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ハンス・ケルゼン

Hans Kelsen·1881–1973·オーストリア・米国·

法は、なぜ守らなければならないのか。 神でも、自然でも、力でもないとしたら、何がそれを支えているのか?

法を道徳・政治・社会学から方法的に切り離し、規範のヒエラルキーと根本規範によって描いた、20 世紀法哲学の体系家

  • 純粋法学
  • Grundnorm
  • Stufenbau
  • 法実証主義
  • 相対主義的議会主義
帝国が崩れて共和国が生まれ、新しい憲法が書かれ、やがて法そのものが独裁に飲みこまれていった時代 — ひらく

時代の空気

20 世紀ウィーンには、純粋法学のウィーン法学派と、論理実証主義の Wiener Kreis が並走していた。 両者は方法の純化という時代精神を共有し、Felix Kaufmann のような橋渡し的人物を持った。 Kelsen は Kant の超越論的方法を法理論に適用し、Sein/Sollen の峻別、Stufenbau、Grundnorm によって法体系の自律性を記述した。法は道徳でも社会学でもない、固有の対象だった。 そして 1933 年、その理論は、ユダヤ系であることと「破壊的相対主義」とされたことを理由に、 ナチス政権の最初の三か月で大学から追われた。

011933年春、ケルン

1933年4月。ドイツのケルン大学で、一人の教授が職を追われた。ハンス・ケルゼン、51歳。ナチスが政権をとってから、まだ3か月しかたっていなかった。

根拠になったのは、4月7日の「職業官吏再建法」という法律である。いわゆる「」だった。ユダヤ系の人びとを公の職から追い出すための法律である。ケルゼンはユダヤ系だった。もう一つ、彼の学問が「破壊的相対主義」だとされたことも理由だった。

同じ大学の法学者カール・シュミットは、この罷免ひめん(職をやめさせること)に反対する署名を断ったと伝えられる。伝記作者メタルの記述で、細かな点には議論がある。ただ、二年前にケルゼンと「憲法の番人はだれか」を争った相手であることは、動かない。

ここに一つの「なぜ」がある。ケルゼンは、世界で初めてのを設計した人だった。法は法によってしか支えられない、と言い続けた人だった。その人が、一本の法律によって大学から消された。なぜ「純粋」を名のる法の学問が、「破壊的」と呼ばれたのか。

答えを探すには、彼が何を「純粋」と呼んだのかを知らなければならない。時は52年前、1881年に戻る。

02プラハから、ウィーンの教室へ

ハンス・ケルゼンは、1881年にプラハで生まれた。学んだのはウィーン大学である。そこで彼は、エドムント・ベルナツィクの国家学の講座に入った。国家学とは、「国家とは何か」を研究する学問である。

学者の道を選んだきっかけは、一つの講演だった。ゲオルク・イェリネックという国家学者が、ウィーンに招かれて話をした。若いケルゼンは、それを聞いて研究の道に進んだ。

ところが、1911年に彼が書いた最初の大きな論文は、そのイェリネックに正面から挑むものだった。大学の先生になる資格をとるための論文で、題は『国家法学の主要問題』という。相手はイェリネックの代表作『一般国家学』だった。

イェリネックは、国家を「国民・領土・国家権力」の三つの要素で説明した。国家を、社会の事実としても、法のきまりとしても、両面から見る考え方である。ケルゼンは、この両面を一つにまとめる方法そのものを、根もとからほどこうとした。

憧れた先生の本を、最初の仕事で解体する。それは反抗ではなく、深い敬意をともなった批判だったと伝記は書く。では、若い彼は、イェリネックのどこがまずいと見たのか。それは「ある」と「べき」をめぐる問題だった。

03「ある」と「べき」は別のこと

多くの人が赤信号を渡っている。それは「ある」ことがら、つまり事実である。だからといって、赤信号を渡って「よい」ことにはならない。「べき」は、事実をいくら積み上げても出てこない。

ケルゼンは、この区別を法の学問の出発点に置いた。法とは「〜すべし」というきまり、つまり規範である。規範は事実ではない。事実の側から規範の側へは、橋を渡せない。

この考えには長い前史がある。18世紀スコットランドの哲学者ヒュームが、「である」から「べきである」は出てこないと言った。カントは、目に見える世界()と、その奥にあるもの()を分けた。知るための理性と、行いを決めるも分けた。ケルゼンは、カントを読み直した学者たち、を通じて、この分け方を受け取った。

区別は、法をいろいろなものから切り離す。まず、社会学から。法がどう守られ、どう破られているかという事実は、法が何を命じているかとは別の問いである。次に、道徳や政治から。法の中身が正しいかどうかは、法がなぜ効力をもつかとは別の問いである。

こうして切り離した法だけを扱う学問を、彼はと呼んだ。「純粋」とは、法の中身が正しいという意味ではない。説明の仕方に混じり気がない、という意味である。彼自身の言葉では、「『純粋』法学は、ありうるものと現にあるものを求めるのであり、正しいものや正義をではない」(『法と国家の一般理論』1945、Preface)。

正義を捨てたのではない。正義は別の問いだ、と置き直したのである。後に彼は、その別の問いについて、こう書いている。

正義とは、合理化不可能な理念である。

— 1945年、亡命先のアメリカで英語で書いた『法と国家の一般理論』の付録。正義を否定した言葉ではなく、法の説明とは切り分けるべき「別の問い」だと宣言した言葉

では、神でも、自然でも、正義でもないとしたら、法は何によって効力をもつのか。その答えを本にする前に、彼はまず、本物の憲法を書くことになる。

04憲法を書く人

1920年、生まれたばかりのオーストリア共和国が、憲法をつくることになった。首相はカール・レンナー。その下で起草の中心になったのがケルゼンである。まだ40歳になっていなかった。

彼はこの憲法に、世界で初めての仕組みを組み込んだ。憲法裁判所である。法律が憲法に反していないかを専門に判断する裁判所を、一か所に集める。集中型と呼ばれる方式だった。1922年には、自分でこの憲法の注解も書いている。

理論家が、そのまま制度の設計者になった。めったにない例である。しかも彼は、1921年から自分でその憲法裁判所の終身裁判官を務めた。自分が設計した椅子に、自分で座ったのである。

同じ1920年、彼は二冊の本も書いた。『民主主義の本質と価値』では、議会制を守る理由を「だれも絶対の正しさを持たない」という点に置いた。多数決と寛容で決めるしかない、という立場である。『社会主義と国家』では、「法は階級の道具にすぎない」というマルクス主義の見方に、法には法の自律があると答えた。

1925年の『一般国家学』では、若い日の相手イェリネックに、あらためて答えた。国家とは、法のきまりの全体に一つの顔を与えたもの、「法秩序の人格化」である。国民・領土・権力という社会の事実は、この説明からは切り落とされる。「ある」と「べき」の区別を、国家にまで貫いたのだった。

こうして理論と制度は、彼の手で一つにつながった。だが、憲法裁判所の椅子に座って9年目の1929年、彼はその椅子を失う。

05階段の、いちばん上

ケルゼンの答えは、一枚の階段の絵に似ている。いちばん上に憲法。その下に法律。その下に命令。いちばん下に、一つひとつの裁判の判決。彼はこの階段を (シュトゥーフェンバウ、段階構造)と呼んだ。

どの段も、一つ上の段から効力を受け取る。法律は、憲法が「作ってよい」と認めた範囲でだけ、法律になれる。命令は、法律が認めた範囲でだけ、命令になれる。下の段は、上の段が許した中でしか、新しいきまりを生めない。

この階段の考えは、彼一人のものではない。ウィーンの同僚アドルフ・メルクルが1910年代の後半に「法段階説」として形にし、ケルゼンがそれを自分の体系に組み込んだ。

では、いちばん上の憲法は、何から効力を受け取るのか。人が実際に作った法(実定法)の階段の中には、もう上の段がない。ここで彼は、一つの仮説を立てた。(Grundnorm)である。

根本規範は、憲法のどこかに書いてある条文ではない。「この憲法に従うべし」という、階段全体の効力を考えるときに、思考の出発点として前提せざるをえないきまりである。神や自然に正しい法がもとからある、というの考えを持ち出さずに、階段の効力を説明するための仮説だった。

規範の妥当は、その存在という事実からではなく、別の規範からのみ導かれる。

— 『法と国家の一般理論』(1945)Part One 第II章。階段のどの段も「一つ上の段」からしか効力を受け取れない、という考えを一文にした言葉

ただし、この仮説の身分は、彼自身の中でも揺れ続けた。「仮説」から「擬制(あえて立てたつくりごと)」へと、年を追って弱められていく。それでも根本規範は、最後まで「実在するきまり」ではなく、考えるために立てる出発点であり続けた。

階段の絵は、静かな学者の絵に見える。だが1929年からの数年、この階段は現実に試されることになる。

06憲法の番人はだれか

1929年、オーストリアで憲法が改正された。キリスト教社会党の政権が、憲法裁判官の身分を変えた。ケルゼンは裁判官の地位を失った。自分で設計した裁判所から、政治によって外されたのである。

翌1930年、彼はドイツのケルン大学へ移った。同じドイツ語圏の中での移動だが、ウィーンを離れる移籍だった。

1931年、ケルンで論争が起きる。相手は同僚のカール・シュミットだった。シュミットは『憲法の番人』という本で、憲法を守る役目は大統領にあると書いた。議会や裁判所は「決断できない」からだ、というのがその理由だった。

ケルゼンは「憲法の番人はだれであるべきか」という論文で反論した。番人は憲法裁判所である、と。決断する一人の意思に頼るのか。それとも、きまりの階段に頼るのか。敵と味方を分けるのか。それとも、寛容によって共に生きるのか。二人の対立は、法とは何かという根本で食いちがっていた。

二年後、この二人の道は正反対に分かれる。

071933年、そして残りの40年

1933年1月、ナチスが政権をとった。同じ年、シュミットはナチ党に入った。そして4月、ケルゼンは「職業官吏再建法」によってケルン大学を追われた。冒頭の場面である。

ここまで読んだ読者は、あの「なぜ」に自分で答えられるはずである。純粋法学は、法の効力を、一人の強い意思にも、正義の名にも置かない。別の法にしか置かない。だれも絶対の正しさを独占できない、という相対主義がそこにある。法を自分の意思の道具にしたい者にとって、それは「破壊的」に見えた。そう読むことができる。

彼はジュネーブの国際大学院に職を得た。翌1934年、そこで『純粋法学』の初版が出る。だが、この本の骨組みは、1911年の最初の論文ですでに立てられていた。23年かけた到達点が、たまたま罷免の翌年に世に出た。罷免が本を生んだのではない。前後関係を、原因と結果に滑らせてはならない。

1940年、彼はアメリカへ渡った。1942年、カリフォルニア大学バークレー校の教授になる。1945年には、英語で『法と国家の一般理論』を書いた。1960年には『純粋法学』の第2版を出した。そして1973年、バークレーで91年の生涯を閉じた。

一本の法律が、彼を大学から消した。その法律もまた、一つの規範だった。階段のいちばん上に置かれるものを、彼は最後まで仮説と呼び続けた。法は、なぜ守らなければならないのか。あなたなら、その階段のいちばん上に、何を置くだろうか。

08思想の骨格——純粋法学・Stufenbau・根本規範、そして関係性

ケルゼンの刊行テキストを通じて反復される問いは、二つの方向に分けられる。一つは、法は何によって妥当するのか、という問い。もう一つは、その問いに答えるとき、何を方法として選ぶのか、という問い。前者が彼の理論の対象であり、後者が彼の理論の方法だった。『法と国家の一般理論』(1945)の Part One 第 II 章で、彼は前者の問いに最も端的な答えを与えている。「規範の妥当は、その存在という事実からではなく、別の規範からのみ導かれる」("The validity of a norm cannot be derived from the fact of its existence, but only from another norm.")(『法と国家の一般理論』1945、Part One ch. II、Internet Archive in.ernet.dli.2015.499334 で全文確認)。

純粋法学(Reine Rechtslehre)の方法論的核心は、Sein(存在)と Sollen(当為)の方法的峻別である。「存在(Sein)と当為(Sollen)は方法的に厳格に分離されねばならない」("Sein und Sollen sind methodisch streng zu trennen.")(『純粋法学』初版 1934、§1)。これは Hume の is-ought 区別、Kant の現象 / 物自体・理論理性 / 実践理性の峻別、新カント派(Hermann Cohen、Wilhelm Windelband、Heinrich Rickert)の方法二元論を、法理論に適用したものである。Cohen 直接の弟子ではないが、Kelsen は Marburg 学派の方法二元論を経由して Kant に遡った。Kelsen 本人が Cohen を直接の師と呼んだわけではないが、新カント派経由の Kant 受容は彼の自伝的記述および同時代研究で広く確認される。この方法論的選択は、二つの隣接領域から法を切り離す。一つは社会学。事実(法がどう守られているか、どう破られているか)から規範(法が何を命じているか)へ、論理的に橋を渡せない。もう一つは道徳・政治。法体系の内容が道徳的に正しいかどうかは、法体系の妥当を説明するための問いとは別の問いである。これが彼を「形式主義者」「冷たい技術者」と呼ぶレッテルの源だが、彼自身はそうした記述を方法的選択として理解していた。

「純粋」とは法の内容が純粋(つまり道徳的に正しい)という意味ではない。法を、道徳、政治、社会学から方法的に切り離して記述する、その記述の純粋さを意味する。「『純粋』法学は、ありうるものと現にあるものを求めるのであり、正しいものや正義をではない」("A 'pure' theory of law... seeks the actual and possible, not the right or just.")(『法と国家の一般理論』1945、Preface)。彼は正義を否定したのではない。正義を、法の妥当根拠を説明する作業とは別の問いとして位置づけ直しただけである。「正義とは、合理化不可能な理念である」("Justice is an irrational ideal.")(『法と国家の一般理論』1945、Appendix; 同主題は『正義とは何か』1957 表題論文に再帰)。法体系の妥当根拠の理論は、正義論の不在を前提にするのではなく、正義論との分業を選ぶ理論として書かれた。

『純粋法学』初版(1934, Wien: Franz Deuticke)第 31 節以下で、彼は規範のヒエラルキー的階層構造を Stufenbau と呼ぶ。「法秩序とは、規範のヒエラルキー的階層構造(Stufenbau)である」("Die Rechtsordnung ist ein Stufenbau von Normen.")(『純粋法学』初版 1934、§31; 同主題は『法と国家の一般理論』1945 第 X 章で英語化)。Stufenbau は、Kelsen 単独の概念ではなく、ウィーン法学派の同僚 Adolf Merkl との共同形成である。Merkl が法段階説を 1910 年代後半から定式化し、Kelsen がそれを純粋法学の体系のなかに組み込んだ(HKW 編者解題および Merkl 同時代論文)。憲法 → 法律 → 命令 → 個別判決という階層は、それぞれの規範が、上位の規範から妥当の根拠を受け取って初めて妥当する。下位の規範は、上位の規範が授権する範囲内でのみ規範を産み出せる。

連鎖を遡ると、最上位に位置する憲法は何によって妥当するのか、という問いが残る。実定法の連鎖の内部だけでは、この問いに答えられない。彼の解答が Grundnorm である。「根本規範(Grundnorm)は、いかなる実定法秩序の妥当の、仮説的前提である」("Die Grundnorm ist die hypothetische Voraussetzung der Geltung jeder positiven Rechtsordnung.")(『純粋法学』初版 1934、§29 周辺; 第 2 版 1960 §34 で再定式化)。Grundnorm は、実定法のなかにある最上位の条文ではない。それは法体系の妥当を考えるときに、思考の出発点として「前提せざるを得ない」規範である。彼にとってこれは、実定法の自然法的根拠を持ち出さずに、しかも法体系の妥当を内的に説明するための、方法的選択の中心である。注意すべきは、この Grundnorm の身分が、彼自身のなかで時とともに変化したことである。1934 年の初版では「仮説的前提(hypothetische Voraussetzung)」と書かれていたものが、1960 年の第 2 版では新カント派的「擬制(Fiktion)」へとニュアンスが移り、晩年の遺稿(『Allgemeine Theorie der Normen』1979 死後刊)では Vaihinger 由来の「思考の擬制」としてさらに弱められる。本文では初版の定式を主軸に置きつつ、Grundnorm が「実在する規範」ではなく、思考の出発点として立てられる仮説的・擬制的なものであり続けた、という点を読者に保持してもらえるよう書いた。

国家論もこの選択に貫かれている。「国家とは、法秩序の人格化である」("Der Staat ist die Personifikation der Rechtsordnung.")(『一般国家学』1925、第 1 部; 『法と国家の一般理論』1945 Part Two ch. I)。Jellinek の三要素説(国民・領土・国家権力)が、社会的事実と法的関係の両面で国家を捉えていたのに対し、Kelsen は国家を法秩序そのものの人格化として定義する。Jellinek の社会学的次元を、純粋法学は方法的に切り捨てる。Sein/Sollen 峻別が国家論にまで貫徹された結果として読める動きである。制度面では、1920 年、Karl Renner 首相のもとでオーストリア共和国憲法(B-VG)の起草の中心となり、世界初の集中型・専門裁判所方式の憲法裁判所(Verfassungsgerichtshof)を組み込んだ(Internet Archive diebundesverfass00kels、1922 年自身による注解で確認)。1921 年から 1929 年まで、彼自身がオーストリア憲法裁判所の終身裁判官を務め、1929 年改憲でキリスト教社会党政権による憲法裁判官の身分変更により裁判官の地位を失った(標準伝記)。

純粋法学の方法論は、Kelsen が政治的主張を持たなかったという意味ではない。Sein/Sollen 峻別が方法的に分業を確保したからこそ、彼は法の妥当根拠を問う作業とは別の問いとして、政治哲学を書ける位置に立っていた。その実践として、彼は『民主主義の本質と価値』(Vom Wesen und Wert der Demokratie, 1920 初版 / 1929 第 2 版で大幅増補)で相対主義的議会主義を擁護した。Sein/Sollen 峻別は、正義論との分業を方法レベルで確保する選択だった。1931 年に Carl Schmitt との憲法の番人論争が起き、1933 年 Schmitt はナチス入党、Kelsen は 4 月 7 日「職業官吏再建法」(Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)によりナチス政権成立から 3 か月でケルン大学を罷免される。同僚 Carl Schmitt が彼の罷免への反対書名を拒否したと伝えられる(Métall 伝。ただしこの拒否の細部は二次研究で議論があるため、本文では大枠の事実関係に留める)。この同時代の制度的危機のなかで、彼の方法論的純化が政治哲学とどのように関係するのかは、民主主義と相対主義の問いとして別の角度で本格的に扱われる必要がある。本文としては、Sein/Sollen 峻別が法理論の内側に閉じた方法的選択ではなく、別の問いに対する別の答えを位置づける余地を確保していた、という点を留めるに留める。

『純粋法学』初版は、罷免の翌年、ジュネーブの国際大学院に職を得た時期に刊行された。ただし『純粋法学』の根幹は、1934 年の刊行で初めて立ち現れたものではない。Habilitationsschrift『国家法学の主要問題』(Hauptprobleme der Staatsrechtslehre, 1911)で既にその理論的骨格は立てられており、1925 年『一般国家学』で体系化が進められていた。1934 年の刊行は、この長い前史(1911 年から 23 年)の到達点であった。それが結果として、ナチス政権成立の翌年、彼自身が罷免された翌年に世に出されたという時間的事実は、後世の Kelsen 評価に大きな影響を与えてきたが、両者を直接の因果として結ぶのは、本人発言ベースの裏付けを越える読みである。彼の方法論的選択を「冷たい技術」と呼ぶ後世の批判が、この時間的前後関係を見落としやすいのは事実だが、逆に前後関係を因果に滑らせる読みもまた、慎重を要する。

Kelsen を誰の隣に置くかは、純粋法学の方法的純化が意図した分業を尊重しながら、関係性を描く必要がある。

Kant(方法的継承)。Kant の超越論的方法(現象 / 物自体、理論理性 / 実践理性の峻別、『純粋理性批判』1781)を、Kelsen は新カント派 Marburg 学派経由で 20 世紀的法理論文脈へ持ち込んだ。Sein/Sollen の方法的分離は Hume の is-ought 区別に遡れるが、Kelsen の経路は新カント派(特に Hermann Cohen の Marburg 学派)経由の Kant 受容である。Kelsen 自身は Cohen の直接の弟子ではないが、新カント派経由の Kant 受容は同時代研究で確認される。Kelsen 本人は Kant 直接の注解者ではない。

Hobbes(主権論の対比)。Hobbes の(『』1651、一個の人格 (one person) としての sovereign)を、Kelsen は規範秩序の人格化として再定式化する。主権の同一概念を、決定意思としてではなく規範体系の自己関係として扱う。Hobbes の問いを引き継ぎつつ、答えの形を変える。

Locke(立憲主義の系譜)。Locke の有限政府・論(『』1689)を、Kelsen は集中型憲法裁判所制度として 20 世紀的に実装する。理論家としての Locke と制度設計者としての Kelsen が、立憲主義の系譜の上で繋がる。

Rousseau(民主主義論)。Rousseau の論(1762)を、Kelsen は『民主主義の本質と価値』(1920 / 1929)で正面から相対主義的議会主義に置き換える。一般意志ではなく多数決と寛容。

Marx(対立)。Marx・Engels 経由で流通する「法は階級道具」テーゼに対し、Kelsen は『社会主義と国家』(Sozialismus und Staat, 1920)で規範体系説から応答する。法の自律性をめぐる中核的対立。Kelsen は社会主義の理想を否定したわけではないが、法を経済的下部構造の上部構造として記述するマルクス主義的方法論には、純粋法学の立場から距離を置いた。

Schmitt(controversy / 対立)。Carl Schmitt との対立は、Kelsen の生涯を通じて最大の controversy である。1931 年の憲法の番人論争では、Schmitt が『Der Hüter der Verfassung』(1931)で大統領を「憲法の番人」と位置づけ規範主義の議会・司法を「決断できない」として批判したのに対し、Kelsen は『Wer soll der Hüter der Verfassung sein?』(『Die Justiz』1931 所収)で憲法裁判所こそが番人だと反論した。決断主義 vs 規範主義、敵友区別 vs 寛容、例外状態 vs Stufenbau の対立軸である。1933 年 Schmitt はナチス入党、Kelsen は罷免。本文では Schmitt との対立を Kelsen 側のテキストに基づいて描き、両者を同じ平面に置かない。Schmitt の発言を Kelsen の側から引用して紹介するときも、Schmitt 自身の文脈での精査は別の場所(将来 Schmitt entry が作られた場合)に委ねる(Schmitt 側両論争テキストとも Lars Vinx 編 The Guardian of the Constitution, Cambridge UP, 2015 で標準英訳を確認できる)。

そして、Jellinek。ウィーン大学で Edmund Bernatzik の国家学講座に学んだ Kelsen は、Habilitationsschrift(1911)で Jellinek『一般国家学』に直接対決するテキストを書き、1925 年『一般国家学』で Jellinek の社会学的国家論を方法論的に解体し、1934 年『純粋法学』でその方法を体系化した。Jellinek の招聘講演に出会って学者の道に進み、Jellinek の Selbstbindung を批判的に純化して Stufenbau と Grundnorm に至った歩みは、批判が深いリスペクトを伴った軌跡として読まれている(Métall 伝)。

PhiloGlyph 内の関連 entry の状況として、Schmitt / Weber / Hart / Hayek は本稿時点で未収載である。Kelsen の関係性は、Kelsen 自身の刊行テキストを通じてのみ、本 entry では描かれる。

本ページは PhiloGlyph による、ケルゼンの公刊著作と公開された一次資料に基づく独自の読解です。 ご本人の見解を代表するものではありません。本文の引用・解釈に誤りや、 追加すべき出典があれば、ページ末尾の「修正を提案する」よりお寄せください。
主要作品の年表をひらく

主要作品Works Timeline

  1. 1911
    Hauptprobleme der Staatsrechtslehre(国家法学の主要問題)著書(Tübingen: J.C.B. Mohr)
    Habilitationsschrift。Jellinek『一般国家学』に直接対決する純粋法学の理論的骨格
  2. 1920
    Vom Wesen und Wert der Demokratie(民主主義の本質と価値)初版著書(Tübingen: J.C.B. Mohr)
    相対主義的議会主義の擁護。Schmitt 決断主義との対立軸を提示
  3. 1922
    Die Bundesverfassung vom 1. Oktober 1920(オーストリア連邦憲法注解)著書(Wien: Deuticke)
    世界初の集中型憲法裁判所を組み込んだ B-VG の起草者本人による注解
  4. 1925
    Allgemeine Staatslehre(一般国家学)著書(Berlin: J. Springer)
    Jellinek 社会学的国家論への方法的解体。「国家=法秩序の人格化」定式
  5. 1934
    Reine Rechtslehre(純粋法学)初版著書(Wien: Franz Deuticke)
    主著。Sein/Sollen 峻別、Stufenbau、Grundnorm の体系化。罷免翌年の刊行
  6. 1945
    General Theory of Law and State著書(Cambridge MA: Harvard UP)
    英語圏向け体系書。亡命後の英語移行期の主著、Anders Wedberg 訳
  7. 1960
    Reine Rechtslehre 第 2 版著書(Wien: Franz Deuticke)
    本人最終版。Grundnorm の身分が「仮説的前提」から新カント派的「擬制」へ移る

つながり

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さらに辿るならExternal References

ハンス・ケルゼンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

出典 Citations

  1. 著書

    『Reine Rechtslehre』初版 1934 (Wien: Franz Deuticke) の Paulson 英訳 (Oxford: Clarendon, 1992)。Stufenbau, Grundnorm, Sein-Sollen の original 定式を確認可。

    Hans Kelsen, *Introduction to the Problems of Legal Theory* (Stanley L. Paulson 英訳『純粋法学』初版 1934), 1992 ▸

  2. 著書

    英語圏向け体系書。「規範の妥当は別の規範からのみ導かれる」(Part One ch. II)、「正義は合理化不可能」(Appendix)などを含む。亡命後の英語移行期の主著。

    Hans Kelsen, *General Theory of Law and State*, trans. Anders Wedberg (Cambridge MA: Harvard UP, 1945), 1945 ▸

  3. 著書

    Jellinek『一般国家学』に直接対決する Kelsen 版国家学。「国家とは法秩序の人格化である」定式を提示、社会学的次元を方法的に切り捨てて純粋法学的国家論を体系化。

    Hans Kelsen『Allgemeine Staatslehre』(Berlin: J. Springer) 1925, 1925 ▸

  4. 著書

    相対主義的議会主義の擁護。1929 年第 2 版で大幅増補。Schmitt 決断主義との対立軸を提示し、寛容と多数決を民主主義の核に据える。

    Hans Kelsen『Vom Wesen und Wert der Demokratie』(Tübingen: J.C.B. Mohr) 初版 1920, 1920 ▸

  5. 著書

    1920 年オーストリア連邦憲法 (B-VG) の起草者本人による注解書。世界初の集中型・専門裁判所方式の憲法裁判所 (Verfassungsgerichtshof) の制度設計を確認可。

    Hans Kelsen『Die Bundesverfassung vom 1. Oktober 1920』(Wien: Deuticke) 1922, 1922 ▸

  6. アーカイブ

    生涯と業績の日本語要約。1929 年裁判官更迭、1933 年ケルン罷免、1940 年米国移住、1942 年バークレー赴任の事実関係を確認。

    Wikipedia 日本語版「ハンス・ケルゼン」項, 2026 ▸