フランクリン・ローズベルト
「恐れるな」と国に語った人は、 自分の恐れをどこに隠したのだろう?
恐慌と戦争の二つの危機を車椅子から指導し、四選を果たした合衆国最長の大統領
- ニューディール
- 四つの自由
- 国連構想
- 戦時大統領
銀行が閉まり仕事が消え、海の向こうでは独裁が国々を飲みこんでいく時代。 — ひらく
時代の空気
19世紀末ニューヨーク、ハドソン河畔の旧家に生まれた一人息子。第26代大統領セオドア・ローズベルトとは第5親等の従兄弟、エレノアはその姪——一族はすでに公人だった。グロートン、ハーヴァード、コロンビア法科を経て1910年ニューヨーク州議員、1913-20年ウィルソン政権の海軍次官補。1920年副大統領落選、翌1921年カンポベロ島でポリオに倒れ下半身麻痺。1928年州知事復活、1932年大統領、以後四選。大恐慌、ニューディール、真珠湾、ヤルタ。1945年4月12日、勝利を見ぬまま静養先で倒れる。
01小さな白い家の午後
1945年4月12日、昼過ぎ。ジョージア州ウォームスプリングスに、「小さな白い家」と呼ばれる別荘がある。アメリカ大統領フランクリン・ローズベルトは、そこで肖像画のモデルとして椅子に座っていた。63歳。第二次世界大戦の勝利は、もう目の前まで来ていた。
午後1時15分ごろ、彼は小さくつぶやいた。「ひどい頭痛がする(I have a terrific headache)」。そのまま、崩れるように意識を失った。午後3時35分、脳出血で死亡。12年間アメリカを率いた大統領は、戦争の終わりを見ずに逝った。
その部屋に、妻はいなかった。かわりにいたのは、という女性だった。27年前、彼が妻に「二度と会わない」と約束した、かつての恋人である。ルーシーは遺体が運ばれてくる前に、静かに屋敷を去った。
翌朝、ワシントンから駆けつけた妻は、娘の口から初めて知る。夫が倒れたとき、あの女性がそばにいたこと。二人の関係が、約束のあとも続いていたこと。そして娘自身が、父に頼まれてその再会を手配していたこと。
恐れるな、と国じゅうに語りかけてきた人だった。その人は、自分の何を、どれだけ隠していたのか。答えを探すには、時を27年前に戻さなければならない。
02鞄の中の手紙
1918年9月。第一次世界大戦のさなか、ヨーロッパ出張から戻った夫の鞄を、妻エレノアが開けた。中から出てきたのは、手紙の束だった。差出人はルーシー・マーサー。エレノア自身が雇っていた、元の社交秘書である。
夫フランクリンは36歳。海軍次官補という、海軍の運営を助ける政府の高官だった。生まれはニューヨーク州ハイドパーク、ハドソン川のほとりの大きな屋敷。裕福な父と若い母のあいだの、たった一人の息子である。第26代大統領セオドア・ローズベルトは父方の遠い従兄で、一族はすでに「公の人」だった。
名門の寄宿学校グロートン、ハーヴァード大学、コロンビア大学の法科大学院。1905年、遠縁のエレノアと結婚したとき、花嫁の手を引いたのは大統領セオドアその人だった。エレノアは早くに両親を亡くし、セオドアが父代わりだったのだ。二人のあいだには六人の子が生まれ、一人は生後7か月で亡くなった。
手紙を見つけたエレノアは、離婚を申し出た。それを止めたのは、夫の母サラだった。「離婚するなら相続から外す」。政治の相談役ルイ・ハウも反対した。結婚は形だけ続くことになり、フランクリンはルーシーと二度と会わないと約束した。
約束は、その場では守られたように見えた。1920年、彼は民主党の副大統領候補に指名される。しかし選挙は大敗。そして翌年の夏、彼の脚が動かなくなる。
03カンポベロ島の朝
1921年8月10日。カナダ東部、カンポベロ島の別荘。フランクリンは森林火災を消しに出て、そのあと冷たい湾で泳いだ。翌朝、悪寒と高熱に襲われ、下半身の感覚が消えた。診断はポリオ。脊髄がおかされ、体が麻痺(まひ)する病気だ。39歳。
彼はもう、自分の力で立つことも歩くこともできなかった。多くの友人は「政治家としては終わった」と思った。母サラは息子を引退させ、ハイドパークで看病に専念させようとした。
だが、妻エレノアと側近ルイ・ハウは違った。二人は彼を、公の世界へ引き戻そうとした。夫婦の私的な関係は冷えていた。それでも「政治の仕事仲間」としての結びつきは、生きていたのだ。
フランクリンは鋼鉄の脚の装具で体を支え、介助者の腕にすがって数歩「歩く」技術を身につけた。人に見せるためである。1924年からはジョージア州ウォームスプリングスの温泉に通い、1926年にはその療養施設を私財で買い取った。
車椅子の姿は、ほとんどの新聞や写真から消えた。記者たちは暗黙のうちに協力した。大統領の警護官(シークレットサーヴィス)は、撮られたフィルムを没収することさえあった。国民の多くは、大統領が歩けないことを知らずに過ごすことになる。のちに「(いんぺい)」と呼ばれる、国ぐるみの沈黙だった。
自分の脚さえ隠す男が、国じゅうの前に立てるのか。1928年、その問いに答える機会がめぐってきた。
04銀行が閉まった国
1928年、ニューヨーク州知事選。46歳のフランクリンは政界に戻り、わずかの差で当選した。1930年には大差で再選される。
その間に、国は壊れ始めていた。1929年10月、ニューヨークの株式市場が大暴落。ここからが始まる。銀行が次々に倒れ、工場が止まり、およそ四人に一人が仕事を失った。農民は売れない作物を処分し、街には掘っ立て小屋の集落が広がった。人々はそれを、当時の大統領の名をとって「フーヴァー村」と呼んだ。
1932年7月、シカゴの民主党大会。フランクリンは悪天候のなか、候補者として史上初めて飛行機で会場に乗りこんだ。そして受諾演説で語った。「私はアメリカ人民のための(New Deal)を誓う」。「新しい取り決め」を意味するこの言葉は、やがて彼の政策全体の名前になる。11月、現職フーヴァーに圧勝した。50歳だった。
就任の前、1933年2月、マイアミで5発の銃弾が飛んだ。撃ったのはイタリア系移民の男。フランクリンは無傷だったが、隣にいたシカゴ市長が流れ弾で命を落とした。3月4日、彼は第32代大統領に就任する。演説で彼は議会に、戦争のときと同じ強い権限を求めた。そして、こう語りかけた。
われわれが恐れねばならぬ唯一のものは、恐怖そのものである
恐れるな、と彼は言った。だが言葉だけでは、閉じた銀行は開かない。
05炉辺のラジオ
就任の翌日、彼は全米の銀行を4日間閉めた。「銀行休日」である。そして3月12日の夜、初めてラジオで国民に語りかけた。「友人たちよ、銀行で何が起きていたかを、率直な言葉で話したい」。静かな声で、銀行の仕組みを一つずつ説明した。
翌朝、再び開いた銀行の窓口に、人々は預金を戻し始めた。恐慌のいちばん深い底は、信頼が一晩で戻り始めた瞬間でもあった。この放送は「」と呼ばれた。暖炉のそばで家族に話すように、大統領の声が居間に届く。1944年までに約30回、続けられた。
最初の100日で、15本の主要な法律が成立した。銀行の仕事と株の売買を切り離し、預金を国が守る。農業を立て直す法律、川の流域を開発する公社、若者を自然保護の仕事に雇う部隊。1935年にはで年金の骨組みを、で労働者が組合を作る権利を定めた。ニューディールは一つの政策ではなく、国の形を作り直す事業になっていった。
1936年、再選をかけた党大会で、彼は聴衆に語りかけた。
この世代のアメリカ人には、運命との約束がある
だが、すべてが順調だったわけではない。最高裁判所は、ニューディールの主要な法律を次々に憲法違反とした。1937年、彼は最高裁の判事を増やせる「」を議会に出す。味方の民主党からも「やりすぎだ」と反発され、7月に取り下げた。生涯で最大の政治的な敗北だった。
国の中では、かろうじて信頼が戻りつつあった。しかし海の向こうでは、別の恐怖が育っていた。
06四つの自由と恥辱の日
1940年、ヨーロッパではナチス・ドイツがフランスを降伏させ、イギリスだけが持ちこたえていた。フランクリンは、初代ワシントン以来の「大統領は二期まで」という慣わしを破って三選に挑む。有権者は彼を、嵐の中の「経験ある船長」として選んだ。58歳。
1941年1月、議会での演説で、彼は「」を語った。
未来の世界で、私たちは四つの自由に基づく世界を目指す。第一に、言論と表現の自由。第二に、信仰の自由。第三に、欠乏からの自由。第四に、恐怖からの自由。
「恐怖からの自由」。就任演説の言葉が、今度は世界に向けられていた。3月にはを成立させ、イギリスやソ連に武器を送れるようにした。8月、イギリス首相チャーチルと軍艦の上で会い、を発表する。領土を広げないこと、民族が自分の政府を選ぶこと、戦後の平和の仕組み。のちの国連憲章の原型である。
1941年12月7日、日本海軍がハワイのを奇襲した。翌日、彼は議会で語った。「恥辱の日(a date which will live in infamy)」。同じ日に対日宣戦布告。アメリカの工場は、史上最大の兵器工場に変わっていく。
だがこの戦争は、彼の影の面も残した。1942年2月19日、彼はに署名する。太平洋岸に住む日系アメリカ人約12万人が、内陸の収容所に送られた。三分の二はアメリカ市民だった。彼らは1945年まで、そこから出られなかった。
1945年2月、ソ連のクリミア半島でが開かれた。チャーチル、、そしてフランクリン。戦後のヨーロッパの形、国連の創設、ソ連の対日参戦が話し合われた。彼の健康はすでに大きく損なわれていた。主治医は心臓の病を診断していたが、それは本人にも国民にも伏せられていた。
脚を隠した男は、今度は心臓を隠されていた。ヤルタから戻ってひと月ほど後、彼はあの温泉の町へ向かう。
07再び、小さな白い家
1944年11月、四選。副大統領候補は、ミズーリ州出身のだった。フランクリンの体は、もう限界に近づいていた。心臓の肥大、高い血圧、慢性の疲れ。主治医は内部の記録に「致死的に衰弱している」と書いていた。
1945年4月、彼はウォームスプリングスの「小さな白い家」に静養に来た。ポリオの患者として、彼が愛した土地である。そこに集まったのは、妻ではなかった。夫を亡くしていたルーシー・マーサー、肖像画家、いとこのデイジー。娘のアンナが、父の望みでひそかに手配した集まりだった。
4月12日午後、彼は肖像画のモデルとして座ったまま、意識を失った。午後3時35分、死亡。ルーシーたちは、騒ぎにならないよう遺体が着く前に屋敷を去った。翌朝、着いたばかりの妻はそのすべてを娘から聞いた。エレノアはのちに自伝で、この瞬間を抑えた言葉で書きとめている。
訃報はラジオで全米に流れた。兵士も、工場の労働者も、台所の主婦も、言葉を失った。12年ものあいだ、恐慌と戦争のたびに居間に届いていた声が、勝利の直前に消えたのだ。4月15日、彼はハイドパークの屋敷のバラ園に葬られた。
ハリー・トルーマンが第33代大統領になった。原子爆弾の計画を初めて知らされたのは、その直後である。5月8日、ドイツ降伏。8月、広島と長崎に原爆。8月15日、日本が降伏した。戦争はフランクリン抜きで終わった。エレノアはやがて国連で、世界人権宣言(1948年)の起草を導くことになる。
冒頭の問いに戻ろう。彼は脚を隠し、心臓の病を隠され、恋人を隠した。そして隠したまま、恐れるなと国に語り続けた。それは偽りだったのか。それとも、恐怖と向き合うということの、もう一つの形だったのか。
恐れを隠すことと、恐れに立ち向かうことは、どこで分かれるのだろう。
08考証: 隠されたものと残された論点
生い立ちと初期経歴。1882年1月30日、ハイドパークのハドソン河畔の邸宅スプリングウッドに生まれた。父ジェームズ・ローズベルトは鉄道・事業・土地を持つ裕福な民主党員で54歳、母サラ・デラノーは中国貿易で財をなした船舶商人ウォーレン・デラノーの娘で、夫より26歳下の27歳だった。14歳でマサチューセッツの聖公会寄宿校グロートン(1896-1900)、続いてハーヴァード大学(1900-04、編集者として大学新聞『クリムゾン』を率いた)。在学中の1900年12月に父ジェームズが死去し、母サラはボストンに転居して息子の近くで見守り続けた。コロンビア大学法科大学院はニューヨーク州弁護士試験に合格した1907年に中退、ウォール街の法律事務所カーター・レッドヤード&ミルバーンに入る。子はアンナ、ジェームズ、フランクリン・ジュニア(1909年に生後7か月で夭折)、エリオット、フランクリン・ジュニア二世、ジョンの六人。1910年、共和党の地盤だったダッチェス郡から民主党で州上院議員に出馬し、自家用車で各町を回って逆転当選。1913-1920年の海軍次官補時代は第一次大戦中の海軍拡張を手掛け、1920年の副大統領候補はジェームズ・コックスとの組で共和党ハーディングに大敗した。1928年の州知事選は、前州知事アル・スミスが大統領選で落選した同じ選挙で、対共和党アルバート・オッティンガーに得票差約2万5千票の僅差で勝ったものである。
診断と隠蔽の規模。1921年の症状は当時の診断では急性灰白髄炎(ポリオ)で定着したが、現代ではギラン・バレー症候群説も提起されている(アームストロング・ティルニー、ゴールドマンらの2003年論文)。いずれにせよ以降彼は自力で立つことも歩くこともできず、下半身は麻痺したままだった。車椅子姿は大半の報道で避けられ、記者団の暗黙の協力に加えシークレットサーヴィスがネガを没収した事例もあり、在任中の車椅子姿の公刊写真は二枚しか確認されていない。下半身麻痺を国民から組織的に隠蔽した最大規模の事例である。
大恐慌の数字と1932年選挙。1929年10月24日のブラック・サースデー以後、1932年の失業率は23.6%(翌1933年には約24.9%)、工業生産は1929年の半分以下、5,000以上の銀行が倒産した。1932年11月の大統領選はFDR 57.4%対フーヴァー 39.7%、選挙人投票で472対59。1933年2月15日のマイアミ暗殺未遂の犯人はジュゼッペ・ザンガラ、流れ弾で死亡したのはシカゴ市長アントン・サーマックである。
最初の100日と第二期ニューディール。緊急銀行法、農業調整法(AAA)、テネシー川流域開発公社(TVA)、民間保全部隊(CCC)、連邦緊急救済法、グラス・スティーガル法(銀証分離+預金保険FDIC創設)、全国産業復興法(NIRA)、証券法。第二期(1935年)は社会保障法、全国労働関係法(ワグナー法、団結権・団交権の保障)、WPA(Works Progress Administration、公共事業促進局)、富裕税法。米国の福祉国家の骨格はこの2年間で作られた。炉辺談話は1933-1944年に約30回行われ、ラジオを介して大統領が国民の居間に直接届く新しい政治の形を作った。
裁判所再編案の顛末。最高裁はNIRAとAAAを違憲とした(1935年シェクター事件、1936年バトラー事件)。FDRは1937年2月、最高裁判事を最大15人まで増員できる裁判所再編案(court-packing plan)を提出したが、自陣営の民主党からも憲法上の越権との反発を受け7月に撤回した。皮肉にもこの圧力以後、最高裁は1937年4月のジョーンズ&ローリン製鉄所事件でワグナー法を合憲と認め、ニューディール立法を次々追認していく(「裁判所を救った時宜を得た衣替え」と呼ばれる)。
三選以降の選挙と戦時体制。1940年は対ウェンデル・ウィルキーで54.7%対44.8%。1941年8月9-12日、ニューファンドランド沖プラセンティア湾の艦上でのチャーチル会談から生まれた大西洋憲章は、領土拡張の放棄、自決権、自由貿易、海洋自由、戦後の集団安全保障を謳う。真珠湾翌日の対日宣戦布告は下院賛成388対反対1(反対はジャネット・ランキンの1票)、12月11日にドイツ・イタリアが対米宣戦。FDRは戦時生産庁・戦時労働委員会を設置し、米国が1943年に生産した戦争物資は枢軸国全体を上回った。1944年は対トマス・デューイで53.4%対45.9%、党内リベラル派で支持の薄かった現職副大統領ヘンリー・ウォーレスが降ろされ、トルーマンが副大統領候補となった。
大統領令9066号と原爆。日系アメリカ人約12万人(うち米国市民が約3分の2)はマンザナー、トゥールレイクなど内陸の収容所で1945年まで監禁された。FDRの最も大きな人権侵害として後世に残る判断であり、1988年レーガン政権下の市民的自由法で連邦政府は公式謝罪と一人2万ドルの補償を行った。同1942年8月にマンハッタン計画が陸軍主導で本格始動(原爆生産は1942年1月にFDRが承認済)、副大統領トルーマンには就任後まで知らされていなかった。
テヘランからヤルタへ、そして健康。1943年11月テヘラン(チャーチル、スターリン、FDR)、1945年2月4-11日ヤルタ会談では戦後欧州秩序、ポーランド東部国境、国連創設、ソ連の対日参戦を合意した。医師ハワード・ブルーエン中佐は鬱血性心不全と診断していたが本人にも国民にも伏せられ、内部メモには「致死的に衰弱している」と記した。ヤルタでスターリンに東欧で過大に譲歩したとの批判は冷戦下に強まるが、現代の研究は当時の軍事的現実(赤軍が既に東欧を占領)を踏まえ評価が分かれる。
最期の同席者と遺族。1945年4月のウォームスプリングス滞在に同席したのは、ルーシー・マーサー(現姓ラザフォード、未亡人となっていた)、画家エリザベス・シュマトフ、いとこのデイジー・サックリーら数人で、娘アンナ・ローズベルトが父の希望でひそかに会合を手配していた。ルーシーらは公的醜聞を避けるため遺体到着前に屋敷を去り、エレノアは4月13日朝に現地で娘から事情を知らされた。エレノアはその後、国連人権委員会の初代委員長として世界人権宣言(1948年)の起草を主導した。
09主要な出来事と演説
- 1月30日、ニューヨーク州ハイドパークに誕生。父ジェームズ54歳・母サラ27歳の一人息子
- 3月17日、エレノア・ローズベルト(TR第26代大統領の姪)と結婚。テディが花嫁を引き渡す
- コロンビア法科大学院を中退、NY州弁護士試験合格、ウォール街の法律事務所へ
- ニューヨーク州上院議員に当選(共和党地盤を逆転)
- ウィルソン政権の海軍次官補(7年)
- 9月、エレノアがルーシー・マーサーとの不倫を発見。母サラの最後通牒で形だけの結婚継続
- 副大統領候補(民主党、ハーディングに大敗)
- 8月10日カンポベロ島でポリオ発症(39歳、下半身麻痺)。現代説ではギラン・バレー症候群の可能性も
- ニューヨーク州知事(二期)
- 11月、現職フーヴァーに圧勝(57.4%対39.7%)
- 3月就任、『恐怖そのもの』演説。最初の100日、炉辺談話開始、ニューディール、グラス・スティーガル法
- 社会保障法、ワグナー法、WPA(第二期ニューディール)
- 裁判所再編案、自党にも拒まれ撤回(最大の政治的挫折)
- 三選(二期制を破る、対ウィルキー)
- 1月『四つの自由』。3月武器貸与法。8月大西洋憲章。12月真珠湾、対日宣戦
- 2月19日大統領令9066号、日系人約12万人強制収容。8月マンハッタン計画本格始動
- 四選(対デューイ、副大統領候補トルーマン)
- 2月4-11日ヤルタ会談。4月12日、ウォームスプリングスで脳出血により死去(ルーシー同席)、63歳
残した思想の輪郭
- 恐怖に対する公共の応答 ― 「恐れるべきは恐怖そのもの」で信頼回復を政策の前提に据えた
- ニューディール ― 政府の役割を市場の失敗の補完から積極的再設計へと転換、福祉国家の骨格
- 四つの自由 ― 市民的自由に加え「欠乏と恐怖からの自由」を入れ、経済的安全保障を人権の射程へ
- 炉辺談話 ― 大統領と国民の直接対話をラジオで日常化、危機時の公共コミュニケーション原型
- 国際協調と国連構想 ― 戦後世界の集団安全保障の基盤を設計、ヤルタで戦後秩序を交渉
つながり
- エイブラハム・リンカーン
先駆 — 連邦を守った危機の大統領──ニューディールの前に、もう一つの救済があった。
- ジョン・F・ケネディ
継承 — その枠組みを受け継ぎ、リベラル外交を次の世代へ運んだ後継者。
- セオドア・ローズベルト
先駆 — 同じ姓を持つ遠い従兄。公共政策の先駆けは、一族の中にいた。
- ウィンストン・チャーチル
伴走 — 約1,700通の書簡を交わした戦時の相棒。大西洋憲章からヤルタまで、会談を重ね続けた首相。
さらに読むならFurther Reading
フランクリン・ローズベルトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
副読フランクリン・ローズヴェルト ― 大恐慌と大戦に挑んだ指導者
佐藤千登勢 / 中公新書
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生きた跡を辿るPlaces
フランクリン・ローズベルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- フランクリン・D・ルーズヴェルト邸(スプリングウッド)生誕
ハイドパーク(ニューヨーク州), アメリカ
誕生・生涯の本邸・墓所。大統領在任中に約200回帰省した「スプリングウッド」。ローズガーデンに夫妻が眠る
- フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領図書館博物館所属
ハイドパーク(ニューヨーク州), アメリカ
1941年開館、在任大統領が使用した唯一の大統領図書館。大恐慌・第二次大戦期の公文書と演説資料を所蔵
さらに辿るならExternal References
フランクリン・ローズベルトを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フランクリン・ルーズベルト」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Franklin D. Roosevelt"
公式EnglishFranklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum 公式サイト
米国立公文書館が運営する大統領記念館