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実践の知

フランクリン・ローズベルト

Franklin D. Roosevelt·1882–1945·アメリカ·

恐れに、 どう立ち向かうか?

恐慌と戦争の二つの危機を車椅子から指導し、四選を果たした合衆国最長の大統領

  • ニューディール
  • 四つの自由
  • 国連構想
  • 戦時大統領

時代の空気

19世紀末ニューヨーク、ハドソン河畔の旧家に生まれた一人息子。第26代大統領セオドア・ローズベルトとは第5親等の従兄弟、エレノアはその姪——一族はすでに公人だった。グロートン、ハーヴァード、コロンビア法科を経て1910年ニューヨーク州議員、1913-20年ウィルソン政権の海軍次官補。1920年副大統領落選、翌1921年カンポベロ島でポリオに倒れ下半身麻痺。1928年州知事復活、1932年大統領、以後四選。大恐慌、ニューディール、真珠湾、ヤルタ。1945年4月12日、勝利を見ぬまま静養先で倒れる。

01ハイドパークの一人息子

1882年1月30日、ニューヨーク州ハイドパークのハドソン河畔の邸宅スプリングウッドに生まれた。父ジェームズ・ローズベルトは鉄道・事業・土地を持つ裕福な民主党員で54歳、母サラ・デラノーは中国貿易で財をなした船舶商人ウォーレン・デラノーの娘で、夫より26歳下の27歳だった。フランクリン・デラノー・ローズベルトはこの夫妻の唯一の子として、乳母と家庭教師に囲まれて育った。第26代大統領セオドア・ローズベルトは父方の第5親等の従兄にあたる ― 一族はすでに公人だった。

ヨーロッパ旅行、ヨット、ハドソン川でのスケート、読書の幼年時代。14歳でマサチューセッツの聖公会寄宿校グロートン(1896-1900)に入り、続いてハーヴァード大学(1900-04、ジャーナリズムを中心に編集者として大学新聞『クリムゾン』を率いた)。在学中の1900年12月、父ジェームズが死去。母サラはハーヴァード近郊ボストンに転居し、息子の近くで彼を見守り続けた ― 結婚後も生涯続く母の影響の強さだった。卒業後はコロンビア大学法科大学院に進むが、ニューヨーク州弁護士試験に合格した1907年に中退ちゅうたい、ウォール街の法律事務所カーター・レッドヤード&ミルバーンに入る。

1905年3月17日、遠縁にあたるエレノア・ローズベルト(セオドア・ローズベルト第26代大統領の姪、両親を早く亡くしテディが父代わりだった)と結婚。式で花嫁を引き渡したのは大統領伯父テディその人だった。アンナ、ジェームズ、フランクリン・ジュニア(1909年に生後7か月で夭折ようせつ)、エリオット、フランクリン・ジュニア二世、ジョンの六人の子を儲ける。結婚は公的パートナーシップとしては20世紀最大級だったが、1918年9月、欧州出張から帰った夫の鞄から妻エレノアがエレノア自身の元社交秘書への手紙束を見つけて不倫ふりんが発覚。エレノアは離婚を申し出たが、母サラが「離婚するなら相続から外す」と最後通牒を渡し、政治家ルイ・ハウも反対、結婚は形だけ続くことになった。フランクリンはルーシーと二度と会わないと約束したが、生涯ひそかに連絡を取り続けることになる。

02副大統領候補、そしてポリオ

1910年、共和党の地盤だったハドソン河流域ダッチェス郡から民主党でニューヨーク州上院議員に出馬し、自家用車で各町を回って逆転当選とうせん。1913-1920年、ウィルソン政権の海軍次官かいぐんじかん補としてワシントンに赴任。7年間、第一次大戦中の海軍拡張を手掛けた。1920年の大統領選挙で副大統領ふくだいとうりょう候補に指名されるが、共和党ハーディングに大敗(ジェームズ・コックスとの組)。

1921年8月10日、カナダ・ニューブランズウィック州のカンポベロ島の別荘で森林火災を消した後ファンディ湾で泳いだ翌朝、悪寒と高熱に襲われ下半身の感覚を失った。急性灰白髄炎(ポリオ)。39歳。現代の診断ではギラン・バレー症候群説も提起されているが(アームストロング・ティルニー、ゴールドマンらの2003年論文)、当時の診断はポリオで定着し、以降彼は自力で立つことも歩くこともできず下半身は麻痺まひしたままだった。

病状は絶望的だった。多くの友人は「政界生命は終わった」と思った。母サラは引退を望み、ハイドパークで看病に専念させようとしたが、妻エレノアと側近ルイ・ハウは夫を公的生活へ引き戻そうとした ― 結婚は私的に冷えても公共的協働は機能していた。フランクリン自身は、公にならないよう鋼鉄の脚部装具で立ち、介助者の腕に頼って短距離を「歩く」技術を身につけた。1924年からはジョージア州ウォームスプリングスの温泉に通い、1926年には同地のリハビリ財団を私財で買い取って所有者となる。車椅子姿は大半の報道で避けられ(記者団の暗黙の協力、シークレットサーヴィスもネガを没収した)、国民の多くは彼が歩けないことを知らなかった ― 在任中車椅子姿の公刊写真は二枚しか確認されていない。下半身麻痺を国民から組織的に隠蔽いんぺいした最大規模の事例である。

03ニューヨーク州知事、そして大統領

1928年、ニューヨーク州知事選に出馬。民主党の前州知事アル・スミスが大統領選で落選した同じ選挙で、ローズベルトは僅差で州知事に当選した(対共和党アルバート・オッティンガー、得票差約2万5千票)。1930年に大差で再選。

この間、米国は1929年10月24日のブラック・サースデーから大恐慌に陥っていた。1932年、失業率は23.6%(翌1933年には約24.9%に達する)、工業生産は1929年の半分以下、5,000以上の銀行が倒産した。農民は作物を処分し、都市には「フーヴァー村(Hooverville)」と呼ばれるスラムが並んだ。

1932年7月、シカゴの民主党大会はFDRを大統領候補に指名。彼は史上初めて会場に飛行機で現れ(悪天候のなか)、指名受諾演説で語った ― 「私はアメリカ人民のための(New Deal)を誓う」(包括的な経済再建政策の呼称として定着していく)。11月、現職ハーバート・フーヴァーに圧勝。57.4%対39.7%、選挙人投票で472対59。1933年2月15日、マイアミでイタリア系移民ジュゼッペ・ザンガラに5発撃たれる暗殺あんさつ未遂(同行のシカゴ市長アントン・サーマックが流れ弾で死亡、FDR本人は無傷)を経て、3月4日に就任。

04最初の100日、炉辺談話

1933年3月4日、就任演説。「われわれが恐れねばならぬ唯一のものは、恐怖そのものである(the only thing we have to fear is fear itself)」。彼は議会に「大戦と同じ」権限を要求した。

翌日、全米の銀行を4日間閉鎖する「銀行休日」を宣言。1週間後の3月12日夜、初の(Fireside Chat)をラジオで放送した。「友人たちよ、銀行で何が起きていたかを、率直な言葉で話したい」。静かな声で銀行制度の詳細を説明した。翌朝、再開された銀行に人々は預金を戻し始めた。恐慌の最も深い瞬間は、信頼が一夜で回復し始めた瞬間でもあった。炉辺談話は1933-1944年に約30回行われ、ラジオを介して大統領が国民の居間に直接届く新しい政治の形を作った。

最初の100日で15本の主要法案を成立させた。緊急銀行法、農業調整法(AAA)、テネシー川流域開発公社(TVA)、民間保全部隊(CCC)、連邦緊急救済法、(銀証分離+預金保険FDIC創設)、全国産業復興法(NIRA)、証券法。さらに第二期ニューディール(1935年)で、全国労働関係法(、団結権・団交権の保障)、WPA(Works Progress Administration、公共事業促進局)、富裕税法。米国の福祉国家の骨格はこの2年間で作られた。

ニューディールには賛否があった。最高裁はNIRAとAAAを違憲とした(1935年シェクター事件、1936年バトラー事件)。FDRは1937年2月、最高裁判事を最大15人まで増員できる(court-packing plan)を提出したが、自陣営の民主党からも憲法上の越権との反発を受け7月に撤回 ― 彼の最大の政治的挫折だった。皮肉にもこの圧力以後、最高裁は1937年4月のジョーンズ&ローリン製鉄所事件でワグナー法を合憲と認め、ニューディール立法を次々追認していく(「裁判所を救った時宜を得た衣替え」と呼ばれる)。

未来の世界で、私たちはに基づく世界を目指す。第一に、言論と表現の自由。第二に、信仰の自由。第三に、欠乏からの自由。第四に、恐怖からの自由。

一般教書演説「四つの自由」(1941年1月6日、連邦議会)

05三選、四選、戦時大統領

1940年、ジョージ・ワシントン以来の二期制慣行を破って三選に挑戦(対共和党ウェンデル・ウィルキー)。ヨーロッパでナチス・ドイツがフランスを屈服させ、英国が孤軍奮闘する時期、FDRは「経験ある船長」として勝利した(54.7%対44.8%)。

1941年1月の一般教書演説で「四つの自由」を提示 ― 言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由。3月には武器貸与法(レンド・リース)を成立させ、英国・ソ連への軍事援助を可能にした。8月9-12日、ニューファンドランド沖プラセンティア湾の艦上でチャーチルと会見し、を共同発表 ― 領土拡張の放棄、自決権、自由貿易、海洋自由、戦後の集団安全保障を謳う後の国連憲章の原型である。

1941年12月7日(ハワイ時間)、日本海軍機動部隊が真珠湾を奇襲。翌12月8日の議会演説 ― 「恥辱の日(a date which will live in infamy)」。同日対日宣戦布告(下院賛成388対反対1のジャネット・ランキン1票)、11日ドイツ・イタリアが対米宣戦。FDRは戦時生産庁・戦時労働委員会を設置し、米国経済を史上最大の軍需生産機械に変えた。戦車、航空機、艦船、弾薬 ― 米国が1943年に生産した戦争物資は枢軸国全体を上回った。

1942年2月19日、に署名し、太平洋岸から日系アメリカ人約12万人(うち米国市民が約3分の2)の強制収容きょうせいしゅうようを承認 ― マンザナー、トゥールレイクなど内陸の収容所で1945年まで監禁された。FDRの最も大きな人権侵害として後世に残る判断であり、1988年レーガン政権下の市民的自由法で連邦政府は公式謝罪と一人2万ドルの補償を行った。同1942年8月、マンハッタン計画が陸軍主導で本格始動(原爆生産は1942年1月にFDRが承認済)、副大統領トルーマンには就任後まで知らされていなかった。

1943年11月テヘラン(チャーチル、スターリン、FDR)、1945年2月4-11日 ― 戦後欧州秩序、ポーランド東部国境、国連創設、ソ連の対日参戦を合意した。FDRの健康状態は既に著しく衰え、医師ハワード・ブルーエン中佐は鬱血性心不全と診断していたが本人にも国民にも伏せられた。ヤルタでスターリンに東欧で過大に譲歩じょうほしたとの批判は冷戦下に強まるが、現代の研究は当時の軍事的現実(赤軍が既に東欧を占領)を踏まえ評価が分かれる。

06ウォームスプリングスの小さな白い家

1944年11月、FDRは四選を果たした(対共和党トマス・デューイ、53.4%対45.9%)。民主党党内のリベラル派で支持が薄かった現職副大統領ヘンリー・ウォーレスは降ろされ、副大統領候補はミズーリ州出身のハリー・トルーマンとなる。FDRの健康は悪化の一途だった。心臓肥大、高血圧、慢性疲労。医師ハワード・ブルーエン中佐は「致死的に衰弱している」と内部メモに記した。

1945年4月、ジョージア州ウォームスプリングスの温泉保養地「小さな白い家」に静養。ポリオ患者として愛したこの土地に来ていたのは、エレノアではなく、約束に反して再会していたかつての愛人ルーシー・マーサー(現姓ラザフォード、未亡人となっていた)、画家エリザベス・シュマトフ、いとこのデイジー・サックリーら数人だった ― 娘アンナ・ローズベルトが父の希望でひそかに会合を手配していた。4月12日午後1時15分頃、肖像画のモデルに座っていた最中に「ひどい頭痛がする(I have a terrific headache)」と呟き、崩れるように意識を失った。午後3時35分、脳出血により死亡。63歳。ルーシーらは公的醜聞しゅうぶんを避けるため遺体到着前に屋敷を去った。

エレノアはワシントンの白邸で4月12日夕、急報の知らせで初めて夫の急死きゅうしを知り、翌13日朝にウォームスプリングスへ着いてようやく娘から ― 死の場面にルーシーが居たこと、二人の関係が約束の「終わり」のあとも続いていたこと、娘アンナがそれを知って手配していたことを ― 知らされた。エレノアの後年の自伝はこの瞬間を抑えた筆致ひっちで書きとどめている。翌日、全米が絶句した。ラジオで報を聞いた兵士、工場労働者、家庭の主婦 ― 12年間彼らの大統領だった人、大恐慌と戦争を通じて折に触れてラジオで語りかけてきた声の主が、戦勝を目前に倒れた。4月15日、ハイドパークのスプリングウッド敷地のローズガーデンに埋葬。トルーマンが第33代大統領に昇格(マンハッタン計画について初めて聞かされたのはこの直後である)。5月8日ドイツ降伏、8月6日広島・9日長崎、8月15日日本降伏。戦争はFDR抜きで終わった。エレノアはその後、国連人権委員会の初代委員長として世界人権宣言(1948年)の起草を主導することになる。

07主要な出来事と演説

  1. 1月30日、ニューヨーク州ハイドパークに誕生。父ジェームズ54歳・母サラ27歳の一人息子
  2. 3月17日、エレノア・ローズベルト(TR第26代大統領の姪)と結婚。テディが花嫁を引き渡す
  3. コロンビア法科大学院を中退、NY州弁護士試験合格、ウォール街の法律事務所へ
  4. ニューヨーク州上院議員に当選(共和党地盤を逆転)
  5. ウィルソン政権の海軍次官補(7年)
  6. 9月、エレノアがルーシー・マーサーとの不倫を発見。母サラの最後通牒で形だけの結婚継続
  7. 副大統領候補(民主党、ハーディングに大敗)
  8. 8月10日カンポベロ島でポリオ発症(39歳、下半身麻痺)。現代説ではギラン・バレー症候群の可能性も
  9. ニューヨーク州知事(二期)
  10. 11月、現職フーヴァーに圧勝(57.4%対39.7%)
  11. 3月就任、『恐怖そのもの』演説。最初の100日、炉辺談話開始、ニューディール、グラス・スティーガル法
  12. 社会保障法、ワグナー法、WPA(第二期ニューディール)
  13. 裁判所再編案、自党にも拒まれ撤回(最大の政治的挫折)
  14. 三選(二期制を破る、対ウィルキー)
  15. 1月『四つの自由』。3月武器貸与法。8月大西洋憲章。12月真珠湾、対日宣戦
  16. 2月19日大統領令9066号、日系人約12万人強制収容。8月マンハッタン計画本格始動
  17. 四選(対デューイ、副大統領候補トルーマン)
  18. 2月4-11日ヤルタ会談。4月12日、ウォームスプリングスで脳出血により死去(ルーシー同席)、63歳

残した思想の輪郭

  • 恐怖に対する公共の応答 ― 「恐れるべきは恐怖そのもの」で信頼回復を政策の前提に据えた
  • ニューディール ― 政府の役割を市場の失敗の補完から積極的再設計へと転換、福祉国家の骨格
  • 四つの自由 ― 市民的自由に加え「欠乏と恐怖からの自由」を入れ、経済的安全保障を人権の射程へ
  • 炉辺談話 ― 大統領と国民の直接対話をラジオで日常化、危機時の公共コミュニケーション原型
  • 国際協調と国連構想 ― 戦後世界の集団安全保障の基盤を設計、ヤルタで戦後秩序を交渉
1945年4月12日午後3時35分、ジョージア州ウォームスプリングスの「小さな白い家(Little White House)」で脳出血により急逝。63歳。
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  • 文脈一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: fdr-1 context は、Franklin D. Roosevelt 第一期就任演説 (1933 年 3 月 4 日土曜日、ワシントン D.C. 連邦議会前 East Portico) の冒頭部...

    一次資料を開くFDR Library 公式ハブ。1933 年 3 月 4 日就任演説の primary text、Hyde Park アーカイブ、curriculum hub...

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: われわれが恐れねばならぬ唯一のものは、恐怖そのものである

    一次資料を開くFDR 公式 Presidential Library 教育 hub。1933年3月4日 First Inaugural Address full text +...

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 未来の世界で、私たちは四つの自由に基づく世界を目指す。第一に、言論と表現の自由。第二に、信仰の自由。第三に、欠乏からの自由。第四に、恐怖からの自由。

    一次資料を開くFour Freedoms (1941年1月6日 Annual Message to Congress) primary text。FDR の 4 自由列挙: ...

  • 出典一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: fdr.mdx pullsource: '第一期就任演説(1933年3月4日)'。FDR First Inaugural Address (U.S. Capitol, March 4, 1933) の...

    一次資料を開くFDR 公式 Library 教育 hub。1933年3月4日 First Inaugural Address full text + audio record...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: この世代のアメリカ人には、運命との約束がある

    一次資料を開く1936年6月27日 Philadelphia Franklin Field 受諾演説結末近く: 'There is a mysterious cycle in...

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フランクリン・ローズベルトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

フランクリン・ローズベルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フランクリン・D・ルーズヴェルト邸(スプリングウッド)生誕

    ハイドパーク(ニューヨーク州), アメリカ

    誕生・生涯の本邸・墓所。大統領在任中に約200回帰省した「スプリングウッド」。ローズガーデンに夫妻が眠る

  • フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領図書館博物館所属

    ハイドパーク(ニューヨーク州), アメリカ

    1941年開館、在任大統領が使用した唯一の大統領図書館。大恐慌・第二次大戦期の公文書と演説資料を所蔵

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