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実践の知

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

Martin Luther King Jr.·1929–1968·アメリカ·

憎しみに対しては、 何をもって応えるか?

非暴力と夢で公民権運動を牽引し凶弾に斃れたバプティスト牧師

  • 夢見ている
  • 非暴力
  • バーミンガム書簡

時代の空気

南北戦争後の再建期が頓挫し、南部はジム・クロウ体制を固めていた時代だった。一八九六年プレッシー対ファーガソン判決は「分離すれども平等」を合憲とし、学校・バス・水飲み場までが肌の色で分けられた。一九五四年ブラウン対教育委員会判決は学校隔離を違憲としたが、南部の抵抗は根強い。冷戦下、米国は世界に民主主義を説きながら自国の人種差別を抱えていた。一九五五年エメット・ティルのリンチ、ローザ・パークスの逮捕。モンゴメリーのバス・ボイコット、座り込み、フリーダム・ライド、ワシントン大行進、セルマ。法は次々と動いたが、運動は終わらなかった。

01アトランタ、オーバーン通りの牧師館

1929年1月15日、ジョージア州アトランタのオーバーン・アヴェニュー501番地に生まれた。出生時の名はマイケル・キング・ジュニア。父マイケル・キング・シニアがエベネザー・バプテスト教会の牧師ぼくし、祖父A.D.ウィリアムズも同教会の二代前の牧師、母アルバータは教会のオルガニストだった。姉クリスティン、弟アルフレッド・ダニエル(A.D.)とともに、繁栄した黒人街「スウィート・オーバーン」の牧師館で育った。

1934年、父はベルリンを訪れて宗教改革者マルティン・ルターの足跡そくせきに触れ、自身と五歳の息子の名を「マーティン・ルーサー」に改めた ― この改名は法的書類には反映されないまま長く混在し、出生証明書の修正は本人が大人になってからのことだった。

少年期のキングは、ジム・クロウ法下の南部の差別に繰り返し直面した。6歳のとき、白人の遊び友達の親から「もう家の子と遊ばせない、黒人だから」と告げられた日のことを、彼は後年しばしば語った。家庭は裕福で教育熱心だったが、「黒人であること」の屈辱は日常のなかにあった。

ブッカー・T・ワシントン高校で二学年を飛び、15歳の1944年秋にモアハウス大学(アトランタの黒人男子大学)に入学した。学長ベンジャミン・メイズは社会正義を説く牧師学者で、キングは彼の影響で牧師ぼくしへの召命を受けた。1948年2月、19歳でエベネザー教会において按手あんしゅを受け、父の教会の副牧師に就任した。

02クローザー、ボストン ― ニーバーとガンディーの読書

1948年、ペンシルヴェニアのクローザー神学校に入学。白人が多数を占めるリベラル神学校で、キングは社会福音主義、平和主義、実存主義に触れた。ここで彼はパウル・ティリッヒ、ラインホールド・ニーバー、そしてマハトマ・ガンディーの著作を貪るように読んだ。ガンディーの非暴力抵抗(サティヤーグラハ)が、キリスト教の「汝の敵を愛せよ」と結びついたとき、彼は自分の進むべき道を直感した。

1951年、ボストン大学大学院に進学。組織神学の博士課程で、L・ハロルド・デウォルフのもとパーソナリズム(人格主義)神学を専攻した。1953年6月18日、アラバマ出身の声楽家コレッタ・スコットとマリオンの実家庭園で結婚 ― 立会人は父キング・シニアだった。1954年9月、25歳でアラバマ州モンゴメリーのデクスター・アヴェニュー・バプテスト教会の牧師となり、翌1955年6月にボストン大学から組織神学の博士号を授与された。

博士論文をめぐっては、後の1991年にボストン大学の調査委員会が他者の論考からの引用不適切な箇所を確認している。委員会は学位は剥奪しないとの結論に至ったが、論文の付随注で剽窃ひょうせつがあった事実は記録された。聖人化の物語に収まらない、彼の生身なまみの側面である。

03モンゴメリー・バス・ボイコット ― 二六歳の指導者

1955年12月1日、モンゴメリー市バスでローザ・パークスが白人に席を譲ることを拒否し逮捕された。翌日、女性政治評議会(WPC)のジョー・アン・ロビンソンが徹夜で五万二千枚のビラを謄写し、黒人コミュニティはバス・ボイコットを開始した。組織のための新団体「モンゴメリー改善協会(MIA)」が結成され、よそ者でなく派閥に染まらない新任牧師として、26歳のキングが妥協点として会長に選ばれた。

ボイコットは381日続いた。黒人市民はバスを拒み、徒歩や相互乗合で通勤を続けた。キングは毎週月曜の大衆集会で説教調の演説を行った。1956年1月30日、彼の自宅が爆破された ― 妻と生後10週の長女ヨランダは無事だった。怒り狂う支持者たちに、キングは家の前に立って冷静に「暴力で応えるな、これは銃と弾で勝つ闘いではない」と呼びかけた。

1956年12月、合衆国最高裁が市バスの人種隔離を違憲と判決(Browder v. Gayle)。ボイコットは勝利で終わった。キングは一躍、公民権運動の全国的指導者となった。1957年1月、彼を中心に(SCLC)がアトランタで結成された。

04バーミンガム、市立刑務所の独房書簡

1960年代初頭、運動の焦点はバーミンガム(アラバマ州)に移った。ここは「米国で最も人種差別的な都市」と呼ばれ、警察署長ブル・コナーの強硬姿勢で悪名高かった。1963年4月3日、キングは市の商店街へのキャンペーン「プロジェクトC(Confrontation)」を開始した。

4月12日(聖金曜日)、キングは市の禁止命令を破って行進を主導し、バーミンガム市立刑務所に収監された。独房で、地元の白人聖職者八人が彼の運動を「時期尚早」と批判する公開書簡を読んだ。彼は新聞の余白、トイレットペーパー、自身の弁護士が差し入れた紙にペンを走らせ、返答を書いた ― 「バーミンガム市立刑務所からの手紙」。「正義の遅延は正義の拒否である」「自由は抑圧する側から進んで差し出されることはない」「不正な法は法ではない」。アウグスティヌス、アクィナス以来の自然法、独立宣言、聖書を縦横に引いたこの文書は、20世紀米国の最も重要な政治的散文となった。

5月、コナーの警察は子どもデモ隊に消防ホースと警察犬を向けた。テレビに映されたその映像は全米と世界の衝撃を呼び、ケネディ政権に案の提出を決断させた。

私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、元奴隷の息子と元奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに着く日が来るという夢が。

「私には夢がある」演説(1963年8月28日、リンカーン記念堂前)

05ワシントン大行進、ノーベル平和賞、セルマ

1963年8月28日、「仕事と自由のためのワシントン大行進」に約25万人が集結した。組織の中軸を担ったのは ― クエーカー教徒・ガンディー主義者・非暴力組織者で、同性愛者であることと過去の共産党員歴を理由に表舞台から退けられがちだったが、わずか八週間でこの巨大行進を組み上げた。リンカーン記念堂前の階段で、キングは予定演説の後半、同席のゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンの「マーティン、あの夢の話を!」の呼びかけに応えて原稿を離れ、即興で語り始めた ― 「I have a dream(私には夢がある)」。

いつの日か、ミシシッピの州でも肌の色ではなく人格の中身で判断される日が来るという夢。四人の子供たちが差別のない国で暮らす夢。アフリカン・アメリカンの説教伝統と独立宣言・聖書を織り合わせたこの十七分間の演説は、アメリカの政治演説の最高峰として記憶された。

1964年7月2日、公民権法がジョンソン大統領により署名された。同年10月14日、キングは35歳でノーベル平和賞を受賞した ― 当時の最年少受賞者だった。1965年3月、アラバマ州セルマから州都モンゴメリーへの大行進を主導した。3月7日の最初の試みはエドマンド・ペタス橋上で州警察が群衆を殴打し「血の日曜日」と呼ばれ、テレビ映像が全米の良心を揺さぶった。8月6日、が成立した。

06ベトナム、貧困、そして監視される運動

1965年以降、キングは運動の射程を広げた。1966年のシカゴ「オープン・ハウジング」運動は北部白人地域の人種隔離を問うたが、白人の激しい敵意と政治的妥協のなかで成果を残せず終わった。1967年4月4日、ニューヨークのリバーサイド教会での反戦はんせん演説「ベトナム ― 沈黙を破るとき」は、戦費が貧困対策を奪い、米国を「世界最大の暴力供給者」にしていると断じた。タイム誌、ワシントン・ポスト、NAACPまでもが「外交問題に口を出すな」と批判したが、キングは「沈黙は裏切りだ」として撤回しなかった。

「貧しい人々の運動(Poor People's Campaign)」を構想し、人種の壁を超えた経済的正義の運動を計画した。だがこの時期、彼は深い疲弊のなかにあった。FBI長官J・エドガー・フーヴァーの指揮下で電話盗聴とうちょう、ホテル室内の盗聴、知人を装った密告者の監視かんしが長年続いた。1964年11月にはFBIが録音から編集した婚外関係の音源と「お前には逃げ道は一つしかない」と自殺じさつを勧める匿名書簡がコレッタ宛に送られた事件がある(後に「自殺勧告書簡」として連邦記録から発掘)。

FBI文書には複数の女性関係に関する記述があり、これらは長く封印されていた(2027年までに完全公開予定)。婚外関係を「事実だが文脈の解釈は留保が必要」と扱う研究者もいれば、当時の告発として直視すべきだと論じる研究者もいる。彼を聖人ではなく揺らぐ一人の人間にんげんとして読むことは、運動の重みを軽くしない。むしろそれは、誰もが完璧でなくても正義のために立ち上がりうるという、彼自身の説教の趣旨しゅしと整合する。

07メンフィス、ロレイン・モーテル

1968年2月、メンフィスの黒人清掃労働者一三〇〇人が「私は人間である(I AM A MAN)」のプラカードを掲げてストライキに入った。賃金、安全、組合承認を求める運動だった。3月18日、キングは支援に訪れた。3月28日の最初の行進では一部参加者の暴動化により若者一人が射殺され、運動への風当たりが強まったが、キングは4月3日、再び支援に戻った。

その夜、メイソン・テンプル教会で雷雨のなか彼は「山頂からの眺め(I've Been to the Mountaintop)」演説を行った ― 「私は長生きしたい ― しかし今はそれを気にかけない ― 私は山頂に登って向こう側を見てきた ― 約束の地を ― 私はそこに皆さんと一緒には行けないかもしれない ― しかし約束の地を見たことを伝えたい」。直前に殺害脅迫を受けて到着した39歳の説教者の声は、結果として死の二十四時間前の遺言となった。

4月4日午後6時1分、滞在先のロレイン・モーテル306号室のバルコニーで、向かいの下宿屋からジェームズ・アール・レイが放った一発の銃弾を喉に受けた。緊急搬送された聖ジョセフ病院で、午後7時5分に死亡が確認された。39歳。

ニュースが全米に広がると、ワシントンDC、シカゴ、ボルチモアを含む百以上の都市で暴動ぼうどうが発生した。4月9日、アトランタで葬儀。十六万人の参列者、五万人の棺を運ぶ行列。遺言通り、ぞうに引かれた素朴な農民の荷車が、モアハウス大学まで棺を運んだ。弔辞で彼の録音による自らの葬儀の言葉が流された ― 「私の死を悼む時、賞も私のノーベル平和賞も称賛も数え上げないでほしい。ただ、『彼は飢えた人に食べ物を与えようとした』『彼は裸の人に服を与えようとした』と伝えてほしい」。妻コレッタは夫の死後も非暴力運動を継承し、アトランタにキング・センターを設立。1986年に連邦祝日しゅくじつ「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日」が成立、2011年にはワシントンDCナショナル・モールにキング像が建立された。後継こうけい者として彼女が二十年がかりで実現させた仕事である。

08主要な出来事と著作

  1. 1月15日、アトランタに誕生。本名マイケル・キング・ジュニア(1934年に父が改名)
  2. 15歳、飛び級でモアハウス大学入学。メイズ学長の影響
  3. 2月、19歳で按手。クローザー神学校でガンディー・ニーバーの著作に出会う
  4. ボストン大学大学院、組織神学Ph.D.(後に剽窃疑惑の対象)
  5. 6月18日、コレッタ・スコットと結婚
  6. 9月、デクスター・アヴェニュー・バプテスト教会牧師就任
  7. 12月1日のローザ・パークス逮捕を契機にバス・ボイコット指導(381日)
  8. 1月、南部キリスト教指導者会議(SCLC)結成、初代会長
  9. インド訪問、ガンディー遺族と会見
  10. 4月、バーミンガム獄中書簡。8月28日、ワシントン大行進「私には夢がある」
  11. 7月公民権法成立。10月、35歳でノーベル平和賞受賞(当時最年少)
  12. 3月セルマ「血の日曜日」と大行進、8月投票権法成立
  13. シカゴ・オープン・ハウジング運動(成果に届かず)
  14. 4月4日、リバーサイド教会でベトナム戦争反対演説
  15. 4月3日「山頂からの眺め」演説。4月4日、ロレイン・モーテルで狙撃され死亡。39歳
  16. 連邦祝日マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日が成立
  17. ワシントンDCナショナル・モールにキング像建立

残した思想の輪郭

  • 非暴力直接行動 ― ガンディーのサティヤーグラハをアフリカン・アメリカン教会の伝統で再定式化
  • 愛による闘争 ― 敵を憎まず、システムとしての不正義と戦う二重の戦略
  • 不正な法への市民的不服従 ― アウグスティヌス、アクィナス以来の自然法伝統を公民権運動に接続
  • 独立宣言の履行 ― 「すべての人は平等」という原理の完成を迫る憲法の道徳的再読
  • 経済的正義と反戦 ― 人種問題を超えて貧困・戦争・軍産複合体への射程拡張
  • 生身なまみの指導者 ― FBI監視・剽窃疑惑・婚外関係を含めて、聖人化を避けて読み直す対象
1968年4月4日午後6時1分、メンフィスのロレイン・モーテル306号室バルコニーで狙撃され、聖ジョセフ病院で死亡確認。39歳。
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  • 文脈一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 1963年4月16日、アラバマ州バーミングハム市ジェファーソン郡刑務所に収監されたキング牧師が、独房で新聞紙の余白と弁護士が持ち込んだ紙片に鉛筆で書きつけた公開書簡の前半(原文 Injustice a...

    一次資料を開くLetter from Birmingham Jail 全文。'I have just received a letter from a friend depl...

  • 文脈一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 1963年8月28日、ワシントン大行進のさなか、リンカーン記念堂の前でキング牧師が25万人を前に読み上げた演説の中盤。用意した原稿を離れ、独立宣言と黒人霊歌を交互に織り込みながら「I have a d...

    一次資料を開く1963-08-28 Lincoln Memorial March on Washington for Jobs and Freedom 演説。約25万人 (s...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 私には夢がある。いつの日か、この国が立ち上がり「すべての人は平等に創造された」という信条の真意を実現する日が来ると

    一次資料を開く演説中盤、'I have a dream' 反復セクション冒頭: 'I have a dream that one day this nation will r...

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、元奴隷の息子と元奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに着く日が来るという夢が。philograph mdx PullQuote source...

    一次資料を開くNPR が公開する 'I Have a Dream' 演説完全 transcript。本句に対応する verbatim: 'I have a dream tha...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 道徳的宇宙の弧は長い ― しかし正義の方向へ曲がってゆく

    一次資料を開くStanford King Institute 公式アーカイブ。1967年8月16日アトランタ第11回SCLC大会演説のメタデータ + 抜粋。'arc of t...

  • 出典一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: quotes.ts mlk-2.source 「『バーミングハムの獄中からの書簡(Letter from Birmingham Jail)』(1963年4月16日)」は Martin Luther K...

    一次資料を開くStanford King Papers Project の公式 entry。'Date: April 16, 1963'、'Location: Birming...

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  • 入門私には夢がある ― M・L・キング説教・講演集

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生きた跡を辿るPlaces

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • マーティン・ルーサー・キング Jr. 国立歴史公園記念館

    アトランタ, アメリカ

    キングの生家・エベネザー・バプティスト教会・墓所を含む国立歴史公園

  • ロレイン・モーテル(国立公民権博物館)記念館

    メンフィス, アメリカ

    キングが凶弾に倒れたモーテル跡、公民権運動の総合博物館

さらに辿るならExternal References

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