franklin — Project Gutenberg
フランクリン自伝原著
公式EnglishThe Papers of Benjamin Franklin(Yale University)
イェール大学編纂の書簡・文書デジタルアーカイブ