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モンテスキュー

Montesquieu·1689–1755·フランス·

強すぎる力を、 だれが止めるのか?

権力を三つに分け、自由を守る設計を法に刻んだ啓蒙の男爵

  • 法の精神
  • 三権分立
  • 立憲君主制
「太陽王」ルイ十四世の長い時代が終わり、王の力に限りはあるのかと問う声が生まれ始めていた — ひらく

時代の空気

ルイ十四世の長い治世が黄昏に入り、リージェンス期の解放を経てルイ十五世の世が続く。ボルドー高等法院では法服貴族が王権に静かに抗い、サロンでは知性と機知が磨かれた。ジャンセニストとイエズス会が論争を続け、海の彼方ではアンティーユ諸島の砂糖と奴隷制が王国を富ませる。アンシャン・レジームの身分制は重く、君主と臣民のあいだに「中間団体」が層を成していた。海の向こう、英国名誉革命体制と立憲君主の運営は、知識人たちの羨望の的だった。

01売られた法院の椅子

1726年、ボルドー。ひとりの男が、自分の役職を売った。売ったのは、ボルドー高等法院の長の椅子である。高等法院は、王国の裁判をあずかる高い裁判所だった。その院を主宰する立場を、彼は手放した。

男の名はシャルル=ルイ・ド・スゴンダ。モンテスキュー男爵の称号を持つ、37歳の法服貴族(ほうふくきぞく)だった。法服貴族とは、裁判官などの役職によって貴族となった家柄をいう。その家にとって、法院の椅子は受け継いできた地位そのものだった。

法服貴族が職を売るのは、異例のことだった。だが本人には、はっきりした理由があった。彼には、書くべき本があったのである。

その本はやがて、王の力を分けて、たがいに見張らせる仕組みを世界に教えることになる。そして皮肉なことに、彼が売ったばかりの高等法院を、その仕組みの大切な柱として描く。なぜ、法院を守ろうとする男が、法院の椅子を売ったのか。答えを探すため、時は37年前に戻る。

02ラ・ブレード城の少年

1689年1月18日、ボルドー近郊ので、シャルル=ルイは生まれた。ラ・ブレード城は母方の家の城で、まわりをブドウ畑に囲まれていた。中世の堀をめぐらした石造りの城で、書斎は塔の中にあったという。父はガスコーニュの古い法服貴族の家柄だった。

少年はジュリー学院で古典を学び、ボルドーとパリで法学を修めた。1714年、25歳でボルドー高等法院の評議員になる。1716年、父と叔父が相次いで亡くなった。彼は男爵の位と、プレジダン・ア・モルティエ(法院部長判事)の職を継ぐ。27歳で、院を主宰する立場に就いたのである。

同じころ、(Académie de Bordeaux)にも加わった。学士院は、学問を語り合う学者たちの集まりである。彼はそこに小さな論文を寄せている。題材はエコー、潮の満ち引き、植物の根、地質。裁判官の仕事とは、まるで別の世界だった。

だが、法廷での日々は、彼の心に一つの問いを植えつけていた。同じ「罪」に、同じ「罰」が下されるとは限らない。国がちがえば、時代がちがえば、答えはちがう。なぜなのか。この問いが、のちに彼を遠くまで連れていく。

03ペルシア人の目で見たパリ

1721年、パリで一冊の本が評判になった。『』(Lettres persanes)である。作者の名前は書かれていなかった。ペルシアからフランスを訪れた二人の旅人、ウスベクとリカが、故郷へ手紙を送るという形の小説だった。

二人の目に、フランスは奇妙な国として映る。舞台はルイ十四世の晩年から、幼い王の代わりに摂政(せっしょう)が政治を行ったまで。宮廷、宗教、はやりの風俗。絶対王権も、王ひとりが思うままに支配する専制せんせいも、修道院も、銀行も、流行も、外国人のふりをした筆が笑いものにした。裏ではハーレムの物語が進み、読者はそこにも引き込まれた。これほど遠くまで矢を放つ風刺(ふうし)は、新しかった。

作者はすぐにモンテスキューだと知られた。彼はサロン、つまり貴族や知識人が集まる談話の場の人気者になった。1725年、に選ばれる。フランスの言葉と文学を守る、最も名誉ある学術院である。

そして翌1726年。彼は高等法院長職を売った。裁判官としての人生を、自分の手で閉じたのである。向かった先は、まず書斎ではなかった。外の世界だった。

04議会のある国へ

1728年、39歳のモンテスキューは旅に出た。ウィーン、ハンガリー、ヴェネツィア、ローマ、スイス、ドイツの諸邦、オランダ。ヨーロッパの国々を、三年かけてめぐる旅である。最後の行き先はイングランドだった。

ロンドンには1729年から1731年まで、18か月とどまった。政治家のボリングブルックやウォルポールと交わり、国王ジョージ二世の宮廷にも出入りした。に入会し、科学者たちの学会である王立協会にも選ばれた。そして議会を傍聴(ぼうちょう)した。

イングランドは、少し前にを経ていた。1688年、議会が王を代え、王の力に法のわくをはめた革命である。以来この国では、王ひとりの思いで何でも決まるわけではなかった。その政体せいたい、つまり国のかたちが実際にどう動いているのかを、彼は自分の目でつぶさに見た。

この18か月が、のちのの考えの、実地の源になる。フランスに帰った彼の手元には、見てきたものの山があった。それをどう、一冊の本に組み立てるか。

05ローマはなぜ滅びたか

1734年、45歳の彼は『』(Considérations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence)を世に出した。共和政ローマが大きくなり、やがて帝政のもとで腐っていった道筋を追う小さな本である。

当時、歴史は「運命」や「神のはからい」で説明されることが多かった。彼はそこから距離を取った。国のしくみと、市民の徳の変化。その内側の力で、ローマの上がり下がりを読み解こうとした。徳とは、ここでは自分より国を大切にする心のことである。

共和政が広がれば広がるほど、徳だけでは支えきれなくなる。この見方は、のちに共和政・君主政・専制を比べるの土台になった。本の筆は静かである。だがそこには、王の絶対的な力の足元を見直す視線が流れていた。

そこから彼は、一冊の本のために書き続けた。十四年ののち、ジュネーヴから、作者名のない本が世に出る。

06『法の精神』――十四年ののちに

1748年10月、『』(De l'esprit des lois)がジュネーヴで刊行された。作者の名はなかった。モンテスキューは59歳になっていた。構想から十数年、書くだけでも14年。全31巻の大著である。

本の心臓は二つある。一つは、国のかたちを三つに分けたことだ。共和政は「徳」に、君主政は「名誉」に、専制政は「恐怖」に支えられて立つ。どの政体にも、それを動かす固有のばね(principe)がある。そのばねが朽ちれば、政体も崩れる。

もう一つは権力分立である。法を作る力(立法)、国を動かす力(行政)、裁く力(司法)。この三つが同じ手に集まれば、自由は死ぬ。ロンドンで見たあの国のしくみを手本に、彼はこう書いた。

権力は権力によって抑止されなければならない。

— 『法の精神』第11編4章 ― 英国の政体を手本に、自由の条件を述べた一節

これは、権力をきれいに三つに切り分ける機械のような話ではない。たがいに見張り合う力が、自由のために動きながら釣り合いを保つ。そういう見立てである。彼が守ろうとしたのは、――法の守りの下で、だれかの気まぐれにおびえずに生きられる状態だった。

だが、この本は権力の話だけではなかった。法は、なぜ国ごとにちがうのか。ラ・ブレードの少年の問いが、ここでようやく答えられる。

07法を形づくるもの――気候・中間団体・奴隷制

彼は気候・地勢・宗教・商業・習俗が法と政体を形づくると論じた(théorie des climats、)。寒冷の地は活力と自由を、暑熱の地は怠惰と専制を生みやすい――この単純化は今日では科学的根拠を欠く粗い類型論として批判される。だが当時は、社会を全体として比較する方法論の試みであり、自然と政治を切り離さずに見る作業の助走でもあった。気候風土論は後年、ヴォルテールやエルヴェシウスから批判を受けることになる。

法の一般精神(esprit général)は、気候、風土、宗教、法律、統治の格率、過去の事例、習俗、風習の総体から形成される

— 『法の精神』第19編 ― 法を形づくる力をひとつずつ数え上げた一節

論(corps intermédiaires)は彼の保守的な顔である。君主政が専制へ堕さないためには、貴族・聖職者・高等法院・都市といった諸団体が王権と臣民のあいだに介在して、王権を緩衝しなければならない――法服貴族としての立場と、自由の擁護論が、ここで一つに溶けあった。1726年に法院の椅子を売った男が、ここでは高等法院を自由の担い手として擁護している。

奴隷制をめぐる論調はもつれている。第15編で彼は奴隷制の正当化論を一つひとつ皮肉な調子で並べ立て、その不合理を浮かび上がらせた。だが熱帯気候のもとでは奴隷労働なくして耕作が成り立たないとも書き、当時のアンティーユ諸島の砂糖プランテーション体制を結果的に容認する余地を残した。痛烈な批判と、植民地経済への譲歩――その二重さは現代の読み手には抵抗感を残す。第19編からは、ヴェネツィア共和国を貴族共和政の一例として参照しながら、政体ごとの自由の質を比較する筆致が続く。

書はソルボンヌとローマ教皇庁の双方から批判を受け、1751年に(Index Librorum Prohibitorum)に載った。ジャンセニスト陣営からも、イエズス会陣営からも攻撃された。それでも英仏圏の読者は熱狂した。アメリカ合衆国憲法の起草者たち――ハミルトン、マディソン、ジェイはこの書を繰り返し引き、『』にその痕跡を残した(ジェファソンも別途モンテスキューから強い影響を受けた)。

08見えなくなる目、書き続ける手

晩年、モンテスキューは目の衰えに苦しんだ。若いころからの近視に、長年の読書が重なり、目は限界を迎えていた。彼は秘書に本を読み上げさせ、口で述べて注釈を付けた。それでも書くことをやめなかった。

1755年2月10日、パリで熱病により死去した。おそらく肺炎性のインフルエンザだったといわれる。66歳。葬儀はひそやかに行われた。教会との関係は、最後まで微妙なままだった。残された草稿の多くは後世に整理され、『法の精神』の断片的な続編として公表される。

ここで、冒頭の問いに戻ろう。なぜ、法院を守ろうとする男が、法院の椅子を売ったのか。記録が語るのは一つだけである。彼には、書くべき本があった。そして書き上がった本の中で、彼は高等法院を、王の力を受け止める中間団体の一つとして描いた。椅子を離れた男が、椅子の意味を書いたのである。

フランス革命の起草者たちも、アメリカ独立の設計者たちも、彼の書を開いた。「自由とは、法の許すすべてのことを行う権利である」――革命の言葉に、ラ・ブレード城で熟成された思索が響いていた。

権力を止められるのは権力だけだ、と彼は書いた。では、その見張る力が暴走したとき、だれがそれを止めるのだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 1月18日、ボルドー近郊ラ・ブレード城館に誕生。法服貴族の家柄
  2. ボルドー高等法院評議員に任官
  3. 父・叔父没で男爵位とプレジダン・ア・モルティエの職を継承
  4. ボルドー学士院に加入、自然学・地質学にも関心を広げる
  5. 『ペルシア人の手紙』匿名刊行、パリで評判
  6. アカデミー・フランセーズに選出
  7. 高等法院長職を売却、研究と旅行へ
  8. ヨーロッパ歴訪。ウィーン・伊・独・蘭を経て英国に18ヶ月滞在
  9. 『ローマ人盛衰原因論』刊行
  10. 『法の精神』全31巻、ジュネーヴで匿名刊行
  11. ローマ教皇庁により禁書目録(Index)に収載
  12. 2月10日、パリで熱病により死去、66歳

残した思想の輪郭

  • 権力分立 ― 立法・行政・司法を分け、権力をもって権力を抑止する憲政の原理
  • 政体の三類型 ― 共和政=徳、君主政=名誉、専制政=恐怖という動因分析
  • 法の精神 ― 気候・風土・商業・宗教が法を条件づけるという社会学的視点(気候風土論は当時の比較社会論として位置づくが、現代から見ると単純化と決定論の弱点を残す)
  • 中間団体の擁護 ― 貴族・高等法院・都市が君主権を緩衝する自由の担い手
  • 商業の徳化作用 ― 通商が習俗を穏和にするという後の啓蒙経済論の源流
1755年2月、パリで熱病により死去、66歳。視力をほぼ失いながらの晩年だった。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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  • 入門法の精神 (上)

    モンテスキュー / 訳: 野田良之、稲本洋之助、上原行雄、田中治男、三辺博之、横田地弘 / 岩波文庫

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生きた跡を辿るPlaces

モンテスキューが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • シャトー・ド・ラ・ブレード生誕

    ラ・ブレード, フランス

    モンテスキューの生家兼終生の執筆拠点、中世風の水濠城

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