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柳

柳田國男

Yanagita Kunio·1875–1962·日本·

名前の残らない人たちの声を、 どうすれば聞き取れるか?

官僚から民俗学者へ、日本列島の無名の人々の暮らしと信仰を学問にした開祖

  • 民俗学
  • 遠野物語
  • 常民
村の小さな祠が消え、鉄道と戦争が国を作り変えていく。忘れられる前に、誰かが聞き取らなければならなかった。 — ひらく

時代の空気

明治末から昭和の敗戦後まで、近代化と忘却が同じ速度で進んだ時代だった。明治政府の神社合祀政策(明治三十九年-)は村社を統廃合し、土地の小さな祠と祭祀を消していった。フレイザー『金枝篇』とタイラー文化人類学は西欧から届きはじめ、自由民権と社会主義運動が走る一方、農商務省の若い官僚は出張で全国の村を歩いた。第一次大戦と国際連盟、関東大震災、満州事変、日中戦争、敗戦——大きな波の合間で、柳田は山村と海辺と祖霊の話を聞き取り続けた。

01焼け跡で、死者の行き先を問う

1945年8月15日、日本は戦争に負けた。柳田國男は70歳だった。かつては。戦前の国会(貴族院)で、役人の一番上に立った人である。その老人が、敗戦の翌月にはもう動いていた。9月、民俗学研究所を発足させたのである。

翌1946年、彼は一冊の本を世に出す。『』。焼け野原の国で、彼が立てた問いはひとつだった。数えきれない戦没者の魂は、どこへ還るのか。国も家も壊れたいま、死んだ人はどこへ行くのか。

答えとして柳田が置いたのは、勲章でも制度でもなかった。「人は死んで山に還り、となり、盆と正月に家に戻る」。そう彼は書いた。祖霊(それい)とは、家を見守る先祖の魂のことである。

なぜ、国の中心にいた男が、敗戦のただ中で死者の行き先を書いたのか。なぜそれが、山と盆と家の話になるのか。その答えは、彼の70年の歩みの中にある。時は70年前、播州(兵庫県)の街道の村に戻る。

02街道の村と、祠の中の丸い石

1875年7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川つじかわ(現兵庫県神崎郡福崎町西田原)に生まれた。父の松岡操(号・約斎)は漢学者で、神官や医師も務めた。母はたけ。國男は六男で、男の兄弟は八人いた。本名は松岡國男という。

兄には医者の松岡鼎、歌人で眼科医の井上通泰(井上家に養子入り)がいた。弟には海軍軍人で言語学者の松岡静雄、日本画家の松岡映丘がいる。学者と芸術家がならぶ家だった。

辻川は街道に沿った集落である。「地蔵の頭」と呼ばれる小さな石祠せきしがあった。村の年中行事があり、老人たちが語る昔話があった。國男はそれらに囲まれて育った。

やがて家は貧しくなった。11歳ごろ、國男は茨城県布川町(現利根町)に送られる。長兄の鼎が医院を開いていたからだ。利根川沿いの田園で、少年は水運と信仰の暮らしを見た。

布川で、彼は小さな祠の扉を開けた。中には丸い石があった。そのとき空を見上げると、数十羽の鳥が騒いでいた。昼間の奇妙な記憶である。晩年の自伝『故郷七十年』(1958年、新聞連載)で、柳田はこの日のことを何度も語っている。学問の原点の一つだ、と。

だが少年がまず目指したのは、学問ではなく詩だった。

03詩を書く青年、役所に入る

1893年、第一高等学校に入学した。1897年に卒業し、同じ年、東京帝国大学法科大学の政治科に進む。学生の國男は新体詩を好んだ。

田山花袋、国木田独歩、島崎藤村。文学界の若い詩人たちと親しく付き合った。1897年に出た『抒情詩』(民友社)には、松岡國男の名で詩が載っている。若き詩人として、彼は文学の世界に片足を置いていた。

1900年、大学を卒業して農商務省に入った。農業や商工業を担当する役所である。農政局、法制局と移り、役人として19年あまり勤めることになる。彼にとって出張は「日本全国の田畑と村を見る仕事」だった。民俗学の芽は、公務の中で育っていく。

1901年、柳田直平の四女、孝(たか)の婿養子むこようしとなった。直平は大審院の判事で、貴族院議員である。こうして松岡國男は柳田國男になった。孝は3歳年上で、のちに三人の子(為正・三千子・恒子)を授かる。

1907年には農商務省から北海道庁への出張があった。寒い土地の村を巡り、北の山村と海辺の暮らしに目を開かれる。その翌年の夏、彼は九州の山奥に分け入る。

04椎葉村の夏、石の神たちへの手紙

1908年夏、柳田は宮崎県の九州山地にある(しいばそん)に入った。焼畑と狩りで暮らす山の村である。そこで彼は、村の言葉と習わしを自分の耳で聞き取った。平地の農民とは別の暮らしがある。この椎葉行で「(やまうど)」という考えが芽生えた。のちの民俗学の原型である。

翌1909年、柳田は自分のお金で『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を50部刷って配った。狩りをする人々の言葉と習わしを記録した小さな冊子だ。「民俗語彙」「狩猟民俗」という研究は、ここから始まった。

1910年にはを出した。塞神さいのかみ、道祖神、地蔵、庚申塔こうしんとう。各地の石の神への信仰をめぐる本である。山中共古、、白鳥庫吉ら同じ時代の研究者と、やりとりした手紙を集めた。石神信仰をめぐるこの議論は、近代日本民俗学の原点となった。

この頃の柳田は農商務省の書記官だった。一方で田山花袋とともに文学の集まり「竜土会」に出て、夏目漱石や森鴎外とも付き合った。鴎外の観潮楼歌会(1907年頃-)には若手として顔を出し、石川啄木らと並んで歌を詠んでいる。

役所と文学。その二つの世界のあいだに、もう一つの声が届く。1909年8月、岩手から一人の青年が柳田を訪ねてきた。

05『遠野物語』、平地の人を震えさせよ

青年の名は佐々木喜善(鏡石)、23歳。岩手県遠野の出身だった。彼は郷里の古老たちから聞き集めた話を持っていた。伝説、怪異、山人の話。佐々木はそれを、柳田の前で言葉のままに語った。

柳田はその語りと採集資料を聞書ききがきとして書き取り、文章にまとめた。1910年6月、34歳。『』を自費出版した。書誌には「佐々木鏡石述・柳田国男著」とある。初版は350部、和とじの小さな本だった。

119の話からなる。山姥、河童、座敷童子、天狗、マヨヒガ、オシラサマ、異人(サンカ)、雪女、幽霊の話。遠野の山と谷に息づく神々と、この世ならぬ者たちの記録である。

自序の末尾に、柳田は書いた。「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」。平地(都会)の知識人に山人の世界を突きつけ、震え上がらせよ。挑発の宣言だった。

願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ

— 『遠野物語』初版自序(1910年6月)。役所勤めの34歳が、自費350部の小さな本の序文に記した宣言

出たばかりの頃、批評の世界はこの本をほとんど無視した。だが大正期以降、民俗学と文学に巨大な影響を残す。三島由紀夫、水木しげる、柳宗悦、、泉鏡花。多くの後続が『遠野物語』を起点にした。

同じ頃、柳田は熊野の博物学者・南方熊楠とも手紙をやりとりしていた。明治政府は(じんじゃごうし)を進めていた。村の小さな神社を統合し、祠と祭りを消していく政策である。二人はこれに反対して連帯した。だが山人や憑物つきものの見方では鋭く対立した。協力と確執。その両方が、民俗学の幅を広げた。

一方、役所での柳田は、出世の階段を登り続けていた。

06書記官長の椅子を降りて、ジュネーブへ

1913年、柳田は高木敏雄と雑誌『』を創刊した。地方の民俗、方言、口伝えの話を、在野の研究者と一緒に集め始める。翌1914年、貴族院書記官長に就任した。議会を支える役人のトップである。以後5年、これが柳田の役人人生の頂点だった。

それでも民俗学への情熱は衰えなかった。『山島民譚集』(1914年)などを世に出す。彼の文章は、役所の文体と山村の言葉のあいだを揺れていた。

1919年、貴族院書記官長を辞めた。翌1920年からは朝日新聞社の客員として、論説や紀行を書き始める。1921年から1923年まではジュネーブにいた。会(Permanent Mandates Commission)の委員である。旧ドイツ植民地や南洋諸島の統治の枠組みを議論する委員会である。柳田は、外から日本を見る機会を得た。

1923年9月1日、関東大震災。その知らせを受けて帰国した。1925年、沖縄と奄美の紀行『海南小記』を発表する。以後は本格的に民俗学者として生きる。その決意が固まった。

次に彼が用意したのは、自分の家を学問の場にすることだった。

07成城の木曜会と「常民」

1927年以降、柳田は東京の成城に家を構えた。そこに若い研究者を集め、木曜会を開く。柳田家での定期研究会である。折口信夫、早川孝太郎、渋沢敬三、宮本常一、今野圓輔。日本民俗学の主な研究者が、この会から育った。漱石の木曜会と名前は同じだが、別のものである。

1932年、民俗学講習会を開いた。ここから(のちの日本民俗学会)が生まれる。1934年に『一目小僧その他』。1935年には『民間伝承論』と『郷土生活の研究法』で、民俗学の方法をまとめ上げた。

このとき打ち出したのが「(じょうみん)」である。日本社会の土台をなす、名を残さない多数の普通の人々。柳田民俗学の鍵となる考えだ。

1937年『』『歳時習俗語彙』、1939年『』、1942年『食物と心臓』。学会誌『民間伝承』を出し、全国の在野研究者と知を結んだ。方法は四つの組み合わせだった。現地調査(フィールドワーク)、方言の採集、民間信仰の記録、そして比較研究である。

そして、戦争が来た。

08焼け跡の『先祖の話』、そして海の道

1945年8月15日、敗戦。70歳の柳田は9月に民俗学研究所を発足させ、翌1946年『先祖の話』を上梓した。敗戦の荒廃のなか、数えきれない戦没者の魂はどこへ還るかを問い、日本人の死霊観しりょうかんの核心に「祖霊」と「家の永続」を据えた。「人は死んで山に還り、祖霊となり、盆と正月に家に戻る」という日本的循環の死生観を提示した、戦後初期の重い書である。

冒頭の「なぜ」に、ここで答えが見える。彼は突然、死者を語り始めたのではない。布川の祠の丸い石、椎葉の山人、遠野の神々と異形、成城で鍛えた常民の方法。70年かけて聞き取ってきた名もなき人々の記憶が、敗戦の年、戦没者の魂の行き先という一点に集まったのである。国家の制度が崩れたとき、彼が拠り所にしたのは国家ではなく、山と盆と家に宿る常民の死生観だった。

願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。

— 『遠野物語』初版自序(1910年6月)。36年後、焼け跡の『先祖の話』と並べて読み返される一行

1961年、86歳で『』を筑摩書房から刊行した(初出論考は1952年より)。日本人の祖先が南方から黒潮に乗って琉球弧経由で日本列島へ渡来したという仮説を、稲作伝来いなさくでんらいと貝と鳥の神話を手がかりに展開したものである。アカデミックな賛否は分かれるが、柳田民俗学の宇宙的スケールを示す遺言的著作である。

1947年、國學院大学客員。1951年文化勲章受章(76歳)。1962年、文化功労者顕彰の年に世を去った。勲章と国家儀礼への距離は終生やや屈折したものだったが、民俗学が大学に制度化される道筋もこの晩年に付けられた。

学問史の位置づけも書き添えておく。竜土会と観潮楼歌会を通じた柳田と鴎外の関係は、民俗学と純文学が交錯した大正初期の東京文壇の重要な一断面である。国際連盟委任統治委員としてのジュネーブ滞在は、国際的視野から日本の民俗を相対化する機会だった。は、神社合祀反対での連帯と山人観・憑物観での対立が同居した関係であり、その協力と確執がそのまま民俗学の幅を広げた。

1962年8月8日、成城の自宅で老衰により死去。87歳。

彼は「平地人を戦慄せしめよ」と書き、常民の記憶を拾い続けた。では、いまの私たちの暮らしのなかで、誰にも記録されずに消えていく声はどこにあるのだろう。そして、それを聞き取るのは誰なのだろう。

09主要な出来事と著作

  1. 兵庫県神東郡田原村辻川に誕生。松岡家の六男、本名國男
  2. 11歳、茨城県布川町の長兄鼎の医院に引き取られる
  3. 第一高等学校で学ぶ
  4. 東京帝大法科大学入学、『抒情詩』(民友社)に新体詩を寄稿
  5. 東京帝大卒業、農商務省入省
  6. 柳田直平の四女孝の婿養子に入り、柳田國男となる
  7. 夏、宮崎椎葉村に分け入り「山人」概念が芽吹く
  8. 8月、佐々木喜善と知遇。『後狩詞記』を自費50部で刊行
  9. 6月、『遠野物語』初版350部を自費刊行
  10. 高木敏雄と『郷土研究』を創刊
  11. 貴族院書記官長
  12. 朝日新聞社客員となる
  13. 国際連盟委任統治委員会委員としてジュネーブ滞在
  14. 『海南小記』(沖縄・奄美紀行)
  15. 成城に居を構え、木曜会で折口信夫・宮本常一・渋沢敬三ら若手を育てる
  16. 民俗学講習会・民間伝承の会(後の日本民俗学会)を組織化
  17. 『民間伝承論』『郷土生活の研究法』で民俗学の方法論を体系化、「常民」概念を打ち出す
  18. 『山の人生』『歳時習俗語彙』
  19. 『木綿以前の事』
  20. 敗戦、9月に民俗学研究所を発足
  21. 『先祖の話』(死霊観・盆と祖霊・戦没者祭祀)
  22. 國學院大学客員
  23. 『海上の道』論考の連載開始
  24. 『海上の道』を筑摩書房から刊行、86歳
  25. 文化勲章受章
  26. 8月8日、成城の自宅で老衰により死去。享年87

残した思想の輪郭

  • 常民(じょうみん) ― 名を残さぬ多数の普通の人々を日本社会の基層に据えた民俗学の中心概念
  • 『遠野物語』 ― 佐々木喜善の語りを筆録した119話、山と谷の神々と異形を都会に突きつけた挑発
  • 祖霊と家の永続 ― 『先祖の話』に結晶した、死者が山に還り盆に戻る日本的死生観
  • 海上の道 ― 晩年の仮説、日本人の祖先が南方から黒潮に乗って渡来したという神話的系譜
  • 木曜会と民俗学の制度化 ― 折口・宮本・渋沢らを育てた成城の研究サロン、在野と大学を繋いだ
  • 官僚と民俗学者の二重生活 ― 貴族院書記官長から民俗学者へ、近代日本の学問史における稀有な経歴
昭和37年(1962年)8月8日、東京成城の自宅で老衰により死去。87歳。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

柳田國男の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

柳田國男が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 成城大学民俗学研究所(柳田文庫)所属

    東京, 日本

    世田谷区成城、柳田國男の旧居跡近くに開設。柳田文庫の原蔵書を継承

  • 柳田國男・松岡家顕彰記念館(福崎)生誕

    福崎, 日本

    兵庫県福崎町、柳田の生家を中心とする記念館。民俗学発祥の原風景

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • 遠野(遠野物語の舞台)ゆかり

    遠野, 日本

    岩手県遠野市、佐々木喜善から聞き書きした『遠野物語』の舞台。伝承園や遠野市立博物館が立つ

さらに辿るならExternal References

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