セオドア・ローズベルト
強い力は、 何のために使う?
大スティックを掲げつつ自然を守り、20世紀米国を進歩主義へ押し出したカウボーイ大統領
- プログレッシブ運動
- 自然保護
- 大スティック
- トラスト解体
巨大企業が国を覆い、アメリカが初めて世界の舞台へ踏み出そうとしていた — ひらく
時代の空気
南北戦争後の再建期(1865-77)を経た合衆国は、急速な工業化と移民の流入で巨大企業の独占(スタンダード石油、USスチール)が公共を覆い、革新主義(1890-1920)が政治改革を求めていた。1898年の米西戦争でキューバ独立を支援する一方プエルトリコ・グアム・フィリピンを領有、1903年パナマ独立支援と運河建設、1904-05年の日露戦争にはポーツマス講和で介入。1906年に純正食品医薬品法が連邦規制の幕を開け、自然保護も国家事業に組み込まれた。第一次大戦とスペイン風邪が次の世代を待っていた。
01胸に弾を受けたまま、九十分
1912年10月14日、ミルウォーキー。セオドア・ローズベルト——頭文字からTRと呼ばれる——は53歳の元大統領だった。この年、彼はもう一度大統領になろうと選挙に出ていた。演説会場へ向かう途中、酒場主ジョン・シュランクが至近距離から銃を撃った。弾は胸に入った。
命を救ったのは、上着のポケットだった。折りたたんだ演説原稿50頁と眼鏡ケースが、弾の勢いを弱めた。弾は致命的な場所を外れた。それでも、弾は体の中に残ったままである。
だが彼は、演説台に立った。そして撃たれたまま90分演説した。「私の胸の中には一発の弾がある。しかし私は雄ヘラジカ(Bull Moose)のように丈夫だから、これくらいでは演説を止めない」。演説を終えて、ようやく入院した。
なぜ、そこまでするのか。ただの強がりなのか。それとも、この人にとって「体」と「力」は、私たちとは別の意味を持っていたのか。答えを探すには、時を54年前に戻さなければならない。ニューヨークの、息のできない少年のところへ。
功績を実際に汗と血で勝ち取ろうと競技場に立つ人こそ、功労者なのだ ― 冷たく臆病な魂、すなわち勝利も敗北も知らぬ者たちと彼が並ぶことは決してない
02息のできない少年
1858年10月27日、ニューヨーク市マンハッタン東20丁目の裕福な商人の家に生まれた。父セオドア・シニアはオランダ系の輸入商で、慈善家でもあった。母マーサ・ブロックは、南部ジョージア州の上流家庭の娘である。四人兄妹の次男で、姉ベイミー、弟エリオット、妹コリンヌがいた。
この家には、静かな割れ目があった。南北戦争(国を北と南に分けた内戦)で、父は北軍に直接は従軍せず、代理人を雇った。妻と妻の家族との縁を思っての妥協だった。一方、母方の兄弟は南軍で戦っている。「国が割れる経験」が、家庭の中に横たわっていた。
少年セオドアは重い喘息(ぜんそく)に苦しんだ。発作の夜は息ができない。起き上がって父の腕に抱かれたまま、朝を待った夜が幾度もある。ある日、父は少年に告げた。「君は頭を作った。今度は体を作らねばならない」。
家の二階に、即席の体育室が作られた。少年はダンベル、鉄棒、サンドバッグに通うようになる。乗馬、ボクシング、登山、水泳。後年、彼はこの生き方を「The Strenuous Life(奮励の生)」と呼ぶ。その出発点は、信条より先に、幼い肺の咳の記憶にあった。彼自身がそう書いている(自伝『An Autobiography』1913年、第一章「The Vigor of Life」)。
1876年、ハーヴァード大学に入学。博物学(動物や植物を調べる学問)に熱中し、鳥の標本を集めた。1878年、父が急死する。46歳、腸の悪性腫瘍だった。1880年6月に卒業し、10月にはボストンの社交界で出会ったアリス・ハサウェイ・リーと結婚した。体を作った青年は、政治の世界へ歩き出す。しかしその足元は、まもなく崩れる。
03光が消えた日
卒業後、ニューヨーク州議会下院議員に最年少で当選した(23歳、1882-84年)。共和党の改革派として頭角を現す。順調な出発だった。
1884年2月14日、ヴァレンタインデー。同じ屋敷の上と下の階で、二つの命が消えた。妻アリスは長女アリスを産んだ二日後、ブライト病(腎臓の病気)で息絶えた。22歳だった。同じ日の早朝には、母マーサが腸チフスで亡くなっていた。48歳。25歳の彼は、一日のうちに母と妻を失った。
彼は日記に、ただ大きな×を書きつけた。そのページには「私の人生から光が消えた」と記した。生後二日の娘を姉ベイミーに預け、彼は政界からいったん退いた。(ふたつの喪失)は、彼の歩みをいったん断ち切った。
逃げた先は、ダコタ准州(今のノースダコタ・サウスダコタ)の荒野だった。二年間、牧場主として過ごす。バッファロー狩り、馬泥棒の追跡。1886-87年の壊滅的な冬には、持っていた牛の大半を失った。喪(も)が終わったというより、別の自分を作り直した時期だった。
1886年12月、ロンドンで幼なじみのイーディス・カーロウと再婚する。ニューヨーク州オイスター・ベイに、邸宅サガモア・ヒルを建てた。五人の子(セオドア・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルド、クエンティン)が生まれ、長女アリスを加えて六児の父となった。作り直した自分を、彼はどこへ向けるのか。
04夜の街、香港沖、キューバの丘
1889-95年、連邦人事委員会の委員を務めた。1895-97年はニューヨーク市警察委員長。夜の街を自分の足で歩き、賄賂を取る巡査を摘発した。警察は近代化された。
1897-98年、政権の海軍次官補(海軍を動かす役所の副責任者)に就く。スペインとの戦争に備え、太平洋艦隊を香港の近くに配備せよという命令を出した。上司がいない、わずか数時間のあいだの出来事だった。
1898年2月15日、キューバのハバナ港で米戦艦メイン号が爆発して沈んだ。スペインと戦えという声が高まる。4月、米議会が宣戦布告し、が始まった。TRは海軍次官補を辞め、義勇騎兵第一連隊——を組織する。カウボーイ、先住民、名門大学の学生を混ぜた約1,000人。中佐(のち大佐)として指揮した。
1898年7月1日、キューバ、。TRの隊は主にケトル・ヒルを攻め、機関銃の弾の下を斜面へ突撃した。本人は馬に乗り、隊員は徒歩だった。彼の生涯で最大の誇りとなった戦いである。「私の最良の一日」と後に書いている。病弱だった少年は、二十年余りの体づくりの到達点をこの丘に置こうとした(2001年、死後82年を経て名誉勲章を追贈)。丘を降りた英雄を待っていたのは、戦場よりも扱いにくい相手だった。政治家たちである。
05「あの忌々しいカウボーイが」
戦争が終わると、共和党の党人たちはこのうるさい英雄をニューヨーク州知事(1899-1900年)に押し上げた。州でも「扱いにくい改革派」ぶりを発揮する。そこで1900年の大統領選挙では、彼を副大統領という名誉職に押し込めようとした。副大統領は、ほとんど何の権限もない役職だったからである。「知事の方が影響力がある」とTR自身もぼやいた。マッキンリーの再選で、TRは副大統領になった。
1901年9月6日、バッファローで開かれていたパン・アメリカン博覧会。マッキンリーは無政府主義者(国家そのものを否定する思想の持ち主)レオン・ツォルゴシュに撃たれた。一週間持ちこたえたが、9月14日に死亡する。によって、TRは副大統領になってわずか半年で大統領となった。42歳、史上最年少の就任である(ケネディは最年少の選出大統領、TRは最年少の就任大統領)。
共和党の保守派は恐れた。党のボス、マーク・ハンナ上院議員は嘆いた——「あの忌々しいカウボーイがホワイトハウスに入ったぞ」。ハンナの嘆きは、まもなく現実になる。
06公正な取引
TRは大統領就任の演説で「マッキンリー政策を継続する」と約束した。しかし、すぐに別の道を歩み始めた。
1902年、大手鉄道の持株会社ノーザン・セキュリティーズ(モルガン、ハリマン、ヒル)を反トラスト法で提訴した。反トラスト法とは、巨大企業が市場をひとり占めするのを禁じる法律である。1904年3月、最高裁で5対4の僅差で解体を勝ち取った。こののあとも、彼は訴訟を重ねた。「トラスト・バスター(巨大企業解体者)」という呼び名がつく(後継の政権は、さらに件数を増やすことになる)。
同じ1902年、が起きた。14万人の炭鉱労働者が長いストに入り、冬の学校や病院の暖房が危うくなった。TRは労働側と経営側の両方をホワイトハウスに招いた。拒む経営者側には「連邦軍を出して鉱山を接収する」と圧力をかけた。歴代大統領で初めて、労働側に有利な仲裁を押しつけた瞬間だった。労働時間の短縮と賃上げで決着する。
彼はこれを「(公正な取引)」と呼んだ。労働、資本、公衆の三者のどれにも偏らない、という意味である。1906年には、純正食品医薬品法と肉類検査法が成立した(後者はの小説『ジャングル』の影響)。さらにヘプバーン法(州をまたぐ鉄道の規制強化)も、同じ一年のうちに連邦法となった。20世紀的な規制国家の原型が、ここに姿を現した。国の中で力の使い方を変えた男は、次に国の外へ目を向ける。
われわれがほしいのは、人間が経済的機会に恵まれて善い人生を送れるような政府である。 — すべての富の上に、人間の福祉が来なければならない。
07守る力、押し出す力
TRは幼いころからの博物学者だった。大統領として、自然保護に最大級の力を注ぐ。在任中に国立公園を5つ追加(クレーター・レイク、ウィンド・ケイヴほか)。1906年6月の(Antiquities Act)により、18件の国記念物を一方的に指定した(グランド・キャニオンもその一つ)。150以上の国有林、51件の野生動物保護区。公有地で守った面積は合計およそ2.3億エーカー、今のカリフォルニア州の3倍近くにあたる。
1905年、森林局(US Forest Service)を作り、初代局長にを任命した。TRとピンショーは「保全(conservation)」を国家規模の政策語として前景化し、合衆国の環境・資源政策の基礎を築いた。
同じ1905年、日露戦争の講和(戦争をやめる話し合い)を仲介した。ニューハンプシャー州ポーツマスで日露両国の代表が交渉し、が結ばれる。二つの国を一つの席に着かせた手腕により、翌1906年、米国大統領として初のノーベル平和賞を受けた。賞金は自分のものにせず、米国のための信託資金として扱う意向を示した。
一方で、押し出す力も使った。1903年、コロンビアからパナマを独立させる反乱を米海軍で支援し、新しいパナマからパナマ運河の建設権と管理地帯を得た。「私はパナマを獲った(I took the Canal Zone)」と、後にカリフォルニアの聴衆に誇っている。帝国的な強引さの典型として、今日では批判的に論じられる。運河は1914年8月に開通した。
1907年12月、(Great White Fleet)を世界一周の航海に送り、米国の海軍力を見せつけた。「穏やかに語り、大きな棒を携えよ」。TRのビッグ・スティック外交の実演である。守る力と押し出す力、その両方を一人で使った男は、やがて大統領の椅子を降りる。
穏やかに語り、大きな棒を携えよ。さすれば遠くまで行ける
08ミルウォーキーへ、そして眠りへ
1908年、TRは後継をウィリアム・ハワード・タフトに託して引退した。「任期制限の慣習を破らない」という自分の言葉を守ったのである。離任後はアフリカで一年、狩猟と標本集めの旅に出た。しかしタフトが保守化したと見るや、1912年、進歩党(革新党、通称ブルムース党)を結成する。共和党を離れ、大統領選に再び出た。
そして10月14日、ミルウォーキー。冒頭の場面である。「雄ヘラジカ(Bull Moose)」とは、自分の党の通称だった。撃たれた男がなぜ90分話し続けたのか、その答えはもう、ここまで読んだ人の中にある。息のできない夜、父の言葉、二階の体育室、ケトル・ヒルの斜面。
1912年の選挙はタフト(共和党)、TR(進歩党)、ウッドロー・ウィルソン(民主党)の三つ巴になった。共和党の票が割れ、ウィルソンが当選する(TRは現職を退いた元大統領としては第三党最高得票記録を残した)。
1913-14年、TRはブラジル・アマゾンの支流「疑惑の川(Rio da Dúvida)」に向かった。55歳。こので、重いマラリアにかかり、脚の傷から敗血症を起こし、生死の境をさまよった。息子カーミットに「私を置いて行け」と命じる場面もあった。帰国後、彼の健康はついに戻らなかった。
1918年7月、第一次世界大戦のさなか。四男クエンティン(20歳、フランス上空・第95飛行隊)が戦闘機を撃墜され、戦死した。の知らせに、父TRの気力は折れた。1919年1月6日、オイスター・ベイのサガモア・ヒルで眠ったまま、心臓発作(冠動脈塞栓)により死去。60歳。副大統領マーシャルは電報で語った——「死神はTR本人と戦ったら負けると知っていた。だから眠っているうちに連れ去ったのだ」。
サウスダコタのには、ワシントン、ジェファソン、リンカーンと並び、四大統領の一人として彼の顔が刻まれている。岩に刻まれた顔は、何も語らない。あなたの手にある力は、何のために、誰に向けて使うのか。
09主要な出来事と演説
- マンハッタン東20丁目に誕生。重度の喘息の少年
- ハーヴァード大学。博物学への熱中
- アリス・ハサウェイ・リーと結婚、ニューヨーク州議会下院議員当選
- 2月14日、母と妻を同じ日に失う(25歳)
- ダコタ准州で牧場主・保安官
- イーディス・カーロウと再婚、サガモア・ヒル建設
- ニューヨーク市警察委員長
- 海軍次官補。米西戦争でラフ・ライダーズを指揮、サン・フアン高地の戦い
- ニューヨーク州知事
- 3月副大統領就任。9月マッキンリー暗殺で第26代大統領昇格(42歳、史上最年少就任)
- ノーザン・セキュリティーズ提訴。無煙炭ストライキ仲裁、「スクエア・ディール」
- パナマ独立支援、運河建設権獲得
- 大統領再選。モンロー主義の「ローズベルト系」を宣言
- ポーツマスで日露講和を仲介
- 米国大統領として初のノーベル平和賞。純正食品医薬品法・遺跡保護法
- 後継タフトに引き継ぎ引退
- 進歩党(ブルムース党)結成、大統領選再出馬。ミルウォーキーで撃たれ90分演説
- ブラジル・アマゾン「疑惑の川」探検、健康崩壊
- 四男クエンティン戦死
- 1月6日、サガモア・ヒルで死去、60歳
残した思想の輪郭
- ストレニュアス・ライフ(奮励的生活) ― 喘息を乗り越えた身体修練の倫理を、国家倫理にまで広げようとした(1899年シカゴ・ハミルトン・クラブ演説『The Strenuous Life』)
- スクエア・ディール ― 労働・資本・公衆のいずれにも偏らない進歩主義政治
- トラスト解体と規制国家 ― 20世紀的な反独占・消費者保護・労働仲裁の原型
- 保全(conservation)の発明 ― 国立公園・国有林・遺跡保護法・野生動物保護区を体系化、米国環境政策の基盤
- ビッグ・スティック外交 ― 力を誇示するが用いない、日露講和仲介でノーベル平和賞
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
セオドア・ローズベルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- セオドア・ルーズベルト生誕地国立史跡生誕
ニューヨーク, アメリカ
マンハッタン East 20th Street、TR が生まれ幼年期を過ごした復元タウンハウス。国立公園局管理
- サガモア・ヒル国立史跡住居
オイスター・ベイ, アメリカ
ロングアイランドの TR 自邸。大統領時代の「夏のホワイトハウス」と呼ばれた
- セオドア・ルーズベルト国立公園ゆかり
メドーラ, アメリカ
ノースダコタのバッドランド、TR が牧場を営み保全思想を育てた地
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WikipediaWikipedia 日本語版「セオドア・ルーズベルト」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Theodore Roosevelt"
Project GutenbergEnglishTheodore Roosevelt; An Autobiography — Project Gutenberg
自伝(1913)
公式EnglishTheodore Roosevelt National Park — U.S. National Park Service 公式