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実践の知

ウィンストン・チャーチル

Winston Churchill·1874–1965·イギリス·

絶望的な劣勢の中で、 国民に戦い続けるよう語りかけられるか?

第二次世界大戦の暗黒の一年を言葉で支え、鉄のカーテンを名指した首相

  • 第二次世界大戦
  • 鉄のカーテン
  • ノーベル文学賞

時代の空気

ヴィクトリア朝末、貴族の家に生まれた帝国の世紀末だった。1899年ボーア戦争に従軍記者として赴き捕虜から脱獄して英雄になり、25歳で保守党下院議員、1904年自由貿易を守るため自由党に転じた。海軍大臣としてダーダネルス上陸作戦に失敗、戦後は蔵相として1925年金本位制復帰を主導、デフレと長期失業を招く。1929年から十年、対ナチ警鐘を独力で鳴らし続けた荒野の十年を経て、1940年5月10日、ドイツ西方電撃戦と同じ日に首相となる。バトル・オブ・ブリテン、ベヴァリッジ報告、ヤルタ。1945年7月総選挙で労働党に大敗、1951年再登板、1953年ノーベル文学賞、1965年没。

01ブレナム宮殿、若き無鉄砲

1874年11月30日、オックスフォードシャーのブレナム宮殿で早産児そうざんじとして生まれた。父ランドルフ・チャーチル卿はマールバラ公家(18世紀初頭に対仏戦争を率いた公爵家)の次男で、保守党の若手有望株、1886年に37歳で蔵相にまで昇るが、翌年予算案で敗れて辞任、1895年に46歳で病没した(梅毒説は近年の研究で否定的)。母ジェニーはアメリカ人金融家レナード・ジェロームのニューヨーク生まれの娘で、社交界の華として知られた。両親は息子に手をかける時間を持たず、寄宿学校と乳母エヴェレスト夫人(チャーチルが「私の幸福のもう一人の母」と呼んだ女性)が幼少期を支えた。

ハロー校ではラテン語に苦しみ成績下位の常連だったが、英語と歴史と剣術を好んだ。父からは「軍人にしかなれない」と冷遇され、1893年、サンドハースト王立陸軍士官学校に三度目の受験で合格、騎兵科に進む。卒業後、第4ハッサー騎兵連隊に所属。1895年キューバ独立戦争を従軍記者じゅうぐんきしゃとして観戦、1897年インド北西辺境(現パキスタン側)、1898年スーダンでオムドゥルマンの戦いに参加し、英軍最後の本格的な騎兵突撃の一つに加わった。1899年南アフリカ・ボーア戦争に従軍記者として赴き、装甲列車襲撃で捕虜ほりょとなるが脱獄だつごく、賞金首として荒野を逃れて英雄として帰国した。25歳。

1900年、保守党のオールダム選挙区から下院議員に当選。半世紀を超える政治家人生が、ここから始まる。

02自由党へ、海相、ダーダネルスの蹉跌

1904年、保守党の関税改革(Tariff Reform)路線に反対し、自由貿易擁護のため自由党へ移籍した(党内のいわゆる「クロスベンチ離脱」、議場の対面側に席を移して大臣を批判した)。1908年、クレメンタイン・ホージアと結婚、終生の伴侶となる。同年から1915年まで自由党内閣に閣僚として連なり、商務院総裁(Board of Trade)、内相、海軍大臣(Admiralty First Lord)を歴任、社会保険・職業安定所など労働者保護立法に関与した。

1911年、海軍大臣として艦隊の重油化と石油戦略を推進。第一次世界大戦開戦時は艦隊の即応動員を主導したが、1915年4月、自ら主導したダーダネルス作戦(ガリポリ上陸)が惨敗、英・豪・ニュージーランド・仏連合軍の死傷者は約25万にのぼった。責任を問われて海相を辞任、ロイド・ジョージ内閣で陸軍少佐として西部戦線の塹壕に従軍した。1917年、軍需相(Minister of Munitions)として復権、戦争末期と戦後は陸軍・空軍相、植民地相を務めた。

1924年、保守党に復帰し蔵相(Chancellor of Exchequer)に就任。1925年、戦前の金本位制(1ポンド=4.86ドル)へ英ポンドを復帰させたが、過大評価のもとでデフレと炭鉱業の停滞、1926年のゼネスト、長期失業を招き、ケインズはこれを「チャーチル氏の経済的帰結」と批判した。本人も後年、人生最大の誤りの一つと認めている。1929年、保守党が政権を失い、チャーチルは閣外の「荒野の十年」(wilderness years)に入る。1930年代、彼はインド自治反対(その立論にはインド人観への偏見が露骨に含まれていた)とドイツ再軍備ぐんびへの警鐘をほぼ独力で鳴らし続けた。1938年9月のミュンヘン協定にも反対し、党内では時代遅れの好戦主義者と見られていた。

031940年5月10日――首相就任

1939年9月、ドイツがポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発。チェンバレン内閣の下、チャーチルは再び海軍大臣に就任した。海軍省は艦隊に電文を送った――「ウィンストンが戻った(Winston is back)」。

1940年4月、ノルウェー戦役の失敗でチェンバレン内閣が崩壊。1940年5月10日、同じ日にドイツ軍が西方電撃戦を開始した。65歳のチャーチルが、国王ジョージ6世から組閣を命じられた。保守・自由・労働の挙国一致内閣である。

翌5月13日の庶民院演説で、新首相はこう宣言した。「私は血と労苦と涙と汗以外に何も提供できない」。英仏連合軍はすでに崩壊しつつあり、6月4日のダンケルク撤退完了後、「我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う……決して降伏しない」と演説した。6月18日、「が始まろうとしている……千年後も人々は『これがだった(finest hour)』と語るだろう」。

1940年7月から10月のバトル・オブ・ブリテンで英王立空軍がドイツ空軍の制空権獲得を阻止し、対英本土上陸作戦アシカは事実上断念された。9月から翌春のロンドン大空襲ブリッツでは43,000人以上の市民が死亡、11月14日のコヴェントリー爆撃ばくげきでは中世の大聖堂が灰燼に帰した。1941年8月、ニューファンドランド沖艦上でローズベルトと会談しを発表。同年12月の真珠湾攻撃で米国が参戦、1943年12月のテヘラン会談、1945年2月ので戦後処理が決められていく。1945年5月8日、対独戦勝利。

我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う、野原と街路で戦う、丘で戦う。我々は決して降伏しない。

1940年6月4日、庶民院演説

04ベンガル飢饉、戦後敗北、鉄のカーテン

1945年7月5日投票・26日開票の英国総選挙でチャーチル率いる保守党は労働党アトリーに大敗、議席は213対393の地滑り、ポツダム会談の最中の交代となった。国民は戦争指導への感謝と、ベヴァリッジ報告と完全雇用を掲げる戦後福祉国家の担い手の区別を冷静につけた。

戦時から戦後にかけて、チャーチルの記録には光だけでなく濃い影もある。1943年から1944年にかけて英領インドのベンガル州を襲った飢饉は、二〇〇万から三〇〇万人の餓死者を出した二十世紀英帝国最悪の人災であり、穀物の戦時輸出継続、船腹割当の優先順位、州境封鎖、そして首相自身のインド人観への偏見が複合した結果と歴史家Madhusree MukerjeeやAdam Toozeらは詳細に記す。チャーチル個人が飢饉の主因ではないが、政策決定の責任は明確に存在した。1952年から1960年のケニア・マウマウ蜂起への武力弾圧だんあつ(強制収容と拷問の組織的使用が後年の英国法廷で認定された)も、首相経験者としての影に含まれる。

1946年3月5日、米ミズーリ州フルトンのウェストミンスター・カレッジで、チャーチルは「平和の筋肉(Sinews of Peace)」と題する演説を行った。「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンてつのカーテンが大陸を横切って降ろされた」。冷戦の構図を西側で初めて公的に言語化した一句である。

1951年、76歳のチャーチルは再び首相に。5年弱の第二次政権は、英国の衰退と植民地解体の時代に当たる。1953年、ノーベル文学賞受賞、授賞理由は「歴史と伝記における卓越と、人間の価値を守る高潔な弁論」。受賞対象は全6巻(1948-1953刊)と『マールバラ公』伝全4巻、戦時演説集を中心とした。同年7月、脳卒中で倒れたが公表されずに回復、1955年4月に健康を理由に首相を退陣たいじんした。

05黒い犬、葉巻、絵画

光の演説の裏には、長い影もあった。チャーチルは自分のうつ気分を「(Black Dog)」と呼んだ――サミュエル・ジョンソンに倣った私的隠喩で、側近の主治医モランや家族への手紙に頻出する。Anthony Storr『チャーチルの黒い犬』など精神医学的研究は、双極性に近い気分の波と、危機の局面で発揮された決断力との関係を、慎重に論じている。

酒は終生のパートナーだった。昼食にポル・ロジェのシャンパン、午後にウィスキーソーダ、夜にブランデー、葉巻はキューバ産ロメオ・イ・フリエタを毎日8本から10本。本人は「酒は私から多くを取ったが、私は酒からそれ以上を取った」と冗談めかした。

油絵は40代で始まり、半世紀の避難所ひなんじょとなった。ダーダネルス失敗の鬱の中で姉ローラに勧められて筆を取り、生涯で500点以上を遺し、1948年に英国王立美術アカデミーの名誉会員に選ばれた。子は5人、ダイアナ、ランドルフ、サラ、マリゴールド(1921年に2歳で夭逝)、メアリー。妻クレメンタインは「クレミー」と呼ばれ、56年にわたって彼の鬱の波を支え続けた。

1963年、米議会は名誉アメリカ市民権を授与――建国以来初の事例で、母ジェニーがアメリカ人だったことを踏まえた敬意でもあった。1964年、89歳で下院議員を引退(1900年から64年間の議員歴)。1965年1月24日、ロンドン郊外ハイドパーク・ゲイトの自宅で脳卒中により死去、90歳(父ランドルフ卿と同じ1月24日の死去)。国葬はセント・ポール大聖堂で行われ、エリザベス2世女王とド・ゴールも参列した。遺体はテムズ川を遡ってウォータールー駅に運ばれ、ブラドン(オックスフォードシャー)の先祖の墓地に、両親と早世のマリゴールドのそばに埋葬された。

06主要な出来事と著作

  1. 11月30日、ブレナム宮殿に早産で誕生。マールバラ公家の血筋
  2. サンドハースト王立陸軍士官学校入学(三度目の受験で合格)
  3. 南アフリカ・ボーア戦争で従軍記者として捕虜、脱獄して英雄帰国
  4. 下院議員初当選(保守党、オールダム)
  5. 自由貿易擁護で自由党に移籍
  6. クレメンタイン・ホージアと結婚
  7. 海軍大臣に就任
  8. 4月、ダーダネルス作戦失敗、海相辞任、西部戦線に少佐従軍
  9. 保守党復帰、蔵相就任、翌年金本位制4.86ドルで復帰
  10. 「荒野の十年」、ナチス再軍備への警鐘を独力で鳴らす
  11. 5月10日、首相に就任。血と労苦と涙と汗の演説
  12. 8月、ローズベルトと大西洋憲章。12月、真珠湾で米参戦
  13. ベンガル飢饉(死者200-300万)、政策決定責任あり
  14. 2月ヤルタ、5月対独戦勝利、7月総選挙で労働党に大敗
  15. 3月5日、フルトン演説「鉄のカーテン」
  16. 『第二次世界大戦』全6巻刊行
  17. 第二次チャーチル政権
  18. 首相在任を含むケニア・マウマウ蜂起への武力弾圧
  19. ノーベル文学賞受賞。脳卒中で倒れる
  20. 1月24日、ロンドンの自宅で脳卒中により死去、90歳。国葬

残した指導者像の輪郭

  • 抗戦の意志を言葉で支える ― 劣勢の一年を、演説の力で国民の抗戦意志に変えた
  • 鉄のカーテン ― 冷戦の構図を西側で初めて公的に名指した政治家としての歴史感覚
  • 歴史を書く政治家 ― 自ら戦争と祖先の歴史を書き、ノーベル文学賞を受けた稀有な存在
  • 長い失敗の果ての勝利 ― ダーダネルス、金本位制復帰、荒野の十年を経て1940年に至る経歴
  • 画家としての内面 ― 油絵に避難所を見出した、公的荒野の裏側の私的世界
  • 影の側 ― の政策決定責任、マウマウ蜂起への弾圧、植民地観の偏見、鬱の「黒い犬」、酒癖を含む不完全な人物像
1965年1月、ロンドンの自宅で脳卒中により死去、90歳。国葬はセント・ポール大聖堂で行われた。
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  • 文脈一次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: churchill-1.context: ダンケルク撤退 (Operation Dynamo, 1940年5月26日-6月4日、約 33 万 8 千 226 人撤退) 直後の 1940年6月4日、首相...

  • 文脈原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: ダンケルクから 33 万の将兵が辛うじて英仏海峡を渡り戻った直後、首相就任 25 日目のチャーチルが庶民院で行った演説の結び近く。大陸が相次いで陥落し、英本土侵攻が現実の選択肢として語られ始めた局面で...

    一次資料を開くInternational Churchill Society 公式 transcript。1940年6月4日 House of Commons 演説全文

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: ダンケルクから 33 万の将兵が辛うじて英仏海峡を渡り戻った直後、首相就任 25 日目の Churchill が庶民院で行った演説 (1940 年 6 月 4 日 'We shall fight on...

  • 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 1940年6月18日、フランス降伏の前日に庶民院で行われた演説の結び。ダンケルク撤退から二週間、英本土が単独でドイツに対峙する見通しの中で、首相チャーチルは勝利ではなく「責務(duties)」という言...

    一次資料を開く演説原文全文 (1940年6月18日庶民院)。「Let us therefore brace ourselves to our duties...if the ...

  • 引用本文原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う、野原と街路で戦う、丘で戦う。我々は決して降伏しない。

    一次資料を開くInternational Churchill Society 公式 archive。1940年6月4日 House of Commons 演説 primary...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う、野原と街路で戦う、丘で戦う。我々は決して降伏しない

    一次資料を開くInternational Churchill Society 公式 archive。1940年6月4日 House of Commons 演説。原文 'we ...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: churchill.mdx pullsource '1940年6月4日、庶民院演説' は Winston Churchill 'We shall fight on the beaches' (Hous...

    一次資料を開くInternational Churchill Society 公式 archive。1940年6月4日 House of Commons 演説確定 (2026...

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    定本確認済み: 英国と英連邦が千年続くとすれば、人々はなおこう語るだろう ― これがかれらの最も輝かしい時であった、と

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