セオドア・ローズベルト
力は、 どう使うか?
大スティックを掲げつつ自然を守り、20世紀米国を進歩主義へ押し出したカウボーイ大統領
- プログレッシブ運動
- 自然保護
- 大スティック
- トラスト解体
時代の空気
南北戦争後の再建期(1865-77)を経た合衆国は、急速な工業化と移民の流入で巨大企業の独占(スタンダード石油、USスチール)が公共を覆い、革新主義(1890-1920)が政治改革を求めていた。1898年の米西戦争でキューバ独立を支援する一方プエルトリコ・グアム・フィリピンを領有、1903年パナマ独立支援と運河建設、1904-05年の日露戦争にはポーツマス講和で介入。1906年に純正食品医薬品法が連邦規制の幕を開け、自然保護も国家事業に組み込まれた。第一次大戦とスペイン風邪が次の世代を待っていた。
01マンハッタンの病弱な少年
1858年10月27日、ニューヨーク市マンハッタン東20丁目の裕福な商人家庭に生まれた。父セオドア・シニアはオランダ系の輸入商で慈善家、母マーサ・ブロックはジョージア州の南部上流家庭の娘だった。南北戦争では父は北軍に直接従軍せず代理人を雇い(妻と義家族の縁ゆえの妥協)、母方の兄弟は南軍で戦った——家庭のなかに「国が割れる経験」が静かに横たわっていた。四人兄妹の次男(姉ベイミー、弟エリオット、妹コリンヌ)。
少年セオドアは重度の喘息に苦しんだ。発作の夜、息が出来ず、起き上がって父の腕に抱かれたまま朝を待った夜が幾度もある。父はある日少年に告げた——「君は頭を作った。今度は体を作らねばならない」。以後、家の二階につくられた即席の体育室で、ダンベル、鉄棒、サンドバッグに通うようになる。乗馬、ボクシング、登山、水泳。後年彼が「The Strenuous Life(奮励の生)」と呼ぶ思想の出所は、信条以前にこの幼い肺の咳の記憶にあった(自伝『An Autobiography』1913年、第一章「The Vigor of Life」)。
1876年ハーヴァード大学入学。博物学に熱中し鳥類の標本を集めた。1878年、父の急死(享年46、腸の悪性腫瘍)。1880年6月卒業、同年10月、ボストンの社交界で出会ったアリス・ハサウェイ・リーと結婚。
02二重の喪失 ― 1884年2月14日
卒業後、ニューヨーク州議会下院議員に最年少で当選(23歳、1882-84)。共和党改革派として頭角を現す。
1884年2月14日、ヴァレンタインデー。同じ屋敷の上下階で、妻アリスは長女アリスを出産した二日後にブライト病(腎炎、22歳)で息絶え、母マーサも同日早朝に腸チフスで亡くなった(49歳)。25歳、一日のうちに母と妻を喪う。彼は日記にただ大きな×を書きつけ、その日のページに「私の人生から光が消えた」と記した。生後二日の娘を姉ベイミーに預け、彼は政界からいったん退いた。
ダコタ准州(現ノース/サウスダコタ)の荒野に逃げ、二年間、牧場主として過ごす。バッファロー狩り、馬泥棒の追跡、1886-87年の壊滅的冬季には所有牛の大半を失った。喪が終わったというより、別の自分を作り直した時期だった。1886年12月、ロンドンで幼馴染のイーディス・カーロウと再婚し、ニューヨーク州オイスター・ベイに邸宅サガモア・ヒルを建てる。五子(セオドア・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルド、クエンティン)を儲け、長女アリスを加え六児の父となった。
03警察委員長、海軍次官補、ラフ・ライダーズ
1889-95年、連邦人事委員会委員。1895-97年、ニューヨーク市警察委員長。夜の街を自ら徒歩で歩いて賄賂を取る巡査を摘発し、警察を近代化した。1897-98年、マッキンリー政権の海軍次官補に就任。スペインとの戦争に備え太平洋艦隊を香港近海に配備する命令を、上司不在のわずか数時間に出した。
1898年2月15日、ハバナ港で米戦艦メイン号が爆沈し、対西戦争論が高まる。4月、米議会が宣戦布告。TRは海軍次官補を辞任し、義勇騎兵第一連隊——を組織した。カウボーイ、先住民、アイビーリーグの学生を混成した約1,000人。中佐(のち大佐)として指揮した。
1898年7月1日、キューバ、。TR隊は主としてケトル・ヒルを攻撃し、機関銃の弾の下を斜面に向けて突撃した(自身は馬で、隊士は徒歩で)。彼の生涯最大の誇りとなった戦闘である。「私の最良の一日」と後年に書く——病弱な少年が、自身に課した二十年余りの身体修練の到達点をここに置こうとした(2001年、死後82年を経て名誉勲章を追贈)。
04副大統領から大統領への昇格
戦後、共和党の党人たちはこのうるさい英雄をニューヨーク州知事(1899-1900)に祭り上げた。州レベルでも「扱いにくい改革派」を発揮したため、1900年大統領選挙では「副大統領」の名誉職に押し込めようとした——副大統領はほぼ何の権限もない役職だったからである(「知事の方が影響力がある」とTR自身もぼやいた)。マッキンリーの再選で、TRは副大統領に就任。
1901年9月6日、バッファローで開催中のパン・アメリカン博覧会でマッキンリーは無政府主義者レオン・ツォルゴシュに銃撃された。一週間持ちこたえたが9月14日に死亡。TRは副大統領就任わずか半年で、42歳、史上最年少の大統領となった(ケネディは最年少の選出大統領、TRは最年少の就任大統領)。
共和党保守派は恐怖した。マーク・ハンナ上院議員(党のボス)は嘆いた——「あの忌々しいカウボーイがホワイトハウスに入ったぞ」。
われわれがほしいのは、人間が経済的機会に恵まれて善い人生を送れるような政府である。 — すべての富の上に、人間の福祉が来なければならない。
05スクエア・ディール ― トラスト解体
TRは大統領就任演説で「マッキンリー政策を継続する」と約束したが、即座に別の道を歩み始めた。
1902年、大手鉄道持株会社ノーザン・セキュリティーズ(モルガン、ハリマン、ヒル)を反トラスト法で提訴。1904年3月、最高裁で5対4の僅差で解体を勝ち取った。続いて反トラスト訴訟を重ねて「トラスト・バスター(巨大企業解体者)」と呼ばれた(後継タフト政権はさらに件数を増やすことになる)。
1902年無煙炭ストライキ。14万人の炭鉱労働者が長期ストに入り、冬の学校・病院の暖房が危機に瀕した。TRは労使双方をホワイトハウスに招き、拒否する経営者側に「連邦軍を出して鉱山を接収する」と圧力をかけた——歴代大統領で初めて、労働側に有利な仲裁を押しつけた瞬間だった。労働時間短縮と賃上げで決着。
彼はこれを「(公正な取引)」と呼んだ——労働、資本、公衆の三者のどれにも偏らない。1906年には、純正食品医薬品法、肉類検査法(アプトン・シンクレア『ジャングル』の影響)、ヘプバーン法(州際鉄道規制強化)が一年のうちに連邦法として成立する。20世紀的な規制国家の原型が、ここに姿を現した。
06自然保護、ノーベル平和賞、パナマ運河
TRは幼年期からの博物学者で、大統領として自然保護に最大級の努力を注いだ。在任中に国立公園を5つ追加(クレーター・レイク、ウィンド・ケイヴほか)、1906年6月の(Antiquities Act)制定により18件の国記念物を一方的に指定(うちにグランド・キャニオン)、150以上の国有林、51件の野生動物保護区。公有地で保護した面積は合計およそ2.3億エーカー(現在のカリフォルニア州の3倍近く)に達する。
1905年、彼は森林局(US Forest Service)を創設、初代局長にギフォード・ピンショーを任命。TRとピンショーは「保全(conservation)」を国家規模の政策語として前景化し、合衆国の環境・資源政策の基礎を築いた。
1905年、日露戦争の講和を仲介(ニューハンプシャー州ポーツマスで日露両国代表が交渉)。日露両国を一つの席に着かせた手腕により、翌1906年、米国大統領として初のノーベル平和賞を受賞する。賞金は私有せず、米国のための信託資金として扱う意向を示した。
1903年、コロンビアからパナマを独立させる反乱を米海軍で支援し、新生パナマからパナマ運河の建設権と管理地帯を獲得。「私はパナマを獲った(I took the Canal Zone)」と後にカリフォルニアの聴衆に誇った——帝国的強引さの典型として今日では批判的に論じられる。運河は1914年8月に開通する。
1907年12月、大白艦隊(Great White Fleet)を世界一周航海に送り、米国海軍力を誇示した。「穏やかに語り、大きな棒を携えよ」——TRのビッグ・スティック外交の実演である。
07ブルムース党とアマゾン、そしてサガモア・ヒル
1908年、TRは後継をウィリアム・ハワード・タフトに託して引退した(「任期制限の慣習を破らない」という言葉を自ら守った)。離任後はアフリカで一年の狩猟・標本収集の旅に出る。しかしタフトが保守化したと見るや、1912年、進歩党(革新党、通称ブルムース党)を結成し、共和党を離脱して大統領選に再出馬した。
10月14日、ミルウォーキーで演説に向かう途中、酒場主ジョン・シュランクが至近距離から銃撃。弾は胸に入ったが、ポケットに折りたたまれた演説原稿50頁と眼鏡ケースに減速され、致命的部位を外れた。暗殺未遂にもかかわらずTRは撃たれたまま90分演説した——「私の胸の中には一発の弾がある。しかし私は雄ヘラジカ(Bull Moose)のように丈夫だから、これくらいでは演説を止めない」。演説後ようやく入院。
1912年選挙はタフト(共和党)、TR(進歩党)、ウッドロー・ウィルソン(民主党)の三つ巴で、共和党票が割れウィルソンが当選する(TRは現職を退いた元大統領としては第三党最高得票記録を残した)。
1913-14年、TRはブラジル・アマゾン支流「疑惑の川(Rio da Dúvida)」の探検に参加。56歳、重度のマラリア、脚の傷から敗血症、生死の境を彷徨った。自ら息子カーミットに「私を置いて行け」と命じる場面もあった。帰国後、彼の健康はついに戻らなかった。
1918年7月、第一次大戦で四男クエンティン(20歳、フランス上空・第95飛行隊)が戦闘機を撃墜され戦死。父TRの気力は折れた。1919年1月6日、オイスター・ベイのサガモア・ヒルで眠ったまま心臓発作(冠動脈塞栓)により死去、60歳。副大統領マーシャルは電報で語った——「死神はTR本人と戦ったら負けると知っていた。だから眠っているうちに連れ去ったのだ」。サウスダコタのに、ワシントン、ジェファソン、リンカーンと並ぶ四大統領の一人として顔を刻まれている。
08主要な出来事と演説
- マンハッタン東20丁目に誕生。重度の喘息の少年
- ハーヴァード大学。博物学への熱中
- アリス・ハサウェイ・リーと結婚、ニューヨーク州議会下院議員当選
- 2月14日、母と妻を同じ日に失う(25歳)
- ダコタ准州で牧場主・保安官
- イーディス・カーロウと再婚、サガモア・ヒル建設
- ニューヨーク市警察委員長
- 海軍次官補。米西戦争でラフ・ライダーズを指揮、サン・フアン高地の戦い
- ニューヨーク州知事
- 3月副大統領就任。9月マッキンリー暗殺で第26代大統領昇格(42歳、史上最年少就任)
- ノーザン・セキュリティーズ提訴。無煙炭ストライキ仲裁、「スクエア・ディール」
- パナマ独立支援、運河建設権獲得
- 大統領再選。モンロー主義の「ローズベルト系」を宣言
- ポーツマスで日露講和を仲介
- 米国大統領として初のノーベル平和賞。純正食品医薬品法・遺跡保護法
- 後継タフトに引き継ぎ引退
- 進歩党(ブルムース党)結成、大統領選再出馬。ミルウォーキーで撃たれ90分演説
- ブラジル・アマゾン「疑惑の川」探検、健康崩壊
- 四男クエンティン戦死
- 1月6日、サガモア・ヒルで死去、60歳
残した思想の輪郭
- ストレニュアス・ライフ(奮励的生活) ― 喘息を乗り越えた身体修練の倫理を、国家倫理にまで広げようとした(1899年シカゴ・ハミルトン・クラブ演説『The Strenuous Life』)
- スクエア・ディール ― 労働・資本・公衆のいずれにも偏らない進歩主義政治
- トラスト解体と規制国家 ― 20世紀的な反独占・消費者保護・労働仲裁の原型
- 保全(conservation)の発明 ― 国立公園・国有林・遺跡保護法・野生動物保護区を体系化、米国環境政策の基盤
- ビッグ・スティック外交 ― 力を誇示するが用いない、日露講和仲介でノーベル平和賞
出典と確認メモ
5件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1901年9月2日、ミネソタ州フェアでセオドア・ローズヴェルトが副大統領として行った演説で、西アフリカの諺として紹介した一節。十二日後にマッキンリー大統領が暗殺され、42歳の彼は最年少で大統領に昇格す...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 穏やかに語り、大きな棒を携えよ。さすれば遠くまで行ける
一次資料を開くTheodore Roosevelt Association 公式引用集。canonical 引用集の一つ
- 抜粋一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: われわれがほしいのは、人間が経済的機会に恵まれて善い人生を送れるような政府である。 — すべての富の上に、人間の福祉が来なければならない。
一次資料を開くNew Nationalism Speech canonical 全文。'I believe in shaping the ends of government...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: tr.mdx pullsource 「ミネソタ州フェア演説(1901年9月2日、副大統領時代)」 は Theodore Roosevelt の Minnesota State Fair 演説 (Sai...
一次資料を開くTheodore Roosevelt Association 公式 speeches archive
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 功績を実際に汗と血で勝ち取ろうと競技場に立つ人こそ、功労者なのだ ― 冷たく臆病な魂、すなわち勝利も敗北も知らぬ者たちと彼が並ぶことは決してない
一次資料を開くTheodore Roosevelt Association 公式 'Man in the Arena' passage 全文。Sorbonne 演説 (191...
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
セオドア・ローズベルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- セオドア・ルーズベルト生誕地国立史跡生誕
ニューヨーク, アメリカ
マンハッタン East 20th Street、TR が生まれ幼年期を過ごした復元タウンハウス。国立公園局管理
- サガモア・ヒル国立史跡住居
オイスター・ベイ, アメリカ
ロングアイランドの TR 自邸。大統領時代の「夏のホワイトハウス」と呼ばれた
- セオドア・ルーズベルト国立公園ゆかり
メドーラ, アメリカ
ノースダコタのバッドランド、TR が牧場を営み保全思想を育てた地
さらに辿るならExternal References
セオドア・ローズベルトを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「セオドア・ルーズベルト」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Theodore Roosevelt"
Project GutenbergEnglishTheodore Roosevelt; An Autobiography — Project Gutenberg
自伝(1913)
公式EnglishTheodore Roosevelt National Park — U.S. National Park Service 公式
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸