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実践の知

ジョン・F・ケネディ

John F. Kennedy·1917–1963·アメリカ·

みんなが「撃て」と 言うとき、 何ができる?

宇宙とキューバ危機の間で新世代を鼓舞し、ダラスで凶弾に斃れた大統領

  • ニューフロンティア
  • 月面計画
  • キューバ危機
  • 公民権
米ソが核ミサイルを構えてにらみ合い、一つの判断ミスが世界を終わらせかねなかった時代 — ひらく

時代の空気

二〇世紀中盤、冷戦は最も張り詰めていた時代だった。一九五七年スプートニク・ショック、一九五九年キューバ革命でカストロが権力を握り、一九六一年八月にはベルリンの壁が築かれた。フルシチョフ、アデナウアー、ド・ゴール、マクミランが向き合う西側同盟の中で、四十三歳のケネディは新世代の象徴として登場する。一九六一年四月のピッグス湾失敗、六月のウィーン会談、一九六二年十月のキューバ・ミサイル危機 ― 核戦争寸前まで近づいた十三日間。公民権運動の高揚、ヴェトナム派兵の拡大、マフィアとCIAの暗い接触。公民権法の成立は彼の死後、一九六四年。

01土曜日、空爆を止めた男

1962年10月27日、土曜日。キューバの上空で、アメリカの偵察機U-2が撃墜げきついされた。操縦士のアンダーソン少佐が戦死した。キューバには、ソ連が運び込んだ核ミサイルの基地がある。アメリカとソ連は、核戦争の一歩手前で向き合っていた。

軍の幹部たちは、報復の空爆を求めた。空爆をすれば、核戦争が始まるかもしれない。しなければ、弱腰だと責められる。大統領ジョン・F・ケネディは、45歳だった。

彼は開戦を選ばなかった。代わりに弟のロバートを、ソ連大使ドブルイニンのもとへ送った。表に出ない裏のルートで、取引を持ちかけるためだった。翌日、ソ連のはミサイルを引き上げると発表した。

この日は、のちに「ブラックサタデー」と呼ばれる。なぜ彼は、軍人たちの声を押し切れたのか。なぜ相手を追い詰めず、逃げ道を残す判断ができたのか。その答えは、この男が歩いてきた道にある。時は45年前に戻る。

02ブルックラインの次男

1917年5月29日、マサチューセッツ州ブルックラインに生まれた。父ジョゼフは、アイルランド系カトリック移民の孫で、株の売買で財産を築いた男だった。のちに証券取引委員会(SEC)の初代委員長となり、1938年から1940年まで駐英大使ちゅうえいたいしを務めた。だがミュンヘン会談でのヒトラーへの譲歩に理解を示し、英国に弱腰だと批判を浴びた。母ローズは、ボストン市長ジョン・F・「ハニー・フィッツ」・フィッツジェラルドの娘だった。

ジョン、愛称「ジャック」は、九人きょうだいの次男である。長兄ジョゼフ・ジュニアの陰で育った。父には「息子を大統領にする」という計画があり、その一番手はいつも兄だった。

きょうだいの運命は重かった。三女ローズマリーには知的障害があった。1941年、父の独断で前頭葉ロボトミー(脳の一部を切る手術)を受け、重い障害を負って家族から長く隔離された。後年、姉のユーニスが知的障害者の支援に生涯を捧げるきっかけとなる。次女キャスリーンは1948年、フランス南部で飛行機事故に遭い、28歳で亡くなった。

ジャック自身も病弱だった。猩紅熱しょうこうねつ、気管支炎。やがて背中と腹の慢性の病(副腎不全、腰椎)に生涯悩まされる。一家は1927年にニューヨーク近郊のブロンクスヴィルへ移り、夏はハイアニスポートで過ごした。それでも本を読むのが好きで、歴史が好きで、機知に富み、人懐こさで周囲を引き寄せた。

チョート校を経て、プリンストン大に1学期だけ在籍した後、1936年にハーヴァード大学へ入学した。卒業論文『なぜイギリスは眠っていたか(Why England Slept)』(1940年出版)は、ミュンヘン会談前後の英国の軍備の不備を論じた。駐英大使だった父の人脈に支えられ、ベストセラーになった。だが戦争が先に試したのは、兄ではなく病弱な弟のほうだった。

03PT-109、そして兄の死

1941年2月、23歳のジャックは海軍に志願した。慢性の病のためいったん不合格になったが、父の人脈で再受験して合格した経緯が記録に残る。

1943年8月2日未明、ソロモン諸島のブラックエット海峡。彼が艇長を務める魚雷艇PT-109は、日本軍の駆逐艦「天霧あまぎり」に切断されて沈んだ。二名が戦死した。ケネディ自身も左舷で背骨を打ち、傷を負った。それでも重傷の機関士マクマホンのライフベルトの紐を歯で咥え、約5キロを泳いで無人島まで連れて行った。現地の人エロニ・クマナとビウク・ガサに、ココヤシの実に伝言を刻んで託し、5日後に救助された。

海軍・海兵隊勲章とパープル・ハート勲章を受けた。の武勲ぶくんは、のちの選挙戦で繰り返し語られる。ただし慢性の背中の痛みは、この時の傷からさらに悪化していった。

1944年8月、長兄ジョゼフ・ジュニア海軍中尉が戦死した。英国の基地で、爆薬を積んだ機体を遠隔操縦する秘密任務に志願し、爆撃機の事故で命を落とした。父の「大統領プラン」の重圧は、二番手の弟に引き継がれた。

1946年、29歳でマサチューセッツ第11区から下院議員に当選し、1953年まで三期務めた。1952年、上院議員に転じた。共和党の大波のなか、民主党員として勝ち抜いた。1953年9月12日、ロードアイランド州ニューポートで結婚した。相手はニューヨーク社交界の写真記者、ジャクリーン・ブーヴィエ、24歳だった。順風に見えた。だが体は、また彼をベッドに縛りつける。

04ベッドの中の『勇気ある人々』

1954年から1955年、ケネディは背中の手術と長い療養のため上院を離れた。ベッドの中で歴史の本を読み、『(Profiles in Courage)』を書いた。政治の圧力の中で信念を貫いた八人の上院議員を描いた本である。ジョン・クィンシー・アダムズからロバート・タフトまで。

1956年の出版は話題を呼び、1957年にピュリッツァー賞(伝記部門)を受賞した。だが後年、本当の書き手は側近セオドア・ソレンセンではないかという議論が繰り返された。ケネディ自身はソレンセンの執筆支援を認めつつ、構想・構成・最終判断は自身にあると主張した。ソレンセン自身も2008年の回想録で「最初の草稿の多くは私が書いたが、本は彼のものだった」と複雑な関与を認めている。

この本は、のちに就任演説に現れる「道徳的勇気」という言葉の源になった。この本が描いたのは、周りが全員反対するときに自分の判断を貫いた人たちである。彼自身がその場に立つ日は、まだ先の話だった。

05カトリック、テレビ、11万票

1960年、民主党の大統領候補に選ばれた。43歳。カトリックの大統領は、米国史上いなかった(1928年のアル・スミスは落選)。カトリックは「ヴァチカンの命令に従う」のではないか。米国のプロテスタントには、そんな根深い不信があった。9月12日、ケネディはヒューストンのプロテスタント牧師団の前で正面から語った。「私はカトリックの大統領候補ではない。大統領候補であり、たまたまカトリックなのだ」。教会と国家の分離を明言し、大統領職の義務が信仰に優先すると誓った。

本選挙の相手は、共和党のリチャード・ニクソン(現職の副大統領)だった。9月、史上初のテレビ大統領討論が行われた。「テレビで見た人はケネディ、ラジオで聞いた人はニクソン」が勝ったと感じた。そんな語りが当時から広まった(後年には実証性を疑問視する研究もある)。日焼けしたケネディと、化粧を拒んだニクソン。その対比は、メディア時代の政治を変えた瞬間だった。

11月8日の投開票は激戦だった。全米の得票差はわずか11万票(0.17%)。イリノイ州とテキサス州の開票疑惑をニクソン陣営が争う声もあったが、異議は取り下げられた。この疑惑には、マフィアと父ジョゼフの暗い接触が影響したという長年の疑念も含まれる。12月、正式に当選した。43歳、選挙で選ばれた大統領として史上最年少である(セオドア・ローズベルトは副大統領からの昇格で42歳)。就任式の朝、ワシントンには雪が残っていた。

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you — ask what you can do for your country. ― 訳: 親愛なるアメリカ国民諸君、国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問うてほしい。

— 大統領就任演説(1961年1月20日、ワシントンDC連邦議会議事堂前)。43歳の新大統領が、厳寒の議事堂前で新世代に呼びかけた言葉

06雪の就任式、ピッグス湾、月

1961年1月20日、就任演説。前夜からの雪が残る、厳寒で晴天のワシントンDCだった。雪の反射で原稿が読みにくかった逸話として知られるのは、祝辞を朗読した老詩人ロバート・フロストの場面である。「たいまつは新しい世代に引き継がれた」。冷戦の緊張の中で、自由の防衛を説き、「人類の共通の敵 ― 暴政・貧困・病・戦争そのもの」との戦いに人々を招いた。わずか14分の演説は、アメリカ政治演説史の頂点の一つとなる。

同年4月17日、。CIAが準備したキューバ亡命者の部隊が上陸したが、空軍の支援を欠き、三日で惨敗した。就任三か月目で、国際的な大失敗を背負った。彼は敗北の全責任を公に引き受けた。「敗北は孤児で、勝利には100人の父親がいる」。この姿勢で支持率は逆に上がった。だがCIAと統合参謀本部(軍の最高幹部たち)への不信は深まった。

5月25日、議会合同会議で彼は宣言した。「この国は、この10年の終わりまでに、人間を月に着陸させ、無事に地球に帰還させる目標に全力で取り組むべきだ」。4月のソ連のガガーリン飛行(人類初の宇宙飛行)への応答だった。NASAは巨額の予算を得た。月面計画はフロリダのケープ・カナベラル(後のケネディ宇宙センター)から、1969年7月のアポロ11号の月着陸へ繋がっていく。

6月3日から4日のウィーン会談では、ソ連のフルシチョフに押される場面が続いた。ケネディは側近に「(これまでの人生で)最悪の経験だった」と漏らしたと伝わる。8月13日、東ドイツがの建設を始めた。ケネディは公には強硬に応じつつ、内心は「壁は戦争よりまし」と判断した。失敗した大統領には、軍とCIAの見通しを疑う理由ができていた。その不信が本当に試されるのは、一年半後である。

我々は月へ行くことを選ぶ。この十年のうちに、他の目標もまた。それらが容易だからではなく、困難だからだ

— ライス大学での演説(1962年9月、ヒューストン)。ソ連に宇宙で先行されるなか、月面計画の意味を国民に語った言葉

07キューバ危機の13日間、ふたたび土曜日へ

1962年10月14日、U-2偵察機がキューバにソ連製の弾道ミサイル基地を発見した。射程は米国の大部分に及ぶ。10月16日から28日までの13日間、人類は核戦争の瀬戸際せとぎわにあった。である。

ケネディは国家安全保障会議の特別執行委員会(ExComm)を招集した。選択肢は空爆、侵攻、封鎖、外交。統合参謀本部議長ルメイら軍部は、空爆を強く推した。10月22日、彼はテレビ演説でキューバの「隔離(quarantine)」を発表した。法的に「封鎖」とは呼ばず、戦争宣言を避ける選択だった。国連安保理では、スティーヴンソン米国大使がソ連のゾーリン大使を写真パネルで詰問した。

10月24日、ソ連船がキューバへ向かう米海軍の阻止線に近づいた。直前で停船した。国務長官ディーン・ラスクは言った。「我々は目を見合わせていて、相手が先に瞬きした」。

そして10月27日、土曜日。この物語の始まりの場面に戻る。U-2機が撃墜され、アンダーソン少佐が戦死した。軍部は報復空爆を要求した。ケネディは開戦せず、弟ロバート司法長官をソ連大使ドブルイニンのもとへ送った。裏ルートでの合意はこうだった。ソ連はキューバのミサイルを撤去する。米国はトルコの米軍ジュピター・ミサイルを、公表せずに静かに撤去する。10月28日、フルシチョフが撤去を発表し、危機は収束した。

なぜ彼は空爆を拒めたのか。ピッグス湾の惨敗から、まだ一年半しか経っていなかった。軍とCIAの見通しの甘さを、彼は身をもって知っていた。ベルリンの壁の前でも「壁は戦争よりまし」と判断した。そして相手には、公表しないトルコ撤去という逃げ道を残した。

側近の軍司令官は激怒した。だが後年の資料公開で、別の事実が示された。ソ連の軍事顧問は、既にキューバに戦術核兵器を配備していた。米軍が侵攻すれば、現地判断で使用しうる状況だった。強硬な侵攻が核使用を招いた可能性は高かった。ケネディの慎重な危機管理を高く評価する見解が、こうして有力になった。1963年6月、ホワイトハウスとクレムリンを直結する「ホットライン」(機密電信回線)が開設された。同年8月、米英ソは大気圏内の核実験を禁じるに調印した。世界は終わらなかった。彼に残された時間は、あと一年と少しだった。

08公民権、ベルリン、ヴェトナムの影

1963年6月11日、ケネディは公民権をめぐるテレビ演説を行った。「これは道徳的な問題である。聖書と同じく、合衆国憲法と同じく古い問題だ」。アラバマ大学の人種統合への州知事ウォレスの妨害に対し、連邦軍を投入した翌日だった。6月19日、彼は包括的案を議会に送った(成立は彼の死後、1964年7月)。このは、人種差別を法律問題ではなく道徳問題として議会に突きつけた。

6月26日、西ベルリンで「Ich bin ein Berliner()」演説。ベルリンの壁建設から二年弱、東西分断の最前線で、四十五万の市民を前に自由世界の団結を宣言した。8月28日、(キングの「夢」演説)。ケネディは当初行進に慎重だったが、事後ホワイトハウスで指導者らと会談した。

光と影は同居していた。ヴェトナムでは米軍事顧問を1.6万人まで増派。1963年11月初旬、南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム大統領クーデター・暗殺を米政権は事実上黙認した(ケネディは事後、私的録音で「我々はこれに無関係ではない」と苦悶を漏らしている)。マリリン・モンローとの関係かんけい(1962年5月19日のマディソン・スクエア・ガーデン誕生日歌唱、同年8月4日の自殺じさつ前夜の電話の噂)、マフィア親分サム・ジアンカーナと共有していたとされるジュディス・キャンベル・エクスナーとの関係、画家メアリ・ピンチョット・メイヤーとの関係 ― 婚外関係は秘密の生活として並走していた。アジソン病の継続的なコルチゾン注射、PT-109後の慢性背痛のための鎮痛剤、刺激薬と鎮痛剤ちんつうやくの混合(ジェイコブソン医師の「ヴィタミン」注射)など、ホワイトハウスの医療カクテルは長く隠蔽いんぺいされた。健康な大統領像と現実の医療記録の乖離かいりは、彼の死後の医療文書公開で初めて全貌が知られていく。

09ダラス、午後12時30分

ブラックサタデーから、およそ13か月後。1963年11月22日、テキサス州訪問。1964年大統領選を見据え、副大統領の足元の票固めの旅だった。ダラスのディーリー・プラザで、午後12時30分頃、テキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された3発のライフル弾のうち2発がオープンリムジンのケネディに命中、後頭部を撃ち抜かれた。隣の席ではジャクリーンが血染めのピンクのスーツのまま座席によじ登った(警護を呼ぼうとしたとも、夫の頭部を取り戻そうとしたとも証言は分かれる)。午後1時頃、パークランド記念病院で死亡確認。46歳。副大統領リンドン・ジョンソンが大統領専用機エアフォースワンの機内で宣誓就任した(ジャクリーンは血染めのスーツのまま傍に立った ― 「彼らに見てもらわなければならない」と告げて着替えを拒んだ)。

容疑者リー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後の11月24日、ダラス警察本部の地下車寄せで、ナイトクラブ経営者ジャック・ルビーに射殺しゃさつされた ― この場面は全米にテレビ生中継されていた。

1964年9月の(委員長アール・ウォレン最高裁長官)はオズワルド単独犯たんどくはん説を結論したが、1979年の下院暗殺特別委員会(HSCA)は新たな音響分析から「複数の銃撃者の可能性が高く、陰謀の可能性がある」と異論を提示した(後の研究はその音響分析自体に異議を投げかけている)。FBI、CIA、マフィア、ピッグス湾の遺恨を抱える反カストロ亡命者、キューバ、ソ連 ― ケネディ暗殺をめぐるさまざまな陰謀論が今日まで続く。確定的な決着は、なお歴史の未決みけつ事項である。

11月25日、アーリントン国立墓地に埋葬。永遠の炎がジャクリーンの手で灯された。長男ジョン・ジュニア(3歳の誕生日)が霊柩車に敬礼する写真は、20世紀の集合的記憶の一葉となった。

土曜日に空爆を止めた判断は、記録に残った。ダラスの弾丸が誰の意思だったのかは、今も分からない。残ったのは、雪の朝に彼が投げた一つの問いである。国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるか。みんなが「撃て」と言うとき、あなたには何ができるだろうか。

10主要な出来事と演説

  1. 5月29日、マサチューセッツ州ブルックラインに誕生。アイルランド系カトリック政治家族
  2. ハーヴァード大学、卒業論文『なぜイギリスは眠っていたか』
  3. 8月2日、ソロモン諸島でPT-109事件、乗員救出で勲章
  4. 8月12日、長兄ジョゼフ・ジュニア戦死(英国基地、爆撃機事故)
  5. 連邦下院議員に当選(マサチューセッツ州民主党)
  6. 上院議員に当選(対ロッジ)
  7. 9月12日、ジャクリーン・ブーヴィエと結婚
  8. 『勇気ある人々』でピュリッツァー賞(伝記部門、代筆論争)
  9. 11月、第35代大統領選挙に当選(対ニクソン、史上最年少選出)
  10. 1月就任演説。4月ピッグス湾失敗。5月月面計画宣言。6月ウィーン会談。8月ベルリンの壁
  11. 10月16-28日、キューバ・ミサイル危機(13日間)
  12. 6月11日公民権テレビ演説、6月26日ベルリン演説、8月部分的核実験禁止条約、8月28日ワシントン大行進、11月22日ダラスで暗殺、46歳

残した思想の輪郭

  • 奉仕の倫理 ― 「国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国に何ができるか」という公共的自己定位
  • 新世代の呼びかけ ― ニューフロンティア、月面計画、平和部隊による若者動員
  • 慎重な危機管理 ― 軍事的最強硬策を退け、相手の退路を残す「瞬き」の知恵
  • 公民権の道徳化 ― 法律問題ではなく道徳問題として人種差別を議会に突きつけた
  • テレビ時代の政治 ― 討論・記者会見・就任演説が映像で記憶される政治リーダーの範型
  • 聖人化を避けて読む ― 健康(アジソン病・薬物治療)と私生活(婚外関係)の隠蔽、ピッグス湾とヴェトナム拡大の負債を含めて、揺らぐ一人の人間として直視するべき対象
1963年11月22日午後1時頃(現地時間)、テキサス州ダラスのディーリー・プラザでオープンカー走行中に狙撃され、パークランド記念病院で死亡確認。46歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

ジョン・F・ケネディが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • アーリントン国立墓地(ケネディ家墓所)墓所

    アーリントン, アメリカ

    永遠の灯(Eternal Flame)を点す第35代大統領の墓所

  • ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館記念館

    ボストン, アメリカ

    ケネディ政権の一次資料を擁する大統領図書館

さらに辿るならExternal References

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