レオナルド・ダ・ヴィンチ
一人の人間に、 どこまで世界を映せるか?
絵画・解剖・水流・機械を同じ一冊のノートに書き込み続けた、ルネサンスの観察と設計の人
- 万能人
- 最後の晩餐
- モナ・リザ
- 手稿
- 解剖学
時代の空気
クアトロチェント末から十六世紀初頭、イタリアは小さな国家の連合だった。フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇庁、ナポリ王国——それぞれが文人と職人を抱え、競い合うように工房と宮廷を肥やしていた。古代の発掘と人文主義はラテン語と俗語の境界を揺らし、解剖と遠近法と建築論が同じ熱で語られていた。一四九四年シャルル八世のイタリア侵攻がこの均衡を断ち切り、半島は六十五年に及ぶ戦争に投げ込まれる。フィレンツェではサヴォナローラの焼却処刑(一四九八)、印刷術が知の流通を変え、宮廷と工房の庇護がそのまま芸術家の生活線だった時代だ。
01ヴィンチ村の私生児、ヴェロッキオの工房
1452年4月15日、トスカーナの丘陵地ヴィンチ村で、フィレンツェの公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチの庶子として生まれた。母カテリーナは近隣の農民の娘と長く考えられてきたが、近年公開されたピエロ自筆の納税記録は彼女が当時フィレンツェで使役されていた女性であった可能性を示し、北アフリカや東欧から運ばれた被使役者の出自であった可能性を指摘する研究もある(ヴェッツォージ、カプリッリらの所蔵史料解読、二〇二〇年代以降)。確証は出ておらず、ここでは「庶子で、母の出自は史料の薄闇のなかにある」とだけ書いておく。
レオナルドは「da Vinci」、すなわち「ヴィンチ村の」としてしか姓を持たない。庶子という身分は大学での正規教育と、法律家・医師など父の職域への進路を閉ざしたが、皮肉にもこの閉鎖が彼を「書物の人(letterato)」ではなく「経験の弟子(discepolo della esperienza)」として出発させることになる。彼は晩年まで自らをと書き続け、ラテン語の読み書きを独学で粗くしか習得しなかった。
14歳頃、父に連れられフィレンツェのアンドレア・デル・に入った。ヴェロッキオは彫刻・金工・絵画を兼ねる当代最高の親方で、工房はサンドロ・ボッティチェッリ、ペルジーノらを輩出した。徒弟は顔料の磨り合わせ、下絵の転写、人体解剖の観察から始める。レオナルドが師の『キリストの洗礼』(1472頃)の左下の天使を描いたとき、ヴェロッキオは以後絵筆を置いたと伝わる(ヴァザーリ『美術家列伝』の伝承、実証は薄いが工房内の評価の急上昇は書類でも追える)。
1472年、20歳でフィレンツェの画家組合サン・ルカに登録。一人前の親方となった後も、彼は工房を出ることを急がず、解剖・機械・水理の書き込みを始める。ノートブックは以後の生涯を通じて彼の本体であり続ける。
02ミラノへ──スフォルツァ家の17年
1482年、30歳でミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ、「黒貂公」)に自薦状を送り、宮廷へ移った。この手紙には有名な10項目の売り込みがある。戦時には橋・攻城機械・大砲・戦車を設計でき、平時には建築・彫刻・絵画も手がける、と。列挙された順は「軍事土木技師 > 民生技師 > 芸術家」で、当時のレオナルドが自分を何者と定義していたかが見える。実態としても、彼の生活はミラノ大聖堂中央塔の設計競技、運河網の改修案、要塞図など宮廷工兵としての仕事に支えられており、絵画はその合間の主題だった。
ミラノでの最大の絵画仕事が、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂の(1495-98)である。彼は伝統のフレスコ技法(下塗り漆喰に素早く描き込む)を捨て、乾いた壁に油彩とテンペラを重ねる実験的手法を採った。絵は完成数年で剥落が始まり、現在まで何度も修復された。しかし「あなたたちのうち一人が私を裏切る」の瞬間、十二使徒それぞれが身振りで反応する構成は、宗教絵画の型を「運動する心のドラマ」へ書き換えた。
同時期、フランチェスコ・スフォルツァの巨大騎馬像の粘土原型(1493、高さ7メートル超)を完成、青銅鋳造を準備したが、1499年フランス侵攻でブロンズは大砲鋳造に転用され、粘土原型はフランス兵の射撃練習で破壊された。完成していれば史上最大の騎馬像だった。未完のテーマが、以後レオナルドの生涯を貫く——彼の手稿と作品リストを並べると、完成作よりも放棄された下絵と未鋳造の原型のほうがはるかに多い。
ミラノ滞在の終わり頃、彼はミラノ郊外の岩山を背景にした祭壇画を依頼主との報酬紛争のなかで二度描き直し、また(1490頃)を素描として残す。同時に解剖学に本格的に着手し、病院で遺体を観察し、筋肉・骨格・胎児・心臓の弁まで描いた。一冊のノートに解剖図とと水の渦が同居するこの混沌こそが、レオナルド的思考の現場である。
03フィレンツェ再び──モナ・リザと戦争の絵
1499年、フランス軍のミラノ侵攻で庇護者スフォルツァが失脚、レオナルドはマントヴァ・ヴェネツィアを経て故郷フィレンツェへ戻る。ここで彼は二つの大きな注文を受けた。
ひとつは1503年頃からの(ジョコンダ)──フィレンツェの絹商人ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像。レオナルドは完成まで十数年かけ、結局注文主に渡さずアンボワーズまで持ち続けた。(煙のように、輪郭を溶かす暈し技法)で口角と目尻の不確定領域を作り、表情を観る者の心に揺らがせる。背景の岩山と蛇行する川は、彼の地質学・水理学のノートと一体であり、肖像画と自然学が同じ一枚に結ばれている。
もうひとつがフィレンツェ評議会大広間の『アンギアーリの戦い』(1503-05)である。同じ広間の反対側にはミケランジェロ『カッシナの戦い』が並走して下絵を描いていた。年長(当時51歳)のレオナルドと若き(28歳)ミケランジェロの美学的対立──運動と静謐、衣服の襞と裸体の力、観察と彫刻──が、同じ壁のために並んで下絵として残った(いずれも壁画本体は完成せず、模写と素描で伝わる)。
この時期、彼はまたとしても雇われた(1502-03)。ロマーニャ地方を測量し、城塞・運河・攻城機械を設計し、当時ボルジアを観察使節として見ていたマキャヴェッリと現地で並走した。マキャヴェッリが『君主論』で描く政治のリアリズムと、レオナルドが手稿に書く機械のリアリズムは、同じ年の同じ中部イタリアの現場で並走していた。
04手稿──七千枚の観察日記
1506年、彼は再びミラノ(今度はフランス支配下、シャルル・ダンボワーズ総督の招き)へ、さらに1513年ローマのメディチ家(教皇レオ十世、その弟ジュリアーノ)の庇護下へ移る。ローマではミケランジェロがシスティーナ天井画(1508-12)を終え、ラファエロが教皇宮に『アテナイの学堂』を描いており、レオナルドの居場所は徐々に狭くなっていた。
その間、彼は手稿の執筆を加速させる。(約1,119葉、機械と建築が中心、現アンブロジアーナ図書館)、ウィンザー手稿(と肖像、英王室コレクション)、(現大英図書館)、パリ手稿A-M(フランス学士院)、マドリッド手稿、ハマー手稿(水の運動、現ビル・ゲイツ所蔵)、『絵画論』の元となる断片群──現存するだけで七千枚超、失われたものを含めれば倍に達すると推定される。
ノートの特徴は鏡文字(右から左へ、文字の左右が反転した書き方)である。左利きだったための自然な書き方とも、秘匿のためとも言われる。真相は不明だが、結果として彼の手稿は生前ほとんど流通せず、死後も長らく読まれなかった。
主題の広さは常識を超える。解剖では30体以上の遺体を解剖し、心臓の弁膜、胎児、頭蓋骨、筋肉を詳細に描いた。とくに心臓の渦流の水彩素描(1513頃)は、水のガラス槽での実験と組み合わせて、血液の弁での逆流防止機構を500年先取りした。では鳥の翼の運動を観察してオーニソプター(羽ばたき機)を構想し、空気の力学を作図で詰めた。水理では洪水の渦と流速分布、光学ではカメラ・オブスクラの原理、地質では貝化石から山地の生成を推定するテーゼ(聖書の大洪水を否定する方向)まで踏み込む。
この多領域の横断は、単なる好奇心の雑多さではない。彼にとって「観察された経験」が唯一の知の基盤であり、絵画はその観察を記述する究極の道具だった。『絵画論』草稿の中で彼は「絵画は科学である、自然の裡の原因を理解せずに結果だけを描くことは偽りである」と書く。
05フランスへ──王者の友として死ぬ
1516年、64歳のレオナルドはフランス王フランソワ1世の招きでアンボワーズ近郊のクロ・リュセに移住した。王は年金を保証し、「我が父」と呼んで尊敬した。レオナルドは完成しなかった『』『洗礼者ヨハネ』『聖アンナと聖母子』の三点と、膨大なノートを携えていた。
右手の麻痺で絵筆は取れなくなっていたが、左手で書き続けた。身辺には二人の長年の伴侶がいた。──サライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ、1490年に十歳で工房入り)はレオナルドが「盗み・嘘・強情」と手稿に書きとめた癖を持ちながら三十年近く同居した助手で、若き日の素描の多くで美少年のモデルとなった。フランチェスコ・メルツィ(1491-1570)は1506年頃ミラノ貴族の子として従い、相続人として手稿の整理と『絵画論』の編纂(1540年代)を引き受け、レオナルドの絵画論の核を後世へ手渡す最初の編者となる。両者との関係は性愛を含むものであった可能性を含めて長く議論されてきたが、史料は同居・贈与・遺贈の事実までしか確証せず、「身近な男性たちと暮らした生涯独身の人」と書ける範囲を超えない。
1519年5月2日、レオナルドはクロ・リュセで死去した。伝承ではフランソワ1世が彼の腕の中で看取ったとされるが、当日王はサン=ジェルマン=アン=レに居り、物理的には不可能である。しかし王者の友として死ぬ芸術家という図像は、芸術家の社会的地位についてのルネサンスの宣言となった。遺言で手稿と未完の絵はメルツィに、葡萄畑と金銭の一部はサライに、邸宅の家財と衣服は身近な使用人と兄弟へ、慎重に分けられた。
06観察と設計の哲学者──未完を抱えた万能人
レオナルドは体系的な哲学書を残さなかった。『絵画論』も断片的なノートの集積である。にもかかわらず、彼は西洋思想史に三つの持続的な問いを残した。
第一に、経験主義の先駆。彼は「経験こそが私の女主人」と書き、書物の権威(アリストテレス、ガレノス)より自分の目の観察を信じた。これはアリストテレス的解剖学の教科書を書き換えたヴェサリウス、望遠鏡の観察で天動説を覆したガリレオへと直系で流れる。
第二に、諸学の統一。彼は絵画を「諸学の頂点」と位置づけ、数学・解剖・光学・流体・機械を一つのノートにまとめた。これは後のデカルトの「諸学の統一」という理想の、非体系的な原型である。ただし、レオナルドは体系化を拒み、断片のままに置いた。この「未完への親和」が近代的体系と決定的に違う。
第三に、芸術家の尊厳。中世では絵画は「機械的技芸」、詩や文法の下位にあった。レオナルドは絵画を「科学(scientia)」と位置づけ、画家を「自然の哲学者」とした。これは後のパラゴーネ論争(詩と絵画の優劣論)と、芸術家の知的地位の近代化の起点である。
しかし「万能人(homo universalis)」の像を盲信するのは、彼の生涯に対して誠実ではない。彼は庶子としてアカデミックな進路を閉ざされ、ラテン語を最後まで完全に読めず、生活の大半をスフォルツァ家・ボルジア・教皇レオ十世・フランス王というパトロンの支給に依存し、騎馬像も二枚の壁画も飛行機械もそのほとんどを未完のまま残した。「分けられる前の世界を一度に見てしまう目」とは、同時に、どの一つも完成へ追い切らない目でもあった。万能人とは何でもできた人ではなく、何でも見ようとしてその重さに身を貸した人——本書ではこのレオナルドを、芸術家でも哲学者でもなく、「観察と設計の哲学者」と呼びたい。彼の像は、近代の専門分化が確定する直前にだけ可能だった、最後の輝きでもある。
07主要な出来事と著作
- ヴィンチ村に公証人セル・ピエロの庶子として誕生(母カテリーナ、出自は史料の薄闇に)
- フィレンツェ、ヴェロッキオ工房へ徒弟入り(ボッティチェッリらと同期)
- 画家組合サン・ルカに親方登録
- ミラノ、スフォルツァ家宮廷へ(自薦状10項目、軍事工兵を筆頭)
- 『ウィトルウィウス的人間』素描
- 『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ食堂、技法実験で剥落始まる)
- フランス侵攻でミラノを離れフィレンツェへ。スフォルツァ騎馬像粘土原型は破壊される
- チェーザレ・ボルジアの軍事土木技師、マキャヴェッリと並走しロマーニャ測量
- 『アンギアーリの戦い』(ミケランジェロ『カッシナ』と並走)、『モナ・リザ』着手
- ミラノ再渡(シャルル・ダンボワーズの招き)、解剖学研究を加速
- ローマへ、メディチ家教皇レオ十世の庇護
- フランス王フランソワ一世に招かれアンボワーズ近郊クロ・リュセへ
- クロ・リュセで死去。享年67、手稿はメルツィに、葡萄畑等はサライに遺贈
- 弟子メルツィが『絵画論』を編纂
残した思想の輪郭
- 経験の弟子(discepolo della esperienza) ─ 書物の権威より観察、ヴェサリウス・ガリレオへの先駆
- 絵画=諸学の頂点 ─ 絵画を科学と位置づけ、芸術家の知的地位を上げる
- ─ 輪郭を溶かし、表情を観る者に委ねる暈し技法
- 解剖・流体・光学・飛行の統一 ─ 分化前の知の姿、一冊のノートに全てを書き込む
- 未完への親和 ─ 体系化を拒み断片のままに置く、近代体系と対をなす姿勢
- 鏡文字の手稿 ─ 七千枚超、生前未流通、近代以降に発見されていく知の地層
- 万能人(homo universalis)の実例 ─ ルネサンス最後の輝きとしての思想像、同時にパトロン依存と未完を背負った situated human
- (omo sanza lettere) ─ 庶子・独学者としての自称、書物より目を選ぶ宣言
つながり
- ミケランジェロ・ブオナローティ
対比 — フィレンツェ評議会大広間の『アンギアーリの戦い』(レオナルド)と『カッシナの戦い』(ミケランジェロ)の並置注文(1503-05)、年長の万能人と若き彫刻家の美学的対立(ヴァザーリ『美術家列伝』)
- アルブレヒト・デューラー
共鳴 — 人体比例と透視法の研究方向が並行(レオナルドの『ウィトルウィウス的人間』1490頃、デューラーの人体比例研究1506-1528)。第二次ヴェネツィア滞在時の間接的影響は推定されるが直接会見の史料はなく、写本・版画経由の吸収として読む
さらに読むならFurther Reading
レオナルド・ダ・ヴィンチの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上・下)
レオナルド・ダ・ヴィンチ / 訳: 杉浦明平 / 岩波文庫
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Leonardo da Vinci / 訳: Edward MacCurdy / Konecky & Konecky
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生きた跡を辿るPlaces
レオナルド・ダ・ヴィンチが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン=テュベール礼拝堂(アンボワーズ城)墓所
アンボワーズ, フランス
1519年没、1863年に現在の小礼拝堂へ移された花崗岩の墓。ブロンズのメダイヨンが肖像を伝える
- クロ・リュセ住居
アンボワーズ, フランス
晩年の3年間、フランソワ1世の招きで暮らした邸宅。書斎・寝室・発明模型が復元された博物館
さらに辿るならExternal References
レオナルド・ダ・ヴィンチを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「レオナルド・ダ・ヴィンチ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Leonardo da Vinci"
公式EnglishMuseo Leonardiano di Vinci 公式サイト(英語)
生地ヴィンチにあるレオナルド博物館
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