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実践の知

セオドア・ローズベルト

Theodore Roosevelt·1858–1919·アメリカ·

強い力は、 何のために使う?

大スティックを掲げつつ自然を守り、20世紀米国を進歩主義へ押し出したカウボーイ大統領

  • プログレッシブ運動
  • 自然保護
  • 大スティック
  • トラスト解体
巨大企業が国を覆い、アメリカが初めて世界の舞台へ踏み出そうとしていた — ひらく

時代の空気

南北戦争後の再建期(1865-77)を経た合衆国は、急速な工業化と移民の流入で巨大企業の独占(スタンダード石油、USスチール)が公共を覆い、革新主義(1890-1920)が政治改革を求めていた。1898年の米西戦争でキューバ独立を支援する一方プエルトリコ・グアム・フィリピンを領有、1903年パナマ独立支援と運河建設、1904-05年の日露戦争にはポーツマス講和で介入。1906年に純正食品医薬品法が連邦規制の幕を開け、自然保護も国家事業に組み込まれた。第一次大戦とスペイン風邪が次の世代を待っていた。

01胸に弾を受けたまま、九十分

1912年10月14日、ミルウォーキー。セオドア・ローズベルト——頭文字からTRと呼ばれる——は53歳の元大統領だった。この年、彼はもう一度大統領になろうと選挙に出ていた。演説会場へ向かう途中、酒場主ジョン・シュランクが至近距離から銃を撃った。弾は胸に入った。

命を救ったのは、上着のポケットだった。折りたたんだ演説原稿50頁と眼鏡ケースが、弾の勢いを弱めた。弾は致命的な場所を外れた。それでも、弾は体の中に残ったままである。

だが彼は、演説台に立った。そして撃たれたまま90分演説した。「私の胸の中には一発の弾がある。しかし私は雄ヘラジカ(Bull Moose)のように丈夫だから、これくらいでは演説を止めない」。演説を終えて、ようやく入院した。

なぜ、そこまでするのか。ただの強がりなのか。それとも、この人にとって「体」と「力」は、私たちとは別の意味を持っていたのか。答えを探すには、時を54年前に戻さなければならない。ニューヨークの、息のできない少年のところへ。

功績を実際に汗と血で勝ち取ろうと競技場に立つ人こそ、功労者なのだ ― 冷たく臆病な魂、すなわち勝利も敗北も知らぬ者たちと彼が並ぶことは決してない

— パリ・ソルボンヌ講演「共和国の市民」(1910年4月23日、大統領退任後の欧州歴訪中)

02息のできない少年

1858年10月27日、ニューヨーク市マンハッタン東20丁目の裕福な商人の家に生まれた。父セオドア・シニアはオランダ系の輸入商で、慈善家でもあった。母マーサ・ブロックは、南部ジョージア州の上流家庭の娘である。四人兄妹の次男で、姉ベイミー、弟エリオット、妹コリンヌがいた。

この家には、静かな割れ目があった。南北戦争(国を北と南に分けた内戦)で、父は北軍に直接は従軍せず、代理人を雇った。妻と妻の家族との縁を思っての妥協だった。一方、母方の兄弟は南軍で戦っている。「国が割れる経験」が、家庭の中に横たわっていた。

少年セオドアは重い喘息(ぜんそく)に苦しんだ。発作の夜は息ができない。起き上がって父の腕に抱かれたまま、朝を待った夜が幾度もある。ある日、父は少年に告げた。「君は頭を作った。今度は体を作らねばならない」。

家の二階に、即席の体育室が作られた。少年はダンベル、鉄棒、サンドバッグに通うようになる。乗馬、ボクシング、登山、水泳。後年、彼はこの生き方を「The Strenuous Life(奮励の生)」と呼ぶ。その出発点は、信条より先に、幼い肺の咳の記憶にあった。彼自身がそう書いている(自伝『An Autobiography』1913年、第一章「The Vigor of Life」)。

1876年、ハーヴァード大学に入学。博物学(動物や植物を調べる学問)に熱中し、鳥の標本を集めた。1878年、父が急死する。46歳、腸の悪性腫瘍だった。1880年6月に卒業し、10月にはボストンの社交界で出会ったアリス・ハサウェイ・リーと結婚した。体を作った青年は、政治の世界へ歩き出す。しかしその足元は、まもなく崩れる。

03光が消えた日

卒業後、ニューヨーク州議会下院議員に最年少で当選した(23歳、1882-84年)。共和党の改革派として頭角を現す。順調な出発だった。

1884年2月14日、ヴァレンタインデー。同じ屋敷の上と下の階で、二つの命が消えた。妻アリスは長女アリスを産んだ二日後、ブライト病(腎臓の病気)で息絶えた。22歳だった。同じ日の早朝には、母マーサが腸チフスで亡くなっていた。48歳。25歳の彼は、一日のうちに母と妻を失った。

彼は日記に、ただ大きな×を書きつけた。そのページには「私の人生から光が消えた」と記した。生後二日の娘を姉ベイミーに預け、彼は政界からいったん退いた。(ふたつの喪失)は、彼の歩みをいったん断ち切った。

逃げた先は、ダコタ准州(今のノースダコタ・サウスダコタ)の荒野だった。二年間、牧場主として過ごす。バッファロー狩り、馬泥棒の追跡。1886-87年の壊滅的な冬には、持っていた牛の大半を失った。喪(も)が終わったというより、別の自分を作り直した時期だった。

1886年12月、ロンドンで幼なじみのイーディス・カーロウと再婚する。ニューヨーク州オイスター・ベイに、邸宅サガモア・ヒルを建てた。五人の子(セオドア・ジュニア、カーミット、エセル、アーチボルド、クエンティン)が生まれ、長女アリスを加えて六児の父となった。作り直した自分を、彼はどこへ向けるのか。

04夜の街、香港沖、キューバの丘

1889-95年、連邦人事委員会の委員を務めた。1895-97年はニューヨーク市警察委員長。夜の街を自分の足で歩き、賄賂を取る巡査を摘発した。警察は近代化された。

1897-98年、政権の海軍次官補(海軍を動かす役所の副責任者)に就く。スペインとの戦争に備え、太平洋艦隊を香港の近くに配備せよという命令を出した。上司がいない、わずか数時間のあいだの出来事だった。

1898年2月15日、キューバのハバナ港で米戦艦メイン号が爆発して沈んだ。スペインと戦えという声が高まる。4月、米議会が宣戦布告し、が始まった。TRは海軍次官補を辞め、義勇騎兵第一連隊——を組織する。カウボーイ、先住民、名門大学の学生を混ぜた約1,000人。中佐(のち大佐)として指揮した。

1898年7月1日、キューバ、。TRの隊は主にケトル・ヒルを攻め、機関銃の弾の下を斜面へ突撃した。本人は馬に乗り、隊員は徒歩だった。彼の生涯で最大の誇りとなった戦いである。「私の最良の一日」と後に書いている。病弱だった少年は、二十年余りの体づくりの到達点をこの丘に置こうとした(2001年、死後82年を経て名誉勲章を追贈)。丘を降りた英雄を待っていたのは、戦場よりも扱いにくい相手だった。政治家たちである。

05「あの忌々しいカウボーイが」

戦争が終わると、共和党の党人たちはこのうるさい英雄をニューヨーク州知事(1899-1900年)に押し上げた。州でも「扱いにくい改革派」ぶりを発揮する。そこで1900年の大統領選挙では、彼を副大統領という名誉職に押し込めようとした。副大統領は、ほとんど何の権限もない役職だったからである。「知事の方が影響力がある」とTR自身もぼやいた。マッキンリーの再選で、TRは副大統領になった。

1901年9月6日、バッファローで開かれていたパン・アメリカン博覧会。マッキンリーは無政府主義者(国家そのものを否定する思想の持ち主)レオン・ツォルゴシュに撃たれた。一週間持ちこたえたが、9月14日に死亡する。によって、TRは副大統領になってわずか半年で大統領となった。42歳、史上最年少の就任である(ケネディは最年少の選出大統領、TRは最年少の就任大統領)。

共和党の保守派は恐れた。党のボス、マーク・ハンナ上院議員は嘆いた——「あの忌々しいカウボーイがホワイトハウスに入ったぞ」。ハンナの嘆きは、まもなく現実になる。

06公正な取引

TRは大統領就任の演説で「マッキンリー政策を継続する」と約束した。しかし、すぐに別の道を歩み始めた。

1902年、大手鉄道の持株会社ノーザン・セキュリティーズ(モルガン、ハリマン、ヒル)を反トラスト法で提訴した。反トラスト法とは、巨大企業が市場をひとり占めするのを禁じる法律である。1904年3月、最高裁で5対4の僅差で解体を勝ち取った。こののあとも、彼は訴訟を重ねた。「トラスト・バスター(巨大企業解体者)」という呼び名がつく(後継の政権は、さらに件数を増やすことになる)。

同じ1902年、が起きた。14万人の炭鉱労働者が長いストに入り、冬の学校や病院の暖房が危うくなった。TRは労働側と経営側の両方をホワイトハウスに招いた。拒む経営者側には「連邦軍を出して鉱山を接収する」と圧力をかけた。歴代大統領で初めて、労働側に有利な仲裁を押しつけた瞬間だった。労働時間の短縮と賃上げで決着する。

彼はこれを「(公正な取引)」と呼んだ。労働、資本、公衆の三者のどれにも偏らない、という意味である。1906年には、純正食品医薬品法と肉類検査法が成立した(後者はの小説『ジャングル』の影響)。さらにヘプバーン法(州をまたぐ鉄道の規制強化)も、同じ一年のうちに連邦法となった。20世紀的な規制国家の原型が、ここに姿を現した。国の中で力の使い方を変えた男は、次に国の外へ目を向ける。

われわれがほしいのは、人間が経済的機会に恵まれて善い人生を送れるような政府である。 — すべての富の上に、人間の福祉が来なければならない。

— オサワトミー演説(1910年8月31日、カンザス州)

07守る力、押し出す力

TRは幼いころからの博物学者だった。大統領として、自然保護に最大級の力を注ぐ。在任中に国立公園を5つ追加(クレーター・レイク、ウィンド・ケイヴほか)。1906年6月の(Antiquities Act)により、18件の国記念物を一方的に指定した(グランド・キャニオンもその一つ)。150以上の国有林、51件の野生動物保護区。公有地で守った面積は合計およそ2.3億エーカー、今のカリフォルニア州の3倍近くにあたる。

1905年、森林局(US Forest Service)を作り、初代局長にを任命した。TRとピンショーは「保全(conservation)」を国家規模の政策語として前景化し、合衆国の環境・資源政策の基礎を築いた。

同じ1905年、日露戦争の講和(戦争をやめる話し合い)を仲介した。ニューハンプシャー州ポーツマスで日露両国の代表が交渉し、が結ばれる。二つの国を一つの席に着かせた手腕により、翌1906年、米国大統領として初のノーベル平和賞を受けた。賞金は自分のものにせず、米国のための信託資金として扱う意向を示した。

一方で、押し出す力も使った。1903年、コロンビアからパナマを独立させる反乱を米海軍で支援し、新しいパナマからパナマ運河の建設権と管理地帯を得た。「私はパナマを獲った(I took the Canal Zone)」と、後にカリフォルニアの聴衆に誇っている。帝国的な強引さの典型として、今日では批判的に論じられる。運河は1914年8月に開通した。

1907年12月、(Great White Fleet)を世界一周の航海に送り、米国の海軍力を見せつけた。「穏やかに語り、大きな棒を携えよ」。TRのビッグ・スティック外交の実演である。守る力と押し出す力、その両方を一人で使った男は、やがて大統領の椅子を降りる。

穏やかに語り、大きな棒を携えよ。さすれば遠くまで行ける

— ミネソタ州フェア演説(1901年9月2日、副大統領時代。マッキンリー暗殺の四日前)

08ミルウォーキーへ、そして眠りへ

1908年、TRは後継をウィリアム・ハワード・タフトに託して引退した。「任期制限の慣習を破らない」という自分の言葉を守ったのである。離任後はアフリカで一年、狩猟と標本集めの旅に出た。しかしタフトが保守化したと見るや、1912年、進歩党(革新党、通称ブルムース党)を結成する。共和党を離れ、大統領選に再び出た。

そして10月14日、ミルウォーキー。冒頭の場面である。「雄ヘラジカ(Bull Moose)」とは、自分の党の通称だった。撃たれた男がなぜ90分話し続けたのか、その答えはもう、ここまで読んだ人の中にある。息のできない夜、父の言葉、二階の体育室、ケトル・ヒルの斜面。

1912年の選挙はタフト(共和党)、TR(進歩党)、ウッドロー・ウィルソン(民主党)の三つ巴になった。共和党の票が割れ、ウィルソンが当選する(TRは現職を退いた元大統領としては第三党最高得票記録を残した)。

1913-14年、TRはブラジル・アマゾンの支流「疑惑の川(Rio da Dúvida)」に向かった。55歳。こので、重いマラリアにかかり、脚の傷から敗血症を起こし、生死の境をさまよった。息子カーミットに「私を置いて行け」と命じる場面もあった。帰国後、彼の健康はついに戻らなかった。

1918年7月、第一次世界大戦のさなか。四男クエンティン(20歳、フランス上空・第95飛行隊)が戦闘機を撃墜され、戦死した。の知らせに、父TRの気力は折れた。1919年1月6日、オイスター・ベイのサガモア・ヒルで眠ったまま、心臓発作(冠動脈塞栓)により死去。60歳。副大統領マーシャルは電報で語った——「死神はTR本人と戦ったら負けると知っていた。だから眠っているうちに連れ去ったのだ」。

サウスダコタのには、ワシントン、ジェファソン、リンカーンと並び、四大統領の一人として彼の顔が刻まれている。岩に刻まれた顔は、何も語らない。あなたの手にある力は、何のために、誰に向けて使うのか。

09主要な出来事と演説

  1. マンハッタン東20丁目に誕生。重度の喘息の少年
  2. ハーヴァード大学。博物学への熱中
  3. アリス・ハサウェイ・リーと結婚、ニューヨーク州議会下院議員当選
  4. 2月14日、母と妻を同じ日に失う(25歳)
  5. ダコタ准州で牧場主・保安官
  6. イーディス・カーロウと再婚、サガモア・ヒル建設
  7. ニューヨーク市警察委員長
  8. 海軍次官補。米西戦争でラフ・ライダーズを指揮、サン・フアン高地の戦い
  9. ニューヨーク州知事
  10. 3月副大統領就任。9月マッキンリー暗殺で第26代大統領昇格(42歳、史上最年少就任)
  11. ノーザン・セキュリティーズ提訴。無煙炭ストライキ仲裁、「スクエア・ディール」
  12. パナマ独立支援、運河建設権獲得
  13. 大統領再選。モンロー主義の「ローズベルト系」を宣言
  14. ポーツマスで日露講和を仲介
  15. 米国大統領として初のノーベル平和賞。純正食品医薬品法・遺跡保護法
  16. 後継タフトに引き継ぎ引退
  17. 進歩党(ブルムース党)結成、大統領選再出馬。ミルウォーキーで撃たれ90分演説
  18. ブラジル・アマゾン「疑惑の川」探検、健康崩壊
  19. 四男クエンティン戦死
  20. 1月6日、サガモア・ヒルで死去、60歳

残した思想の輪郭

  • ストレニュアス・ライフ(奮励的生活) ― 喘息を乗り越えた身体修練の倫理を、国家倫理にまで広げようとした(1899年シカゴ・ハミルトン・クラブ演説『The Strenuous Life』)
  • スクエア・ディール ― 労働・資本・公衆のいずれにも偏らない進歩主義政治
  • トラスト解体と規制国家 ― 20世紀的な反独占・消費者保護・労働仲裁の原型
  • 保全(conservation)の発明 ― 国立公園・国有林・遺跡保護法・野生動物保護区を体系化、米国環境政策の基盤
  • ビッグ・スティック外交 ― 力を誇示するが用いない、日露講和仲介でノーベル平和賞
1919年1月6日午前4時15分頃、ニューヨーク州オイスター・ベイの自宅サガモア・ヒルで眠ったまま冠動脈塞栓により死去。60歳。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

セオドア・ローズベルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • セオドア・ルーズベルト生誕地国立史跡生誕

    ニューヨーク, アメリカ

    マンハッタン East 20th Street、TR が生まれ幼年期を過ごした復元タウンハウス。国立公園局管理

  • サガモア・ヒル国立史跡住居

    オイスター・ベイ, アメリカ

    ロングアイランドの TR 自邸。大統領時代の「夏のホワイトハウス」と呼ばれた

  • セオドア・ルーズベルト国立公園ゆかり

    メドーラ, アメリカ

    ノースダコタのバッドランド、TR が牧場を営み保全思想を育てた地

さらに辿るならExternal References

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