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南
知の革新

南方熊楠

Minakata Kumagusu·1867–1941·日本·

粘菌をのぞく学者は、 なぜ森のために牢屋に入ったのか?

粘菌研究から民俗学、神社合祀反対運動まで、自然と民俗と言語の全領域を一身で往還した博物学者

  • 粘菌
  • 民俗学
  • 神社合祀反対
  • 博物学
国が村の神社を一つにまとめ、鎮守の森が次々と切られていった時代 — ひらく

時代の空気

明治・大正・昭和の三時代をまたぐ。和歌山県西牟婁郡田辺、紀伊水道を望み、熊野の山地と那智の森が背後に深く広がる土地である。明治三十九年(一九〇六)からの神社合祀政策で県下の社が次々と廃され、古道の鎮守の森が伐られていった。海の向こうではフレイザー『金枝篇』、タイラーの文化人類学が版を重ね、『Nature』誌(一八六九-)が世界の博物学者を結んでいた。十六歳で田辺を離れて米国・英国を十四年放浪、大英博物館の閲覧室で抜書を積み、一九〇〇年に帰国してからは田辺に定住。柳田国男との書簡が往復し、昭和四年(一九二九)には神島で天皇に粘菌を御進講。戦時下の昭和十六年(一九四一)、田辺の自宅書斎で没した。

011910年8月、田辺の留置場

1910年8月。紀伊田辺たなべ(和歌山県の海べの町)の警察署に、一人の男が留め置かれた。罪名は暴行。神社をまとめて廃する政策に反対する集会で、警官と揉もみ合ったのである。男の名は南方熊楠(みなかたくまぐす)、43歳。

この男は、ただの町の人ではなかった。ロンドンの大英博物館に八年通い、イギリスの科学雑誌『Nature』に英語の論文を何度も載せた学者である。田辺では、森で粘菌ねんきん(動物とも植物ともつかない小さな生き物)を集め、顕微鏡でのぞく毎日を送っていた。その男が、十八日間、留置場から出られなかった。

なぜ、顕微鏡の学者が、神社の森のために警官と揉み合ったのか。粘菌と森は、彼の中でどうつながっていたのか。答えを探すには、時を43年前に戻さなければならない。

02「熊」と「楠」の名 ― 和歌山の商家

1867年、熊楠は和歌山わかやま城下の商家に生まれた。父は南方弥右衛門やえもん。商いで財を成し、のちに酒造りも手がけた。母はすみ。男四人兄弟の次男である。「熊」は熊野の山の熊、「楠くす」は楠木正成くすのきまさしげ(南北朝時代の武将)から取られた。を持つ子は、めったにいない。

幼い日から、記憶の力と好奇心が並外れていた。3歳で字を読んだ。6歳で『』(江戸時代の百科事典、全105巻)を読み通そうとした。7歳で近所の本屋の本を借りて写した。『本草綱目』や『古今図書集成』(清の時代の一万巻の百科全書)など、大人でも手を出さない本を、少年のうちに次々と読んだ。

とくに目の記憶がすごかった。一度読んだ本の中身と図を、何年たっても正しく思い出せたと伝わる。手元に集めた蔵書ぞうしょは、生涯で四万冊近くに及んだとされる。しかし、本の中だけでは、この少年は満足しなかった。外の世界が、彼を呼んでいた。

03東京から、アメリカ、キューバへ

1883年、16歳で東京へ出た。東京大学予備門(のちの東京大学へ進む前の学校)に入る。同じ学年に夏目漱石や正岡子規がいた。だが熊楠は、決められた授業になじめなかった。教室より、上野の図書館で好きな本を読む時間を選んだ。

1887年8月、20歳で予備門をやめた。父のすすめで、アメリカへ渡ることにした。サンフランシスコに上陸し、ミシガン州の農業学校に短く在籍した。ここも長くは続かなかった。学校を離れ、フロリダ、キューバ、ハイチ、ベネズエラと中南米を歩き回った。植物の標本ひょうほんを集めては、独りで学んだ。

1891年9月、キューバへ単身渡った。そこで地衣類ちいるい(コケに似た、菌と藻が一緒に暮らす生き物)の新種を見つけた。これが学者としての最初の一歩になった。このころには英語を自由にあやつり、論文を英語で書き始めている。学校を二度やめた青年が次に向かった先は、世界で一番大きな図書館のある町だった。

04ロンドン、大英博物館の八年

1892年9月、25歳でロンドンに着いた。それから八年、大英博物館の閲覧室に毎日のように通った。読んだ本から大事なところを書き写す。この手稿『』は、二十一冊、およそ一万五千頁にのぼる。まだ蔵書の目録が整っていない時代に、巨大な書庫を自由に歩けたことは大きな幸運だった。

1893年10月5日、『Nature』に初の英文Letter掲載を果たした。題は「極東の星座」。以後1914年ごろまでに五十一編を同じ雑誌に送っている。『Notes and Queries』という学術誌にも三百篇を超えて書いた。植物、民俗(人々の暮らしの言い伝え)、宗教、東洋の研究。日本人がこれほど英語で世界の学問に加わった例は、当時ほかにほとんどない。

ロンドンでは、中国の革命家孫文そんぶんと親しくなった。禁酒会の集まりで知り合い、のちに田辺で再会する。大英博物館の学者や東洋学者とも交わった。一方で、気性の激しさも変わらなかった。1898年には閲覧室で他の利用者と口論になり、出入りを制限される事件を起こしている。世界の知の中心にいながら、彼はそこに落ち着けなかった。1900年、33歳で日本へ帰る。行き先は東京ではなく、生まれた紀州だった。

05那智の山、田辺の海 ― 粘菌の日々

帰国の翌年から数年、熊楠は那智なちの山にこもった。このの間、粘菌と苔こけを集めることに打ち込んだ。山小屋で顕微鏡をのぞき、雨の山道を歩き、山で働く人や猟師の話に耳を傾けた。1904年ごろ、海べの町、紀伊田辺に移り住む。は三十七年に及び、以後ここを動くことはなかった。

1906年、39歳で結婚した。相手は闘鶏神社とうけいじんじゃの社司(神社を預かる人)田村宗造の娘(一説に姪)、松枝である。長男熊弥、長女文枝が生まれた(人物関係・年には諸説あり)。

田辺での中心はだった。粘菌は、動物と植物の間にいるような、不思議な生き物である。胞子からかえったアメーバあめーばのような細胞が集まり、ぬるぬるした「変形体」となって動き回る。やがて小さなキノコのような子実体しじつたいを作り、胞子を飛ばす。動くのに、キノコになる。分類の線をまたいで生きている。熊楠がこの生き物を選んだのは、偶然ではなかった。

田辺の森で粘菌を集め、顕微鏡でスケッチし、自宅に標本を保存した。生涯に確認した粘菌は百十種を超え、七十種以上を新種として記載した。イギリスの粘菌学者リスター父娘と手紙をやり取りし、世界の粘菌学の一角を担った。のちに田辺湾の神島(かしま)の近くに研究小屋を建て、田辺の海女あまたちにも採集を頼んでいる。だが結婚と同じ1906年、この森に、思いもよらない命令が届いた。

06高野山の僧に宛てた手紙 ― 南方マンダラ

田辺に落ち着く前後の1903年から1905年、熊楠は一人の僧に長大な手紙を書き続けていた。土宜法竜どきほうりゅう、の真言宗の僧で仏教学者である。この土宜法竜との書簡往復の中で、熊楠はと呼ばれる独自の知の構造論を展開した。手紙には、熊楠自身が鉛筆で描いたスケッチが挟み込まれている。

南方マンダラは、物・心・事の三者が相互に絡み合う網状の図として描かれる。物(物質)、心(意識)、事(出来事・関係)は、それぞれ独立ではなく、互いを貫き、絡み合って現れる。近代科学が物と心を二元に分けるのに対し、熊楠は仏教の因縁いんねん()と自分の粘菌観察・民俗研究を一つに溶かし、存在のネットワーク的構造を提示した。

「萃点すいてん」と呼ぶ、多数の糸が集まる結節点の概念も独自である。すべての事柄は互いに関わり合うが、ある点に多数の関係が集中する ― それがで、そこから物事の本質を読み取る、という方法論。情報論・ネットワーク論が成立するはるか以前に、熊楠はこのような直観を表現していた。

萃点(すいてん)には、森羅万象の因果が一点に集まる。そこに立てば、物事の全体が見えてくる

— 土宜法竜あて書簡(1903-05年)で述べた萃点の考えの要旨訳。高野山の僧に宛てて、粘菌観察と仏教の縁起を一つに結ぼうとしていた時期

学問分野では粘菌学・植物学・動物学・昆虫学・民俗学・宗教学・言語学・人類学・比較神話学 ― 熊楠は少なくとも十以上の分野で第一級の論文を残した。十九世紀的な博物学の最後の巨人であり、同時にエコロジーとネットワーク思考の先駆者でもある。1914年から昭和初年まで雑誌『太陽』に連載された『』は、十二支に因む動物の民俗を世界諸文化から横断的に集めた畢生の連作で、熊楠の博覧の一端を最もよく示す。

この図の中で、田辺の森は、糸が最も多く集まる場所だった。粘菌も、村の言い伝えも、神社の祭りも、そこで一つに結ばれている。その森に、斧が向けられようとしていた。

07森を守ることは、学問を守ること ― 1910年、再び

1906年、明治政府は神社合祀令を出した。一つの町や村に神社は一つ、という原則で小さな神社を整理する。境内の木を切って売り、財政を立て直す政策である。和歌山県では、明治の終わりまでに県内およそ四千社が八百社前後にまで減った。田辺のまわりでも古い神社と鎮守の森が次々と廃され、熊野古道沿いの大木が切られた。

熊楠にとって、これは学問の現場が消えることだった。粘菌は森の倒木や落ち葉に生きる。村の言い伝えは、神社の祭りとともにある。森が切られれば、粘菌も民俗も一度に失われる。彼は新聞に投書し、内務省に電報を打ち、住民と手を組んだ。そして1910年8月、合祀阻止の集会で警官と揉み合い、暴行罪で十八日間投獄された。冒頭の留置場は、この闘いのただ中にある。

留置場を出た翌年の1911年、熊楠は東京帝国大学の植物学者松村任三に長い手紙「神社合祀に関する意見」を書いた。柳田国男(日本の民俗学を始めた人、当時は役人)がこれを仲介し、印刷して配った。手紙は、合祀が人々の信仰を壊し、民俗を壊し、森を切ることで土地の生き物のつながりを一気に崩す、と説いた。今でいう生態系の考え方を、百年以上前に先取りしている。同じころから、熊楠は柳田に六十通を超える長い手紙を送り、合祀反対の論を張った。

この森を守ることは、同じに私の学問を守ることである。

— 南方熊楠「神社合祀に関する意見」(松村任三あて書簡、明治44年)。留置場を出た翌年、44歳の熊楠が、森の伐採を止めるために書いた言葉

田辺湾の神島(かしま)の原生林を守る運動も続けた。その結果、神島の森は残り、1935年に国の天然記念物に指定された。この合祀反対運動は、熊楠の学問が書斎の中のものではなく、地域の森と人の心を守る行いと一つだったことを示している。百年後の今、や生き物の多様さを守る考えの先駆けとして、あらためて見直されている。留置場の男は、粘菌の学者であり、森の番人でもあった。だが家に帰れば、彼はひとりの夫であり、父でもあった。

08田辺の隠者、最後の顕微鏡

1912年以降も、熊楠は田辺を離れなかった。自宅と、近くの森と海だけが研究の場だった。それでも田辺にいながら、全国の学者や作家とつながっていた。柳田国男との書簡往復は続き、山にすむ人や憑物つきもの(狐などが人にとりつくという言い伝え)をめぐっては鋭く意見をぶつけ合った。(民俗学者・歌人)との交流、植物学者白井光太郎との協力、河東碧梧桐や斎藤茂吉といった文学者の訪問もあった。

熊楠は感情の起伏が激しかった。それでも、独りで学び続ける姿勢は生涯変わらなかった。長男熊弥は1920年代の半ばに精神の病を発症し、長い療養に入った。妻松枝への献身、酒と本と粘菌だけの日々。田辺の町では「変人学者」として、敬われもし、戸惑われもした。息子の病をめぐる父の言葉少なな苦しみは、手紙のはしばしに残っている。

1929年6月1日、昭和天皇が戦艦長門で田辺湾に停泊した。熊楠は神島で案内役を務め、そのあと艦の上で御進講ごしんこう(天皇に学問を講じること)を行なった。62歳。粘菌と田辺湾の自然について話し、桐箱(キャラメルの空箱とも伝わる)に粘菌標本百十種を収めて献上した。田辺湾神島で昭和天皇に御進講したこの日は、彼の人生で最大の公の栄誉となった。十九年前に留置場にいた男が、守り抜いた島で天皇を案内したのである。

1941年12月29日、田辺の自宅の書斎で亡くなった。74歳。死の直前まで顕微鏡で粘菌を観察していた。臨終の床で「紫の花が見える」と口にしたと伝わる。遺言により、庭の柿の木の下に葬られ、のちに田辺市の高山寺の墓所に改葬された(現在の南方熊楠顕彰館の敷地と隣接)。墓石には「南方熊楠之墓」とだけ刻まれている。

粘菌は、動物か植物か、どちらとも言い切れない。熊楠もまた、学者か運動家か、どちらとも言い切れない。森と学問、粘菌と神社、書斎と留置場。あなたなら、自分の学びと、自分が暮らす土地の間に、どんな線を引くだろうか。それとも、線は引かないのだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 和歌山城下橋丁に生まれる。父は商家・酒造業
  2. 6歳、『和漢三才図会』を読み通そうとし、7歳で近隣の書を筆写
  3. 16歳、上京。東京大学予備門入学、夏目漱石・正岡子規と同級
  4. 20歳、予備門中退、8月渡米。ミシガン州立農業学校を経て中退
  5. 9月、キューバに単身渡り、地衣類の新種を発見
  6. ロンドン大英博物館で約8年、抜書ノート21冊・1万5000頁を作成
  7. 10月5日、『Nature』に初の英文Letter掲載。以後同誌に51編を寄稿
  8. 9月帰国。那智山中で隠棲し粘菌採集
  9. 土宜法竜との書簡往復、南方マンダラを素描
  10. 紀伊田辺に定住、粘菌研究を本格化(以後37年動かず)
  11. 松枝と結婚(闘鶏神社社司田村家の娘、関係には諸説あり)。神社合祀令施行
  12. 8月、合祀阻止の集会で暴行罪により18日間投獄
  13. 松村任三あて「神社合祀に関する意見」を書き、柳田国男に60通超の書簡
  14. 雑誌『太陽』に『十二支考』を連載
  15. 田辺湾神島に研究小屋を設置
  16. 6月1日、田辺湾神島で昭和天皇に御進講、粘菌標本110種を献上
  17. 神島が国の天然記念物に指定
  18. 12月29日、田辺の自宅書斎で没。享年74

残した思想の輪郭

  • 粘菌研究 ― 動植物の境界にある変形菌の七十種以上を新種記載、世界の粘菌学に寄与
  • 南方マンダラ ― 物・心・事の網状構造、仏教の縁起と博物学の観察が一体化した知の地図
  • 萃点 ― 多数の関係が集まる結節点から事物の本質を読む、ネットワーク論の先駆
  • 神社合祀反対 ― 森と民俗を守る社会運動、現代のエコロジー先駆
  • 『Nature』『Notes and Queries』 ― 当時の日本人として極めて稀有な英文国際学術発表
  • 多分野独学 ― 粘菌・植物・動物・昆虫・民俗・神話・言語・人類学の十以上の分野で第一級
  • 博物学の最後の巨人 ― 十九世紀的総合知の最後の実践者、同時に二十一世紀的複雑系思考の先駆
  • 在野の自律 ― 国家機関にも大学にも属さず、田辺の自宅から世界と地域を結んだ独立研究者
昭和16年(1941年)12月29日、田辺の自宅書斎で没。74歳。最晩年まで粘菌の顕微鏡観察と田辺湾の自然を記録し、遺言で自宅の庭の柿の木の下に葬ることを望んだ。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

南方熊楠の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

南方熊楠が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

さらに辿るならExternal References

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