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実践の知

エイブラハム・リンカーン

Abraham Lincoln·1809–1865·アメリカ·

「暴君」と呼ばれて撃たれた男は、 何を守ろうとしたのか?

連邦を守るため戦い、奴隷を解放した<Ruby base="丸太小屋" rt="まるたごや" />出身の弁護士大統領

  • ゲティスバーグ
  • 奴隷解放
  • 連邦維持
一つの国が、奴隷を持つ南と持たない北とに、真っ二つに割れかかっていた。 — ひらく

時代の空気

19世紀前半のアメリカは、ケンタッキー・インディアナ・イリノイのフロンティアを西へ拡げながら、奴隷制で自らを引き裂きつつあった。ミズーリ妥協、五〇年の妥協、五四年カンザス・ネブラスカ法は人民主権の名で旧約束を破り、ホイッグ党は崩れ共和党が結成される。五七年ドレッド・スコット判決、五九年ジョン・ブラウン蜂起。六〇年大統領選で共和党が勝つと、南部諸州は連邦から<Ruby base="離脱" rt="りだつ" />して連合国を結び、六一年四月サムター<Ruby base="砲撃" rt="ほうげき" />で四年戦争が始まる。六三年奴隷解放宣言、六五年第一三修正条項、アポマトックス投降、そして暗殺。

01劇場の銃声

1865年4月14日、金曜の夜。ワシントンのフォード劇場では、喜劇『我等のアメリカのいとこ』が上演されていた。大統領席には、エイブラハム・リンカーンと妻メアリーが座っていた。五日前、南軍の将軍が降伏していた。四年つづいた南北戦争は、事実上もう終わっていた。街は喜びに沸いていた。

大統領席には、警護のために市の警官が一人ついていた。だがその警官は、休憩のために持ち場を離れていた。午後10時15分ごろ、一人の男が大統領席に忍び込む。南部に心を寄せる俳優、ジョン・ウィルクス・ブースだった。ブースは至近距離から、小型のデリンジャー拳銃で後頭部に一発を撃ち込んだ。

ブースは舞台に飛び降り、足を折りながら叫んだ。「Sic semper tyrannis(暴君には常にかくの如く)」。「暴君はいつもこうなる」という意味のラテン語だ。そして彼は逃げた。

ここに、ひとつの大きな「なぜ」がある。リンカーンは、戦争を終わらせたばかりの男だった。六週間前の演説では、誰に対しても悪意を抱かない、と語っていた。なのに、なぜ彼は「暴君」と呼ばれて撃たれたのか。撃った側の目に映っていたリンカーンとは、どんな男だったのか。

その答えを探すために、時は56年前に戻る。ケンタッキーの森の、一軒の丸太小屋まるたごやへ。

02丸太小屋の少年

1809年2月12日、彼はケンタッキー州の丸太小屋まるたごやで生まれた。場所はハーディン郡(今のラルー郡)、ホッジンヴィルの近くのシンキング・スプリング農場だ。父トーマスは大工と農業で暮らし、読み書きができなかった。母ナンシーは、信仰の深いバプティスト派の女性だった。

一家は辺境を転々とした。1816年、奴隷を認めるケンタッキーから、奴隷を認めないインディアナ州南部のピジョン・クリークへ移る。父はクエーカー(キリスト教の一派)に近い信仰を持ち、奴隷制を嫌っていた。

1818年、エイブラハムが9歳のとき、母ナンシーが死んだ。「乳熱(milk sickness)」という病だった。牛が毒のある野草を食べ、その乳を飲んだ人にも毒がまわる。父は翌年、サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。継母サラは三人の子を連れて来た家で、エイブラハムにも本を読めと勧めた。彼は生涯、この継母を「天使のような母」と呼んだ。

学校に通った期間は、生涯で合わせて1年に足りない。丸太小屋まるたごやの暖炉の前で、少年は同じ本を何度も読んだ。シェイクスピア、欽定訳聖書、『ピルグリムの進歩』『ロビンソン・クルーソー』『イソップ寓話』。身長は193センチに伸びた。斧をふるって日に焼けた長身は、のちに「丸太割りの男(Rail Splitter)」という選挙の合言葉になる。

1830年、一家はさらに西のイリノイへ移った。翌1831年、22歳のエイブラハムは、ひとりで親元を離れる。行き着いた先は、ニューセイラムという小さな村だった。

03小さな村から議会へ

1831年、22歳の彼はイリノイ州ニューセイラム村に流れ着いた。雑貨店の店員、郵便局長、土地の測量士。仕事を変えながら、独学で法律と数学を学んだ。1832年には、ブラックホーク戦争に民兵みんぺいとして志願する。最初の部隊では仲間に選ばれて大尉たいいになった。任期が切れると一兵卒として再入隊をくり返したが、実戦の経験はない。のちに下院で、自分の従軍を冷やかして笑いを取っている。

1834年、ホイッグ党からイリノイ州議会議員に当選した。以後、四期つとめる。1837年には独学で弁護士べんごしの資格を取り、スプリングフィールドへ移った。1842年、メアリー・トッドと結婚する。ケンタッキー州レキシントンの、裕福でホイッグ党に人脈のある家の娘だった。

四人の息子が生まれた。だがそのうち三人を、夫妻は相次いで失う。次男エドワードは1850年、四歳になる直前に長い病で。三男ウィリーは1862年、ホワイトハウスで暮らす中で腸チフスで。四男タッドは1871年、父の死のあとに。成人まで生きたのは長男ロバートだけだった。息子たちの死とともに、メアリーの心は崩れていく。晩年、彼女は精神病院に入った。

1846年、彼は連邦れんぽう下院議員に一期だけ当選した(ホイッグ党)。当時アメリカはメキシコと戦争をしていた(米墨戦争)。リンカーンはこの戦争を「大統領が憲法を踏み越えた戦争」だと告発する。戦争が始まった場所を地番まで示せ、と政府に迫る「スポット決議(Spot Resolutions)」を出した。だが地元の人びとは、戦争に熱くなっていた。その空気を読み違え、再選の道は閉ざされる。1849年、彼はいったん政界から退いた。

以後の十年は弁護士に打ち込んだ。イリノイの巡回裁判所を回り、全米でも指折りの鉄道顧問弁護士となる。機械工業の特許をめぐる訴訟や、輸送の事件を扱った。1849年には自分でも特許を取っている。船を浅瀬から持ち上げる装置だ。アメリカの大統領で特許を持つのは、彼ひとりである。

大統領が憲法を踏み越えるのを許さない。若い議員はそう言って、議席を失った。その男がのちに大統領となり、憲法の権限を誰よりも広く読むことになる。

04分かれた家

1854年、が成立した。1820年のミズーリ妥協だきょう(南北が譲り合って決めた約束)は、北緯36度30分より北での奴隷制を禁じていた。新しい法はこの約束を破った。新しい州で奴隷制を認めるかどうかは、住民の投票で決める。これを「人民主権(popular sovereignty)」と呼んだ。リンカーンは「この法は自由の土台どだいを覆す」と激しく怒り、政界に戻る。

1854年、北部の各州で共和党が結成されていた。リンカーンはその共和党に1856年加入した。対立はさらに煮詰まる。1857年、。連邦最高裁は、黒人は市民ではないと裁定した。1859年、がハーパーズ・フェリーの武器庫を襲撃する。奴隷制をめぐる対立は、決定的に煮詰まっていた。

1858年6月、彼はイリノイの上院議員候補として党大会で受諾演説をした。聖書のマルコ伝を引いて、こう語る。「分かれた家は立つことができない(A house divided against itself cannot stand)」。アメリカは半分が奴隷制、半分が自由のままでは続かない。いずれかに決着する、と。これがである。

半ば奴隷、半ば自由の家は立ちゆかない

— 「分かれた家」演説(1858年6月、上院議員候補としての党大会受諾演説)

相手は民主党の現職、だった。二人は州内の七つの都市で公開討論を行った。リンカーン=ダグラス七大討論である。結果は州議会の票で敗北した。だが討論の記録は全米の新聞に流れ、彼の名は全国に知られた。

二年後、その男が大統領選挙に出る。南部の州では、投票用紙に彼の名前すら載らなかった。

05割れた国の大統領

1860年11月、大統領選挙。共和党のリンカーンは、南部の全州で投票用紙に載らないまま、四〇%の得票で勝った。南部の州にとって、奴隷制の拡大に反対する大統領は耐えがたかった。サウスカロライナを先頭に、南部11州が連邦からの離脱りだつを宣言する。彼らはアメリカ連合国(Confederacy)を結成した。

1861年3月4日、リンカーンは大統領に就任した。4月12日、サウスカロライナ州チャールストン港で砲声が上がる。港にある連邦の要塞が撃たれた。である。ここから南北戦争が始まった。四年で約六〇万人が死ぬ。当時のアメリカの人口の、およそ二%にあたる。

リンカーンはワシントンに踏み止まり、戦争を指導した。最初の一年半、北軍は負けつづけた。彼は憲法の戦時権限を広く解釈した。を停止した。これは、理由を示さずに人を捕らえておくことを禁じる、古い法の仕組みである。海上を封鎖し、徴兵令も出した。若いころ、大統領が憲法を踏み越えたと告発した男が、いま自分で憲法をぎりぎりまで広く読んでいた。

1862年9月、アンティータムの会戦。北軍はかろうじて引き分けに持ちこんだ。リンカーンはこれを好機と見て、奴隷解放予備宣言を出す。1863年1月1日、が発効した。連邦に反乱している州の奴隷は、自由とされた。ただし、連邦側に残った国境諸州(Border States)の奴隷は対象外だった。メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、デラウェアである。北軍がすでに占領していた地域も対象外だった。

なぜ「反乱している州だけ」なのか。それは政治的な妥協だきょうだった。それでもこの宣言は、戦争の意味を書き換えた。「連邦の維持」のための戦争が、「自由の獲得」のための戦争になったのだ。残された国境諸州の奴隷制は、1865年12月にようやく廃止される。合衆国憲法の批准によってである。

同じ1863年の夏、ペンシルヴェニア州の町ゲティスバーグが、戦争の向きを変える。

06二分間の演説

1863年7月、ゲティスバーグで三日間の大会戦があった。南軍の北への進軍はここでくじかれた。以後、北軍が戦略的に優位に立つ。南北戦争の転換点である。同じ年の11月19日、戦死者の墓地を清める式典が開かれた。リンカーンはそこで演説をした。二分間、二七二語。

その日の主役は、二時間演説した学者エドワード・エヴェレットだった。リンカーンの短い言葉は、当時「適切な二分」と評された。だがこの演説は「八七年前、われらの父祖はこの大陸に新しい国民を生み出した」と始まる。の「すべての人は平等」という原理に立ち返り、南北戦争を「自由の新たなる誕生」として意味づけ直した。は、世界史に残る政治演説の一つとなる。エヴェレット自身が翌日、手紙を書き送っている。「あなたが二分で言い当てたことに、私は二時間で近づくこともできなかった」。

この国が、神のもとに、自由の新たなる誕生を迎え、人民の、人民による、人民のための統治が、地上から滅びることのないためである。

— ゲティスバーグ演説(1863年11月19日、戦没者墓地の奉献式典での結びの言葉)

1864年、大統領選挙。戦況は厳しかった。だがシャーマン将軍がアトランタを陥落させた報せが、現職のリンカーンを支えた。彼は再選を果たす。1865年3月4日、。彼は聖書を四度引き、奴隷制の罪は南北の双方が背負ったものだと述べた。そして、戦争で夫を失った女性と、親を失った子への配慮を呼びかけた。

何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって

— 第二期就任演説(1865年3月4日、終戦の五週間前、結びの一節)

憎しみを持たずに、と語った男。その言葉から六週間後、彼は劇場にいた。

07暴君か、守り手か

1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックス・コートハウス。南軍のロバート・E・リー将軍が、北軍のグラント将軍に投降とうこうした。事実上の南北戦争終結だった。ワシントンは歓喜に沸いた。その五日後、聖金曜日にあたる夜に、フォード劇場で銃撃が起きる。

意識を失ったリンカーンは、劇場の向かいにある下宿、ピーターセン邸の小さな寝室に運ばれた。193センチの体は、ベッドに斜めに横たえるしかなかった。翌4月15日午前7時22分、一度も意識を取り戻さぬまま、彼は息を引き取った。56歳。陸軍長官スタントンが枕元でつぶやいたと伝わる。「今や彼は時代のものとなった(Now he belongs to the ages)」。

同じ夜、ブースの共犯者ルイス・パウエルは、病床の国務長官ウィリアム・スワードを刺して重傷を負わせた(スワードは生き残った)。副大統領アンドリュー・ジョンソンを襲う役のジョージ・アツェロットは、尻込みして実行しなかった。計画は、連邦政府の頭部をいっぺんに切り落とす大陰謀だった。ブース自身は十二日後、ヴァージニア州の納屋で包囲され、射殺される。

ここで冒頭の「なぜ」に戻る。ブースはなぜ「暴君」と叫んだのか。

南部の側から見たリンカーンの四年間を、法の言葉で辿り直してみる。彼は憲法上の戦時権限を広く解釈し、ハビアス・コーパスを停止し、海上封鎖を布き、徴兵令を出した。奴隷解放宣言もまた、道徳的な宣言であると同時に、戦時権限の法的枠組みに従った軍事措置であった。反乱中の州の奴隷のみを解放し、連邦側に踏み止まった国境諸州と北軍占領地域を対象外としたのは、大統領の戦時権限が及ぶ範囲に沿った政治的妥協である。だからこそ奴隷制の恒久的な廃止は、大統領の宣言ではなく、合衆国憲法第一三修正条項という憲法改正の手続きに引き継がれた。アメリカは統一された一つの国民であり、一方的な離脱は許されない――このの論理は、離脱した側にとっては、自分たちの選択を武力で押し戻す論理でもあった。カンザス・ネブラスカ法が掲げた「人民主権」を、リンカーンは自由の土台を覆すものとして拒んだ。その同じ男が、人民の統治を守るために、非常時権限を連邦保全と自由獲得という大義の下で行使した。1840年代に米墨戦争を「大統領が憲法を踏み越えた戦争」と告発した下院議員が、十数年後には戦時大統領として、その権限の広さを自ら示すことになったのである。

ブースの見た「暴君」と、スタントンの見た「時代のもの」は、同じ一人の男だった。人民の統治を守るために、人民の一部を力で押さえる。それは許されるのか。許されるとしたら、どこまでか。あの夜、劇場の席にあなたがいたら、彼を何と呼んだだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. ケンタッキー州ハーディン郡(現ラルー郡)の丸太小屋に誕生
  2. 母ナンシー死去(乳熱)、9歳。翌年父が再婚、継母サラが本を勧める
  3. イリノイ州ニューセイラムへ単身移住
  4. ブラックホーク戦争に民兵大尉として志願(実戦経験なし)
  5. イリノイ州議会議員(ホイッグ党、四期)
  6. 独学で弁護士資格取得、スプリングフィールド開業
  7. メアリー・トッドと結婚
  8. 連邦下院議員(一期)。米墨戦争批判の Spot Resolutions
  9. カンザス・ネブラスカ法成立を機に政界復帰
  10. 共和党に加入
  11. リンカーン=ダグラス七大討論。「分かれた家」演説、上院選敗北
  12. 第16代大統領選挙に当選。南部諸州が連邦離脱を開始
  13. 3月4日就任。4月12日サムター砲撃で南北戦争勃発
  14. 9月22日、奴隷解放予備宣言。次男ウィリー死去
  15. 1月1日、奴隷解放宣言発効。7月ゲティスバーグ戦、11月19日ゲティスバーグ演説
  16. 大統領再選
  17. 3月4日第二期就任演説。4月9日アポマトックス投降。4月14日フォード劇場で銃撃、15日朝死去。12月、第13修正条項批准で奴隷制廃止

残した思想の輪郭

  • 連邦の不可分性 ― アメリカは統一された一つの国民であり、一方的な離脱は許されない
  • 奴隷解放宣言と国境諸州の妥協 ― 戦時権限に基づき反乱州の奴隷のみを解放し、第13修正条項で恒久化を引き継いだ
  • 人民の統治 ― 「人民の、人民による、人民のための統治」という民主主義の核心的定式
  • 独立宣言原理の再呼出し ― 「すべての人は平等」という独立宣言の原理を憲法の精神に据え直す
  • 戦時大統領の倫理 ― ハビアス・コーパス停止や徴兵令を含む非常時権限を、連邦保全と自由獲得という大義の下で行使した
  • 和解と慈愛 ― 憎しみをもたず、すべての人に慈愛をもって戦後を構築する倫理
1865年4月15日朝、フォード劇場向かいの下宿ピーターセン邸で死去。56歳。前夜、狙撃犯ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

エイブラハム・リンカーンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • リンカーン記念堂ゆかり

    ワシントンD.C., アメリカ

    ナショナル・モールに立つ巨大座像と演説碑を擁する国民的記念堂

  • フォード劇場国立史跡記念館

    ワシントンD.C., アメリカ

    リンカーン暗殺の現場、向かいのピーターセン・ハウスに絶命の間

  • リンカーン墓所墓所

    スプリングフィールド, アメリカ

    オーク・リッジ墓地に建つリンカーンの墓廟

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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