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後
実践の知

後藤新平

Gotō Shinpei·1857–1929·日本·

道も橋も鉄道も作った男は、 なぜ「人を残す」を一番上に置いたのか?

医学校出の衛生局官僚から台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市長、震災復興院総裁まで、「生物学的原則」を掲げて近代日本の都市と制度を設計した「大風呂敷」の大構想家

  • 都市計画
  • 満鉄
  • 関東大震災復興
  • 台湾統治
  • 生物学的原則
戦に負けた家の子が、帝国が広がり大災害が襲う中で、国と都市の設計図を引いた時代 — ひらく

時代の空気

戊辰戦争で朝敵側に立った旧仙台藩水沢の家に生まれた者の世代だ。幕府は瓦解し、武士の家は「賊軍」の烙印を背負った。明治政府は近代医学・公衆衛生・鉄道・植民地行政を一気に立ち上げ、敗者の家の少年にも医学校と内務省への道が開かれていた。日清戦争後の台湾割譲、日露戦争後の満洲経営、第一次大戦後の都市膨張、関東大震災——帝国の膨張と災害が同じ世代の履歴を貫いた。ベルリンで吸ったビスマルクの社会衛生政策の空気が、植民地と帝都を同じ設計図で考える官僚を作った。

01京都駅、四月

1929年4月4日。後藤新平は岡山で講演の最中に、脳溢血のういっけつで倒れた。71歳だった。意識は戻らないまま、京都へ運ばれた。家族は、東京までの列車の旅をあきらめた。4月13日、後藤は京都駅で息を引き取った。

葬儀は4月17日、東京の青山斎場で行われた。遺体は青山霊園に葬られた。墓には、本人が生前に自分の字で用意した言葉が刻まれている。「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」。字句や語順には諸説ある。同じ趣旨の言葉は、後藤の座右の銘としても広く伝わる。

よく人を残すは上、事業を残すはこれに次ぎ、金を残すは下なり。

— 後藤新平の座右の銘として広く伝わる言葉。晩年に自ら手配した墓碑銘とほぼ同じ趣旨だが、最初に定式化された場面は未確定

ここで、ひとつ引っかかる。後藤新平は、生涯を「事業」に使った人だった。台湾の鉄道、満洲の都市、東京の大通りと橋。あまりに大きな計画ばかり立てるので、「大風呂敷おおぶろしき」とあだ名された。その男が、事業を「中」と書き、人を「上」と書いた。しかも自分の墓に、自分の字で。

なぜ、事業の人が、事業を二番目に置いたのか。答えを探すには、六十年ほど時を戻す必要がある。戦に負けた家の、十二歳の少年のところまで。

02負けた側の家の少年

後藤新平は1857年6月4日に生まれた。場所は陸奥国胆沢郡いさわぐん塩釜村、今の岩手県奥州市水沢である。父の実崇さねたかは、水沢伊達家に仕える武士だった。水沢は仙台藩の分家にあたる家である。1868年のでは、奥羽越列藩同盟の側に立った。新政府に敗れ、後藤の家は「朝敵ちょうてき」の家として明治を迎えた。天皇に逆らった側、という意味である。

武士としての給料は失われた。12歳の新平は、胆沢県庁の給仕きゅうじになった。お茶を運び、使い走りをする仕事だ。少年の奉公は、そのまま家計を支えることだった。

ただ、水沢には蘭学らんがくと医学の気風があった。蘭学とは、オランダ経由で入った西洋の学問のことだ。親戚にも医者や蘭学者が多かった。県の長官格だった安場保和やすばやすかずに見込まれ、1872年、15歳で福島の須賀川すかがわ医学校に入った。1876年に卒業し、愛知県医学校に赴任した。1881年、24歳で愛知病院長と愛知医学校長を兼ねた。ここで、岐阜で襲われた板垣退助を治療したと伝わる。

負けた家の子が、20代前半で県立病院のトップに立った。急ごしらえの明治国家は人材をいくらでも必要とし、少年を一気に引き上げた。医者としての道は開けていた。ところが後藤は1883年、その道を自分から降りる。病院を離れ、東京の内務省に入ったのだ。医者が、なぜ役人になったのか。

03病人ではなく、人口を診る

1883年、後藤は内務省衛生局に入った。局長は。大阪ので学んだ医学者で、福沢諭吉の後輩にあたる。「衛生」という言葉を明治日本に持ち込んだ人物だった。伝染病の予防、検疫けんえき、上下水道。病気になった一人を治すのではなく、町ぜんたいの病気を防ぐ仕組みを作る部署である。

ここで後藤の頭の使い方が変わった。目の前の一人の患者ではなく、何十万人という人の集まりを見る。これを「公衆衛生」という。医学から、制度を設計する仕事への引っ越しだった。

1890年、後藤はベルリンに留学した。ミュンヘン大学のからは、衛生工学を学んだ。ベルリンでは、コッホの流れをくむ細菌学に触れた。そしてビスマルクの社会衛生政策を見た。病気の保険、けがの保険。国が制度で人々の体を守る、という発想だ。

帰国の直後、1893年に思わぬ事件が待っていた。相馬事件である。旧相馬藩主の精神病をめぐる争いに巻き込まれた。人を偽って訴えた罪(誣告罪ぶこくざい)で、約5ヶ月、牢に入れられた。のちに無罪が確定した。だがこの経験は、後藤の経歴に長く影を落とした。同時に、長与専斎らが彼を守ろうと動いたことも、はっきり見えた。

復帰の機会は1895年、日清戦争の終わりに来た。広島で、帰ってくる兵士23万人の検疫を任されたのだ。伝染病を国内に持ち込ませないための、巨大な仕事だった。後藤はこれを3ヶ月で終えた。検疫部長だった軍人、児玉源太郎が、この仕事ぶりを忘れなかった。三年後、その児玉から呼び出しが来る。行き先は、日本が手に入れたばかりの島だった。

04台湾 ― 土地は生き物である

1898年、児玉源太郎が台湾総督になった。児玉は後藤を台湾総督府民政長官に指名した。後藤は40代に入ったばかり。以後1906年までの8年半、台湾を治める実務の全権を握った。児玉は軍人・政治家として後ろにいた。現場は後藤が動かした。

後藤のやり方は、のちに「生物学的原則」と呼ばれる。考え方はこうだ。台湾の風土や慣習は、何千年もかけてその土地に育った生き物のようなものだ。外から理想の制度を接ぎ木しても根付かず、かえって枯れる。だから、まず徹底的に調べる。土地、人口、慣習、言葉、産業。そのうえで、現地の強みを活かす方向に少しずつ増築する。衛生、土地、交通、教育の土台から手をつけ、その上で産業を育てる。

実際に何をしたか。1901年に臨時台湾旧慣調査会を作り、清の時代の法や慣習を調べ上げた。土地調査局は、誰がどの土地を持つかを調べ直し、近代的な土地登記を導入した。ペストやマラリアの対策、上下水道、検疫。台北の下水道と水道は、当時の日本本土より進んでいた。樟脳しょうのう、砂糖、塩を専売にして、財政を数年で自立させた。基隆から高雄までの縦貫鉄道は、1908年に全通した。1901年には新渡戸稲造を招いた。『武士道』を英語で書いた農学者に、台湾の砂糖産業を近代化する計画を任せたのだ。

阿片あへんの扱いも「生物学的」だった。一気に禁止せず、吸う人を登録して専売にし、少しずつ減らしていく。これを阿片漸禁(ぜんきん)という。吸う人の数は減っていった。だが専売の利益は、総督府の財政の柱になった。「少しずつ減らす」という正しさと、「その収入に頼る」という構図が、同じ政策の中にあった。

そして、この統治にはもう一つの顔があった。1898年から1902年にかけての「土匪どひ」討伐である。土匪とは、日本の支配に武力で抵抗した人々を、総督府側が呼んだ名前だ。「帰順した者は許す」と公言しながら、降伏した人々を後で集団処刑する事件が複数起きた。1902年の斗六とろく事件はその一つだ。死者は数千人規模と見積もられている(数は史料と立場で幅がある)。山地の先住民に対しても、武力と同化教育を併用した。衛生が良くなり、赤ん坊の死亡率は下がった。だが台湾の住民に参政権はなく、総督府の命令に従う二級の臣民とされた。

きれいな下水道と、誘い出しての処刑。この二つは別々の事業ではなかった。一つの統治の表と裏である。後藤はこの八年半で、以後の全キャリアの型を作った。その型を、彼は次にもっと広い土地で使うことになる。

05満鉄 ― 大連の地図を描く

1906年、南満洲鉄道株式会社、略して満鉄が生まれた。日露戦争でロシアから得た鉄道と、その沿線の土地を運営する会社だ。本社は大連、資本金は2億円。当時の国の予算の約4割にあたる。後藤は49歳で、満鉄初代総裁になった。

やることは台湾と同じで、規模が違った。まず調べる。満鉄調査部を作り、満洲の地理、経済、民族、法制を調べ上げた。これはのちに、戦前日本で最大級の研究機関になる。次に都市を描く。大連はロシア時代の設計を引き継ぎ、放射状の道路と広場、下水道を整えた。長春も近代都市として設計した。鉄道の両側の「付属地」には、学校、病院、水道、電気、住宅を作った。撫順ぶじゅん炭鉱は日本最大級の露天掘りとなり、満鉄の財布になった。衛生官僚の経験から、満鉄病院と医学校も作った。

1908年、後藤は桂太郎内閣の逓信ていしん大臣として本土に戻り、満鉄総裁を退いた。ここで彼は、日本の鉄道の線路幅を広くする案を唱えた。世界標準の広い線路に統一しよう、という主張だ。原敬はらたかしらは「今の狭い線路のままで良い」と反対し、案は通らなかった。あまりに大きな話を広げる。人々はこれを「大風呂敷」と笑った。

だがこの男の風呂敷は、まだ広がりきっていなかった。一番大きな一枚は、15年後の東京で広げられる。

06東京市長、そして九月一日

1920年12月、63歳の後藤は東京市長になった。第一次大戦後の東京は人口がふくれ上がっていた。町は無秩序に広がり、水道が足りなかった。後藤は東京市政調査会を作った。アメリカの都市行政学者を招き、近代都市計画としけいかくの基礎を学んだ。そして8億円規模の東京改造案を出した。道路、水道、港、公営住宅。だが市会は反発し、財政も足りず、大半は通らなかった。1923年4月、後藤は市長を辞めた。

その4ヶ月後、1923年9月1日。関東大震災だいしんさいが東京を襲った。死者と行方不明者は約10万5千人、焼けた家は21万戸を超えた。翌9月2日、後藤は第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と、の総裁に任命された。66歳。「帝都ていと」とは、帝国の中心の都、つまり東京のことだ。

後藤のは、やはり大風呂敷だった。当初は約13億円、のちに30億円とも伝わる。中身はこうだ。幅44メートルの昭和通りしょうわどおりをはじめとする幹線道路。焼けた下町の私有地をいったん公有化し、区画を整理してから返す。隅田川と運河の一体整備。隅田公園・浜町公園・錦糸公園の三大公園。永代橋・清洲橋・言問橋ことといばしなど、燃えない鉄の復興橋梁。木造校舎が焼けた教訓から、小学校をコンクリートにする。

計画は削られた。内閣と大蔵省で約7億円に、議会を通るときには約3〜4億円にまで縮んだ。ら枢密顧問官、政友会、地主たちが反発したためだ。後藤は「小さくなったが骨格は残った」と語ったと伝わる。実際、昭和通り、靖国通り、三つの公園、隅田川の六つの橋、コンクリートの小学校群は、今も東京に残っている。

66歳の男は、一番大きな風呂敷を十分の一にたたまれた。この後に何をしたかが、あの墓碑銘につながる。

07人を残す

晩年の後藤が力を注いだのは、建物ではなかった。少年と、放送だった。

1922年、少年団日本連盟を作り、初代総長になった。イギリスのベーデン=パウエルが始めたボーイスカウト運動を、日本に持ち込んだものだ。軍国主義へ向かう時代のなかで、少年に自治じち、自立、奉仕の精神を育てようとした。今のである。その綱領として後藤が定めた言葉が、(じちさんけつ)だ。「人のお世話にならぬよう / 人のお世話をするよう / そして報いを求めぬよう」。

1926年には日本放送協会、NHKの初代総裁になった。放送を、国民を教え導く道具ではなく、市民の情報インフラにしようとした。東京市政調査会には、私財と遺産を注ぎ込んだ。今の後藤・安田記念東京都市研究所である。1900年の設立から関わった拓殖大学では、のちに学長も務めた。1923年にはソ連のヨッフェを招き、民間ルートで日ソの国交を開こうとした。震災と政変で頓挫したが、彼の粘りを示す出来事だった。

ここまで来ると、あの墓碑銘が読めるようになる。後藤は12歳で家の収入を失い、県庁の給仕として働いた。医学から公衆衛生に移り、一人の病人ではなく人の集まりを診るようになった。台湾でも満洲でも東京でも、まず調べ、土地を生き物として扱い、少しずつ増築した。そして彼の一番大きな計画は、いつも削られた。広い線路も、東京改造も、帝都復興も。

削られた事業の跡に、何が残ったか。後藤は、それを知っていた人だった。

よく人を残すは上、事業を残すはこれに次ぎ、金を残すは下なり。

— 京都駅で世を去った後藤の墓に刻まれた趣旨と同じ言葉。事業の人が、事業を二番目に置いた

ただし、この読み方には抜けがある。「人を残す」の人に、台湾の土匪は入っていたのか。誘い出されて処刑された数千人は、後藤の設計図のどこにいたのか。

08同じ設計図の表と裏 ― 功と罪を読む

後藤の台湾統治を「生物学的原則」という概念だけで称揚することはできない。調査主義の合理性と、植民地支配の暴力と強制が同じ設計図の上に描かれていた。衛生・インフラ整備と土匪誘殺は別の事業ではなく、一つの統治システムの表裏である。台湾の総督府民政長官時代は、後の全キャリアの原型であり、同時に歴史的評価がもっとも割れる時期でもある ― 台湾・韓国・中国の植民地史研究から日本国内の後藤再評価論まで、同じ史実を異なる重力で読む読解が併存している。児玉・後藤時代は後の台湾統治のモデルケースとなり、朝鮮・関東州・満洲の日本統治にも影響を与えた。

はその典型である。1897年の後藤建議に始まり、1900年代以降の吸食者数は登録制で逓減したが、専売益金は総督府財政の柱となり、漸禁の倫理的正当化と専売収益への依存が同居した。後藤の「生物学的原則」の典型例にして、植民地財政が先住者の依存に支えられた構図の象徴でもある。新渡戸稲造の招聘も同じ構造の中にある。札幌農学校卒の農学・植民政策学者は、1902年に技師長兼殖産局長心得として糖業改良意見書を起草し、キリスト教的良心と植民政策学を抱えたまま糖業の制度設計を引き受け、後年「植民」を学問として論じる立場の前線に立った。原住民(当時の呼称で「生蕃」)への理蕃政策も、武力討伐と同化教育を併用した。

満鉄経営もまた、台湾統治と同じ二重性を抱える。撫順炭鉱の開発と大連の都市整備は、中国東北部の資源と労働を日本の戦略目的に組織する装置でもあった。満鉄調査部の詳細な現地調査は、日本の大学・研究機関より大規模な調査能力を持ち、学問的価値の高い史料を残したが、同時に植民地経営の情報基盤として機能した。1930年代以降の満洲事変・満洲国建国の物質的条件を、後藤時代の満鉄が先行的に整えた側面は否定できない。「大連のロシア期都市計画を継承・拡張した」という一見穏当な記述の背後には、関東州租借という不平等条約の枠組みそのものがある。広軌改築論は後藤の「大風呂敷」の典型として批判されたが、後に新幹線計画の先駆としても評価される。

帝都復興についても同じ視線が要る。「帝都」という呼び方そのものが帝国の中心都市の再建という当時の認識を映しており、植民地統治の経験(台北・大連の都市計画)が東京の復興と地続きで動員された側面は記憶しておく必要がある。相馬事件の投獄経験が後藤の経歴に長く影を落とすと同時に、長与専斎・後藤庇護派の支援を可視化させたように、後藤の履歴は常に、制度の光と影を同じ場面で露出させる。

後藤はハコモノより人、制度より記憶、立派さより「残る」ことを、生涯のキーワードにした。水沢の医家に生まれ、衛生官僚として公衆衛生の制度設計を学んだ経験が、「目に見える立派な建物」より「目に見えない人と制度の新陳代謝」を重視する思考を作った。

後藤の没後、「後藤新平」の名は二つの方向に受け継がれた。第一に、都市計画・公共事業の系譜。東京市政調査会(現後藤・安田記念東京都市研究所)を拠点に、石川栄耀(戦後の東京都市計画)、高山英華(東京大学都市工学)、丹下健三(建築家)らが後藤のビジョンを戦後の都市再建に引き継いだ。戦災復興院(1945-49)の構想にも後藤の震災復興の経験が参照された。東京オリンピック(1964年)の首都高速・モノレール・新幹線整備は、後藤の広軌改築論と大風呂敷の系譜として読み直される。第二に、「人を残す」の系譜。少年団日本連盟(戦後のボーイスカウト日本連盟)、NHK、拓殖大学は今も活動を続け、年間数十万の青少年・学生に後藤の影響が滲む。震災復興における「人命と生活の再建」の優先順位は、戦後の防災計画・阪神淡路大震災・東日本大震災の復興で繰り返し呼び出される原則となった。

「大風呂敷」と呼ばれた後藤新平の構想の多くは、同時代には縮小・挫折した。しかしその縮小された結果が骨格として今日まで残っていること、そしてその方法(徹底調査→生物学的増築→人を残す)が時代を超えて反復される思考の型になっていることが、後藤が「百年先を見た男」と呼ばれる理由である。ただし、その「百年」の視野に台湾の誘殺と満洲の収奪が入っていないなら、それは視野ではなく死角の名前でもある。あなたが今日歩く昭和通りと隅田川の橋は、誰の「人を残す」の上に架かっているのか。

09主要な出来事と著作

  1. 陸奥国胆沢郡塩釜村(現岩手県奥州市水沢区)に生まれる。戊辰戦争で家は朝敵側に
  2. 12歳、胆沢県庁の給仕として奉公に出る
  3. 福島須賀川医学校入学、卒業。愛知県医学校医員へ
  4. 24歳、愛知病院長兼愛知医学校長
  5. 内務省衛生局に転じる。長与専斎の下で公衆衛生の制度設計
  6. ドイツ留学、ベルリン・ミュンヘンで衛生学とビスマルクの社会衛生政策を吸収
  7. 相馬事件で誣告罪により約5ヶ月勾留(後に無罪)
  8. 広島臨時陸軍検疫部事務官長、児玉源太郎の信頼を得る
  9. 台湾総督府民政長官。生物学的原則・旧慣調査・土地調査・衛生改革・樟脳と阿片漸禁・縦貫鉄道・新渡戸稲造招聘
  10. 南満洲鉄道株式会社(満鉄)初代総裁。満鉄調査部・大連長春都市計画・撫順炭鉱
  11. 桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁、広軌改築論
  12. 寺内内閣内相、外相。シベリア出兵問題に関与
  13. 東京市長。東京市政調査会設立、ビアード招聘、8億円東京市改造案
  14. 少年団日本連盟(後のボーイスカウト日本連盟)初代総長
  15. 9月1日関東大震災、9月2日第二次山本内閣内相兼帝都復興院総裁、復興7億円要求(議決は約3億円台に縮減)
  16. 日本放送協会(NHK)初代総裁
  17. 4月13日、京都帝国大学病院で没。享年73(満71)
  18. 東京市政調査会が後藤・安田記念東京都市研究所として現在まで活動。昭和通り・隅田公園・隅田川六大橋が震災復興の骨格として残る

残した思想の輪郭

  • 生物学的原則 ― 風土・慣習・制度は生き物、外から理想を接ぎ木しても死ぬ。徹底調査から始める増築主義
  • 衛生からの公共 ― 医学校出身の公衆衛生官僚として「人口集団を管理する制度」の思考を日本に根付かせた
  • 大風呂敷 ― 満鉄広軌・帝都復興30億円・都市計画。同時代には嘲笑されたが縮小された結果が今日の骨格として残る
  • 調査主義 ― 臨時台湾旧慣調査会、満鉄調査部、東京市政調査会。決断の前に徹底調査の制度を置く
  • 人を残す ― 財・事業・人の三つの遺産の序列。ハコモノより人材、制度より記憶
  • 台湾統治の両面性 ― 衛生・インフラ整備の合理性と、土匪討伐の植民地支配の暴力の同居、評価の割れる履歴
  • 自治三訣 ― 人のお世話にならぬよう、お世話をするよう、報いを求めぬよう。少年団の綱領として今も生き続ける
昭和4年(1929年)4月13日、岡山で講演旅行中に脳溢血で倒れ、京都駅で息を引き取った。73歳。葬儀は4月17日に青山斎場で、青山霊園に埋葬。生前に自筆で手配した墓碑銘は「財産を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」。

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生きた跡を辿るPlaces

後藤新平が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 後藤新平記念館記念館

    奥州市(岩手県), 日本

    生誕地・水沢にある記念館。幼少期から台湾総督府民政長官・南満州鉄道総裁・東京市長・逓信相まで、生涯の資料を展示

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