平賀源内
「ご本業は?」—— その問いに答えられない人生は、失敗なのだろうか。
本草学・戯作・浄瑠璃・発明・鉱山——どの一つにも収まらず、制度の外の自由の代価をすべて払った江戸の多才
- 本草学
- エレキテル
- 戯作
- 多才
- 国益
大きな戦のない江戸。身分は生まれで決まったが、才を売る場所だけは増えていた。 — ひらく
時代の空気
18世紀後半の江戸は、大きな戦のない時代の爛熟のなかにいた。田沼意次が商業の力を政治に取り込み、長崎からは蘭書と器械が届き、湯島では物産会、両国では見世物が人を集める。身分は生まれで決まったが、才覚の売り場は増えていた。源内はその隙間を、速く、多方向に走った。
01牢の中の死
1779年11月。平賀源内は、人を殺傷(さっしょう)した罪で牢に入れられた。江戸の伝馬町(てんまちょう)の牢である。相手が誰で、何があったのか。記録によって話が食いちがい、確かなことは多く残っていない。
年の暮れ、彼は牢の中で死んだ。西暦では1780年1月24日。破傷風(はしょうふう)と伝わる。罪人の死である。
その遺体を引き取り、葬ったのは、親友の(すぎたげんぱく)たちだった。玄白は医者で、のちに『』を書く人である。玄白は追悼の碑文(ひぶん)を書いた。だが幕府をはばかって、それを刻んだ碑は建てられなかったと伝わる。その文は、こう始まる。
嗟、非常の人——
嗟(ああ)、ふつうでない人。友はそう書いた。それは職業の名ではなく、生き方の名だった。多くの才を持った男が、なぜ牢で死んだのか。なぜ友は、仕事の名ではなく、生き方の名で彼を呼んだのか。
時は52年前、讃岐(さぬき)の海辺に戻る。
02蔵番の家の子
1728年、平賀源内は讃岐国志度浦(現・香川県さぬき市志度)に生まれた。高松藩で蔵の番をつとめる、身分の低い武士の家である。本名は国倫。
父が死ぬと、蔵番の仕事を継いだ。24歳のころ、長崎に約1年、学びに出る。そこで(ほんぞうがく)に触れたとされる。薬になる草や石や動物を調べる学問である。オランダから入ってくる知識にも、そこで触れた。
1754年、26歳。彼は「近年病身」を理由に、仕事をやめる願いを出した。家の跡は妹の夫にゆずった。向かった先は江戸である。
本草学者の(たむららんすい)に弟子入りした。湯島で開かれる薬品会にも加わる。全国の産物を持ち寄って見せ合う、博覧会のような集まりである。
病身、と彼は書いた。だがそのあとの動きは、病人のものには見えない。
03仕官御構 — 自由の値札
1761年、33歳。彼は高松藩をふたたび去った。このとき藩は「(しかんおかまい)」を付した。ほかの家に仕えることを禁じる、という処分である。この瞬間、彼は一生どの藩にも幕府にも属せない人になった。制度の側から、そう決まった。
才は止まらなかった。翌1762年、を主宰する。出品は全国から集まった。1763年には『(ぶつるいひんしつ)』6巻を書いた。1757年から五回重ねた薬品会の出品2000余種から、約360種を選んで解説した本である。
動いていたのは才だった。動かなかったのは、その才を受け止める椅子のほうである。組織を出る自由と、組織に戻れない不自由。それは同じ紙の裏と表だった。彼はその値札の分を、30代の初めに、一生分まとめて払った。
椅子のない男は、どこで才を使うのか。
04名前を増やす男
同じ1763年、江戸の本屋には、別の名前の本が並んだ。(ふうらいさんじん)。源内の筆名である。『根南志具佐』は、水死した歌舞伎の女形(おんながた)をめぐる話だ。地獄を舞台に、世の中を笑いに変えた。
『風流志道軒伝』では、主人公が異国や異界をめぐる。外の目で日本を見て、その世相を笑う。学問の本と地獄の笑い話が、同じ年に、同じ一人から出た。こうした、笑いで世を刺す読み物を(げさく)という。
1770年には福内鬼外の名で浄瑠璃(じょうるり)を書いた。人形と語りで見せる芝居である。『(しんれいやぐちのわたし)』。娘のお舟が、恋した男を逃がすために父の刃を身に受ける。発明と笑いの人の筆とは思えない、涙の物語だ。いまも舞台にかかる。
世間は言う。肩書を一枚に絞れ、と。彼は逆に、名前のほうを増やした。本名で学問を。風来山人で笑いを。福内鬼外で涙を。
『根南志具佐』の題は「根無し草」と読める。根を持たないことを、彼は隠さなかった。筆名の看板に掲げたのではなかったか。
笑いは、暇つぶしではなかったようだ。1774年の『放屁論(ほうひろん)』は、両国でおならの芸を見せる男をかばう本である。その裏で、自分の工夫を持たない世間を逆さまに笑った、と読まれてきた。
身分の世の中には、正面から言えないことがある。それを言うための回り道が、彼には戯作だった。この笑いの土の上に、のちに蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)たちの出版文化が育つ。江戸の名高い本屋である。
そのころ彼の手には、笑いとは別のものが握られていた。
05火花と、貧家銭内
1770年、二度目の長崎。彼はオランダ通詞(つうじ)の家にあった、壊れた機械を手に入れた。通詞とは通訳の役人である。機械は、こすって電気を起こす装置だった。仕組みを書いたオランダの本はない。手がかりは実物だけ。
そこから約6年、手探りの復元がつづく。1776年、は江戸で火花を放った。48歳だった。
ただ、その火花の使い道は限られていた。大名屋敷での見世物。効くかどうか定かでない治療。彼は電気の理論を立てたのではない。海の向こうから来た驚きを、自分の手で開け直した人である。
学問と見世物のあいだに立つこの到達点は、彼の名を高くした。同時に「見世物にしかならない」という、不遇のしるしにもなった。鉱山や船の事業の計画は、多くがつまずいた。世間は彼を「山師(やまし)」とも呼んだ。あてにならない事業を持ちかける人、という意味である。
1777年、『放屁論後編』に彼は一人の男を登場させる。名は貧家銭内。才がありながら使ってもらえない、貧乏な発明家だ。書いた本人が自分を笑った姿、と読まれてきた。
肩書は世間が貼るもの。才は自分が使うもの。彼はそう生きてきたはずだった。だが使いつづけた才に、世間が置き場所をくれないとき、人は自分をどう笑えばいいのか。その自分への笑いまで作品にしたとき、笑いと痛みの区別は、もうつかない。
そして2年後、伝馬町である。
06ふたたび、伝馬町へ
1779年11月。話は冒頭に戻る。人を殺傷した罪で牢に入り、年の暮れに獄中で死んだ。細部を断定することは、傷つけられた相手に対しても誠実ではないだろう。ここでは、確かなことだけを置く。
遺体を引き取り、葬ったのは玄白たちだった。碑文はこう問う。ふつうでない人が、ふつうでない事を好み、行いもふつうでなかった。なぜ、ふつうでない死を死んだのか。
嗟、非常の人——
仕官御構で椅子を失った男。名前を増やして、笑いと涙を書いた男。火花を出しても、見世物と呼ばれた男。友が問うた「なぜ」に、読者はいま、自分の答えを持てるだろうか。
世間は最後まで、彼に貼る一枚の肩書を見つけられなかった。代わりに友が残したのは、職業の名ではなく、生き方の名だった。
「で、ご本業は」。その問いに答えられなかった一生は、失敗だったのか。それとも、答えを一つに絞らないことが、彼の答えだったのか。
07関係性
書架で源内の隣に立つのは、直接の師弟ではなく、遠くで並行する人生たちである。
ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は、同じ「電気の世紀」の同時代人である。1752年に凧の実験で雷の電気的性質を示したフランクリンと、1776年にエレキテルを復元した源内。ともに印刷・出版と実務に根を持ち、アカデミーの外で複数の仕事を往復した。直接の交流はない。
本居宣長(1730年生)は、ほぼ同年生まれの対比である。宣長が古典の内側へ掘り進んで「日本とは何か」を問うたのに対し、源内は物産と蘭学的な知で外へ開いた。内へ向かう知と、外へ開く知。18世紀日本の学問は二方向へ同時に伸びていた。
福澤諭吉へは、蘭学の民間展開との系譜という線が引ける。源内が登場する玄白の回想録『蘭学事始』の刊行に福澤は関わり、学問を生活と産業の役に立てる発想は明治へ接がれた。直接影響を示す史料は確認されておらず、系譜としての線である。
南方熊楠とは、制度の外の博物学という共鳴で並ぶ。大学や藩校の外で標本と書物を往復し、分類不能の多才ゆえに「何者か」を説明されつづけた点で、位置がよく似ている。
後世、源内は「日本のダ・ヴィンチ」とも呼ばれてきた。多方向の往復は確かに重なる。だが、宮廷のパトロネージに支えられたレオナルド・ダ・ヴィンチと、身分制の隙間を自前で走り抜けた源内とでは、自由の成り立ちが違う。呼称より、この違いのほうが多くを語るのではないか。
アダム・スミスとは1776年の一点で交差する。同じ年、スミスは『』で国の富を理論から問い、源内はエレキテルの復元でものづくりの現場から問うていた。等置はできない。ただ、同じ問いを別の道具で考えた同時代性として、遠く響き合う。
08主要な出来事と著作
- 讃岐国志度浦に誕生。高松藩の蔵番の家、本名は国倫
- 長崎に約1年遊学。本草学・蘭学的な知に触れる
- 「近年病身」を理由に退役願。家督を妹婿に譲り江戸へ。田村藍水に師事
- 湯島の薬品会に参加。以後五回を重ねる
- 高松藩を辞し、「仕官御構」を付される
- 東都薬品会を主宰、全国から出品を集める
- 『物類品隲』6巻。風来山人名義で『根南志具佐』『風流志道軒伝』
- 福内鬼外名義で浄瑠璃『神霊矢口渡』。二度目の長崎で壊れた摩擦起電器を入手
- 『放屁論』
- エレキテル復元、江戸で火花を放つ
- 『放屁論後編』に貧家銭内を登場させる
- 人を殺傷し、伝馬町の牢へ
- 獄中で没。破傷風と伝わる。享年52。杉田玄白らが遺体を引き取り葬る
残した思想の輪郭
- 仕官御構 ― 組織を出る自由と組織に戻れない不自由を、同じ紙の裏表として生涯分まとめて引き受けた
- 名前を増やす ― 本名で学問、風来山人で戯作、福内鬼外で浄瑠璃。一枚の肩書ではなく複数の名で才を使った
- 戯作という回路 ― 身分の世間で正面から言えないことを笑いで言う。後の出版文化の土壌
- エレキテル ― 理論の樹立ではなく、輸入された驚異を自分の手で開け直した到達点。名声と「見世物」の不遇を同時に招く
- 貧家銭内 ― 用いられない才への自嘲を作品にした、笑いと痛みの境目
つながり
- 蔦屋重三郎
継承 — 源内の戯作が耕した笑いの土壌から、黄表紙と洒落本の出版文化を育てた版元が出る。
- ベンジャミン・フランクリン
同時代 — 同じ「電気の世紀」の裏側で、凧を揚げて雷の電気的性質を示した印刷人がいた。
- 本居宣長
対比 — ほぼ同年生まれのもう一人は、内へ掘った。古典の中に「日本とは何か」を問うた国学者。
- 福澤諭吉
継承 — 源内の登場する『蘭学事始』を世に出す側に回り、実学の発想を明治へ接いだ人がいる。
- 南方熊楠
共鳴 — 同じく制度の外で、紀州から世界と直取引した博物学の知性が、後の時代にいる。
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
共鳴 — 比べられ続ける相手。同じ多才でも、こちらの自由は宮廷のパトロネージに支えられていた。
- アダム・スミス
同時代 — 同じ1776年、国の富という問いを分業と市場の理論から書いた学者がいる。
この人が描かれた作品Portrayals
平賀源内が登場する、または題材になった作品。 物語で出会った姿から、実際に生きた跡へ。
登場べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜
大河ドラマ / 2025年 — 安田顕が演じる。蔦重の時代の江戸に生きた発明家・戯作者として、その死まで描かれた。
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生誕地の記念館。旧邸・薬草園も
重要文化財のエレキテル実物