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実践の知

後藤新平

Gotō Shinpei·1857–1929·日本·

都市を設計するとは、 人の生物学を設計することか?

医学校出の衛生局官僚から台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市長、震災復興院総裁まで、「生物学的原則」を掲げて近代日本の都市と制度を設計した「大風呂敷」の大構想家

  • 都市計画
  • 満鉄
  • 関東大震災復興
  • 台湾統治
  • 生物学的原則

時代の空気

戊辰戦争で朝敵側に立った旧仙台藩水沢の家に生まれた者の世代だ。幕府は瓦解し、武士の家は「賊軍」の烙印を背負った。明治政府は近代医学・公衆衛生・鉄道・植民地行政を一気に立ち上げ、敗者の家の少年にも医学校と内務省への道が開かれていた。日清戦争後の台湾割譲、日露戦争後の満洲経営、第一次大戦後の都市膨張、関東大震災——帝国の膨張と災害が同じ世代の履歴を貫いた。ベルリンで吸ったビスマルクの社会衛生政策の空気が、植民地と帝都を同じ設計図で考える官僚を作った。

01水沢の医学生、内務省衛生局

安政4年(1857年)6月4日、陸奥国胆沢郡いさわぐん塩釜村(現岩手県奥州市水沢区)に生まれた。父後藤実崇(さねたか)は水沢伊達氏の家臣、幼名新平。水沢は仙台藩の支藩格の家中で、戊辰戦争(1868)では奥羽越列藩同盟に与し、新平の家もまた敗者・朝敵ちょうてき側の家として明治を迎えた。家禄は失われ、12歳で胆沢県庁の給仕となる ― 幼い英才の奉公はそのまま家計の再建だった。

幕末の水沢は蘭学・医学の気風が強く、近親に医師・蘭学者が多かった。胆沢県令格の安場保和(旧肥後藩士)の知遇を得て、明治5年(1872)、15歳で福島須賀川すかがわ医学校に入学。明治9年(1876)に卒業、愛知県医学校(現名古屋大学医学部)に赴任、明治14年(1881)、24歳で愛知病院長兼愛知医学校長に昇進した。ここで青年板垣退助の岐阜遭難(1882)を治療したと伝わる。20代前半で県立病院長――敗者の家から開明期の地方医療行政へ、明治国家の急増する人材需要が一人の少年を引き上げた。

明治16年(1883年)、後藤は内務省衛生局に転じた。局長は長与専斎(ながよせんさい、適塾出身、福沢諭吉の後輩)。明治日本に「衛生」(hygiene)の概念を持ち込み、保健所・検疫けんえき・上下水道・伝染病対策の制度設計を担う中枢である。後藤はここで、医学から公共の制度設計へと越境した。個別患者の治療ではなく、人口集団を管理する「公衆衛生」の思考を身につけた。

明治23-25年(1890-92)、後藤はベルリンに留学した。ミュンヘン大学のペッテンコーフェルに衛生工学を、ベルリンでコッホ系の細菌学とビスマルクの社会衛生政策(疾病保険・労災保険の制度設計)を学んだ。帰国直前の明治26年(1893)、旧相馬藩主の精神病鑑定をめぐる相馬そうま事件に巻き込まれ、誣告罪で約5ヶ月勾留された(後に無罪確定)。投獄経験は後藤の経歴に長く影を落としたが、同時に長与専斎・後藤庇護派の支援を可視化させた。明治28年(1895)、日清戦争の終結とともに復職、広島の臨時陸軍検疫部事務官長として帰還将兵23万人の検疫けんえきを3ヶ月で完了させ、児玉源太郎(検疫部長)の信頼を得た。後藤の名前はここから帝国全体に知られるようになる。

02台湾総督府民政長官 ― 生物学的原則

明治31年(1898年)、児玉源太郎(第4代台湾総督)が後藤を台湾総督府民政長官みんせいちょうかん(当時の正式名称は民政局長、後に民政長官)に指名した。後藤41歳。以後明治39年(1906年)まで8年半、台湾統治の実務の全権を握った。児玉は軍人・政治家として後方にあり、現場は後藤が動かした実質的な構造だった。

後藤の台湾統治の方法論は、「生物学的原則」(biologisches Prinzip)と呼ばれる。

  • 原則1: 台湾の風土・慣習・制度は、何千年もかけてその土地に適応してきた「生物」のようなもの。外から理想の制度を接ぎ木しても根付かず、かえって死ぬ
  • 原則2: まず現地調査(土地・人口・慣習・言語・産業)を徹底し、現実の骨格を把握する
  • 原則3: 現地の強みを活かす方向で制度を増築する。いきなり全面改造はしない
  • 原則4: 衛生・土地・交通・教育の基礎インフラから手をつけ、その上で産業を育てる

具体的には、

  • 臨時台湾旧慣調査会(明治34年、1901) ― 清朝時代の法・慣習を網羅的に調査、岡松参太郎(京大教授)らが中心
  • 臨時台湾土地調査局 ― 土地の所有権を徹底調査し、大租権・小租権の複雑な権利関係を整理、近代的な土地登記制度を導入
  • 衛生改革 ― ペスト・マラリア対策、上下水道、検疫。台北の下水道と水道は明治後期の日本本土よりも先進的に整備された
  • 阿片あへん漸禁ぜんきん政策 ― 一気に禁止せず、登録吸食者制・専売特許制で吸食者を漸減させる。明治30年(1897)後藤建議。1900年代以降の吸食者数は登録制で逓減したが、専売益金は総督府財政の柱となり、漸禁の倫理的正当化と専売収益への依存が同居した。後藤の「生物学的原則」の典型例にして、植民地財政が先住者の依存に支えられた構図の象徴
  • 樟脳・砂糖・塩の専売 ― 財政基盤の確立。台湾総督府財政は数年で自立化
  • 縦貫鉄道(基隆-高雄) ― 明治41年(1908)全通、台湾の動脈を完成
  • 新渡戸稲造の招聘(明治34年、1901) ― 札幌農学校卒の農学・植民政策学者(『武士道』英文初版1900の著者)を技師として招き、明治35年(1902)技師長兼殖産局長心得・糖業改良意見書を起草、台湾糖業の近代化計画を主導。新渡戸はキリスト教的良心と植民政策学を抱えたまま糖業の制度設計を引き受け、後年「植民」を学問として論じる立場の前線に立つ
  • 児玉・後藤時代は後の台湾統治のモデルケースとなり、朝鮮・関東州・満洲の日本統治にも影響を与えた

この統治方針を支えたのは、軍事的鎮圧と戸籍による包摂の両輪だった。1898-1902年の土匪招降策・討伐では、「帰順した者は許す」と公言しつつ、後に集団処刑を行なう誘殺事件(1902年斗六事件など)が複数発生し、死者は数千人規模と各種の日本側・台湾側史料で推計される(具体数は史料・立場により幅がある)。原住民(当時の呼称で「生蕃」)への理蕃政策も武力討伐と同化教育を併用した。衛生改革で乳幼児死亡率が下がり、土地調査で所有権が近代化される一方、植民地住民は参政権を持たず、総督府の命令に服従する二級の臣民として構造化された。

後藤の台湾統治を「生物学的原則」という概念だけで称揚することはできない。調査主義の合理性と、植民地支配の暴力と強制が同じ設計図の上に描かれていた。衛生・インフラ整備と土匪誘殺は別の事業ではなく、一つの統治システムの表裏である。台湾の総督府民政長官時代は、後の全キャリアの原型であり、同時に歴史的評価がもっとも割れる時期でもある ― 台湾・韓国・中国の植民地史研究から日本国内の後藤再評価論まで、同じ史実を異なる重力で読む読解が併存している。

03満鉄初代総裁 ― 鉄道と都市

明治39年(1906年)、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立され、後藤は初代総裁に就任(49歳)。日露戦争(1904-05)で日本がロシアから獲得した東清鉄道南満洲支線と付属地を、株式会社として運営する組織である。本社は大連、資本金2億円(当時国家予算の約4割)。

後藤の満鉄経営は、台湾での「生物学的原則」をさらに大規模に展開したものだった。

  • 調査主義 ― 満鉄調査部(のちの満鉄調査部、戦前日本最大級のシンクタンク)を発足させ、満洲の地理・経済・民族・法制を徹底調査。日本の大学・研究機関より大規模な調査能力を持った
  • 大連・長春の都市計画 ― 大連は後藤時代にロシア時代の都市計画を引き継ぎつつ拡張、放射状街路・広場・下水道を整備。長春(新京)も同様に近代都市として設計
  • 付属地経営 ― 鉄道両側の「付属地」に学校・病院・上水道・電気・住宅を整備し、事実上の植民地行政体を運営
  • 撫順炭鉱 ― 日本最大級の露天掘り炭鉱として開発、満鉄の財政基盤に
  • 満鉄病院・医学校 ― 衛生官僚としての経験を活かし、満鉄職員と現地住民向けの医療体制を整備

後藤は明治41年(1908年)、桂太郎内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁として本土に戻り、満鉄総裁を退任。日本の鉄道広軌改築構想(標準軌への統一)を唱えたが、原敬らの狭軌維持論に阻まれた。この広軌改築論は後藤の「大風呂敷」の典型として批判されたが、後に新幹線計画の先駆としても評価される。

満鉄経営もまた、台湾統治と同じ二重性を抱える。撫順炭鉱の開発と大連の都市整備は、中国東北部の資源と労働を日本の戦略目的に組織する装置でもあった。満鉄調査部の詳細な現地調査は、学問的価値の高い史料を残したが、同時に植民地経営の情報基盤として機能した。1930年代以降の満洲事変・満洲国建国の物質的条件を、後藤時代の満鉄が先行的に整えた側面は否定できない。「大連のロシア期都市計画を継承・拡張した」という一見穏当な記述の背後には、関東州租借という不平等条約の枠組みそのものがある。

04東京市長と関東大震災復興 ― 帝都復興の大風呂敷

大正9年(1920年)12月、後藤は東京市長(当時東京市は15区の範囲、東京府とは別組織)に就任(63歳)。東京は第一次大戦後の人口膨張と市街地の無秩序な拡張、上下水道の不足に悩んでいた。後藤は東京市政調査会(現在の後藤・安田記念東京都市研究所)を設立、米国の都市行政学者チャールズ・ビアード(コロンビア大教授)を招聘して、近代都市計画としけいかくの基礎を学ぶ。任期中、後藤は8億円規模の東京市改造案(街路・水道・港湾・公営住宅)を提起したが、市会の反発と財政難で大半は議決に至らなかった。大正12年(1923)4月、市長を辞任。

その4ヶ月後の大正12年(1923年)9月1日、関東大震災だいしんさい。死者・行方不明者約10万5千人、焼失家屋21万戸超。震災翌日の9月2日、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣兼帝都ていと復興院ふっこういん総裁に任命された(66歳)。

後藤のは破格の構想だった。当初要求は約13億円・後に30億円構想とも伝わるが、内閣・大蔵省で約7億円規模に圧縮され、最終的に議会通過時には約3-4億円規模(復興事業の総予算は内務省・東京市・東京府の合算で広義7億円台に達する)まで縮減された。内容は:

  • 幹線道路の新設 ― 幅員約44メートルの昭和通りしょうわどおり、靖国通り、外苑東通りの原型
  • 震災地の区画整理 ― 焼失した下町(浅草・本所・深川)の私有地を一度公有化し、再区画後に所有権を返却する大胆な手法
  • 運河・港湾の整備 ― 隅田川・荒川放水路との一体整備
  • 復興三大公園 ― 隅田公園・浜町公園・錦糸公園
  • 復興橋梁 ― 永代橋・清洲橋・言問橋ことといばしなど隅田川六大橋を含む鉄筋・鋼鉄構造の不燃橋梁群
  • 学校の不燃化 ― 震災で木造校舎が焼失した教訓から、小学校の鉄筋コンクリート化(復興小学校)

縮減は伊東巳代治(枢密顧問官)・政友会・地主層の反発によるもので、後藤は「小さくなったが骨格は残った」と語ったと伝わる。実際、昭和通り・靖国通り・隅田公園・浜町公園・錦糸公園・隅田川六大橋・コンクリート造小学校群は、後藤の大風呂敷が縮小してなお遺したものである。「帝都ていと」という呼び方そのものが帝国の中心都市の再建という当時の認識を映しており、植民地統治の経験(台北・大連の都市計画)が東京の復興と地続きで動員された側面は記憶しておく必要がある。

よく人を残すは上、事業を残すはこれに次ぎ、金を残すは下なり。

後藤新平の座右の銘として広く流布、出典は後年の伝記類に由来(自筆色紙・講演録への言及は確認可能、一次史料での定式化は未確定)

05少年団・放送・ボーイスカウト ― 人を残す

後藤の晩年の仕事の軸は、「人を残す」に集約される。公共事業・制度設計の仕事のかたわら、後藤が最後に力を注いだのが、少年教育と民間放送だった。

  • 少年団日本連盟(大正11年、1922) ― 英国ベーデン=パウエルのボーイスカウト運動を日本に導入。初代総長として、軍国主義化する時代のなかで青少年の自治じち・自立・奉仕の精神を育てる(後の「」)
  • 日本放送協会(NHK)(大正15年、1926) ― 初代総裁。放送を「国民教化の手段」ではなく、「市民の情報インフラ」として位置づけようとした。開局時のラジオ放送普及に心血を注ぐ
  • 東京市政調査会(大正11年、1922) ― 現在の後藤・安田記念東京都市研究所。都市計画・行政・財政の調査研究機関として、私財と遺産を注ぎ込んで設立
  • 拓殖大学(明治33年、1900年設立時から関与、後に学長) ― 海外発展を志す青年の育成機関
  • 自治三訣 ― 「人のお世話にならぬよう / 人のお世話をするよう / そして報いを求めぬよう」― 少年団日本連盟の綱領として後藤が定式化

ソ連・ヨッフェ招聘(大正12年、1923)は、日ソ国交樹立交渉の民間外交ルートとして後藤が仕掛けた。関東大震災直前のこの工作は、震災と政変で頓挫したが、後藤の民間外交への執着を示している。

後藤はハコモノより人、制度より記憶、立派さより「残る」ことを、生涯のキーワードにした。水沢の医家に生まれ、衛生官僚として公衆衛生の制度設計を学んだ経験が、「目に見える立派な建物」より「目に見えない人と制度の新陳代謝」を重視する思考を作った。

06昭和4年、京都駅の死 ― 都市計画の日本化

昭和4年(1929年)4月4日、後藤は岡山で講演中に脳溢血で倒れた。満71歳(数え年73、本稿の他箇所は数え年表記に統一)。意識のないまま京都に搬送され、4月13日、京都駅で息を引き取った。東京までの列車移動を家族が断念した結果の京都駅死である。

葬儀は4月17日に青山斎場、青山霊園に埋葬。生前に自筆で残した墓碑銘は「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」(語順・字句は諸説)。この言葉は今日、後藤の座右の銘として最も広く知られる。伝記・講演録・色紙への言及は確認できるが、どの場面で最初に定式化されたかには諸説ある。

後藤の没後、「後藤新平」の名は二つの方向に受け継がれた。

第一に、都市計画・公共事業の系譜。東京市政調査会(現後藤・安田記念東京都市研究所)を拠点に、石川栄耀(戦後の東京都市計画)、高山英華(東京大学都市工学)、丹下健三(建築家)らが後藤のビジョンを戦後の都市再建に引き継いだ。戦災復興院(1945-49)の構想にも後藤の震災復興の経験が参照された。東京オリンピック(1964年)の首都高速・モノレール・新幹線整備は、後藤の広軌改築論と大風呂敷の系譜として読み直される。

第二に、「人を残す」の系譜。少年団日本連盟(戦後のボーイスカウト日本連盟)、NHK、拓殖大学は今も活動を続け、年間数十万の青少年・学生に後藤の影響が滲む。震災復興における「人命と生活の再建」の優先順位は、戦後の防災計画・阪神淡路大震災・東日本大震災の復興で繰り返し呼び出される原則となった。

「大風呂敷」と呼ばれた後藤新平の構想の多くは、同時代には縮小・挫折した。しかしその縮小された結果が骨格として今日まで残っていること、そしてその方法(徹底調査→生物学的増築→人を残す)が時代を超えて反復される思考の型になっていることが、後藤が「百年先を見た男」と呼ばれる理由である。

07主要な出来事と著作

  1. 陸奥国胆沢郡塩釜村(現岩手県奥州市水沢区)に生まれる。戊辰戦争で家は朝敵側に
  2. 12歳、胆沢県庁の給仕として奉公に出る
  3. 福島須賀川医学校入学、卒業。愛知県医学校医員へ
  4. 24歳、愛知病院長兼愛知医学校長
  5. 内務省衛生局に転じる。長与専斎の下で公衆衛生の制度設計
  6. ドイツ留学、ベルリン・ミュンヘンで衛生学とビスマルクの社会衛生政策を吸収
  7. 相馬事件で誣告罪により約5ヶ月勾留(後に無罪)
  8. 広島臨時陸軍検疫部事務官長、児玉源太郎の信頼を得る
  9. 台湾総督府民政長官。生物学的原則・旧慣調査・土地調査・衛生改革・樟脳と阿片漸禁・縦貫鉄道・新渡戸稲造招聘
  10. 南満洲鉄道株式会社(満鉄)初代総裁。満鉄調査部・大連長春都市計画・撫順炭鉱
  11. 桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁、広軌改築論
  12. 寺内内閣内相、外相。シベリア出兵問題に関与
  13. 東京市長。東京市政調査会設立、ビアード招聘、8億円東京市改造案
  14. 少年団日本連盟(後のボーイスカウト日本連盟)初代総長
  15. 9月1日関東大震災、9月2日第二次山本内閣内相兼帝都復興院総裁、復興7億円要求(議決は約3億円台に縮減)
  16. 日本放送協会(NHK)初代総裁
  17. 4月13日、京都帝国大学病院で没。享年73(満71)
  18. 東京市政調査会が後藤・安田記念東京都市研究所として現在まで活動。昭和通り・隅田公園・隅田川六大橋が震災復興の骨格として残る

残した思想の輪郭

  • 生物学的原則 ― 風土・慣習・制度は生き物、外から理想を接ぎ木しても死ぬ。徹底調査から始める増築主義
  • 衛生からの公共 ― 医学校出身の公衆衛生官僚として「人口集団を管理する制度」の思考を日本に根付かせた
  • 大風呂敷 ― 満鉄広軌・帝都復興30億円・都市計画。同時代には嘲笑されたが縮小された結果が今日の骨格として残る
  • 調査主義 ― 臨時台湾旧慣調査会、満鉄調査部、東京市政調査会。決断の前に徹底調査の制度を置く
  • 人を残す ― 財・事業・人の三つの遺産の序列。ハコモノより人材、制度より記憶
  • 台湾統治の両面性 ― 衛生・インフラ整備の合理性と、土匪討伐の植民地支配の暴力の同居、評価の割れる履歴
  • ― 人のお世話にならぬよう、お世話をするよう、報いを求めぬよう。少年団の綱領として今も生き続ける
昭和4年(1929年)4月13日、岡山で講演旅行中に脳溢血で倒れ、京都駅で息を引き取った。73歳。葬儀は4月17日に青山斎場で、青山霊園に埋葬。生前に自筆で手配した墓碑銘は「財産を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

後藤新平が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 後藤新平記念館記念館

    奥州市(岩手県), 日本

    生誕地・水沢にある記念館。幼少期から台湾総督府民政長官・南満州鉄道総裁・東京市長・逓信相まで、生涯の資料を展示

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