ゲオルグ・イェリネック
国は、神でも、力でも、約束でもないなら、何でできているのか。 そして国は、自分で自分を縛ることができるのか。
国家を「自らが定立した法に自らを縛れる法的人格」として描き直した、独語圏国家学の体系家
- 国家学
- 主観的公権
- Selbstbindung
- 法治国家
- Rechtsstaat
帝国が法で国を治めると言い始めながら、生まれで大学の門が閉ざされもした時代 — ひらく
時代の空気
1900 年前後の独語圏には、Gerber、Laband、Jellinek が築いた国家学派があり、 ハイデルベルクには Weber、Troeltsch、Windelband が同時にいた。 ハプスブルク帝国の自由主義改革のなかでウィーンに育った同化ユダヤ知識人は、 バーゼルとハイデルベルクで正教授職を得るために移動を余儀なくされながら、 19 世紀末ヨーロッパの法治国家を理論として書き切った。 彼が没した 1911 年は、第一次世界大戦の三年前である。
01ウィーンを去る
1889年。ゲオルグ・イェリネックは、育った町ウィーンを離れた。行き先はスイスのバーゼルである。四十歳を前にした、法学者の引っ越しだった。
彼はウィーンの首席ラビの息子だった。ラビとは、ユダヤ教の宗教指導者のことだ。首席は、そのいちばん上の人である。父はウィーンのユダヤ社会を代表する人物だった。その息子は、この町の大学で正教授になれなかった。理由は、ユダヤ系だったからである(NDB)。
正教授とは、大学で自分の講座を持つ、いちばん上の先生のことだ。イェリネックはその席を、ウィーンでは得られなかった。だからバーゼルへ行った。二年後の1891年、ドイツのハイデルベルクで、初めて教授の椅子を手にする。
ここで、ひとつ奇妙なことがある。この人が生涯かけて書いたのは、「法治国家」の理論だった。法治国家とは、力ではなく法で治められる国のことだ。その国は、自分で作った法に、自分で縛られる。そう彼は書いた。
自分に門を閉ざした国の大学制度のなかで、なぜ彼はそんな理論を書いたのか。国が自分を縛るとは、そもそもどういうことか。時は38年前、1851年に戻る。
02首席ラビの息子
1851年、ドイツのライプツィヒに生まれた。育ったのはウィーンである。当時のウィーンは、ハプスブルク帝国の都だった。帝国は、自由主義の改革を進めている最中だった。
自由主義とは、一人ひとりの自由を国が守るべきだ、という考え方である。この改革のなかで、ユダヤ人にも市民としての権利が認められていった。イェリネックは、その世代の同化ユダヤ知識人として育つ。同化とは、その国の言葉と文化のなかで生きることだ。
だから彼にとって、ある問いは机の上だけの問いではなかった。「国家に対して、私は法的に何者か」。国から見て、自分はどんな立場の人間なのか。権利を持つ市民なのか。それとも、いつでも門を閉ざされうる客なのか。
同じ時代のドイツ語圏のユダヤ系学者の多くが、同じ問いを抱えていた。イェリネックは法学者になった。そして、この問いを一人の不満としてではなく、国家の理論として考えようとする。
では、そもそも国家とは何なのか。彼の時代には、すでに三つの答えが用意されていた。
03三つの答えと、第三の道
一つ目は神権説。国家は神の摂理、つまり神の計画によってあるという考えだ。二つ目は暴力説。国家は征服の事実、つまり力で勝った者が作ったのだという考えである。三つ目は社会契約説。思想家ルソー以降に広まった考えである。国家は一人ひとりの意思が集まってできる、とする。
イェリネックは、このどれにもつかなかった。しかし、どれも単純には否定しない。三つの答えの、もう一段下の層を掘ろうとした。彼が引こうとしたのは、第三の道である。
その足場は、すでにあった。19世紀末のドイツ語圏には、国家学派と呼ばれる学者の流れがあった。中心は三人である。Carl Friedrich von Gerber は、私法の考え方を国家論に持ち込む。私法とは、個人と個人の間の法のことだ。Paul は、ビスマルク憲法の条文を読み解く学問を完成させた。Otto von Gierke は、国家を団体として歴史からたどった。
イェリネックは、この流れの正統な後継者として現れる。ただし彼は Laband とは少し違う道をとった。条文の論理だけでは国家は描けない。国家は、法であると同時に、人間の集まりという事実でもある。両方の面から同じ国家を見る。彼はこれを「両面的方法」と呼んだ。
その方法を、彼はまず個人の権利の側から試す。舞台はウィーンではなく、ハイデルベルクだった。
04国家は、自分の法にだけ縛られる
1889年にバーゼルへ、1891年にハイデルベルクへ。四十歳ごろ、ようやく教授の椅子を得た彼は、翌1892年に一冊の本を出す。『主観的公権の体系』である。主観的公権とは、個人が国に対して持つ権利のことだ。
この本で彼は、国家と法の関係を、一つの短い文にまとめた。
国家は、自らが定立する法によってのみ拘束されうる。
定立とは、法を作って立てること。拘束とは、縛ること。つまり国家を縛れるのは、国家が自分で作った法だけだ、という意味である。これが「」と呼ばれる考えの核心だ。
一見すると、これは国家に甘い話に聞こえる。外からは誰も縛れない、と言っているのだから。神の意思も、自然の法も、人々の契約も、国家を縛る根拠にはならない。
しかし、もう一つの面がある。国家は法の外にいるのではない。自分で作った法のなかに、自分も入る。王が法の上に立つのではなく、国家が自分の法の下に立つ。だから個人は、その法を根拠に、国家に向かって「これは私の権利だ」と言える。
外からは縛れないのに、自分では縛られる。この不思議な仕組みは、歴史のどこから来たのか。次に彼は、その問いに向かう。
05人権宣言はどこから来たか
1895年、を出す。題材は、1789年のフランス人権宣言である。フランス革命のときに出された、人は生まれながらに自由で平等だと宣言した文書だ。
当時の常識では、この宣言の源はルソーの(1762年)だった。ルソーは、人民の意志がひとつになった「」こそが国家の土台だと説いた。人民が国家を作る。その物語の、いちばん有名な本である。
イェリネックはこれを正面から否定した。宣言の源はルソーではない。アメリカにある。1776年の、そして同じ年のヴァージニア権利章典である。さらにその先には、宗教改革の時代に生まれた「良心の自由」があった。何を信じるかを、国に決めさせない。その自由が、やがて政治の権利へ流れ込んだ、というのである。
この主張は、フランスの学者エミール・ブトミーとの論争を引き起こした。ブトミー・イェリネック論争と呼ばれる。
ここで彼が立てた問いの形に注目したい。「人民が国家を作る」物語ではない。国家が自分を縛る仕組みは、歴史のどこから来たのか、である。三年前の自己拘束の問いが、ここでは歴史の側から問われている。
論理の側と、歴史の側。二つの側から掘り進めた道は、五年後、一冊の大きな本に集まっていく。
06『一般国家学』——国家とは何か
1900年、の初版が出る。国家とは何かを、まるごと一冊で描き切った本である。その第2部に、彼の答えのいちばん短い形がある。
国家とは、根源的な支配権を備え、定住する人間の結合体である。
順番に読んでみる。まず「定住する人間の結合体」。ある土地に住みつき、まとまって暮らす人々の集まりである。これは目に見える事実だ。次に「根源的な支配権」。ほかの誰かから借りたのではない、自分の力で治める権利。これは法の側の性質である。
神の代理でもなく、力の事実でもない。まず人の集まりという事実を見て、そこに法の性質を重ねる。「国家は、社会的事実であると同時に、法的関係でもある」。両面的方法が、ここで国家の定義そのものになった。
同じ本で、彼は国家を作る要素を三つに分けた。「国家を構成する要素は三つである。国民、領土、そして国家権力である」。と呼ばれる。この整理は、その後の教科書の常識になった。ただし彼の言う国民は、血や民族ではない。国家との法の関係で捉えた、人の集まりである。
そして三つの要素の上に、もう一つ大事な性質を置く。主権である。「主権とは、国家権力が、もっぱら法的に自らを規定しうる、その性質である」。外の誰かにではなく、自分で自分を法で決められる力。『主観的公権の体系』の自己拘束と、『一般国家学』の主権。二つが同じ形をしていることが、ここで見えてくる。
この本が書かれたハイデルベルクには、仲間がいた。社会学者のマックス・ウェーバー。哲学者のヴィルヘルム・ヴィンデルバント。神学者のエルンスト・トレルチ。彼らの集まりはと呼ばれた。法学、社会学、歴史、神学が互いを磨き合う場だった。ウェーバーの妻マリアンネが、その様子を断片的に書き残している。
彼はこの本を、生きているあいだに二度、世に出した。三度目の版を、彼は見ていない。
071914年、子の手で
1911年、イェリネックはハイデルベルクで没した。59年の生涯だった。三年後の1914年、『一般国家学』の第3版が出る。補ったのは、子のヴァルター・イェリネックである。その年、第一次世界大戦が始まった。彼が国家を問うた場所に、戦争のヨーロッパが立っていた。
ここで、冒頭の1889年に戻る。大学の門を閉ざされた人が、なぜ「国は自分の法に縛られる」と書いたのか。
答えは彼自身の言葉のなかにある、と言いたくなる。『一般国家学』には「事実が持つ規範的な力」という有名な定式がある。ある事実が繰り返されるうちに、それが「そうあるべきもの」として人を縛るようになる、という考えだ。差別が繰り返されれば、それも当たり前になる。逆に、権利が繰り返し守られれば、それも当たり前になる。彼自身の体験と、この定式が無関係だったとは想像しにくい。
しかし、ここで立ち止まる必要がある。イェリネック本人が、この定式と自分の体験を結びつけて書いた文章。それは、いま確認できる範囲では限られている。だから、この記事も、二つを直接の原因と結果としては結ばない。事実と定式が、同じ地層にある。そこまでを示すに留める。
彼の没後、「国家は、自らが定立する法によってのみ拘束されうる」というこの一文は二つの方向に引き裂かれる。ハンス・ケルゼンは、人間の事実の面を切り捨てた。法の体系だけで国家を描く道である。Carl は逆の道へ進んだ。非常のときには、決断が法を突き破る、という道である。二人とも、彼の死後に主著を書いた。イェリネックは、どちらも見ていない。
自分に門を閉ざした制度のなかで、自分を縛る国家の理論を書く。それは国家への信頼だったのか、国家への要求だったのか。それとも、事実を規範に変えようとする、静かな試みだったのか。
08思想の骨格——両面的方法・三要素説・国家の自己拘束
両面的方法と国家学派の位置
19 世紀末の独語圏国家学派 (deutsche Staatsrechtslehre) は、Carl Friedrich von Gerber、Paul Laband、Otto von Gierke を主要な担い手として既にあった。Gerber は私法概念を国家論に持ち込み、Laband はビスマルク憲法体制の実定法的解釈学を完成させ、Gierke は団体 (Genossenschaft) としての国家を歴史的に基礎づけた。Jellinek はこの系譜の正統な継承者として登場する。
ただし彼の位置は、Laband 流の純粋に実定法的・形式論理的な方法とは少し違っている。彼は「両面的方法」(zweiseitige Methode) を導入することで、法学的概念分析だけでなく、国家を社会的事実として記述する社会学的次元を国家学のなかに引き戻した。「国家は、社会的事実であると同時に、法的関係でもある」(『一般国家学』第 2 版 1905 / 第 3 版 1914、方法論章)。その背景には、当時のハイデルベルクで彼の周囲にいた知的同伴者たちの影響がある。Max Weber、Wilhelm Windelband、Ernst Troeltsch。彼らが集まる学際的サロン Eranos-Kreis (エラノス・サークル) は、1900 年代ハイデルベルクで法学・社会学・歴史哲学・神学が相互に磨き合う場所だった(Marianne Weber『Max Weber: Ein Lebensbild』に断片的記録)。Jellinek の両面的方法と、Weber の理念型・Troeltsch の宗教社会学は、相互に磨かれた。
『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre, 1900 初版 / 1914 第 3 版、子 Walter Jellinek 補訂)で立てた問いは、彼の同時代に既に複数の答えが用意されていた問いの、もう一段下の層にあった。神権説は神の摂理に答えを置き、暴力説 (Gewalttheorie) は征服の事実に答えを置き、Rousseau 以降の社会契約説は個々の意思の合算に答えを置いていた。彼はそのいずれにも与せず、しかしそのいずれをも単純に否定もしない第三の道を引こうとした。その最も簡潔な定式が「国家とは、根源的な支配権を備え、定住する人間の結合体である」("Der Staat ist die mit ursprünglicher Herrschermacht ausgerüstete Verbandseinheit seßhafter Menschen.")(『一般国家学』第 2 版 1905 / 第 3 版 1914、国家の社会学的概念の定義箇所、両版で同位置)である。国家を神の代理でも力の事実でもなく、まず「定住する人間の結合体」という社会的事実から見ること、そしてそこに「根源的な支配権」という法的属性を重ねて見ること。
そして彼自身が、ユダヤ系であることを理由にウィーンで正教授職を得られず、1889 年バーゼル、1891 年ハイデルベルクへ移って初めて教授椅子を得た(NDB)。Rechtsstaat (法治国家) の理論を体系的に書いた一人が、その Rechtsstaat のなかで学術制度の差別を被っていたという事実は、彼の方法論を読むときに伏在しつづける文脈である。「国家に対して、私は法的に何者か」という問いは、彼の同時代の独語圏ユダヤ系学者にとって、机上の問いとしてのみで済む問いではなかった文脈で書かれている。
「事実が持つ規範的な力」("Die normative Kraft des Faktischen")(『一般国家学』第 2 版 1905 / 第 3 版 1914、社会学的考察章周辺)。事実が反復されるうちに規範的拘束力を獲得していくという定式が、彼自身の身体的経験と無関係であったとは想像しにくいが、Jellinek 本人が自伝的にこの定式と自身の経験を結びつけて書いた発言は、現在確認できる範囲では限定的である。当時の独語圏ユダヤ系学者の反復的経験との重なりは指摘できるが、ここで両者を直接の因果として結ぶのは過剰であり、本 entry では事実と定式が同じ地層に存在することを示すに留める。
国家の三要素 — Staatsvolk / Staatsgebiet / Staatsgewalt
『一般国家学』第 2 部で、彼は国家を構成する要素を三つに整理する。「国家を構成する要素は三つである。国民、領土、そして国家権力である」(独語圏で広く流通する Drei-Elemente-Lehre の定式表現として "Drei Elemente bilden den Staat: das Staatsvolk, das Staatsgebiet, die Staatsgewalt." がある)(『一般国家学』第 2 版 1905 / 第 3 版 1914、Drei-Elemente-Lehre 提示箇所)。
この定式は、20 世紀以降の国際法・憲法学の標準的国家概念となり、学校教科書のレベルまで普及した。普及の度合いが大きすぎるために、Jellinek 本人のテキストへ戻すと、その意外な慎重さが見えにくくなっている。
彼の三要素説は、国民を血統や民族として定義しているのではない。Staatsvolk は、国家との法的関係において捉えられた人の集合である。領土も、自然地理的な土地そのものではなく、国家権力の空間的妥当範囲として捉えられる。国家権力 (Staatsgewalt) は、暴力装置の事実ではなく、法的に組織化された支配能力として記述される。三要素は社会的事実の側面を持ちつつ、最終的にはすべて法的関係の側で定義される。両面的方法は、ここでも貫かれている。
そして三要素は、彼にとって国家の定義のすべてではない。三要素を備えた集団が国家であるためには、もう一つ決定的な性質が必要である。それが主権 (Souveränität) であり、より正確には主権の自己関係的構造である。
「主権とは、国家権力が、もっぱら法的に自らを規定しうる、その性質である」("Die Souveränität ist die Eigenschaft einer Staatsgewalt, kraft welcher sie ausschließlich rechtlich sich selbst zu bestimmen vermag.")(『一般国家学』第 2 版 1905 / 第 3 版 1914、Souveränitätslehre 章周辺)。主権は、外部の何かによってではなく、自分自身を法的に規定できる能力として定義される。Hobbes の Leviathan のように単一意思の絶対性として、ではない。Rousseau の一般意志のように人民の意志の合算として、でもない。自分が自分にとって法の出所であり、しかもその法に自分が縛られる、という再帰的な構造そのものとして。
Selbstbindung — 主権者が自分を縛るという逆説
この再帰的構造を、彼は『主観的公権の体系』(System der subjektiven öffentlichen Rechte, 1892 初版 / 1905 第 2 版)で、もう一段はっきりした言葉で定式化する。「国家は、自らが定立する法によってのみ拘束されうる」("Der Staat kann nur durch das Recht, das er selbst setzt, gebunden werden.")(『主観的公権の体系』第 2 版 1905、第 3 章、Selbstverpflichtung des Staates 節、Internet Archive B080124bis で章節確認)。
これが Selbstbindung des Staates(国家の自己拘束)と呼ばれる教説の核心である。Jellinek にとって、主権者は外部の自然法によっても、神の意思によっても、社会契約によっても、構造的に拘束されない。それは絶対的な無制約を意味するのではなく、拘束の根拠が外部にないという意味である。主権者を縛りうるのは、主権者が自分自身で定立した法だけである。
この一見すると無防備な定式は、二つの方向に同時に動く。一方では、外部の自然法的拘束を否定するという意味で、Hobbes 以降の世俗的主権論を引き継いでいる。他方では、主権者が法の外にいるのではなく、自分が定立した法のなかに自分自身を組み入れる、という意味で、論からの離脱でもある。彼が第三の道と呼びうるのは、この双方向的な動きのためである。
「主観的公権とは、個人が客観的法規範を根拠として国家に対して持つ力である」("Das subjektive öffentliche Recht ist die Macht, die der Einzelne kraft objektiver Rechtsnorm dem Staat gegenüber besitzt.")(『主観的公権の体系』第 2 版 1905、第 1 章)。Selbstbindung が成立するからこそ、個人は国家に対して、自然権でも歴史的特権でもない、実定法上の構成としての権利を主張しうる。Status 論(passiver / negativer / positiver / aktiver Status)による個人の対国家的地位の四類型化は、この Selbstbindung の構造を、個人の側から見たときの裏面である。
この議論は、後世の Kelsen と Schmitt によって、それぞれの方向で批判的に引き受けられた(両者とも彼の没後に主著を書いた)。Kelsen は『一般国家学』(1925)と『純粋法学』(1934 / 1960)で、Jellinek の社会学的次元を方法論的に切り捨て、Selbstbindung を規範体系の自己関係(Stufenbau と Grundnorm)へ純化していく。Schmitt は逆に、Selbstbindung そのものを例外状態と決断によって突き破る方向へ進む(『政治神学』1922、『憲法の番人』1931)。これは後世受容としての分岐であり、Jellinek 自身が分岐点として書いたわけではない。
注意すべきは、Selbstbindung を現代の素朴な「法の支配」言説や「立憲主義」スローガンに翻訳しないことである。彼の定式は、国家が自分の法に自分を縛るという、論理的にやや奇妙な再帰性を中心に据えている。それは法の支配という結論を導くための便利な道具ではなく、その結論の哲学的根拠そのものを問い直そうとする方法的選択だった。
Selbstbindung の歴史的水脈 — もう一つの著作からの補助線
Selbstbindung の議論は、彼の別の著作『人権宣言の起源』(Die Erklärung der Menschen- und Bürgerrechte, 1895 初版)から、間接的な補助線が引ける。彼はそこで、1789 年フランス人権宣言の歴史的起源を Rousseau の社会契約論ではなく、米独立宣言、さらにヴァージニア権利章典 (1776) やその先の宗教改革期における宗教的良心の自由に遡らせた(この主張は同年代に Émile Boutmy との Boutmy-Jellinek 論争を引き起こすが、論争自体の精査はここでは扱わない)。
文脈として重要なのは、この歴史的探求のなかで彼が立てた問いの形である。それは Rousseau 流の「人民が国家を作る」物語ではなく、国家が自分を縛りうる仕組みは歴史的にどこから来たのか、という問いだった。Selbstbindung の理論的可能性は、彼の見立てでは、宗教改革期の良心の自由が世俗的政治権利へ流れ込んでいく歴史的水脈と、構造的に呼応する。
ただし、彼の歴史的主張(仏宣言の起源は米国にあり、宗教的良心の自由に遡る)を、彼の主権論(Selbstbindung)を直接根拠づけるものとして読みすぎるのは慎重を要する。彼自身は『人権宣言の起源』で歴史的系譜を、『一般国家学』で主権論を、別の問いとして書いている。両者が彼の頭のなかで通じていた可能性を示すに留め、一つの体系の二側面として描かない。第三の道は、歴史と論理の双方から構築されていたが、両者は同じ高さで一つの議論にまとめられているのではない。
関係性
Jellinek を誰の隣に置くかは、彼の体系を歪めずに紹介するための難しい部分である。彼自身が引用した先行者と、彼を引用した後継者を、同じ平面で混ぜないことが大切である。
Hobbes(批判的継承)。Hobbes の絶対主権論(『』1651、一個の人格 (one person) としての sovereign)を、Jellinek は出発点として共有する。世俗的・脱神学的な主権概念であること。だが彼は主権を絶対的な無制約ではなく、「自己制限可能な法的能力」へと再定式化する。Selbstbindung は Hobbes 的絶対主権の継承であり、同時にそれからの離脱である。
Locke(系譜)。Locke の自然権と政府目的論(『』1689)を、Jellinek は独語圏 Rechtsstaat の「主観的公権」として実定法構成に翻訳した。自然権が社会以前にあるのではなく、国家の自己制限の構造のなかで法的に保障される権利として再構成される。
Rousseau(対立)。Rousseau の一般意志論(『社会契約論』1762)を、Jellinek は『人権宣言の起源』で正面から否定する。1789 年宣言の起源は Rousseau ではなく米国の Bills of Rights であり、さらに宗教改革期の宗教的良心の自由にあるとする。これは人権の起源をめぐる中核的対立であり、本 entry の文脈では「主権の根拠を一般意志に置かない」という形で間接的に響く。
Kant(継承)。Kant の法治国家(Rechtsstaat)論と「人格としての法的主体」(『道徳の形而上学』1797)を、Jellinek は 19 世紀末の国家学体系へ受け継ぐ。Selbstbindung を、Kant の自律(Autonomie)概念を国家論的に応用したものとして読む解釈は、20 世紀の Jellinek 受容(主に Kelsen 経由)で広く流通する読みであり、Jellinek 本人がどの程度 Kant に直接遡って自覚していたかは独語圏の二次研究で見解が分かれる。Jellinek 本人は Kant 直接の注解者ではなく、19 世紀独語圏のカント受容(新カント派 Hermann Cohen らへの接続)を経由している。
Montesquieu(方法的継承)。Montesquieu の比較法・比較制度論(『』1748)の伝統を、Jellinek は独語圏 Staatsrechtslehre として継承する。『人権宣言の起源』の比較憲法史アプローチに最も近い先行者。直接の影響線というより、比較制度論の系譜の上にある。
これらの隣人たちの先に、彼自身の後継として、Max Weber、Hans Kelsen、Carl Schmitt が立つ。Weber は Eranos-Kreis での同僚として両面的方法を社会学的に発展させ、Kelsen は Selbstbindung を規範体系へ純化し、Schmitt は逆にそれを例外状態によって破壊する。Jellinek 自身は彼らを語らなかった(Weber 以外は彼の没後に主著を書いた)が、彼の第三の道は、20 世紀法哲学の三方向への分岐点として読み直されている。
彼は誰かの先駆である前に、19 世紀末ハイデルベルクで、自分の時代の国家を、自分の語彙で描き切った人だった。では、いまあなたが暮らす国家は、自分で作った法に、自分を縛っているだろうか。
主要作品の年表をひらく
主要作品Works Timeline
- 1882Die Lehre von den Staatenverbindungen(国家連合論)著書(Wien: Alfred Hölder)ウィーン期主著、連合国家・連邦概念の体系的分析
- 1887Gesetz und Verordnung(法律と命令)著書(Freiburg: J.C.B. Mohr)法律と命令の区別をめぐる実定法体系論、後の国家学への準備
- 1892System der subjektiven öffentlichen Rechte(主観的公権の体系)初版著書(Freiburg: J.C.B. Mohr)「国家は自らが定立する法によってのみ拘束されうる」(Selbstbindung)定式と Status 論
- 1895Die Erklärung der Menschen- und Bürgerrechte(人権宣言の起源)初版著書(Leipzig: Duncker & Humblot)1789 年仏宣言の起源を米独立宣言・宗教改革期に遡らせる、Boutmy 論争の発端
- 1900Allgemeine Staatslehre(一般国家学)初版著書(Berlin: O. Häring)主著。三要素説 (Drei-Elemente-Lehre)、Selbstbindung、両面的方法、normative Kraft des Faktischen
つながり
- ホッブズ
先駆 — 絶対主権を「自らを縛れる主権」へ書き換えるために、まず出発点として共有された『リヴァイアサン』の人。
- ジョン・ロック
先駆 — 自然権を「国家の自己制限の中で保障される権利」へ翻訳する——その原文を書いた人。
- ルソー
反発 — 人権宣言の起源はルソーではない——そう正面から否定され、国際論争の火種になった一般意志の思想家。
- カント
先駆 — 国家が自らを縛る——その発想の遠い源流と読まれてきた、自律の哲学者。
- モンテスキュー
先駆 — 米仏の人権宣言を比べる方法は、この人の比較制度論の系譜の上にある。『法の精神』の書き手。
- ハンス・ケルゼン
批判的継承 — 招聘講演で学者の道へ入り、『一般国家学』に正面から対決するテキストを書いた後継者。
さらに辿るならExternal References
ゲオルグ・イェリネックを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ゲオルク・イェリネック」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Georg Jellinek"
WikipediaDeutschWikipedia Deutsch — "Georg Jellinek"
Internet ArchiveDeutschAllgemeine Staatslehre 第 3 版 1914(子 Walter Jellinek 補訂版)— Internet Archive
主著。三要素説 / Selbstbindung / 両面的方法
Internet ArchiveDeutschSystem der subjektiven öffentlichen Rechte 第 2 版 1905 — Internet Archive
主観的公権の体系、本人最終版
Internet ArchiveDeutschDie Erklärung der Menschen- und Bürgerrechte 初版 1895 — Internet Archive
人権宣言の起源、Boutmy 論争の出発点
出典 Citations
- 著書
Jellinek 主著。三要素説、Selbstbindung、両面的方法、normative Kraft des Faktischen の体系的展開。第 2 版 1905 が本人最終版、第 3 版は子による補訂を含む。
Georg Jellinek『Allgemeine Staatslehre』(Berlin: O. Häring) 第 3 版 1914 (Walter Jellinek 補訂), 1914 ▸
- 著書
主観的公権の体系。「国家は自らが定立する法によってのみ拘束されうる」(Selbstverpflichtung des Staates)定式と Status 論(passiver/negativer/positiver/aktiver)を提示。
Georg Jellinek『System der subjektiven öffentlichen Rechte』第 2 版 1905, 1905 ▸
- 著書
1789 年フランス人権宣言の歴史的起源論。Rousseau ではなく米独立宣言・ヴァージニア権利章典・宗教改革期の良心の自由に遡る系譜を提示し、Émile Boutmy との論争を引き起こす。
Georg Jellinek『Die Erklärung der Menschen- und Bürgerrechte』初版 1895, 1895 ▸
- アーカイブ
生涯と業績の日本語要約。三要素説の標準的説明と日本国憲法学への影響(美濃部達吉経由)。
Wikipedia 日本語版「ゲオルク・イェリネック」項, 2026 ▸
- 著書
ハイデルベルク赴任以前のウィーン期主著。法律と命令の区別をめぐる実定法体系論。後の『一般国家学』への準備作。
Georg Jellinek『Gesetz und Verordnung』(Freiburg: J.C.B. Mohr) 1887, 1887 ▸