トマス・ジェファソン
自由を書いた手は、 なぜ鎖を外せなかったのか?
独立宣言を起草し自由の理念と奴隷制の矛盾を体現した建国の父
- 独立宣言
- 生命自由幸福追求
- 自然権
海の向こうの王に税を取られる植民地で、自由を叫ぶ人々の足元には、買われた人々が働いていた。 — ひらく
時代の空気
18世紀中盤、ヴァージニア植民地はタイドウォーターのプランテーションが奴隷労働の上に成り立つ社会だった。ジョージ三世の英帝国が砂糖税・印紙税・茶税で植民地を縛ろうとし、1775年に独立戦争が始まる。1776年7月4日の独立宣言、連合規約から1787年憲法会議へ、1789年に連邦政府が発足した。1784年からの五年間、ジェファソンはパリ公使としてラファイエットやコンドルセと言葉を交わし、革命前夜のフランスを目撃する。帰国後、連邦派ハミルトンと民主共和派ジェファソンの政争が始まり、1803年のルイジアナ購入で版図は倍に広がった。理神論と啓蒙が、聖書と奴隷制と並んで暮らしの中にあった時代だ。
01「今日は7月4日か?」
1826年7月4日。ヴァージニアの丘の上、の寝室。83歳の老人が、意識の薄れるなかで繰り返し訊ねたという。「今日は7月4日か?」。この日は、が採択されてちょうど50年の記念日だった。彼はその宣言を書いた人だった。午後一時前、トマス・ジェファソンは静かに息を引き取った。
同じ日の夕刻、北のマサチューセッツでも世を去った。かつての政敵であり、晩年の文通相手だった。最後の言葉は「ジェファソンはまだ生きている」だったと伝わる(実際にはジェファソンは数時間前に没していた)。ふたりの建国者が、同じ記念日に去った。この出来事はアメリカ人の心に深く刻まれた。
ジェファソンは死の直前、自分の墓に刻む言葉を書き残していた。「アメリカ独立宣言の起草者、の起草者、の父 ここに眠る」。大統領を二期務めたことには、一切触れなかった。
だが、その墓のまわりで別のことが起きる。彼は借金の山を残していた。モンティチェロの館も、彼が所有していた人々も、売られていった。遺言で自由にした奴隷は五人だけである。残る約二百人は借金返済のために売却された。家族ごとに買い手が異なる売却もあった。
「すべての人は平等に創造され」と書いた男の足元で、それが起きた。自由を書いた手が、なぜ自分の家の鎖を外せなかったのか。答えを探すには、時を83年前に戻さねばならない。
02測量士の息子
1743年4月13日、トマス・ジェファソンは生まれた。ヴァージニア植民地のシャドウェルという土地である。父ピーターは土地を測る測量士で、自分の農場を持つ開拓者の一人だった。父は小規模ながら奴隷も所有していた。人を所有することが当たり前の世界に、息子は育つ。母ジェーンは、ヴァージニア一級の名門ランドルフ家の出身だった。トマスは九人きょうだいの三番目である。
1745年、家族は親戚ランドルフ家のタッカホーの農園へ移った。トマスはそこで幼い日々を過ごす。1752年に一家はシャドウェルへ戻った。少年は牧師たちのもとで古典語と神学を学んだ。1757年、父が急死する。14歳のトマスは5,000エーカーの土地と33人の奴隷を相続した。所有という関係は、こうして少年の暮らしの土台になった。
1760年、17歳でウィリアムズバーグのウィリアム・アンド・メアリー大学に進む。そこで数学者に出会った。スコットランドの新しい学問の風を受けた教師である。スモールは若者を、ベーコン、ロック、ニュートンという三人の思想家へ導いた。ジェファソンは後にこの三人を「人類の歴史で最も偉大な三人」と呼ぶ。1762年から67年まで、法律家ジョージ・ワイズのもとで五年間の見習いを積む。24歳で弁護士となった。
ロックは書いていた。人には生まれつき、生命と自由と財産への権利がある、と。その言葉を学んだ青年の家には、33人の所有された人々がいた。二つは、どう同じ頭の中に収まっていたのだろう。
03小さな山と17日間
1769年、ヴァージニアの植民地議会(下院)の議員になった。海の向こうの本国議会が、植民地に勝手に課税する。それに抗議する植民地側の動きに、彼は加わった。1770年、彼は自分の土地の丘の上に館を建て始める。名はモンティチェロ、イタリア語で「小さな山」という意味だ。設計は自分でした。この館は生涯の建築プロジェクトとなる。40年かけて増築と改装を続け、完成した姿を彼は見なかった。1772年元日、夫を亡くしていたマーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚した。
1774年、『英領アメリカの権利の概観』を書いた。本国議会には植民地を支配する権限がない、と論じた文書である。若い彼は、抵抗派の論客として名を知られるようになった。翌1775年、ヴァージニア代表として第二回大陸会議に出席する。植民地の代表たちが集まる会議だった。
1776年6月11日、33歳のジェファソンは独立宣言の草稿づくりに取りかかった。五人の委員のなかで、中心の書き手に選ばれたのである。フランクリンとアダムズの助言を受けながら、彼は17日間で草稿を書き上げた。6月28日、委員会へ提出する。本会議は二十数か所を削った。そのなかには、奴隷貿易を非難する一節もあった。7月4日、改められた宣言が採択された。
宣言の核心は、ロックの考えを詩のように言い換えた一文にある。「すべての人は平等に創造され、奪うことのできない権利を創造主から与えられた ― 生命、自由、幸福の追求」。ロックの「生命・自由・財産」の「財産」を、彼は「幸福の追求(pursuit of happiness)」に置き換えた。この選択が、ジェファソンの思想の署名となった。
だが、削られた一節のことを忘れてはならない。奴隷貿易を悪と書いた手は、誰の手だったか。その手の持ち主の家では、その年も奴隷が働いていた。
我々は次の真理を自明なものとみなす。すべての人は平等に創造され、創造主から奪うことのできない権利を与えられ、そのなかに生命、自由、幸福の追求が含まれる。
04敗走、喪失、そしてパリ
1779年から81年、ジェファソンはヴァージニア州の知事を務めた。独立戦争の真っただ中である。1781年、英軍のタールトン中佐の急襲を受けた。彼はモンティチェロを一時捨てて逃げた。屈辱的な敗走だった。1781年から82年、身を潜めた時期に書き上げたのが『』である。自分の州について書いた本で、奴隷制についても論じている。
1782年9月、妻マーサが33歳で他界した。六度目の出産で、体が疲弊しきっていた。六人の子のうち、大人になったのは娘二人だけである。39歳のジェファソンは深い悲しみに沈み、その後二度と結婚しなかった。
1784年、アダムズの後を継いで駐仏公使に任じられる。フランスに送られる国の代表である。彼は1789年までパリに滞在した。革命が起きる直前のフランスを、間近で見た。ラファイエット侯と共に、人権宣言の起草に助言を与える。コンドルセ侯やエルヴェシウス夫人のサロンにも通った。この時期、彼の共和主義はさらに急進化する。王のいない国という考えが、いよいよ強くなった。
1787年、パリに一人の少女がやってきた。、14歳。亡き妻マーサの異母妹として生まれた、混血の奴隷である。末娘ポリーに付き添って海を渡ってきた。ジェファソンは44歳だった。彼女は二年余りを、公使の家で過ごすことになる。
フランスの法のもとでは、奴隷は自由になりえた。彼女がこの国に残る道もあった。それでも彼女はヴァージニアへ戻る。なぜ戻ったのか。
少しの反乱は、ときに良いものである。政治世界には、自然界の嵐と同じほど必要なものだ
05書けた悪、動かせない足元
この宣言を書いた男は、生涯にわたって600人を超える奴隷を所有していた。独立宣言の元の草稿には、奴隷貿易を非難する一節があった。それは削られた。サウスカロライナやジョージアなど、南部側の反発があった。北部の、奴隷船の商売にかかわる商人たちの利害もあった。両方から押されて、一節は消えた。
ジェファソンは頭では奴隷制を悪と認めていた。そして繰り返し、「漸進的解放」を論じた。少しずつ、段階を踏んで自由にしていく、という考えである。『ヴァージニア覚書』にもそう書いた。だが同じ本のなかで、彼は別のことも書いている。黒人は白人より体も知恵も劣る、という仮説である。悪と認める言葉と、劣ると見る言葉が、一冊の中に並んでいた。この本は、その後の合衆国の人種をめぐる考え方に長い影を落とす。
サリー・ヘミングスは、ヴァージニアへ戻った。息子マディソンの後年の回想はこう伝える。彼女はジェファソンとの約束を交わして戻ったのだ、と。1802年、新聞にひとつの告発が載った。大統領ジェファソンは、所有する女性との間に複数の子がいる、と。彼はその子らを、公には認めなかった。長く否認が続いた。サリーは六人の子をもうけ、うち四人が大人になった。
実際に彼が生前に自由にした奴隷は、わずか五人だった。すべてヘミングス家の人々である。600人を超える所有と、五人の解放。彼は奴隷制を悪と書くことはできた。では、なぜ自分の足元からは動かせなかったのか。この問いは、ひとまず置いておく。彼の人生は、ここから国の頂点へ向かう。
06ハミルトンとの対立、そして大統領
1789年、ジェファソンは帰国した。翌年からワシントン政権の初代国務長官を務める(1790-93)。外交を担う大臣である。ここで彼は一人の男と正面からぶつかる。財務長官だ。中央銀行をつくるか。国の借金をどう引き受けるか。イギリスとフランスのどちらに近づくか。工業を育てるか。は、そのすべてに及んだ。ハミルトンは強い中央政府と商工業を望んだ。ジェファソンは、州の権利と、自分の土地を持つ農民の国を望んだ。この争いから、という合衆国最初の政党制が形をとっていく。
1796年の大統領選で、彼は二位となった。当時の規則により、二位は副大統領になる(1797-1801)。そして1800年の選挙。「革命」と呼ばれたこの選挙で、ジェファソンは第3代大統領に選ばれた(1801-1809)。自分の土地を持つ農民が自由の土台になる。この理想は、後にと呼ばれる。
二期八年の在任中、大きな出来事が続いた。1803年、フランスからルイジアナを1500万ドルで買った。である。合衆国の領土は一気に倍になった。同じ年、が出る。連邦最高裁が、法律が憲法に合うかを判断する権限を確立した判決だ。1804年から06年には、の隊を西へ送った。まだ知らない土地を調べさせるためである。一方、1807年のは失敗だった。アメリカの船が外国へ出るのを止める法律だったが、経済的な失敗に終わった。二期目の評価は曇った。
八年のあいだ、国の地図は倍になり、法の形も整った。だが彼の足元の問いは、そのまま丘の上に残されていた。国の頂点を降りた男は、そこへ戻っていく。
07老いた二人の手紙
1809年、二期を終えたジェファソンはモンティチェロに引退した。だが考えることは止まらなかった。彼の蔵書はアメリカ最大級だった。第二次米英戦争で、英軍が議会の図書館を焼く。その翌年の1815年、彼は6,487冊を議会に売った。今日の米国議会図書館の土台は、この本たちである。
晩年の最大の仕事はヴァージニア大学だった(1819年創設)。土地を選び、建物を設計し、教える内容を決め、教授を招く。円い図書館を中心に置いた「アカデミカル・ヴィレッジ」の設計も、彼自身のものだ。州立で、どの宗派にも属さない。古典語より、いま使われている言葉と科学を重んじる。彼の教育の理想が、そのまま形になった大学だった。
旧政敵ジョン・アダムズとの文通も、この時期に始まった。1812年から晩年まで14年、158通の手紙を交わした。共和制、平等、革命、宗教、死。激しい政争を経た二人の老人は、深く敬い合いながら、哲学の対話を続けた。この手紙の束は、アメリカ政治思想史の宝となる。
1820年、が結ばれた。奴隷を認める州と認めない州の、数の釣り合いをとる妥協である。ジェファソンはこれを手紙で「夜中の警鐘(a fire bell in the night)」と書いた。奴隷制が西へ広がれば、いつか国そのものが引き裂かれる。彼はそれを直観していた。それでも、行動には踏み切らなかった。丘の上の老人には、あと六年の時間が残っていた。
自由の木は、愛国者と暴君の血でときどき潤されねばならない。それは自由の自然の肥やしなのである
08再び、1826年7月4日
こうして時は、1826年7月4日の寝室へ戻る。「今日は7月4日か?」と訊ね続けた老人は、自分が何を残すかを、すでに自分で決めていた。墓碑銘に刻ませたのは、独立宣言、ヴァージニア信教自由法、ヴァージニア大学の三つ ― 自由の言葉、信教の自由、教育の設立である。八年の大統領職は、そこに含まれなかった。
だが墓碑銘の外側で、もう一つの決算が進んでいた。死に際の遺言で解放したのは五人 ― いずれもヘミングス家の人々 ― にとどまり、残る約二百人は債務返済のため売却された。家族ごと買い手が異なる売却もあった。彼の言葉は残り、彼が所有した人々は、ばらばらに引き裂かれて運ばれていった。
サリー・ヘミングスをめぐる問いには、後年の考証が答えを寄せている。1998年のY染色体DNA鑑定は、サリーの末子イーストン・ヘミングスの父系がジェファソン家の男系に絞り込まれることを示した(DNA単独ではトマス本人と他のジェファソン家男性とを区別しない)。モンティチェロ財団は、ジェファソンの滞在時期と各受胎時期の一致など総合的な史料から、トマス・ジェファソン本人が父親であった可能性が高いと結論づけている。
ここに、冒頭の「なぜ」の輪郭が見えてくる。『ヴァージニア覚書』は漸進的解放を論じながら、黒人を白人より身体的・知的に劣るとする仮説を併記した ― 批判と劣等視の混在であり、その後の合衆国の人種思想に長い影を落とした。彼は思想としては自然権と被治者の同意を掲げ、制度としては信教の自由を法にし、大学を建てた。しかし奴隷制については、独立宣言の草稿で一節を書き、覚書で悪と認め、ミズーリ協定に「夜中の警鐘」を聞きながら、自らの所有関係を解く行動には最後まで至らなかった。14歳の相続から83歳の死まで、所有という関係は彼の生活の基底にあり続けたのである。
「自由」の理念の起草者が、最後まで自らが所有する人々を解放できなかったこと。自らが所有する女性との間に子をもうけながら、その子らを公には認めなかったこと。これはアメリカ建国の根源的矛盾であり、ジェファソンの人物の両義性そのものである。彼は奴隷制を悪と書きえたが、自分の足元から動かす力は、最後まで持たなかった。
言葉は残り、人々は運ばれていった。自由の言葉を書く力と、自分の足元を動かす力は、同じ力なのだろうか。そして私たちは、自分の立っている床板を、どこまで確かめているだろう。
09主要な出来事と著作
- ヴァージニア植民地シャドウェルに誕生。父はプランターで測量士
- 父死去、14歳で5,000エーカーと33人の奴隷を相続
- ウィリアム・アンド・メアリー大学。ロック、ベーコン、ニュートンに傾倒
- 弁護士資格取得
- ヴァージニア下院議員(House of Burgesses)
- モンティチェロの建設開始
- マーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚
- 『英領アメリカの権利の概観』
- 第二回大陸会議で独立宣言を起草。7月4日採択
- ヴァージニア州知事。タールトン急襲でモンティチェロを一時放棄
- 『ヴァージニア覚書』執筆(1785年パリで匿名出版)
- 妻マーサ死去。以後再婚せず
- 駐仏公使、パリ滞在。フランス革命勃発を目撃
- ヴァージニア信教自由法成立(マディソン尽力)
- 初代国務長官(ワシントン政権)。ハミルトンと対立
- 第2代副大統領
- 第3代大統領。1803年ルイジアナ購入、1804-06年ルイス&クラーク探検
- 出港禁止法(1809年廃止)
- ヴァージニア大学創設
- ミズーリ協定を「夜中の警鐘」と書簡で評す
- 7月4日、独立宣言50周年の日に死去。享年83。同日ジョン・アダムズも死去
残した思想の輪郭
- 自然権 ― 生命・自由・幸福の追求は創造主から奪うことのできない権利
- 被治者の同意 ― 政府は人民の同意によってのみ正統性をもつ(ロック的社会契約の米国版)
- 信教の自由 ― 国家は信仰の事項に介入してはならない(ヴァージニア信教自由法)
- 啓蒙的農本共和主義 ― 独立した農民小共和国が自由と徳の基盤となる(工業化への慎重論)
- 厳格な憲法解釈と州権 ― 連邦の権限は明文に絞り、自由を中央集権から守る
- 自由と奴隷制の矛盾 ― 自らの思想と行動の断絶を最後まで乗り越えられなかった建国者の両義性
つながり
- ジョン・ロック
先駆 — 「生命・自由・幸福の追求」——その原型「生命・自由・財産」を書いた哲学者がいる。
- ベンジャミン・フランクリン
伴走 — 独立宣言の「自明である」の一語は、この年長の同僚の推敲と伝えられる(諸説あり)。
- エイブラハム・リンカーン
継承 — 87年後、「すべての人は平等に創られた」を合衆国再定義の起点にした大統領がいる。
生きた跡を辿るPlaces
トマス・ジェファソンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- モンティチェロ住居
シャーロッツビル, アメリカ
ジェファソンの邸宅兼農場、自筆設計の新古典主義建築、世界遺産
- ジェファソン記念館ゆかり
ワシントンD.C., アメリカ
タイダル・ベイジン畔の新古典主義記念堂、独立宣言起草者を顕彰
さらに辿るならExternal References
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