ヴォルテール
無知と狂信を、 どう笑い飛ばすか?
寛容を武器にカトリック教会と戦った啓蒙の剣客
- 寛容
- カンディード
- エクラゼ・ランファム
時代の空気
アンシャン・レジーム後期の重い空気だ。ルイ十四世晩年の戦費とリージェンス期の放縦を経て、ルイ十五世治世はガリカン教会と王権、ジャンセニストとイエズス会の暗闘に揺れていた。1762年にイエズス会は追放され、パルルマンと王権の綱引きが続いた。検閲はバスティーユ投獄として日常に居座り、出版は焚書と亡命を伴う賭けだった。海峡の向こうの立憲君主と宗教的寛容、そしてニュートン、ロックの理性が眩しく見えた一方、リスボンの大地震と公開処刑の血は、ライプニッツ最善主義の薄さを露わにしていた。
01アルエ家のフランソワ=マリ
1694年11月21日、パリに生まれた。本名フランソワ=マリ・アルエ。父フランソワ・アルエは王室会計検査院に出入りする上位の公証人で、母マリー・マルグリット・ドマールはポワトゥーの小貴族の家系だった。母はフランソワ=マリが7歳のとき(1701)に世を去り、幼いアルエは厳格で実務家肌の父と気難しい兄アルマンの家に置き去りにされた気分で育った。兄は後にジャンセニスト寄りの敬虔な高等法院書記となり、機知と懐疑を糧に育つ弟と生涯うまくいかない。
10歳でイエズス会の名門コレージュ・ルイ=ル=グランに入学。ラテン文学、修辞学、悲劇朗唱、論争術 ― 後の論敵となるイエズス会から、彼は終生の文体の骨格を受け取っていた。父は法律家になることを望んだが、彼は詩作と郊外のサロンに夢中だった。鋭い風刺で名を上げ、「ヴォルテール」という筆名は1718年頃から用い始める ― 本名「Arouet le j(eune)」のアナグラムとも、母方の所領の名に由来するとも諸説がある。
02バスティーユと英国亡命
風刺は危険だった。1717年、摂政オルレアン公を風刺する匿名詩(姪との不適切な関係を示唆する『Puero regnante』ほか)が彼の作とされ、5月にバスティーユ監獄に投獄された。獄中は11ヶ月。光の入らない独房で悲劇『オイディプス』を書き継ぎ、釈放後の1718年11月に初演、45日連続上演の大成功を収めた。詩人・劇作家ヴォルテールの名声はここから始まった。
1726年初頭、社交界で貴族ロアン=シャボー騎士が「サン=ヴォルテールか、サン=アルエか、いずれにせよ筆名を持つ男」と公然と侮辱した。ヴォルテールは応酬したが、騎士は数日後、家来に彼を路上で殴打させた。フェンシングを学び決闘を申し込んだヴォルテールは、ロアン家の働きかけで再びバスティーユに収監され、わずか2週間後に英国への追放を条件に釈放された。法は身分と血統に従って曲がる ― 屈辱は彼のなかで原理に変わった。
1726年から約3年の英国滞在は決定的だった。亡命中のトーリー貴族ボーリングブルックの庇護を受け、若きアレグザンダー・ポープと交流し、1727年3月のニュートンの国葬に居合わせた ― 一介の市民学者が王のように葬られる光景は彼を貫いた。ロックの『人間知性論』に触れ、自由な出版文化と議会政治、そして異宗派の共存に驚嘆した。フランスの絶対王政とカトリック支配がいかに知的窒息を生んでいるかを、比較を通して痛感した。帰国後、この経験は『哲学書簡(英国書簡)』(1734)として結実する。フランス当局はこの書を発禁にし、公衆の前で焚書を命じた。ヴォルテールは再度の投獄を恐れて南フランスからロレーヌへと逃亡した。
03シャトレ夫人との十五年
1734年以降、ヴォルテールはロレーヌ地方シレーの城館に隠遁した。城の主は物理学者・数学者でもある侯爵夫人。夫シャトレ侯爵の公認のもと、エミリーとヴォルテールは恋人であり、かつ知的協働者だった。当時のフランス貴族社会では「夫公認の長期恋人(amant en titre)」は珍しい配置ではなく、二人はそれをほとんど学術上の共同経営にまで作り変えた。
シレーで二人は科学実験、ニュートン物理学、聖書批判、歴史叙述 ― と手を広げた。エミリーのニュートン『プリンキピア』フランス語訳と注解は、彼女の死後に出版され、18世紀フランス科学の金字塔となる。ヴォルテールは1738年に『ニュートン哲学要説(Éléments de la philosophie de Newton)』を刊行し、デカルト主義が支配的だった大陸にニュートン力学を本格的に紹介した。「私が公にしたのはエミリーの仕事の影に過ぎない」と、後に彼は何度も書いている。
1749年9月、エミリーは詩人サン=ランベールとの晩年の関係から妊娠し、出産後の産褥熱で42歳で急死した。ヴォルテールは慟哭した。「私は半身を失った。私という体の半分は彼女と共に葬られた」。彼は55歳、次の生き方を模索する時期に入っていた。
04フリードリヒ大王の宮廷、そして決裂
プロイセン王フリードリヒ2世(大王)は、若き皇太子時代からヴォルテールの崇拝者であり、即位前から数百通の書簡を交わしていた。1750年7月、ヴォルテールはポツダムのサンスーシ宮殿に迎えられ、年金1万8千ターラーを受ける哲学的な「帝王の友」として宮廷に住んだ。フランス語で語り、フランス語の韻文を共に磨く ― 啓蒙絶対君主の理想がここでだけは形を取って見えた。
しかし二人の知的距離は近すぎた。互いの辛辣さと虚栄心、フリードリヒの王としての気まぐれ、ヴォルテールのベルリン在住ユダヤ人銀行家との怪しい債券訴訟、宮廷数学者モーペルチュイへの匿名風刺パンフレット ― 摩擦は二年で耐えられない量に達した。1753年6月の帰国途上、ヴォルテールはフランクフルトでプロイセン当局に拘束された(フリードリヒから贈られた詩集を返却するためという口実だった)。1ヶ月以上の屈辱的な軟禁を経て解放された後、彼はフランスとプロイセンの双方から歓迎されない身で、新しい居場所を国境の上に探すことになった。
我々は互いに寛容であるべきだ。なぜなら我々はすべて脆く、矛盾し、変わりやすい存在だからだ。
05『カンディード』とリスボン大地震
1755年11月1日(諸聖人の日)、午前9時40分、リスボン大地震が発生した。教会で諸聖人ミサが捧げられている最中の崩落、続く津波、そして数日続いた大火 ― 死者は数万に上った。ライプニッツ派の楽観主義哲学者たちは「これもまた最善の秩序の一部」と説いていた。ヴォルテールは即座に詩篇『リスボン大震災に寄せる詩』を書き、「これが最善の世界なら、他の世界はどれほどか」と哀しげに問うた。
1759年1月、短編哲学小説『カンディード、あるいは楽観主義』を匿名で刊行。主人公カンディードは「すべては最善のために起こる」と教える楽天家パングロス博士とともに、戦争、地震、異端審問、奴隷制、宗教的虐殺、海賊、自然の残酷さ ― あらゆる災厄を経巡る。ヴォルテールはライプニッツの楽観論と、それを信仰する思想家たちへの痛烈な風刺をこの滑稽な旅物語に込めた。結末、生き残ったカンディードたちが辿り着くのは「我々の庭を耕さねばならない(il faut cultiver notre jardin)」という静かな結論。巨大な形而上学への対抗として、目の前の労働と共同体に専念することの倫理がそこにあった。書はパリ・ジュネーヴ・ローマで即座に発禁となり、半年で2万部以上が地下流通した。
06フェルネー ― 『卑劣なものを叩き潰せ』
1758年末、ヴォルテールはスイス国境近くのフランス領に土地を買い、城館を建てた。ジュネーヴ側にも別邸「レ・デリス」を構え、カトリック当局の手が伸びれば数時間で国境を越えられる地理を選んだ。以後20年、ここを拠点に彼は「フェルネーの総主教(le patriarche de Ferney)」と自称する交信の中心となった。王族、哲学者、亡命者、作家が訪れ、書簡は2万通以上が現存する。村に時計工場と絹工場を起こし、数百人の雇用を生んだ ― 庭を耕す倫理は文字通り実践された。
彼の戦闘の中心にあったのは、当時のカトリック教会と王権の宗教的不寛容だった。1762年3月、トゥールーズのプロテスタント商人ジャン・カラスが、息子マルク=アントワーヌの自殺を「カトリックに改宗するのを父が殺害して阻止した」との偽りの告発で逮捕され、車裂きの処刑を受けた。ヴォルテールはカラスの未亡人と次男を匿い、3年に及ぶ調査キャンペーンを展開し、1765年3月に国王顧問会議によるカラス判決の破棄と名誉回復を勝ち取った。同じ手法でシルヴェン事件(1764-1771、無実の宗教裁判)、1766年にアブヴィルで斬首・焚書されたラ・バール騎士の事件にも介入したが、ラ・バールは生前には救えなかった。この過程で書かれた(Traité sur la tolérance, 1763)と(1764)は、ヨーロッパにおける宗教的迫害への記念碑的批判となった。
(ディドロ、ダランベール)とは共闘した。多くの匿名項目を寄稿し、検閲との攻防を共にした。一方で、ディドロの唯物論や、より急進的な無神論には距離を置き ― ヴォルテールはあくまで(deism)の人だった ― 「神は社会の秩序のために必要だ。もし存在しなければ発明する必要がある」と書いた。書簡の合言葉は「Écrasez l'infâme(卑劣なものを叩き潰せ)」。「卑劣なもの」とは、狂信・迷信・宗教的不寛容そのものを指した。
ただし、彼の戦線は一様ではなかった。聖書批判の道具として用いられた『哲学辞典』「ユダヤ人」項などには、ユダヤ人共同体への嘲弄と本質主義的な蔑視がにじむ ― 彼自身がアムステルダムのユダヤ人銀行家との金銭訴訟で苦汁をなめた経歴も影を落とす。フェルネーの財政は植民地交易にも組み込まれた東インド会社株や公債で支えられ、奴隷貿易を伴う事業からの利得を批判しつつも完全に切り離せていなかった ― 自身の資産運用にカディスの奴隷貿易商人と組んだ記録も残る。寛容の代弁者の足元には、寛容ではない振舞いの記録が残されている。隠さずに併記しておくべき影だ。
なお、よく引用される「私はあなたの意見には反対だ、しかしあなたがそれを言う権利を命を賭けて守る」という名言は、20世紀初頭にエヴリン・ベアトリス・ホールが彼の態度を要約した言葉であり、ヴォルテール自身の原典は存在しない。
07パリへの凱旋と死
1778年2月10日、28年ぶりにパリへ戻った。83歳。馬車は群衆に止められ、人々は街路を埋め尽くして老哲人を凱旋将軍のように迎えた。アカデミー・フランセーズでの会見、自作の悲劇『イレーヌ』の初演でテアトル=フランセでの胸像戴冠、渡仏中のベンジャミン・フランクリンと孫を介して交わした「自由と寛容」の対面 ― 過密スケジュールが老体に堪えた。教会和解のための告解問答にも応じたが、最後まで「私はキリストを愛するが、それでもキリストの主張する神性は信じない」という態度を崩さなかった。
1778年5月30日、パリのヴィレット邸で息を引き取った。83歳。教会は教会葬を拒んだ。遺体は親族と友人の機転で、夜間、シャンパーニュ地方シェリエール修道院の教区墓地に密かに運び出され、教会埋葬の体裁で葬られた。フランス革命後の1791年7月、国民議会の決議により、彼の遺骸はパリのパンテオンに改葬された ― 棺を見送る行列にはルソーの遺骸も後年並ぶことになる。
08主要な出来事と著作
- パリに誕生。本名フランソワ=マリ・アルエ
- 母マリー死去(7歳)
- コレージュ・ルイ=ル=グラン(イエズス会)で古典教育
- 摂政風刺詩でバスティーユ監獄に11ヶ月投獄。獄中で『オイディプス』を執筆
- 『オイディプス』初演で大成功。「ヴォルテール」の筆名を用い始める
- ロアン騎士事件で再投獄、英国追放
- 英国亡命。ニュートンの国葬を目撃、ロックを読む
- 『哲学書簡(英国書簡)』刊行、当局により発禁・焚書
- シャトレ侯爵夫人と共にシレーの城館で研究生活
- 『ニュートン哲学要説』刊行
- シャトレ夫人、産褥熱で死去
- フリードリヒ2世の宮廷(ポツダム)。決裂後フランクフルトで拘束
- リスボン大地震。『リスボン大震災に寄せる詩』
- フェルネーに移住、城館を建てる
- 『カンディード』刊行、即座に各地で発禁
- カラス事件再審運動を主導、1765年に名誉回復
- フランスでイエズス会追放
- 『寛容論』刊行
- 『哲学辞典』刊行
- ラ・バール騎士事件、救援間に合わず
- 28年ぶりにパリ帰還。熱狂的歓迎の中、5月30日に死去。享年83。教会葬は拒否され田舎の教区墓地に密葬
- 革命後、遺骸がパンテオンに改葬
残した思想の輪郭
- 寛容(tolérance) ― 信仰の違いを理由に人を迫害しない社会の最低限の良識
- 自然神論(deism) ― 教会の啓示ではなく理性と自然の秩序から神を考える立場、無神論とは距離を取る
- 風刺と闘争の文体 ― 重い形而上学を軽やかに批判する武器としての笑い
- 「庭を耕す」倫理 ― 抽象的啓蒙や楽観論への対抗としての、具体的な労働と共同体の肯定
- 不寛容への反撃 ― カラス、シルヴェン、ラ・バール各事件に代表される司法的迫害への、法廷外の世論運動
- 影として残るもの ― 『哲学辞典』のユダヤ人項にみえる本質主義的な蔑視、植民地交易・奴隷貿易を伴う事業を含んだ資産運用 ― 寛容の代弁者でありながら、足元の不寛容を完全には抜け切れなかった人物として併記する
出典と確認メモ
6件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1906 年、英国の伝記作家エヴリン・ベアトリス・ホールが『The Friends of Voltaire』(1906) で、ヴォルテールがエルヴェシウスの『精神論 (De l'esprit)』(17...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: それは見事な言葉だ、とカンディードは答えた、しかし我々は我々の庭を耕さねばならぬ
一次資料を開くVoltaire Candide ou l'Optimisme 第 30 章 (最終章) 末尾。'Cela est bien dit, répondit Can...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 疑いは愉快な状態ではない、しかし確信は滑稽な状態である
一次資料を開くVoltaire 1770年11月28日付プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム宛書簡。原文 'Le doute n'est pas un état bie...
- 抜粋伝承として記録伝承
伝承: 私はあなたの意見には反対だ。しかしあなたがそれを言う権利を、命を賭けても守る
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 我々は互いに寛容であるべきだ。なぜなら我々はすべて脆く、矛盾し、変わりやすい存在だからだ。
一次資料を開くVoltaire Dictionnaire philosophique 'Tolérance' 項冒頭。'We are all formed of frailt...
- 出典伝承として記録伝承
伝承: voltaire.mdx pullsource '(エヴリン・ホールによる要約/ヴォルテール自身の言葉ではない)' は attribution として正確。Hall (1906 The Friends...
つながり
- ジョン・ロック
伴走 — ヴォルテールは1726-29年の英国亡命中にロック『人間知性論』『統治二論』『寛容についての手紙』を熟読、帰仏後『哲学書簡(英国事情)』(1734)でロックを「人間精神の解剖者」として称賛してフランスに紹介。自身の『寛容論』(1763)ではロック『寛容についての手紙』(1689)の思想的援軍を得つつ、カラス事件を契機に大陸の宗教寛容論の旗手となった
- ルソー
対比 — リスボン地震(1755)をめぐってヴォルテール『リスボンの災厄についての詩』(1756)が「摂理的楽観論」を揶揄、ルソーは『プロヴィダンスに関するヴォルテール氏への手紙』(1756)で応答し関係が悪化。『学問芸術論』(1750)以降ルソーが文明を退廃と見るのに対し、ヴォルテールは啓蒙と文明の進歩を信じる。二人は啓蒙内部の対極として書簡で痛烈に応酬を続けた
- モンテスキュー
同時代 — ともに啓蒙の二大著述家として往復書簡を交わしたが、評価は屈折した。ヴォルテールは『法の精神』を「すべての人がそれを知っているが、誰も読んでいない本」と『哲学辞典』(1764)「法律」の項で揶揄し、モンテスキューの気候風土論を還元主義として批判した。一方で英国憲政への憧憬と寛容の擁護では同じ陣営に立ち、両者の対立は啓蒙内部の方法論的な分岐を示す
さらに読むならFurther Reading
ヴォルテールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門カンディード 他五篇
ヴォルテール / 訳: 植田祐次 / 岩波文庫
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ヴォルテール / 訳: 林達夫 / 岩波文庫
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Voltaire / 訳: Theo Cuffe / Penguin Classics
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生きた跡を辿るPlaces
ヴォルテールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- フェルネー=ヴォルテール(ヴォルテール邸)住居
フェルネー=ヴォルテール, フランス
スイス国境近く、晩年 20 年を過ごした邸宅。フランス国立記念地
- パンテオン(ヴォルテールの墓)墓所
パリ, フランス
1791 年、革命政府により改葬されたヴォルテールの石棺。ルソーと向かい合う
さらに辿るならExternal References
ヴォルテールを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ヴォルテール」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Voltaire"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Voltaire"
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