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知の革新

平賀源内

Hiraga Gennai·1728–1780·日本(江戸)·

「ご本業は?」—— その問いに答えられない人生は、失敗なのだろうか。

本草学・戯作・浄瑠璃・発明・鉱山——どの一つにも収まらず、制度の外の自由の代価をすべて払った江戸の多才

  • 本草学
  • エレキテル
  • 戯作
  • 多才
  • 国益

時代の空気

18世紀後半の江戸は、大きな戦のない時代の爛熟のなかにいた。田沼意次が商業の力を政治に取り込み、長崎からは蘭書と器械が届き、湯島では物産会、両国では見世物が人を集める。身分は生まれで決まったが、才覚の売り場は増えていた。源内はその隙間を、速く、多方向に走った。

01「で、ご本業は」

平賀源内は、1728年(享保13)、讃岐国志度浦(現・香川県さぬき市志度)に生まれた。高松藩で蔵の番を務める下級武士の家、本名は国倫くにとも。その紹介のしかたは、生前も、没後246年のいまも決まっていない。

本草学者。物産学者。戯作(げさく)者。浄瑠璃作者。発明家。鉱山師。どれか一つでも看板になる仕事を、彼は全部やった。そして世間は、全部やる人間にきまって同じ問いを向ける。で、結局、ご本業は何ですか。

多才は、本人にとって祝福だったのだろうか。それとも、どこにも椅子のない人生の、もう一つの呼び名だったのだろうか。

02仕官御構 — 自由の値札

経歴は身分制の枠のなかで始まる。父の死をうけて蔵番の職を継ぎ、1752年(宝暦2)頃には長崎に約1年遊学、本草学や蘭学的な知に触れたとされる。1754年、「近年病身」を理由に退役願を出し、家督を妹婿に譲った。江戸で本草学者・田村藍水たむららんすいに師事し、湯島の薬品会——産物を持ち寄る博覧の場——に加わっていく。

1761年、高松藩をふたたび辞したとき、藩は「(しかんおかまい)」を付した。他家への仕官の禁止。この瞬間、彼が生涯どの藩にも幕府にも属せないことが、制度の側から確定した。

翌1762年にはを主宰し、全国から出品を集めた。1763年には、1757年から五回を重ねた薬品会の出品2000余種から約360種を選んで解説した『(ぶつるいひんしつ)』6巻を著した。才は、明らかに動いていた。動いていなかったのは、その才を受け止める椅子のほうである。組織を出る自由は、組織に戻れない不自由と同じ紙の裏表だった。その値札を、彼は30代の初めに、生涯分まとめて払っている。

03名前を増やす男

同じ1763年、江戸の店先には(ふうらいさんじん)名義の戯作が並んだ。『根南志具佐ねなしぐさ』——水死した歌舞伎の女形をめぐって地獄を笑いに変える諷刺。『風流志道軒伝』——主人公が異国・異界を遍歴し、外の眼で日本の世相を笑う談義本。学術書と地獄諷刺が、同じ年に、同じ一人から出ている。

1770年には福内鬼外ふくうちきがいの名で浄瑠璃『(しんれいやぐちのわたし)』を書いた。娘のお舟が、恋した男を逃がすために父の刃を身に受ける——発明と諷刺の人の筆とは思えない湿度の情話で、いまも舞台に残る。

世間が肩書を一枚に絞れと迫るなら、彼は名前の側を増やした。本名で学問を、風来山人で笑いを、福内鬼外で涙を。『根南志具佐』の題は「根無し草」と読める。根を持たないことを、隠すどころか筆名の看板に掲げたのではなかったか。

笑いは、余技ではなかったように見える。1774年の『放屁論』は、両国で放屁の芸を見せる男を擁護しながら、独創を欠いた世間を裏返しに諷刺したものと読まれてきた。身分の世間には、正面から言えないことがある。それを言うための回路が、彼にとっては戯作だった。この笑いの土壌の先に、のちの蔦屋重三郎たちの出版文化が育っていく。

04火花と、貧家銭内

1770年、二度目の長崎で、オランダ通詞の家にあった壊れた摩擦起電器を手に入れる。原理を記した蘭書はなく、手がかりは実物だけ。そこから約6年、手探りの復元がつづき、1776年、は江戸で火花を放った。

ただし、その火花の使い道は、大名屋敷での見世物と、効き目の定かでない医療だった。彼は電気の理論を打ち立てたのではない。輸入された驚異を、自分の手で開け直した人である。学問と興行のあわいに立つこの到達点は、彼の名を高くし、同時に「見世物にしかならない」という不遇のしるしにもなった。鉱山や通船の事業構想は多くが頓挫し、世間は彼を「山師」とも呼んだ。

1777年、『放屁論後編』に彼は一人の男を登場させる。名は貧家銭内ひんかぜにない。才を持ちながら用いられない貧乏な発明家——書いた本人の戯画と読まれてきた。肩書は世間が貼るもの、才は自分が使うもの。彼はそう生きてきたはずだった。だが、使いつづけた才に世間の置き場所がないとき、人は自分をどう笑えばいいのか。その自嘲までもう一つの作品にしたところで、笑いと痛みの区別は、もうつかない。

05非常の死

安永8年(1779)11月、彼は人を殺傷して伝馬町の牢に入る。相手や経緯は記録によって異なり、確かなことは多く残っていない。細部を断定することは、傷つけられた相手に対しても誠実ではないだろう。年の暮れ、安永8年12月18日——グレゴリオ暦では1780年1月24日——彼は獄中で没した。破傷風と伝わる。享年52。

罪人の死である。遺体は親友の杉田玄白すぎたげんぱくらが引き取り、葬った。玄白は追悼の碑文を綴ったが、幕府をはばかって、その碑文を刻んだ碑は建てられなかったと伝わる。その文は「嗟(ああ)、非常の人」と始まる。尋常ならざる人が、尋常ならざる事を好み、行いも尋常ならず——なぜ尋常ならざる死を死んだのか。友はそう問うた。

世間は最後まで、彼に貼る一枚の肩書を見つけられなかった。代わりに友が残したのは、職業の名ではなく、生き方の名だった。

06関係性

書架で源内の隣に立つのは、直接の師弟ではなく、遠くで並行する人生たちである。

ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は、同じ「電気の世紀」の同時代人である。1752年に凧の実験で雷の電気的性質を示したフランクリンと、1776年にエレキテルを復元した源内。ともに印刷・出版と実務に根を持ち、アカデミーの外で複数の仕事を往復した。直接の交流はない。

本居宣長(1730年生)は、ほぼ同年生まれの対比である。宣長が古典の内側へ掘り進んで「日本とは何か」を問うたのに対し、源内は物産と蘭学的な知で外へ開いた。内へ向かう知と、外へ開く知。18世紀日本の学問は二方向へ同時に伸びていた。

福澤諭吉へは、蘭学の民間展開と実学の系譜という線が引ける。源内が登場する玄白の回想録『蘭学事始』の刊行に福澤は関わり、学問を生活と産業の役に立てる発想は明治へ接がれた。直接影響を示す史料は確認されておらず、系譜としての線である。

南方熊楠とは、制度の外の博物学という共鳴で並ぶ。大学や藩校の外で標本と書物を往復し、分類不能の多才ゆえに「何者か」を説明されつづけた点で、位置がよく似ている。

後世、源内は「日本のダ・ヴィンチ」とも呼ばれてきた。多方向の往復は確かに重なる。だが、宮廷のパトロネージに支えられたレオナルド・ダ・ヴィンチと、身分制の隙間を自前で走り抜けた源内とでは、自由の成り立ちが違う。呼称より、この違いのほうが多くを語るのではないか。

アダム・スミスとは1776年の一点で交差する。同じ年、スミスは『国富論』で国の富を理論から問い、源内はエレキテルの復元でものづくりの現場から問うていた。等置はできない。ただ、同じ問いを別の道具で考えた同時代性として、遠く響き合う。

世間は最後まで、彼に貼る一枚の肩書を見つけられなかった。代わりに親友が残したのは、職業の名ではなく、生き方の名だった。

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この人が描かれた作品Portrayals

平賀源内が登場する、または題材になった作品。 物語で出会った姿から、実際に生きた跡へ。

  • 登場べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜

    大河ドラマ / 2025 — 安田顕が演じる。蔦重の時代の江戸に生きた発明家・戯作者として、その死まで描かれた。

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