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ハンス・ケルゼン

Hans Kelsen·1881–1973·オーストリア・米国·

法は、神でも、自然でも、力でもなく、何によって妥当するのか。 そして、その妥当の連鎖は、どこを出発点にして始まるのか。

法を道徳・政治・社会学から方法的に切り離し、規範のヒエラルキーと根本規範によって描いた、20 世紀法哲学の体系家

  • 純粋法学
  • Grundnorm
  • Stufenbau
  • 法実証主義
  • 相対主義的議会主義

主要作品Works Timeline

  1. 1911
    Hauptprobleme der Staatsrechtslehre(国家法学の主要問題)著書(Tübingen: J.C.B. Mohr)
    Habilitationsschrift。Jellinek『一般国家学』に直接対決する純粋法学の理論的骨格
  2. 1920
    Vom Wesen und Wert der Demokratie(民主主義の本質と価値)初版著書(Tübingen: J.C.B. Mohr)
    相対主義的議会主義の擁護。Schmitt 決断主義との対立軸を提示
  3. 1922
    Die Bundesverfassung vom 1. Oktober 1920(オーストリア連邦憲法注解)著書(Wien: Deuticke)
    世界初の集中型憲法裁判所を組み込んだ B-VG の起草者本人による注解
  4. 1925
    Allgemeine Staatslehre(一般国家学)著書(Berlin: J. Springer)
    Jellinek 社会学的国家論への方法的解体。「国家=法秩序の人格化」定式
  5. 1934
    Reine Rechtslehre(純粋法学)初版著書(Wien: Franz Deuticke)
    主著。Sein/Sollen 峻別、Stufenbau、Grundnorm の体系化。罷免翌年の刊行
  6. 1945
    General Theory of Law and State著書(Cambridge MA: Harvard UP)
    英語圏向け体系書。亡命後の英語移行期の主著、Anders Wedberg 訳
  7. 1960
    Reine Rechtslehre 第 2 版著書(Wien: Franz Deuticke)
    本人最終版。Grundnorm の身分が「仮説的前提」から新カント派的「擬制」へ移る

時代の空気

20 世紀ウィーンには、純粋法学のウィーン法学派と、論理実証主義の Wiener Kreis が並走していた。 両者は方法の純化という時代精神を共有し、Felix Kaufmann のような橋渡し的人物を持った。 Kelsen は Kant の超越論的方法を法理論に適用し、Sein/Sollen の峻別、Stufenbau、Grundnorm によって法体系の自律性を記述した。法は道徳でも社会学でもない、固有の対象だった。 そして 1933 年、その理論は、ユダヤ系であることと「破壊的相対主義」とされたことを理由に、 ナチス政権の最初の三か月で大学から追われた。

問いの輪郭 — 法は何によって妥当するか

ハンス・ケルゼンは、1881 年プラハ生まれ、1973 年バークレー没。91 年の生涯のうち最初の 60 年余をウィーン、ケルン、ジュネーブで過ごし、残りの 30 年余を米国カリフォルニアで過ごした。その間に、彼は世界初の専門的憲法裁判所を 1920 年オーストリア共和国憲法に組み込み、1934 年に『純粋法学』(Reine Rechtslehre)初版を書き、1945 年に英語で『法と国家の一般理論』(General Theory of Law and State)を書き、1960 年に『純粋法学』第 2 版を書いた。

彼の刊行テキストを通じて反復される問いは、二つの方向に分けられる。一つは、法は何によって妥当するのか、という問い。もう一つは、その問いに答えるとき、何を方法として選ぶのか、という問い。前者が彼の理論の対象であり、後者が彼の理論の方法だった。

『法と国家の一般理論』(1945)の Part One 第 II 章で、彼は前者の問いに最も端的な答えを与えている。「規範の妥当は、その存在という事実からではなく、別の規範からのみ導かれる」("The validity of a norm cannot be derived from the fact of its existence, but only from another norm.")(『法と国家の一般理論』1945、Part One ch. II、Internet Archive in.ernet.dli.2015.499334 で全文確認)。

この一文は、Sein(存在)と Sollen(当為)の方法的峻別というカント的・新カント派的方法論を、法理論の出発点にしている。事実が反復されるからといって規範になるのではない。規範の妥当は、別の規範に支えられている。この支え合いの連鎖を辿っていくと、最終的にどこに行き着くのか。彼の答えは、規範のヒエラルキー(Stufenbau)と、その頂点に置かれる仮説的な根本規範(Grundnorm)である。

そして方法の側で彼が選んだのは、「純粋」と呼ばれる方法的純化だった。純粋法学(Reine Rechtslehre)。「純粋」とは法の内容が純粋(つまり道徳的に正しい)という意味ではない。法を、道徳、政治、社会学から方法的に切り離して記述する、その記述の純粋さを意味する。「『純粋』法学は、ありうるものと現にあるものを求めるのであり、正しいものや正義をではない」("A 'pure' theory of law... seeks the actual and possible, not the right or just.")(『法と国家の一般理論』1945、Preface)。

ここに彼の選択の意味が現れている。彼は正義を否定したのではない。正義を、法の妥当根拠を説明する作業とは別の問い として位置づけ直しただけである。後年、彼自身が書く。「正義とは、合理化不可能な理念である」("Justice is an irrational ideal.")(『法と国家の一般理論』1945、Appendix; 同主題は『正義とは何か』1957 表題論文に再帰)。法体系の妥当根拠の理論は、正義論の不在を前提にするのではなく、正義論との分業を選ぶ理論として書かれた。

ナチス前夜のウィーン — 1934 年『純粋法学』成立まで

『純粋法学』初版(1934, Wien: Franz Deuticke)が刊行されたとき、Kelsen は 53 歳で、既に長い前史を背負っていた。

ウィーン大学で Edmund Bernatzik の国家学講座に学んだ彼は、Habilitationsschrift『国家法学の主要問題』(Hauptprobleme der Staatsrechtslehre, 1911)で、Jellinek の『一般国家学』に直接対決するテキストを書いた。Jellinek の招聘講演に出会って学者の道に進んだ Kelsen が、Jellinek の社会学的国家論を方法論的に解体する仕事から始めた、という事実は、彼の批判が深いリスペクトを伴っていたことを示している(Métall 伝)。

1920 年、彼は Karl Renner 首相のもとでオーストリア共和国憲法(B-VG)の起草の中心となり、世界初の集中型・専門裁判所方式の憲法裁判所(Verfassungsgerichtshof)を組み込んだ(Internet Archive diebundesverfass00kels、1922 年自身による注解で確認)。理論家が同時に制度設計者になった、稀有な事例である。1921 年から 1929 年まで、彼自身がオーストリア憲法裁判所の終身裁判官を務めた。

その彼が、1929 年改憲で更迭される。キリスト教社会党政権による憲法裁判官の身分変更で、Kelsen は裁判官の地位を失った(標準伝記)。彼は 1930 年にケルン大学へ移り、独語圏内部の移籍を経験する。

そして 1933 年、4 月 7 日「職業官吏再建法」(Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)により、ナチス政権成立から 3 か月でケルン大学を罷免される。ユダヤ系であること、純粋法学が「破壊的相対主義」とされたことの両方が理由だった。同僚 Carl Schmitt が彼の罷免への反対書名を拒否したと伝えられる(Métall 伝。ただしこの拒否の細部は二次研究で議論があるため、本文では大枠の事実関係に留める)。

『純粋法学』初版は、罷免の翌年、ジュネーブの国際大学院に職を得た時期に刊行された。ただし『純粋法学』の根幹は、1934 年の刊行で初めて立ち現れたものではない。Habilitationsschrift『国家法学の主要問題』(1911)で既にその理論的骨格は立てられており、1925 年『一般国家学』で体系化が進められていた。1934 年の刊行は、この長い前史(1911 年から 23 年)の到達点であった。それが結果として、ナチス政権成立の翌年、彼自身が罷免された翌年に世に出されたという時間的事実は、後世の Kelsen 評価に大きな影響を与えてきたが、両者を直接の因果として結ぶのは、本人発言ベースの裏付けを越える読みである。彼の方法論的選択を「冷たい技術」と呼ぶ後世の批判が、この時間的前後関係を見落としやすいのは事実だが、逆に前後関係を因果に滑らせる読みもまた、慎重を要する。

Stufenbau と Grundnorm — 規範のヒエラルキー

『純粋法学』初版(1934)第 31 節以下で、彼は規範のヒエラルキー的階層構造を Stufenbau と呼ぶ。「法秩序とは、規範のヒエラルキー的階層構造(Stufenbau)である」("Die Rechtsordnung ist ein Stufenbau von Normen.")(『純粋法学』初版 1934、§31; 同主題は『法と国家の一般理論』1945 第 X 章で英語化)。

Stufenbau は、Kelsen 単独の概念ではなく、ウィーン法学派の同僚 Adolf Merkl との共同形成である。Merkl が法段階説を 1910 年代後半から定式化し、Kelsen がそれを純粋法学の体系のなかに組み込んだ(HKW 編者解題および Merkl 同時代論文)。憲法 → 法律 → 命令 → 個別判決という階層は、それぞれの規範が、上位の規範から妥当の根拠を受け取って初めて妥当する。下位の規範は、上位の規範が授権する範囲内でのみ規範を産み出せる。

ここで連鎖を遡ると、最上位に位置する憲法は、何によって妥当するのか、という問いが残る。実定法の連鎖の内部だけでは、この問いに答えられない。彼の解答が Grundnorm である。

「根本規範(Grundnorm)は、いかなる実定法秩序の妥当の、仮説的前提である」("Die Grundnorm ist die hypothetische Voraussetzung der Geltung jeder positiven Rechtsordnung.")(『純粋法学』初版 1934、§29 周辺; 第 2 版 1960 §34 で再定式化)。

Grundnorm は、実定法のなかにある最上位の条文ではない。それは法体系の妥当を考えるときに、思考の出発点として「前提せざるを得ない」規範である。実定法の連鎖の上に、思考のうえで立てられる仮説。彼にとってこれは、実定法の自然法的根拠を持ち出さずに、しかも法体系の妥当を内的に説明するための、方法的選択の中心である。

注意すべきは、この Grundnorm の身分が、彼自身のなかで時とともに変化したことである。1934 年の初版では「仮説的前提(hypothetische Voraussetzung)」と書かれていたものが、1960 年の第 2 版では新カント派的「擬制(Fiktion)」へとニュアンスが移り、晩年の遺稿(『Allgemeine Theorie der Normen』1979 死後刊)では Vaihinger 由来の「思考の擬制」としてさらに弱められる。本文では初版の定式を主軸に置きつつ、Grundnorm が「実在する規範」ではなく、思考の出発点として立てられる仮説的・擬制的なものであり続けた、という点を読者に保持してもらえるよう書いた。

法と道徳の分離 — 純粋法学の方法論

純粋法学の方法論的核心は、Sein(存在)と Sollen(当為)の方法的峻別である。「存在(Sein)と当為(Sollen)は方法的に厳格に分離されねばならない」("Sein und Sollen sind methodisch streng zu trennen.")(『純粋法学』初版 1934、§1)。

これは Hume の is-ought 区別、Kant の現象 / 物自体・理論理性 / 実践理性の峻別、新カント派(Hermann Cohen、Wilhelm Windelband、Heinrich Rickert)の方法二元論を、法理論に適用したものである。Cohen 直接の弟子ではないが、Kelsen は Marburg 学派の方法二元論を経由して Kant に遡った。Kelsen 本人が Cohen を直接の師と呼んだわけではないが、新カント派経由の Kant 受容は彼の自伝的記述および同時代研究で広く確認される。

この方法論的選択は、二つの隣接領域から法を切り離す。一つは社会学。事実(法がどう守られているか、どう破られているか)から規範(法が何を命じているか)へ、論理的に橋を渡せない。もう一つは道徳・政治。法体系の内容が道徳的に正しいかどうかは、法体系の妥当を説明するための問いとは別の問いである。

これが彼を「形式主義者」「冷たい技術者」と呼ぶレッテルの源だが、彼自身はそうした記述を方法的選択として理解していた。法の正しさを問わないのではなく、法体系の妥当の説明という作業の純度を保つために、その問いを別の場所に置く、ということである。

国家論もこの選択に貫かれている。「国家とは、法秩序の人格化である」("Der Staat ist die Personifikation der Rechtsordnung.")(『一般国家学』1925、第 1 部; 『法と国家の一般理論』1945 Part Two ch. I)。Jellinek の三要素説(国民・領土・国家権力)が、社会的事実と法的関係の両面で国家を捉えていたのに対し、Kelsen は国家を法秩序そのものの人格化として定義する。Jellinek の社会学的次元を、純粋法学は方法的に切り捨てる。Sein/Sollen 峻別が国家論にまで貫徹された結果として読める動きである。

Sein/Sollen 峻別の政治的含意 — 別の問いとしての政治哲学

純粋法学の方法論は、Kelsen が政治的主張を持たなかったという意味ではない。Sein/Sollen 峻別が方法的に分業を確保したからこそ、彼は法の妥当根拠を問う作業とは別の問いとして、政治哲学を書ける位置に立っていた。

その実践として、彼は『民主主義の本質と価値』(Vom Wesen und Wert der Demokratie, 1920 初版 / 1929 第 2 版で大幅増補)で相対主義的議会主義を擁護し、後年「正義は合理化不可能な理念である」("Justice is an irrational ideal.")(『法と国家の一般理論』1945、Appendix; 同主題は『正義とは何か』1957 表題論文に再帰)と書いた。法体系の妥当根拠の理論は、正義論の不在を前提にするのではなく、正義論との分業を選ぶ理論として書かれた。Sein/Sollen 峻別は、その分業を方法レベルで確保する選択だった。

1931 年に Carl Schmitt との憲法の番人論争が起き、1933 年 Schmitt はナチス入党、Kelsen はケルン大学から罷免される、という同時代の制度的危機のなかで、彼の方法論的純化が政治哲学とどのように関係するのかは、民主主義と相対主義の問いとして別の角度で本格的に扱われる必要がある。本文としては、Sein/Sollen 峻別が法理論の内側に閉じた方法的選択ではなく、別の問いに対する別の答えを位置づける余地を確保していた、という点を留めるに留める。

関係性

Kelsen を誰の隣に置くかは、純粋法学の方法的純化が意図した分業を尊重しながら、関係性を描く必要がある。

Kant(方法的継承)。Kant の超越論的方法(現象 / 物自体、理論理性 / 実践理性の峻別、『純粋理性批判』1781)を、Kelsen は新カント派 Marburg 学派経由で 20 世紀的法理論文脈へ持ち込んだ。Sein/Sollen の方法的分離は Hume の is-ought 区別に遡れるが、Kelsen の経路は新カント派(特に Hermann Cohen の Marburg 学派)経由の Kant 受容である。Kelsen 自身は Cohen の直接の弟子ではないが、新カント派経由の Kant 受容は同時代研究で確認される。Kelsen 本人は Kant 直接の注解者ではない。

Hobbes(主権論の対比)。Hobbes の絶対主権(『リヴァイアサン』1651、一個の人格 (one person) としての sovereign)を、Kelsen は規範秩序の人格化として再定式化する。主権の同一概念を、決定意思としてではなく規範体系の自己関係として扱う。Hobbes の問いを引き継ぎつつ、答えの形を変える。

Locke(立憲主義の系譜)。Locke の有限政府・権力分立論(『統治二論』1689)を、Kelsen は集中型憲法裁判所制度として 20 世紀的に実装する。理論家としての Locke と制度設計者としての Kelsen が、立憲主義の系譜の上で繋がる。

Rousseau(民主主義論)。Rousseau の一般意志論(『社会契約論』1762)を、Kelsen は『民主主義の本質と価値』(1920 / 1929)で正面から相対主義的議会主義に置き換える。一般意志ではなく多数決と寛容。

Marx(対立)。Marx・Engels 経由で流通する「法は階級道具」テーゼに対し、Kelsen は『社会主義と国家』(Sozialismus und Staat, 1920)で規範体系説から応答する。法の自律性をめぐる中核的対立。Kelsen は社会主義の理想を否定したわけではないが、法を経済的下部構造の上部構造として記述するマルクス主義的方法論には、純粋法学の立場から距離を置いた。

Schmitt(controversy / 対立)。Carl Schmitt との対立は、Kelsen の生涯を通じて最大の controversy である。1931 年の憲法の番人論争では、Schmitt が『Der Hüter der Verfassung』(1931)で大統領を「憲法の番人」と位置づけ規範主義の議会・司法を「決断できない」として批判したのに対し、Kelsen は『Wer soll der Hüter der Verfassung sein?』(『Die Justiz』1931 所収)で憲法裁判所こそが番人だと反論した。決断主義 vs 規範主義、敵友区別 vs 寛容、例外状態 vs Stufenbau の対立軸である。1933 年 Schmitt はナチス入党、Kelsen は罷免。本文では Schmitt との対立を Kelsen 側のテキストに基づいて描き、両者を同じ平面に置かない。Schmitt の発言を Kelsen の側から引用して紹介するときも、Schmitt 自身の文脈での精査は別の場所(将来 Schmitt entry が作られた場合)に委ねる(Schmitt 側両論争テキストとも Lars Vinx 編 The Guardian of the Constitution, Cambridge UP, 2015 で標準英訳を確認できる)。

そして、Jellinek。Kelsen は Habilitationsschrift(1911)で Jellinek『一般国家学』に直接対決するテキストを書き、1925 年『一般国家学』で Jellinek の社会学的国家論を方法論的に解体し、1934 年『純粋法学』でその方法を体系化した。Jellinek の招聘講演に出会って学者の道に進み、Jellinek の Selbstbindung を批判的に純化して Stufenbau と Grundnorm に至った歩みは、批判が深いリスペクトを伴った軌跡として読まれている。

PhiloGlyph 内の関連 entry の状況として、Schmitt / Weber / Hart / Hayek は本稿時点で未収載である。Kelsen の関係性は、Kelsen 自身の刊行テキストを通じてのみ、本 entry では描かれる。

本ページは PhiloGlyph による、ケルゼンの公刊著作と公開された一次資料に基づく独自の読解です。 ご本人の見解を代表するものではありません。本文の引用・解釈に誤りや、 追加すべき出典があれば、ページ末尾の「修正を提案する」よりお寄せください。

出典 Citations

  1. 著書

    『Reine Rechtslehre』初版 1934 (Wien: Franz Deuticke) の Paulson 英訳 (Oxford: Clarendon, 1992)。Stufenbau, Grundnorm, Sein-Sollen の original 定式を確認可。

    Hans Kelsen, *Introduction to the Problems of Legal Theory* (Stanley L. Paulson 英訳『純粋法学』初版 1934), 1992

  2. 著書

    英語圏向け体系書。「規範の妥当は別の規範からのみ導かれる」(Part One ch. II)、「正義は合理化不可能」(Appendix)などを含む。亡命後の英語移行期の主著。

    Hans Kelsen, *General Theory of Law and State*, trans. Anders Wedberg (Cambridge MA: Harvard UP, 1945), 1945

  3. 著書

    Jellinek『一般国家学』に直接対決する Kelsen 版国家学。「国家とは法秩序の人格化である」定式を提示、社会学的次元を方法的に切り捨てて純粋法学的国家論を体系化。

    Hans Kelsen『Allgemeine Staatslehre』(Berlin: J. Springer) 1925, 1925

  4. 著書

    相対主義的議会主義の擁護。1929 年第 2 版で大幅増補。Schmitt 決断主義との対立軸を提示し、寛容と多数決を民主主義の核に据える。

    Hans Kelsen『Vom Wesen und Wert der Demokratie』(Tübingen: J.C.B. Mohr) 初版 1920, 1920

  5. 著書

    1920 年オーストリア連邦憲法 (B-VG) の起草者本人による注解書。世界初の集中型・専門裁判所方式の憲法裁判所 (Verfassungsgerichtshof) の制度設計を確認可。

    Hans Kelsen『Die Bundesverfassung vom 1. Oktober 1920』(Wien: Deuticke) 1922, 1922

  6. アーカイブ

    生涯と業績の日本語要約。1929 年裁判官更迭、1933 年ケルン罷免、1940 年米国移住、1942 年バークレー赴任の事実関係を確認。

    Wikipedia 日本語版「ハンス・ケルゼン」項, 2026

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  • 思想二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 原文 "The validity of a norm cannot be derived from the fact of its existence, but only from another n...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 原文 "The validity of a norm cannot be derived from the fact of its existence, but only from another n...

  • 文脈原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: kelsen.mdx の文脈 claim: Hans Kelsen『Pure Theory of Law』の「規範の妥当性根拠は、より高次の規範の妥当性でしかありえない」という議論(Sein/Soll...

    一次資料を開くExcerpt includes the higher-norm account of validity and basic norm discussion.

  • 出典二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: Hans Kelsen, *General Theory of Law and State*, trans. Anders Wedberg (Cambridge MA: Harvard UP, 194...

    一次資料を開くRoutledge / Law & Society Series 版 General Theory of Law and State の書誌レコード。trans...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 正義とは、合理化不可能な理念である。

    一次資料を開くGeneral Theory of Law and State (1945, Harvard UP, trans. Anders Wedberg) の Goog...

  • 抜粋二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 規範の妥当は、その存在という事実からではなく、別の規範からのみ導かれる。

つながり

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さらに辿るならExternal References

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