ジョン・ロック
統治の正統性は、 どこから来るのか?
自然権と同意の政府を論じた近代自由主義の父
- 統治二論
- 白紙説
- 財産権
時代の空気
1632年生まれ、清教徒革命とイングランド内戦を子供時代に経験した世代。父はピューリタンで議会派の騎兵大尉として戦い、ロックがウェストミンスター校在学中の1649年、校舎の至近でチャールズ1世が処刑された。1660年の王政復古後、オックスフォードの古いスコラ学風の傍らで王立協会(1660年勅許)を中心に実験科学が興り、ロバート・ボイルらの実験室が新しい知の場となった。1670年代から80年代の王位継承排除危機ではホイッグ・トーリの党派抗争が激化し、彼自身もシャフツベリー伯に連座してオランダへ亡命、1688年の名誉革命で帰国した。
01サマセットのピューリタン家系
1632年8月29日、イングランド西部サマセット州リングトン(Wrington、ブリストルに近い小村)に生まれた。父も祖父もピューリタン的信仰を持つ小地主で、父は清教徒革命期、議会派の騎兵大尉として戦った。家は裕福ではなかったが、書物と祈りの気配に満ちていた。内戦はロックにとって後から読む歴史ではない。王、議会、良心、軍隊が一つの国の内部で裂けるのを、少年期の背景として経験した世代である。
父の戦友アレグザンダー・ポプハムの口添えで、ロックはロンドンの名門ウェストミンスター校に送られた。チャールズ1世が処刑された日(1649)、校舎から王の処刑場が至近にあったという。ロックは14歳前後、学校内で処刑の喧噪を間接的に聞きつつ古典古代を学んでいた。ラテン語作文、ギリシア語、弁論術、聖書読解を徹底する教育は、後の平明な英語散文とは別の基礎を与えた。王を殺した議会派の家に生まれながら、ロックは急進的な共和国論者として出発したわけではない。むしろ、なぜ人は統治されることに同意しうるのか、同意が失われたとき何が残るのかを、慎重に問い続ける人になった。
この慎重さは、性格上の臆病さだけではない。王政復古後のイングランドでは、出版物と説教が監視され、大学と教会は忠誠を試す制度でもあった。若いロックはその制度の中を進み、表向きには従順な学者として身を置いた。後年の匿名出版、原稿の秘匿、友人への細かな指示は、この政治的環境を抜きにしては読めない。後に彼が「信託」として政府を語るとき、その背後には、信頼できない権力の近くで言葉を選び続けた経験がある。
02オックスフォードと医学・経験科学
1652年、オックスフォードのクライスト・チャーチに進学。スコラ哲学中心の古い学風には辟易したが、医学と実験科学の新しい潮流に惹きつけられた。後に王立協会の中核となるロバート・ボイルと親交を結び、ボイルの実験室で化学と呼吸の実験を手伝った。ボイルの粒子論は、物体を隠れた本質ではなく、微小粒子の配列と運動から考える方向を開いた。ロックの「第一性質・第二性質」の区別、すなわち延長・形・運動のように物体側に基礎をもつ性質と、色・味・音のように心に生じる性質を分ける議論は、この新しい自然哲学と深く結びついている。
1666年、後のシャフツベリー伯アシュリー卿と出会う。アシュリーは肝臓付近の膿瘍に苦しみ、ロックは外科医トマス・シデナムらと相談しながら排膿管を入れる手術計画に関わった。危険な処置だったが成功し、アシュリーは命をつなぐ。ここからロックは侍医、家庭教師、秘書、政策助言者を兼ねる人物として、エクセター・ハウスに出入りするようになった。1666-67年のこの出会いは、静かな大学人を、王政復古後の政治の前線へ連れ出した。
ロックは臨床家として名医の域にあったが、決して「哲学一筋の隠者」ではなかった。ロンドンの政治、通商、植民地(カロライナ植民地の憲章起草にも関与)、そして王位継承をめぐる党派闘争の渦中に、彼はいた。医学の経験は、彼の哲学にも姿を残す。人間の知性を論じるとき、彼は魂の本質を一挙に定義しない。まず観察できる働き、観念の出入り、言葉の誤用、判断の失敗を調べる。医師が症状を積み上げて病を見分けるように、ロックは知性の限界を診る。
03亡命オランダ、『統治二論』
シャフツベリー伯はホイッグ党の領袖として、カトリックの後継者(後のジェームズ2世)の王位継承排除法案を推進した。1679-81年の排除危機では、議会、王、都市の世論、反カトリック感情が激しくぶつかった。1683年、ライ・ハウス陰謀事件の後、反対派への弾圧が強まり、すでに大陸へ逃れていたシャフツベリーはオランダで没する。ロック自身にも反逆の嫌疑が及び、彼は同年オランダへ亡命した。6年間、偽名を使い、家主を転々としながら執筆を続けた。
オランダは印刷と亡命者の国でもあった。ロックはアムステルダム、ロッテルダム、ユトレヒトの知識人と交わり、レモンストラント派や改革派の神学者、医師、商人のネットワークに身を置いた。イングランド政府は彼の身柄引き渡しを求め、大学からも名を削られた。彼の匿名性は文学的趣味ではなく、生存の条件だった。『』のラテン語草稿は、この亡命地の宗教的多元性を背景に書かれた。
『』の多くがこの亡命期に練り上げられた(近年の研究は執筆開始を1679年頃とするが、改稿は亡命中に及ぶ)。第一部はフィルマーの家父長的王権神授説を論駁し、第二部でロック自身の政治哲学を展開した ― 人間は自然状態で生命・自由・財産の自然権をもつ。政府はこれらを守るために被治者の同意によって設立される。統治者がこの目的を裏切ったとき、人民はをもつ。1689年の刊行時には、名誉革命を正当化する書物として読まれたが、執筆の根はそれ以前の排除危機にある。ロックの抵抗権論は、勝利した革命への祝辞ではなく、王政復古体制の検閲下で準備された危険な議論だった。
04名誉革命と『人間知性論』
1688年の名誉革命でジェームズ2世が追われ、ウィリアム3世とメアリー2世が迎えられた。翌1689年、ロックは亡命先から帰国した。同じ年、『統治二論』『』『寛容についての手紙』がほぼ同時期に世に出た。彼は名を伏せて刊行したが、周囲は著者を知っていた。復帰は凱旋ではなく、慎重な再登場である。王権を制限した新体制のもとでも、彼は役職と健康と原稿の扱いを細かく選び、政治的な火種を不用意に増やさないよう努めた。
『人間知性論』はの金字塔となった。全四巻から成るこの大著は、第一巻で生得観念を否定し、第二巻で観念の起源と種類を分析し、第三巻で言葉の働きと誤用を論じ、第四巻で知識、蓋然性、信仰の限界を扱う。心は生まれたときは白紙(タブラ・ラサ)のようなもので、観念はすべて感覚経験と反省から生じる。ただしは、子どもが何にでも無制限に作り替えられるという粗い環境決定論ではない。ロックは人に気質や能力差があることを認める。彼が退けたのは、神、道徳、公理が生まれつき心に刻まれているという主張であった。
第二巻の観念論は、単純観念と複合観念、実体・様態・関係、を分ける。第四巻では、知識とは観念相互の一致・不一致を知覚することだと定義される。人間の知性は、神や物体の究極本質を完全に見通せない。だからこそ、確実性、蓋然性、証言、信仰を取り違えてはならない。これは宗教を軽んじる議論ではなく、信仰の名で知識の限界を踏み越えないための規律でもあった。後のバークリー、ヒューム、そしてカントの批判哲学は、この限界設定から出発する。
『寛容についての手紙』は、国家と教会の分離を説き、良心に関する事柄に国家が介入すべきでないと論じた。根拠は単なる寛大さではない。人は外的な強制によって本当に信じることはできず、救済に関わる判断は各人の理解と良心に属する。政府の任務は、市民の生命、自由、財産という世俗的利益を守ることであって、魂を天国へ運ぶことではない。カトリックと無神論者を例外とする限界はあったが、後の合衆国憲法修正第一条(信教の自由)の精神的源流となった。
人は生まれながらにして生命・自由・財産の権利をもつ。政府はこの権利を守るために、被治者の同意によってのみ正統性をもつ。
05オーツの晩年、読書と祈りの日々
1691年以降、ロックは持病の喘息のためロンドンを離れ、エセックス州オーツのマシャム卿夫妻の邸宅に居を定めた。マシャム卿夫人ダマリスは、ロックの古い友人で哲学的対話の相手でもあった。彼女はケンブリッジ・プラトン派のラルフ・カドワースの娘で、女性の教育と理性についても自ら筆を執った。オーツの生活は隠棲ではあるが、知的には閉じていない。手紙、来客、版の改訂、政治任用の相談が、病身のロックをなお世間につないでいた。
書斎の窓から庭を眺め、子どもたちに聖書を読んで聞かせ、若いアイザック・ニュートンと錬金術と神学について書簡を交わす ― そんな静かな日々の中で、彼は新たな版の校訂や往復書簡を続けた。『教育に関する考察』(1693)では、紳士の子弟教育を論じ、暗記と体罰よりも習慣、健康、実用的判断、好奇心の扱いを重んじた。これは現代的な児童中心主義そのものではないが、子どもの心を一枚の板のように叩いて形にする教育から距離を置いた点で、『人間知性論』とつながっている。
『人間知性論』第2版(1694)には「」をめぐる重要な章(「記憶の連続によって人格は同一である」)が新たに加えられ、以降の版(1700年の第4版を含む)で練り上げられた。人が同じ人物であるとは、同じ魂の実体を持つことではなく、行為を自分のものとして意識しうる範囲で同一である、という議論である。責任、刑罰、復活をめぐる神学的問題とも絡むため、これは単なる心理学ではない。心の自己同定という後のロック的アイデアは、英米哲学の中核問題のひとつとなっていく。
晩年のロックは聖書学にも多くの時間を割いた。『キリスト教の合理性』(1695)では、キリスト教信仰の中心を、イエスをメシアと認める信に置き、教派ごとの形而上学的細目を救済の条件にしない。パウロ書簡注解にも取り組み、聖書を体系神学の材料としてではなく、文脈を持つ文書として読もうとした。寛容論、知性論、聖書学は別々の棚に置かれた仕事ではない。人間の理解力の限界を認め、その限界内で責任ある判断を求める姿勢が、最後まで続いている。
1704年10月28日午後、ダマリスの朗読する詩篇を聴きながら、彼は静かに息を引き取った。72歳。葬儀はハイ・レイヴァーの教会に。墓碑には自ら草した言葉が ― 「この石の下に眠る者は、自身の徳こそ語らせよ、と言い残した」。
06主要な出来事と著作
- サマセット州リングトン(Wrington)に誕生。父はピューリタンの小地主、議会派の騎兵大尉
- ウェストミンスター校に入学。1649年、校近隣でチャールズ1世処刑
- オックスフォード、クライスト・チャーチ。ロバート・ボイルと実験科学の交流
- アシュリー卿(後のシャフツベリー伯)と出会い、侍医兼秘書として政治の渦中へ
- 『統治二論』の草稿執筆開始。シャフツベリー失脚に連座しオランダへ亡命
- オランダ亡命。偽名で執筆継続。『寛容についての手紙』ラテン語草稿
- 名誉革命。ロック帰国
- 『統治二論』『人間知性論』『寛容についての手紙』をほぼ同時期に匿名で刊行
- 持病の喘息のためオーツのマシャム邸に居を定める
- 『人間知性論』第2版で「人格の同一性」の章を追加。以降の版で練り上げる
- 10月28日、オーツにて死去。享年72。ハイ・レイヴァーの教会墓地に埋葬
残した思想の輪郭
- 自然権 ― 人は生まれながらに生命・自由・財産(プロパティ)の権利をもつ
- 被治者の同意 ― 政府の正統性は自然権保障のための同意に由来する社会契約として成立する
- 抵抗権 ― 統治が信託に背いたとき、人民は政府を組み替える権利をもつ
- 白紙説(タブラ・ラサ) ― 心は生まれつき白紙であり、観念は経験と反省から生じる
- 寛容 ― 国家と教会は分離されるべきであり、良心の領域に権力は介入すべきでない
- 人格の同一性 ― 人格は実体ではなく、記憶の連続によって同定される
死後の影響は、政治の文書に強く現れた。アメリカ独立宣言の「生命、自由、幸福の追求」は、ロックの生命・自由・財産の語彙をそのまま移したものではないが、政府を権利保障のための信託とみなし、同意を失った政府に対する変更権を認める構造は明らかに近い。フランス啓蒙では、ヴォルテールや百科全書派がロックを、デカルト的生得観念に対する経験論の代表として読んだ。のちには財産権を重く置きすぎる思想家として批判され、植民地行政との関わりも問われる。ロックの読みは一枚ではない。自由主義の祖と呼ぶだけでは、彼が医学、検閲、亡命、神学、植民地政策の交差点にいた事実を見落とす。
出典と確認メモ
6件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 名誉革命直後の1689-90年、ロックが匿名で『統治二論』を世に出した頃の中核命題の要約。本人の原文は生命・自由・所有に関する節々に散在しており、この一文はそれらの趣旨を凝縮した形で伝わってきた。王の...
- 要旨訳二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 権力が無制限になった瞬間、それは専制である。主権者も法に従うのでなければ、すでに主権者ではない
一次資料を開くSecond Treatise Ch. XVIII Of Tyranny §199: 'Tyranny is the exercise of power bey...
- 引用本文一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 人は生まれながらにして生命・自由・財産の権利をもつ。政府はこの権利を守るために、被治者の同意によってのみ正統性をもつ。
一次資料を開くSecond Treatise §95 'no one can be put out of this Estate, and subjected to the ...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 人は生まれながらにして生命・自由・財産の権利をもつ
一次資料を開くSecond Treatise §6 'no one ought to harm another in his life, health, liberty, o...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 『統治二論』第二部(自然権論の趣旨を凝縮した表現)
一次資料を開く1690 edition の Two Treatises 全文 (public domain)。'TWO TREATISES OF GOVERNMENT' 表題...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 心はいわば、何の文字も書かれていない白い紙である ― あらゆる観念はそこに経験が書き込むのだ
一次資料を開くClarendon Edition of the Works of John Locke、Nidditch 校訂版 (Oxford UP, 1975)。Lock...
つながり
- ジョン・スチュアート・ミル
継承 — J. S. ミル『論理学体系』(1843)『自由論』(1859)『代議制統治論』(1861)は、ロック『人間知性論』(1689)『統治二論』(1689)の英国経験論と自由主義の19世紀的継承。ミルは父ジェームズ・ミル経由でベンサム功利主義を受け継ぐが、同時にロック的な個人の自由と多数者の圧制への警戒を組み込み、古典的自由主義を近代政治思想の中核へ引き上げた
- トマス・ジェファソン
先駆 — ロック『統治二論』(1689)第二論の自然権「生命・自由・財産(life, liberty, and estate/property)」を、ジェファソン起草のアメリカ独立宣言(1776)は「生命・自由・幸福の追求(Life, Liberty and the pursuit of Happiness)」として再定式化。統治の正統性が「被統治者の同意」にあるというロックの主張も独立宣言に直接引き継がれる
- ヴォルテール
伴走 — ヴォルテールは1726-29年の英国亡命中にロック『人間知性論』『統治二論』『寛容についての手紙』を熟読、帰仏後『哲学書簡(英国事情)』(1734)でロックを「人間精神の解剖者」として称賛してフランスに紹介。自身の『寛容論』(1763)ではロック『寛容についての手紙』(1689)の思想的援軍を得つつ、カラス事件を契機に大陸の宗教寛容論の旗手となった
- ホッブズ
対比 — ホッブズ『リヴァイアサン』(1651)の自然状態=戦争状態・絶対主権論に対し、ロック『統治二論』(1689)は自然状態を理性的な自然法のもとで平和的・相互尊重的な状態と捉え、政府は生命・自由・財産を守るためにのみ存在し、抵抗権を含む限定的主権論を主張。17世紀英国社会契約論の二大対立軸
- モンテスキュー
継承 — ロック『統治二論』(1689)後篇第12章の立法権・執行権・連合権の区別を出発点に、モンテスキューは『法の精神』(1748)第11編6章「英国の国制について」で立法・執行・司法の三権分立へと整序した。1729-31年の英国滞在で名誉革命体制と議会制を実地に観察し、ロックの抽象的な権力分割論を比較政体論として制度化した点で直系の継承
- ゲオルグ・イェリネック
継承 — Locke『統治二論』(1689)の自然権と政府目的論を、Jellinek は『主観的公権の体系』(1892初版/1905第2版)で独語圏 Rechtsstaat の「主観的公権 (subjektives öffentliches Recht)」として実定法構成に翻訳した。自然権が社会以前にあるのではなく、国家の自己制限の構造のなかで法的に保障される権利として再構成。Status 論(passiver/negativer/positiver/aktiver)による個人の対国家的地位の四類型化はその展開
- ハンス・ケルゼン
継承 — Locke『統治二論』(1689)の有限政府・権力分立論を、Kelsen は 1920 年オーストリア共和国憲法 (B-VG) の起草で集中型・専門裁判所方式の憲法裁判所 (Verfassungsgerichtshof) として 20 世紀的に実装した。世界初の集中型憲法裁判所制度。1921-1929 年に本人がその終身裁判官を務めた。理論家としての Locke と制度設計者としての Kelsen が立憲主義の系譜上で繋がる稀有な事例
さらに読むならFurther Reading
ジョン・ロックの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門完訳 統治二論
ジョン・ロック / 訳: 加藤節 / 岩波文庫
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ジョン・ロック / 訳: 大槻春彦 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ジョン・ロックが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 聖メアリー教会(ハイ・レイヴァー)墓所
エセックス, イギリス
ロックが晩年を過ごしたマシャム家領の教会、墓碑が残る
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ジョン・ロック」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "John Locke"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "John Locke"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "John Locke (1632—1704)"
Project GutenbergEnglishAn Essay Concerning Humane Understanding, Volume 1 — Project Gutenberg
『人間知性論』第 1 巻
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