トマス・ジェファソン
自由の国は、 何の上に立つのか?
独立宣言を起草し自由の理念と奴隷制の矛盾を体現した建国の父
- 独立宣言
- 生命自由幸福追求
- 自然権
時代の空気
18世紀中盤、ヴァージニア植民地はタイドウォーターのプランテーションが奴隷労働の上に成り立つ社会だった。ジョージ三世の英帝国が砂糖税・印紙税・茶税で植民地を縛ろうとし、1775年に独立戦争が始まる。1776年7月4日の独立宣言、連合規約から1787年憲法会議へ、1789年に連邦政府が発足した。1784年からの五年間、ジェファソンはパリ公使としてラファイエットやコンドルセと言葉を交わし、革命前夜のフランスを目撃する。帰国後、連邦派ハミルトンと民主共和派ジェファソンの政争が始まり、1803年のルイジアナ購入で版図は倍に広がった。理神論と啓蒙が、聖書と奴隷制と並んで暮らしの中にあった時代だ。
01ヴァージニアのプランターの息子
1743年4月13日(旧暦では4月2日)、ヴァージニア植民地グーチランド郡シャドウェル(現アルベマール郡)に生まれた。父ピーター・ジェファソンは測量士・自家農場主で、地域の開拓者の一人だった。小規模ながら奴隷を所有するプランターでもあり、息子はその所有を当然のこととして引き継ぐ世界に育つ。母ジェーン・ランドルフはヴァージニア一級の名門ランドルフ家の出身で、トマスは九人きょうだいの三番目だった。
1745年、家族は親戚ランドルフ家のタッカホー・プランテーションへ移り、トマスはそこで幼少期を過ごす。1752年に一家はシャドウェルへ戻り、ウィリアム・ダグラス師、続いてジェイムズ・モーリー師のもとで古典語と神学を学んだ。父は1757年に急死した。14歳のトマスは5,000エーカーの土地と33人の奴隷を相続した。後年に至るまで、所有という関係は彼の生活の基底にあり続ける。
1760年、17歳でウィリアムズバーグのウィリアム・アンド・メアリー大学に進学。スコットランド啓蒙の影響を受けた数学者ウィリアム・スモールから、ベーコン、ロック、ニュートンに導かれた。彼は後にこの三人を「人類の歴史で最も偉大な三人」と呼ぶ。1762年から67年まで、ウィリアムズバーグの法律家ジョージ・ワイズの下で五年間の法学見習いを過ごし、24歳で弁護士となった。
02モンティチェロ、そして独立宣言
1769年からヴァージニア下院議員(House of Burgesses)を務め、本国議会の課税に対する植民地側の抗議に加わった。1770年、彼は(「小さな山」)の丘の上に自ら設計した邸宅の建設を始める。パラディオ建築に影響された新古典主義の館は、彼の生涯の建築プロジェクトとなり、40年かけて増築と改装を続け、完成した形を見なかった。1772年元日、24歳の寡婦マーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚した。
1774年、本国議会の権限を植民地に及ぼすことを否定する『英領アメリカの権利の概観』を発表し、若くして抵抗派の論客として知られるようになる。翌1775年、ヴァージニア代表として第二回大陸会議に出席。1776年6月11日、33歳のジェファソンは五人委員会の中の中心起草者としての草稿に取りかかった。フランクリンとアダムズの助言を受けながら、彼は17日間で草稿を書き、6月28日に委員会へ提出する。本会議は奴隷貿易を非難する一節など二十数か所を削除し、7月4日に改訂を経た宣言を採択した。
宣言の核心は、ロックの影響を受けた自然権論を詩的に定式化した文章にある ― 「すべての人は平等に創造され、奪うことのできない権利を創造主から与えられた ― 生命、自由、幸福の追求」。ロックの「生命・自由・財産」を「幸福の追求(pursuit of happiness)」に置き換えたこの選択は、ジェファソンの思想的署名となった。
03奴隷制という矛盾
しかしこの宣言を書いた男は、自身が生涯にわたって600人を超える奴隷を所有していた。独立宣言の原草稿には奴隷貿易を非難する一節があったが、サウスカロライナ・ジョージアなど南部側の反発と、北部の奴隷船貿易に関わる商業利害の双方から削除された。
ジェファソンは頭で奴隷制を悪と認め、繰り返し「漸進的解放」を論じた(『』1781-82年執筆)。同書はその一方で、黒人を白人より身体的・知的に劣るとする仮説を併記し、批判と劣等視の混在として、その後の合衆国の人種思想に長い影を落とすことになる。実際には、彼が生前に解放したのはわずか五人 ― すべてヘミングス家の人々だった。死に際の遺言でも解放したのは五人にとどまり、残る約二百人は債務返済のため売却された。家族ごと買い手が異なる売却もあった。
(1773-1835)は、亡妻マーサの異母妹として生まれた混血の奴隷だった。1787年、14歳で末娘ポリーに付き添ってパリへ渡り、当時の駐仏公使ジェファソン(44歳)のもとで二年余りを過ごす。フランス法のもとでは奴隷は自由になりえたが、彼女はジェファソンとの約束を交わしてヴァージニアへ戻ったと、息子マディソンの後年の回想は伝える。1802年、彼女との間に複数の子がいるとの告発が新聞に掲載された。長く否認されてきたが、1998年のY染色体DNA鑑定は、サリーの末子イーストン・ヘミングスの父系がジェファソン家の男系に絞り込まれることを示した(DNA単独ではトマス本人と他のジェファソン家男性とを区別しない)。モンティチェロ財団は、ジェファソンの滞在時期と各受胎時期の一致など総合的な史料から、トマス・ジェファソン本人が父親であった可能性が高いと結論づけている。サリーは六人の子をもうけ、うち四人が成人した。
「自由」の理念の起草者が、最後まで自らが所有する人々を解放できなかったこと、そして自らが所有する女性との間に子をもうけながら、その子らを公には認めなかったこと ― これはアメリカ建国の根源的矛盾であり、ジェファソンの人物の両義性そのものである。彼は奴隷制を悪と書きえたが、自分の足元から動かす力は、最後まで持たなかった。
04ヴァージニア、パリ、国務長官
1779年から81年、ジェファソンはヴァージニア州知事を務めた。独立戦争最中の1781年、英軍タールトン中佐の急襲を受けてモンティチェロを一時放棄する屈辱的な敗走もあった。1781-82年、その逼塞期に書き上げたのが『ヴァージニア覚書』である。1782年9月、妻マーサが六度目の出産の疲弊から33歳で他界した(六児中、成人したのは二女のみ)。39歳のジェファソンは深い悲嘆に沈み、以後再婚しなかった。
1784年、アダムズの後任として駐仏公使に任じられ、1789年までパリに滞在した。フランス革命勃発期を間近で目撃し、ラファイエット侯と共に人権宣言の起草に助言を与え、コンドルセ侯やエルヴェシウス夫人のサロンに通った。この時期に彼の共和主義はさらに急進化する。
帰国後、ワシントン政権の初代国務長官(1790-1793)を務めた。財務長官アレグザンダー・ハミルトンとは、中央銀行設立、国債引受、対英仏外交、産業政策のすべてで対立し、合衆国最初の政党制が形をとっていく。1796年大統領選では二位となり、当時の規則により副大統領に就任(1797-1801)。そして1800年の「革命」と呼ばれた選挙でジェファソンは第3代大統領に就任する(1801-1809)。
二期八年の在任中、フランスからルイジアナを1500万ドルで購入(1803)し、合衆国の版図を一気に倍加させた。同年のマーベリー対マディソン判決で連邦最高裁の違憲審査権が確立。1804-06年、隊を派遣して西方を踏査させた。一方、1807年のは経済的失敗に終わり、二期目の評価を曇らせた。
我々は次の真理を自明なものとみなす。すべての人は平等に創造され、創造主から奪うことのできない権利を与えられ、そのなかに生命、自由、幸福の追求が含まれる。
05退任後、ヴァージニア大学の創設
1809年、第二期を終えてモンティチェロに引退した。しかし思索は止まらなかった。蔵書はアメリカ最大規模で、第二次米英戦争で英軍が議会図書館を焼いた翌1815年、彼は6,487冊を議会に売却し、今日の米国議会図書館の蔵書の礎を築いた。
晩年の最大の事業は(1819年創設、シャーロッツヴィル)だった。土地選定、円形図書館を中心とする「アカデミカル・ヴィレッジ」の建築設計、カリキュラム編成、教授招聘までを一身に担う。州立で、宗派から独立し、古典語より近代言語と科学を重視する ― 彼の啓蒙教育理念の具現だった。
旧政敵のジョン・アダムズと1812年から晩年まで14年にわたり交わした158通の書簡は、アメリカ政治思想史の宝となった。共和制、平等、革命、宗教、死 ― 二人の老建国者は、激しい政争を経た後、深い相互尊敬のうちに哲学的対話を続けた。1820年のミズーリ協定 ― 奴隷州と自由州の均衡をめぐる妥協 ― を、ジェファソンは「夜中の警鐘(a fire bell in the night)」と書簡に記す。彼は奴隷制の地理的拡大が連邦そのものを引き裂くことを直観しながら、なお行動には踏み切れなかった。
06独立宣言50周年、二人の死
1826年7月4日、独立宣言採択50周年の日。ジェファソンはモンティチェロの寝室で、意識朦朧としながら繰り返し訊ねたという ― 「今日は7月4日か?」。午後一時前、83歳で静かに息を引き取った。
同じ日の夕刻、マサチューセッツでジョン・アダムズも世を去った。最後の言葉は「ジェファソンはまだ生きている」だったと伝わる(実際にはジェファソンは数時間前に没していた)。ふたりの建国者が、独立宣言50周年の同じ日に去るという象徴的な出来事は、アメリカ人の心に深く刻まれた。
ジェファソンは死の直前、自らの墓碑銘を書き残した ― 「アメリカ独立宣言の起草者、の起草者、ヴァージニア大学の父 ここに眠る」。大統領職には一切触れなかった。彼自身が重要だと考えたのは、自由の言葉、信教の自由、教育の設立 ― その三つだった。だが死後、債務の山ゆえモンティチェロも所有奴隷も売却された。彼の言葉は残り、彼が所有した人々は、ばらばらに引き裂かれて運ばれていった。
07主要な出来事と著作
- ヴァージニア植民地シャドウェルに誕生。父はプランターで測量士
- 父死去、14歳で5,000エーカーと33人の奴隷を相続
- ウィリアム・アンド・メアリー大学。ロック、ベーコン、ニュートンに傾倒
- 弁護士資格取得
- ヴァージニア下院議員(House of Burgesses)
- モンティチェロの建設開始
- マーサ・ウェイルズ・スケルトンと結婚
- 『英領アメリカの権利の概観』
- 第二回大陸会議で独立宣言を起草。7月4日採択
- ヴァージニア州知事。タールトン急襲でモンティチェロを一時放棄
- 『ヴァージニア覚書』執筆(1785年パリで匿名出版)
- 妻マーサ死去。以後再婚せず
- 駐仏公使、パリ滞在。フランス革命勃発を目撃
- ヴァージニア信教自由法成立(マディソン尽力)
- 初代国務長官(ワシントン政権)。ハミルトンと対立
- 第2代副大統領
- 第3代大統領。1803年ルイジアナ購入、1804-06年ルイス&クラーク探検
- 出港禁止法(1809年廃止)
- ヴァージニア大学創設
- ミズーリ協定を「夜中の警鐘」と書簡で評す
- 7月4日、独立宣言50周年の日に死去。享年83。同日ジョン・アダムズも死去
残した思想の輪郭
- 自然権 ― 生命・自由・幸福の追求は創造主から奪うことのできない権利
- 被治者の同意 ― 政府は人民の同意によってのみ正統性をもつ(ロック的社会契約の米国版)
- 信教の自由 ― 国家は信仰の事項に介入してはならない(ヴァージニア信教自由法)
- 啓蒙的農本共和主義 ― 独立した農民小共和国が自由と徳の基盤となる(工業化への慎重論)
- 厳格な憲法解釈と州権 ― 連邦の権限は明文に絞り、自由を中央集権から守る
- 自由と奴隷制の矛盾 ― 自らの思想と行動の断絶を最後まで乗り越えられなかった建国者の両義性
出典と確認メモ
7件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: jefferson.mdx Chapter 6 段落: 1826 年 7 月 4 日 (独立宣言 50 周年) 同日に Thomas Jefferson と John Adams が没した史実、Ada...
一次資料を開く1826 年 7 月 4 日午後 12:50 Jefferson 没、Adams 同日午後 6:20 没、独立宣言 50 周年。Adams 最期の言葉 Thom...
- 文脈一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 1776年7月、フィラデルフィアの大陸会議でジェファソン起草の独立宣言が採択された。33歳のヴァージニア貴族は、ロックの自然権論を継ぎつつ、生命・自由・幸福の追求を創造主由来の「奪うことのできない」権...
一次資料を開くDeclaration of Independence 公式 transcript。1776 年 7月 4日採択。'We hold these truths t...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: すべての人は平等に創造され、創造主から奪うことのできない権利を与えられている
一次資料を開くDeclaration of Independence (July 4, 1776) preamble: 'We hold these truths to be...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 我々は次の真理を自明なものとみなす。すべての人は平等に創造され、創造主から奪うことのできない権利を与えられ、そのなかに生命、自由、幸福の追求が含まれる。
一次資料を開くDeclaration of Independence (July 4, 1776) preamble 完全文: 'We hold these truths t...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 「独立宣言」(1776)
一次資料を開くDeclaration of Independence 公式 transcript (1776 年7月4日採択)。National Archives 所蔵 en...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 少しの反乱は、ときに良いものである。政治世界には、自然界の嵐と同じほど必要なものだ
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 自由の木は、愛国者と暴君の血でときどき潤されねばならない。それは自由の自然の肥やしなのである
つながり
- ジョン・ロック
先駆 — ロック『統治二論』(1689)第二論の自然権「生命・自由・財産(life, liberty, and estate/property)」を、ジェファソン起草のアメリカ独立宣言(1776)は「生命・自由・幸福の追求(Life, Liberty and the pursuit of Happiness)」として再定式化。統治の正統性が「被統治者の同意」にあるというロックの主張も独立宣言に直接引き継がれる
- ベンジャミン・フランクリン
伴走 — 1776年6月大陸会議で独立宣言起草委員会(フランクリン、ジェファソン、ジョン・アダムズ、シャーマン、リヴィングストン)の5人の一員として共同執筆。フランクリンはジェファソンの起草文を細部で推敲、「We hold these truths to be self-evident(これらの真理は自明である)」の「self-evident」への改稿は通例フランクリンの手とされる(諸説あり)。建国の二世代をまたぐ象徴的協働
- エイブラハム・リンカーン
先駆 — リンカーンはゲティスバーグ演説(1863)冒頭「87年前(fourscore and seven years ago)」でジェファソン独立宣言(1776)の「すべての人は平等に創られた(all men are created equal)」を起点として合衆国再定義。1859年書簡でも「ジェファソンの宣言は自由社会の定義であり抽象的真理である」と記し、独立宣言を奴隷解放への憲法的根拠として引く
生きた跡を辿るPlaces
トマス・ジェファソンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- モンティチェロ住居
シャーロッツビル, アメリカ
ジェファソンの邸宅兼農場、自筆設計の新古典主義建築、世界遺産
- ジェファソン記念館ゆかり
ワシントンD.C., アメリカ
タイダル・ベイジン畔の新古典主義記念堂、独立宣言起草者を顕彰
さらに辿るならExternal References
トマス・ジェファソンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「トマス・ジェファーソン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Thomas Jefferson"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Thomas Jefferson"
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