エイブラハム・リンカーン
連邦は、 どう守られるべきか?
連邦を守るため戦い、奴隷を解放した<Ruby base="丸太小屋" rt="まるたごや" />出身の弁護士大統領
- ゲティスバーグ
- 奴隷解放
- 連邦維持
時代の空気
19世紀前半のアメリカは、ケンタッキー・インディアナ・イリノイのフロンティアを西へ拡げながら、奴隷制で自らを引き裂きつつあった。ミズーリ妥協、五〇年の妥協、五四年カンザス・ネブラスカ法は人民主権の名で旧約束を破り、ホイッグ党は崩れ共和党が結成される。五七年ドレッド・スコット判決、五九年ジョン・ブラウン蜂起。六〇年大統領選で共和党が勝つと、南部諸州は連邦から<Ruby base="離脱" rt="りだつ" />して連合国を結び、六一年四月サムター<Ruby base="砲撃" rt="ほうげき" />で四年戦争が始まる。六三年奴隷解放宣言、六五年第一三修正条項、アポマトックス投降、そして暗殺。
01ケンタッキーの丸太小屋
1809年2月12日、ケンタッキー州ハーディン郡(現ラルー郡)ホッジンヴィル近郊シンキング・スプリング農場の丸太小屋に生まれた。父トーマス・リンカーンは読み書きのできない大工兼農民、母ナンシー・ハンクス・リンカーンは敬虔なバプティスト派の女性だった。
リンカーン家は一家を挙げて辺境を転々とした。1816年、奴隷所有州ケンタッキーから自由州インディアナ南部のピジョン・クリークへ移住する(父はクエーカー寄りの信仰もあって奴隷制を嫌っていた)。1818年、エイブラハムが9歳のとき、母ナンシーは「乳熱(milk sickness)」――牛が有毒な野草を食み、その乳を介して人にも及ぶ中毒――で死去した。父は翌年再婚し、継母サラ・ブッシュ・ジョンストンは三人の連れ子を伴って入った家でエイブラハムにも本を読めと勧めた。少年は継母を生涯「天使のような母」と呼んだ。
正規の学校教育は生涯で1年に満たない。丸太小屋の暖炉の前で、シェイクスピア、欽定訳聖書、『ピルグリムの進歩』『ロビンソン・クルーソー』『イソップ寓話』を繰り返し読んだ。身長193センチ、斧を振るう日焼けした長身は、後に「丸太割りの男(Rail Splitter)」という選挙スローガンになる。
1830年、一家はさらに西のイリノイへ移った。エイブラハムは翌1831年、二十二歳でひとり親元を離れる。
02ニューセイラム、弁護士、下院議員
1831年、22歳でイリノイ州ニューセイラム村に流れ着いた。雑貨店の店員、郵便局長、土地測量士を務めつつ、独学で法律と数学を学んだ。1832年、ブラックホーク戦争にイリノイ民兵として志願し、初任の中隊では仲間に選ばれて大尉を務めた。任期が切れたあとは一兵卒として再入隊を重ねたが、実戦の経験はなく、後に下院で自分の従軍を冷やかに振り返って笑いを取った。
1834年、ホイッグ党からイリノイ州議会議員に当選し、以後四期務めた。1837年、独学で弁護士資格を取得しスプリングフィールドに移る。1842年、ケンタッキー州レキシントンの裕福なホイッグ党人脈を持つ家のメアリー・トッドと結婚した。四人の息子に恵まれたが、次男エドワード(1850、四歳直前の長い病で)、三男ウィリー(1862、ホワイトハウス在任中に腸チフスで)、四男タッド(1871、父の死後)を相次いで失い、成人まで生きたのは長男ロバートのみだった。メアリーの精神は息子たちの死とともに崩れ、晩年は精神病院に入る。
1846年、連邦下院議員に一期だけ当選した(ホイッグ党)。米墨戦争を「大統領が憲法を踏み越えた戦争」と告発し、戦争の発端の場所を地番まで特定するよう政府に迫る「スポット決議(Spot Resolutions)」を提出。地元の戦争熱を読み違えて再選の道は閉ざされ、1849年に政界からいったん退いた。以後の十年、彼はイリノイ巡回裁判所と全米屈指の鉄道顧問弁護士として、機械工業の特許訴訟、輸送事件を扱う。なお1849年に船を浅瀬から持ち上げる装置で特許を取得した(米国大統領で特許保持者は彼ひとり)。
03カンザス・ネブラスカ法と再登場
1854年のカンザス・ネブラスカ法は、北緯三六度三〇分以北での奴隷制を禁じたミズーリ妥協(1820)を破棄し、新州の奴隷制の是非を住民投票――「人民主権(popular sovereignty)」――に委ねた。リンカーンは「この法は自由の土台を覆す」と激怒し、政界に復帰する。1854年に北部各州で結党された共和党に1856年加入した。1857年のドレッド・スコット判決(連邦最高裁が黒人は市民ではないと裁定)、1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー武器庫襲撃が、奴隷制をめぐる対立を決定的に煮詰めていた。
1858年、イリノイ上院議員選挙でリンカーンは民主党現職スティーヴン・ダグラスに挑み、州内七都市で七大公開討論を行った。結果は州議会の票で敗北したが、討論記録は全米の新聞に流れ、リンカーンの名声は全国化した。同年六月の党大会受諾演説では、聖書のマルコ伝を引いて「分かれた家は立つことができない(A house divided against itself cannot stand)」と語る。アメリカは半分奴隷制、半分自由のままでは存続できない――いずれかに決着する、と。
04大統領、そして南北戦争
1860年11月の大統領選挙で、共和党のリンカーンは南部全州で投票用紙にすら載らないまま、四〇%の得票で勝利した。南部諸州にとって、奴隷制の拡大に反対する大統領の就任は耐えがたかった。サウスカロライナを皮切りに南部11州が連邦からの離脱を宣言し、アメリカ連合国(Confederacy)を結成する。1861年3月4日、リンカーンが大統領に就任。同年4月12日、サウスカロライナ州チャールストン港の連邦施設サムター要塞への砲撃で南北戦争が勃発した。四年で約六〇万人――当時のアメリカ人口の約二%――が死ぬ戦争となる。
リンカーンはワシントンに踏み止まり、四年間にわたり戦争を指導した。最初の一年半、北軍は敗北を重ねる。憲法上の戦時権限を広く解釈し、ハビアス・コーパスを停止し、海上封鎖を布き、徴兵令を出した。1862年9月のアンティータム会戦でかろうじて戦術的引き分けを得ると、それを好機としてリンカーンは奴隷解放予備宣言を発する。1863年1月1日、発効――連邦に反乱中の州の奴隷は自由とされた。ただしメリーランド・ケンタッキー・ミズーリ・デラウェアといった連邦側に踏み止まった国境諸州(Border States)、および北軍が既に占領していた地域は対象外という、戦時権限の法的枠組みに従った政治的妥協を含んでいた。それでもこの宣言は戦争の目的を「連邦の維持」から「自由の獲得」へと道徳的に書き換える。残された国境諸州の奴隷制は、1865年12月批准の合衆国憲法第一三修正条項によって最終的に廃止された。
この国が、神のもとに、自由の新たなる誕生を迎え、人民の、人民による、人民のための統治が、地上から滅びることのないためである。
05ゲティスバーグ演説と再選
1863年7月、ペンシルヴェニア州ゲティスバーグで南北戦争の転換点となる三日間の大会戦が行われた。南軍の北進はここで挫かれ、以後北軍が戦略的優位に立つ。同年11月19日、戦没者墓地の奉献式典で、リンカーンは二分間二七二語の演説を行った。
当日の主演者は二時間演説した学者エドワード・エヴェレットだった。リンカーンの短い言葉は当時「適切な二分」と評された。だがこの演説は、「八七年前、われらの父祖はこの大陸に新しい国民を生み出した」という書き出しで独立宣言の「すべての人は平等」原理に立ち返り、南北戦争を「自由の新たなる誕生」として再定義した。世界史に残る政治演説の一つとなる。エヴェレット自身が翌日、リンカーン宛ての手紙で「あなたが二分で言い当てたことに、私は二時間で近づくこともできなかった」と書き送っている。
1864年、リンカーンは厳しい戦況のなか――現職としてシャーマン将軍のアトランタ陥落の報せに支えられ――大統領再選を果たした。翌1865年3月4日のでは、聖書を四度引いて、奴隷制の罪が南北の双方に背負わされたものだと述べた。「誰に対しても憎しみを抱かず、すべての人に慈愛をもって(With malice toward none, with charity for all)」と結び、戦争で破れた寡婦と孤児への配慮を呼びかけた。
06フォード劇場の銃声
1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックス・コートハウスで南軍のロバート・E・リー将軍がグラント将軍に投降した。事実上の南北戦争終結だった。ワシントンは歓喜に沸いた。
4月14日金曜夜――聖金曜日にあたる夜だった――リンカーンは妻メアリーとともにフォード劇場で喜劇『我等のアメリカのいとこ』を観劇していた。大統領席には警護のため一人の市警官が配置されていたが、休憩のため職務を抜け出していた。午後10時15分頃、南部同情派の俳優ジョン・ウィルクス・ブースが大統領席に忍び込み、至近距離からデリンジャー拳銃で後頭部に一発を撃ち込んだ。ブースは舞台に飛び降りて足を折りながら「Sic semper tyrannis(暴君には常にかくの如く)」と叫んで逃走した(十二日後、ヴァージニア州の納屋で包囲され射殺される)。
意識不明のリンカーンは劇場向かいの下宿ピーターセン邸の小さな寝室に運ばれた。身長193センチの大統領は、ベッドに斜めに横たえるしかなかった。翌4月15日午前7時22分、一度も意識を取り戻さぬまま彼は息を引き取った。56歳。陸軍長官スタントンが枕元で「今や彼は時代のものとなった(Now he belongs to the ages)」と呟いたと伝わる。
同じ夜、ブースの共犯者ルイス・パウエルは病床の国務長官ウィリアム・スワードを刺して重傷を負わせた(スワードは生存)。副大統領アンドリュー・ジョンソン襲撃を担当したジョージ・アツェロットは尻込みして実行しなかった。計画は連邦政府の頭部を同時に切断する大陰謀だった。
07主要な出来事と著作
- ケンタッキー州ハーディン郡(現ラルー郡)の丸太小屋に誕生
- 母ナンシー死去(乳熱)、9歳。翌年父が再婚、継母サラが本を勧める
- イリノイ州ニューセイラムへ単身移住
- ブラックホーク戦争に民兵大尉として志願(実戦経験なし)
- イリノイ州議会議員(ホイッグ党、四期)
- 独学で弁護士資格取得、スプリングフィールド開業
- メアリー・トッドと結婚
- 連邦下院議員(一期)。米墨戦争批判の Spot Resolutions
- カンザス・ネブラスカ法成立を機に政界復帰
- 共和党に加入
- リンカーン=ダグラス七大討論。「分かれた家」演説、上院選敗北
- 第16代大統領選挙に当選。南部諸州が連邦離脱を開始
- 3月4日就任。4月12日サムター砲撃で南北戦争勃発
- 9月22日、奴隷解放予備宣言。次男ウィリー死去
- 1月1日、奴隷解放宣言発効。7月ゲティスバーグ戦、11月19日ゲティスバーグ演説
- 大統領再選
- 3月4日第二期就任演説。4月9日アポマトックス投降。4月14日フォード劇場で銃撃、15日朝死去。12月、第13修正条項批准で奴隷制廃止
残した思想の輪郭
- 連邦の不可分性 ― アメリカは統一された一つの国民であり、一方的な離脱は許されない
- 奴隷解放宣言と国境諸州の妥協 ― 戦時権限に基づき反乱州の奴隷のみを解放し、第13修正条項で恒久化を引き継いだ
- 人民の統治 ― 「人民の、人民による、人民のための統治」という民主主義の核心的定式
- 独立宣言原理の再呼出し ― 「すべての人は平等」という独立宣言の原理を憲法の精神に据え直す
- 戦時大統領の倫理 ― ハビアス・コーパス停止や徴兵令を含む非常時権限を、と自由獲得という大義の下で行使した
- 和解と慈愛 ― 憎しみをもたず、すべての人に慈愛をもって戦後を構築する倫理
出典と確認メモ
7件- 文脈一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 南北戦争最大の激戦地ペンシルヴェニア州ゲティスバーグで、戦没者墓地の奉献式に招かれた大統領が、主講演者エドワード・エヴェレットの二時間の弔辞のあとに語った二分、272語の結び。「87年前」と独立宣言に...
一次資料を開くGettysburg Address (1863-11-19) Bliss copy 全文。'Four score and seven years ago' で...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 半ば奴隷、半ば自由の家は立ちゆかない
一次資料を開くHouse Divided Speech, June 16, 1858, Springfield, Illinois, opening paragraph: '...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって
一次資料を開くSecond Inaugural Address, March 4, 1865, closing paragraph: 'With malice toward ...
- 引用本文一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: この国が、神のもとに、自由の新たなる誕生を迎え、人民の、人民による、人民のための統治が、地上から滅びることのないためである。
一次資料を開くGettysburg Address Bliss copy (1864 作成、Lincoln 自筆 5 通中最も最終形): '...that this nati...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 人民の、人民による、人民のための統治が、この地上から滅びないために
一次資料を開くGettysburg Address (1863-11-19) 最終文: 'that government of the people, by the peop...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: lincoln.mdx pullsource 'ゲティスバーグ演説(1863)' は Abraham Lincoln, Gettysburg Address, 1863-11-19, Soldiers...
一次資料を開くGettysburg Address delivered November 19, 1863, Bliss copy text confirmed (WebFe...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: quotes.ts lincoln-1.source 「ゲティスバーグ国立戦没者墓地奉献式典での演説結び(1863年11月19日)」は Abraham Lincoln, Gettysburg Addr...
一次資料を開くLoC Abraham Lincoln Papers — 5 manuscripts of Gettysburg Address 全保存。Soldiers' N...
つながり
- トマス・ジェファソン
先駆 — リンカーンはゲティスバーグ演説(1863)冒頭「87年前(fourscore and seven years ago)」でジェファソン独立宣言(1776)の「すべての人は平等に創られた(all men are created equal)」を起点として合衆国再定義。1859年書簡でも「ジェファソンの宣言は自由社会の定義であり抽象的真理である」と記し、独立宣言を奴隷解放への憲法的根拠として引く
- マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
先駆 — 1963年8月28日「ワシントン大行進」でのキングの「I Have a Dream」演説は、リンカーン記念堂前の階段上から、リンカーン「奴隷解放宣言」100周年という日付を背景に行われた。演説冒頭「Five score years ago, a great American...signed the Emancipation Proclamation」はリンカーン・ゲティスバーグ演説(1863)の定型「Four score and seven years ago」の明確な参照
- フランクリン・ローズベルト
先駆 — 連邦を守った危機の大統領の系譜、ニューディールで「もう一つの救済」を担う
さらに読むならFurther Reading
エイブラハム・リンカーンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門リンカーン演説集
エイブラハム・リンカーン / 訳: 高木八尺、斎藤光 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
エイブラハム・リンカーンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- リンカーン記念堂ゆかり
ワシントンD.C., アメリカ
ナショナル・モールに立つ巨大座像と演説碑を擁する国民的記念堂
- フォード劇場国立史跡記念館
ワシントンD.C., アメリカ
リンカーン暗殺の現場、向かいのピーターセン・ハウスに絶命の間
- リンカーン墓所墓所
スプリングフィールド, アメリカ
オーク・リッジ墓地に建つリンカーンの墓廟
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
エイブラハム・リンカーンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「エイブラハム・リンカーン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Abraham Lincoln"
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