ウィンストン・チャーチル
勝てそうにない朝に、 人はどんな言葉で立ち続けるのか?
第二次世界大戦の暗黒の一年を言葉で支え、鉄のカーテンを名指した首相
- 第二次世界大戦
- 鉄のカーテン
- ノーベル文学賞
大英帝国が傾きはじめ、ヨーロッパが二度の大戦に巻き込まれた時代 — ひらく
時代の空気
ヴィクトリア朝末、貴族の家に生まれた帝国の世紀末だった。1899年ボーア戦争に従軍記者として赴き捕虜から脱獄して英雄になり、25歳で保守党下院議員、1904年自由貿易を守るため自由党に転じた。海軍大臣としてダーダネルス上陸作戦に失敗、戦後は蔵相として1925年金本位制復帰を主導、デフレと長期失業を招く。1929年から十年、対ナチ警鐘を独力で鳴らし続けた荒野の十年を経て、1940年5月10日、ドイツ西方電撃戦と同じ日に首相となる。バトル・オブ・ブリテン、ベヴァリッジ報告、ヤルタ。1945年7月総選挙で労働党に大敗、1951年再登板、1953年ノーベル文学賞、1965年没。
01勝った夏に、捨てられる
1945年5月8日、ドイツとの戦争に勝った。ロンドンの空襲はもう来ない。国を五年間ひっぱった首相は、70歳になっていた。国民は彼に、心から感謝していた。
それから二か月しかたっていない。7月5日に投票が行われ、26日に開票された。結果は、彼の保守党の大敗だった。議席は213対393。相手は労働党のアトリーである。
しかもそのとき、彼は戦後の世界を決めるポツダム会談の真っ最中だった。会談の途中で、首相の席を敵に明け渡すことになった。勝った男が、勝った夏に、国民から捨てられたのだ。
なぜ、こんなことが起きたのか。国民は恩を忘れたのか。それとも、彼らは何かをはっきり見分けていたのか。
この問いに答えるには、彼の人生を最初から歩き直す必要がある。時は71年前に戻る。
02宮殿の早産児、無鉄砲な若者
1874年11月30日、オックスフォードシャーのブレナム宮殿。そこで早産児として生まれた。父ランドルフ・チャーチル卿はマールバラ公家の次男だった。18世紀のはじめ、フランスとの戦争を率いた公爵の家である。父は保守党の若手有望株で、1886年に37歳で蔵相(国の財布を預かる大臣)にまで昇った。だが翌年、予算案で敗れて辞任し、1895年に45歳で病死する(梅毒説は近年の研究で否定的)。
母ジェニーはアメリカ人だった。ニューヨークの金融家レナード・ジェロームの娘で、社交界の華として知られた。両親は息子に手をかける時間を持たなかった。幼いウィンストンを支えたのは、寄宿学校と乳母のエヴェレスト夫人である。彼は後に、彼女を「私の幸福のもう一人の母」と呼んだ。
ハロー校ではラテン語に苦しみ、成績は下位の常連だった。ただ、英語と歴史と剣術は好んだ。父からは「軍人にしかなれない」と冷たく見られていた。1893年、サンドハースト王立陸軍士官学校に三度目の受験で合格し、騎兵科に進む。卒業後は第4ハッサー騎兵連隊に入った。
ここからの若い日々は、まるで冒険小説である。1895年、キューバの独立戦争を従軍記者として見に行った。1897年にはインドの北西辺境(いまのパキスタン側)へ。1898年、スーダンのオムドゥルマンの戦いに参加した。英軍最後の本格的な騎兵突撃の一つである。
1899年、南アフリカのボーア戦争に従軍記者として赴く。装甲列車が襲われ、捕虜になった。だが彼は脱獄する。賞金首として荒野を逃げ、英雄として帰国した。25歳だった。
1900年、保守党のオールダム選挙区から下院議員に当選。半世紀を超える政治家の人生が、ここから始まる。だが、その道は一直線ではなかった。四年後、彼は自分の党を捨てる。
03海の大臣、ガリポリの敗北
1904年、保守党は関税改革(Tariff Reform)の路線をとった。輸入品に税をかけて国内を守ろうという考えである。チャーチルはこれに反対し、自由貿易を守るために自由党へ移った。議場の対面側に席を移して大臣を批判する、いわゆる「クロスベンチ離脱」だった。
1908年、クレメンタイン・ホージアと結婚する。生涯の伴侶となる女性である。同じ年から1915年まで、自由党内閣の閣僚として働いた。商務院総裁(Board of Trade)、内相、そして海軍大臣(Admiralty First Lord)。社会保険や職業安定所など、働く人を守る法律づくりにも関わった。
1911年、海軍大臣として艦隊の燃料を石炭から重油に変える改革を進めた。1914年に第一次世界大戦が始まると、艦隊をすぐ動かせるよう先頭に立った。だが1915年4月、自ら主導した(ガリポリ上陸)が惨敗する。英・豪・ニュージーランド・仏の連合軍の死傷者は約25万にのぼった。
責任を問われ、海軍大臣を辞めた。40歳。彼は陸軍少佐として、西部戦線の塹壕に自ら向かった。深い落ち込みの中で、身内に勧められて油絵の筆を取ったのもこのころである。1917年、軍需相(Minister of Munitions)として政治に戻った。戦争の終わりと戦後には、陸軍・空軍相、植民地相を務めた。
海で沈んだ男は、次に国の財布を任される。そこで彼はもう一つ、大きな失敗をする。
04金本位制の誤りと、荒野の十年
1924年、保守党に戻り、蔵相(Chancellor of Exchequer)になった。父と同じ席である。1925年、英ポンドを戦前のへ戻した。1ポンドを4.86ドルの金と結びつける昔の仕組みである。だがその値は、実力より高すぎた。
結果は、物の値段が下がり続けるデフレだった。炭鉱業は止まり、1926年にはゼネスト(全国いっせいのストライキ)が起きた。長い失業が続いた。経済学者のはこれを「チャーチル氏の経済的帰結」と批判した。本人も後年、人生最大の誤りの一つと認めている。
1929年、保守党が政権を失う。チャーチルは閣外に出て、「荒野の十年」(wilderness years)に入った。この間、彼はインドの自治に反対し続けた。その立論には、インド人への偏見が露骨に含まれていた。
同時に彼は、ドイツの再軍備への警鐘を、ほぼ独りで鳴らし続けた。1938年9月、英仏がヒトラーに譲歩したにも反対した。党の中では、時代遅れの好戦主義者と見られていた。
翌年の秋、その「時代遅れ」の警告が現実になる。
05「ウィンストンが戻った」
1939年9月、ドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まった。チェンバレン内閣のもと、チャーチルは再び海軍大臣になった。海軍省は艦隊に電文を送った。「ウィンストンが戻った(Winston is back)」。
1940年4月、ノルウェー戦役の失敗でチェンバレン内閣が崩れる。1940年5月10日、ドイツ軍が西方への電撃戦を始めた。同じ日、65歳のチャーチルが国王ジョージ6世から組閣を命じられた。保守・自由・労働の三党がそろう挙国一致内閣である。
三日後の5月13日、新首相は庶民院でこう宣言した。「私は血と労苦と涙と汗以外に何も提供できない」。英仏連合軍はすでに崩れつつあった。6月4日、ダンケルクからの撤退が終わる。その日、彼は「我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う……決して降伏しない」と演説した。
6月18日にはこう語った。「が始まろうとしている……千年後も人々は『これがだった(finest hour)』と語るだろう」。勝つ見込みが薄い朝に、彼は国民に、持ちこたえる形を言葉で与えた。
1940年7月から10月、バトル・オブ・ブリテンが戦われた。英王立空軍は、ドイツ空軍が空を支配するのを阻止した。イギリス本土への上陸作戦アシカは、事実上あきらめられた。だが9月から翌春まで、ロンドン大空襲ブリッツが続く。市民43,000人以上が死んだ。11月14日のコヴェントリー爆撃では、中世の大聖堂が灰になった。
言葉だけでは、戦争には勝てない。イギリスは、海の向こうの味方を必要としていた。
我々は海岸で戦う、上陸地点で戦う、野原と街路で戦う、丘で戦う。我々は決して降伏しない。
06海の向こうの味方、そして勝利
1941年8月、チャーチルはニューファンドランド沖の艦の上で、アメリカ大統領ローズベルトと会った。二人はを発表する。戦後の世界の原則を示した文書である。同じ年の12月、日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが戦争に加わった。
1943年12月のテヘラン会談、1945年2月の。戦後の世界の形が、米英ソの首脳によって決められていく。その一方で、1943年から1944年にかけて、英領インドのベンガル州を飢饉が襲っていた。この影については、あとで帳簿を開く。
1945年5月8日、ドイツとの戦争に勝った。物語は、冒頭の夏に近づいている。だがその夏を理解するには、光の裏側を先に見ておかなければならない。
英国と英連邦が千年続くとすれば、人々はなおこう語るだろう ― これがかれらの最も輝かしい時であった、と
07光の裏の帳簿 ― ベンガル、マウマウ、黒い犬
戦時から戦後にかけて、チャーチルの記録には光だけでなく濃い影もある。1943年から1944年にかけて英領インドのベンガル州を襲った飢饉は、二〇〇万から三〇〇万人の餓死者を出した二十世紀英帝国最悪の人災であり、穀物の戦時輸出継続、船腹割当の優先順位、州境封鎖、そして首相自身のインド人観への偏見が複合した結果と歴史家Madhusree MukerjeeやAdam Toozeらは詳細に記す。チャーチル個人がの主因ではないが、政策決定の責任は明確に存在した。1952年から1960年のケニア・マウマウ蜂起への武力弾圧(強制収容と拷問の組織的使用が後年の英国法廷で認定された)も、首相経験者としての影に含まれる。
光の演説の裏には、内面の長い影もあった。チャーチルは自分の鬱気分を「(Black Dog)」と呼んだ――サミュエル・ジョンソンに倣った私的隠喩で、側近の主治医モランや家族への手紙に頻出する。Anthony Storr『チャーチルの黒い犬』など精神医学的研究は、双極性に近い気分の波と、危機の局面で発揮された決断力との関係を、慎重に論じている。
酒は終生のパートナーだった。昼食にポル・ロジェのシャンパン、午後にウィスキーソーダ、夜にブランデー、葉巻はキューバ産ロメオ・イ・フリエタを毎日8本から10本。本人は「酒は私から多くを取ったが、私は酒からそれ以上を取った」と冗談めかした。油絵はダーダネルス失敗の鬱の中で始まり、半世紀の避難所となった。生涯で500点以上を遺し、1948年に英国王立美術アカデミーの名誉会員に選ばれた。
この帳簿を手にして、もう一度1945年の夏に戻る。
081945年の夏、ふたたび ― 鉄のカーテンから国葬まで
7月26日の開票結果は、地滑りの大敗だった。だが国民は、恩を忘れたのではなかった。戦争を指導してくれた人への感謝と、戦後の国をつくる人の選択は、別の問題である。労働党はと完全雇用を掲げていた。病気や失業から国民を守る福祉国家の設計図である。国民はその担い手を、冷静に見分けた。
首相の座を失っても、彼の言葉は世界を動かした。1946年3月5日、アメリカのミズーリ州フルトン。ウェストミンスター・カレッジで彼は「平和の筋肉(Sinews of Peace)」という演説を行った。「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされた」。このフルトン演説は、冷戦の構図を西側で初めて公の場で言葉にした一句である。
1951年、76歳で再び首相になった。3年半の第二次政権は、イギリスが衰え、植民地が離れていく時代と重なる。1953年、ノーベル文学賞受賞。授賞理由は「歴史と伝記における卓越と、人間の価値を守る高潔な弁論」。対象は全6巻の(1948-1953刊)、『マールバラ公』伝全4巻、そして戦時演説集だった。同じ年の7月に脳卒中で倒れたが、公表されずに回復した。1955年4月、健康を理由に首相を退陣した。
子は5人。ダイアナ、ランドルフ、サラ、マリゴールド(1921年に2歳で早く亡くなった)、メアリー。妻クレメンタインは「クレミー」と呼ばれ、56年にわたって彼の鬱の波を支え続けた。1963年、アメリカ議会は名誉アメリカ市民権を授与した。建国以来初めてのことで、母ジェニーがアメリカ人だったことをふまえた敬意でもあった。1964年、89歳で下院議員を引退。1900年から64年間の議員歴だった。
1965年1月24日、ロンドン郊外ハイドパーク・ゲイトの自宅で脳卒中により死去、90歳。父ランドルフ卿と同じ1月24日だった。国葬はセント・ポール大聖堂で行われ、エリザベス2世女王とド・ゴールも参列した。遺体はテムズ川をさかのぼってウォータールー駅に運ばれた。そしてオックスフォードシャーのブラドンにある先祖の墓地に、両親と早く亡くなったマリゴールドのそばに埋葬された。
勝った夏に捨てられた男は、その言葉だけで、20年後も国葬で送られた。負けそうな朝に人を立たせる言葉と、平和な朝に国をつくる力は、同じものだろうか。あなたなら、どちらの人を選ぶだろうか。
09主要な出来事と著作
- 11月30日、ブレナム宮殿に早産で誕生。マールバラ公家の血筋
- サンドハースト王立陸軍士官学校入学(三度目の受験で合格)
- 南アフリカ・ボーア戦争で従軍記者として捕虜、脱獄して英雄帰国
- 下院議員初当選(保守党、オールダム)
- 自由貿易擁護で自由党に移籍
- クレメンタイン・ホージアと結婚
- 海軍大臣に就任
- 4月、ダーダネルス作戦失敗、海相辞任、西部戦線に少佐従軍
- 保守党復帰、蔵相就任、翌年金本位制4.86ドルで復帰
- 「荒野の十年」、ナチス再軍備への警鐘を独力で鳴らす
- 5月10日、首相に就任。血と労苦と涙と汗の演説
- 8月、ローズベルトと大西洋憲章。12月、真珠湾で米参戦
- ベンガル飢饉(死者200-300万)、政策決定責任あり
- 2月ヤルタ、5月対独戦勝利、7月総選挙で労働党に大敗
- 3月5日、フルトン演説「鉄のカーテン」
- 『第二次世界大戦』全6巻刊行
- 第二次チャーチル政権
- 首相在任を含むケニア・マウマウ蜂起への武力弾圧
- ノーベル文学賞受賞。脳卒中で倒れる
- 1月24日、ロンドンの自宅で脳卒中により死去、90歳。国葬
残した指導者像の輪郭
- 抗戦の意志を言葉で支える ― 劣勢の一年を、演説の力で国民の抗戦意志に変えた
- 鉄のカーテン ― 冷戦の構図を西側で初めて公的に名指した政治家としての歴史感覚
- 歴史を書く政治家 ― 自ら戦争と祖先の歴史を書き、ノーベル文学賞を受けた稀有な存在
- 長い失敗の果ての勝利 ― ダーダネルス、金本位制復帰、荒野の十年を経て1940年に至る経歴
- 画家としての内面 ― 油絵に避難所を見出した、公的荒野の裏側の私的世界
- 影の側 ― ベンガル飢饉の政策決定責任、マウマウ蜂起への弾圧、植民地観の偏見、鬱の「黒い犬」、酒癖を含む不完全な人物像
つながり
- マハトマ・ガンディー
反発 — 「半裸の托鉢僧」と呼ばれた側。非暴力のまま、帝国と独立の日まで対峙し続けた人。
- フランクリン・ローズベルト
伴走 — 書簡約1,700通で結ばれた同盟の相手。その急逝まで、戦後秩序の枠組みを共に描いた大統領。
さらに読むならFurther Reading
ウィンストン・チャーチルの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
ウィンストン・チャーチルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- セント・マーティン教会(ブレイドン)墓所
ブレイドン(オックスフォードシャー), イギリス
1965年没。ウェストミンスター寺院を辞退し、生誕地ブレナム宮殿に近いこの村の簡素な墓所に妻クレメンタインらと眠る
- チャートウェル住居
ケント, イギリス
1924年から約40年間の邸宅。執筆・絵画・庭いじりに没頭した家で、遺品や書斎が当時のまま保存されている(ナショナル・トラスト管理)
さらに辿るならExternal References
ウィンストン・チャーチルを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
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