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芸術的直観

ミケランジェロ・ブオナローティ

Michelangelo Buonarroti·1475–1564·イタリア·

石の中に眠る形を、 どう引き出すか?

彫刻・絵画・建築・詩すべてに最高峰の仕事を残したルネサンスの巨人

  • ダヴィデ
  • システィーナ天井画
  • ピエタ

時代の空気

クアットロチェント末からチンクエチェントへ移る激動期だった。フィレンツェではメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの庇護下で人文主義が爛熟し、彼の死後の1494年にメディチが追われ、修道士サヴォナローラが「虚栄の焼却」を経て1498年に処刑される。ローマでは教皇ユリウス2世がブラマンテと組み新サン・ピエトロ大聖堂とシスティーナ礼拝堂を都市改造の中心に据え、メディチ・教皇庁・銀行家の入れ替わりが大芸術家の生計を左右した。1517年に始まる宗教改革とトリエント公会議の影が、人文主義の身体讃美を晩年へ向けて確実に翳らせていく。

01カプレーゼの小貴族の息子

1475年3月6日、トスカーナの小さな町カプレーゼ(現カプレーゼ・ミケランジェロ)に生まれた。父ルドヴィコ・ブオナローティ・シモーニは、町長(ポデスタpodestà)として短期赴任中だった。家柄は由緒あるフィレンツェの小貴族(法服貴族)だったが、富は失われつつあった。母フランチェスカは、ミケランジェロが6歳のとき他界した。

母の不在のため、赤ん坊の彼はセッティニャーノの石工いしくの家に乳母に出された。「私は乳母の乳と一緒にノミとハンマーを吸い込んだ」 ― 後年彼はこう冗談を言った。セッティニャーノは大理石採石場があり、石工の村だった。幼少期から石に囲まれて育ったことが、生涯の彫刻ちょうこくへの執着の土壌となった。

13歳の1488年、父は彼を印刷業者の徒弟にしようとしたが、ミケランジェロは画家のドメニコ・ギルランダイオの工房こうぼうに入った。当時フィレンツェで最も繁盛した壁画工房だった。1年ほどで、メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコが才能ある若者を自宅の彫刻学校に招き、ミケランジェロは選ばれた。指導役は、ドナテッロ晩年の助手から自立した老彫刻家だった。

02メディチ宮殿の学校

1490-1492年、ミケランジェロはメディチ宮殿の庭園(サン・マルコ)でロレンツォの庇護下に生活した。プラトン主義者マルシリオ・フィチーノ、詩人ポリツィアーノ、若きピコ・デッラ・ミランドラ、後にレオ10世となるジョヴァンニ・デ・メディチらと同じ食卓で食事した。

この環境は彼の詩的教養、古典古代への情熱、新プラトン主義的世界観の土台となった。彼は生涯、ペトラルカ風のソネットを書き続け、約300編の詩集ししゅう』に結実する ― 彼の内面の最も直接的な記録となっている。

16歳のとき、友人の画家ピエトロ・トリジャーニとの諍いで、鼻を殴られて骨折した。以後ミケランジェロの肖像の多くは、この歪んだ鼻を持つ。「美の理想を追う男の顔に、永遠の傷」という象徴的偶然となった。

1492年ロレンツォ死去。庇護者を失った彼は揺れるフィレンツェを離れ、ボローニャを経て1496年にローマへ初めて出る。21歳。1494年メディチ家がフランス軍侵攻でフィレンツェを追われ、神権政治家サヴォナローラが「虚栄の焼却」で書物や絵画を焼かせた末に1498年処刑される ― そのフィレンツェへ、彼は四半世紀のあいだ間欠的にしか戻らなかった。

03『ピエタ』 ― 24歳の金字塔

ローマで彼は最初の記念碑的作品『』(1498-1499)を制作した。フランス人枢機卿ジャン・ド・ビルレール=ラグローラの依頼。死んだキリストを抱く若い母マリア ― 一枚の大理石から彫り出した高さ174cmの群像は、23-24歳の彫刻家の技量を示した。

マリアが若すぎる、と批評があった。ミケランジェロは「純潔の女性は歳を取らない」と新プラトン主義的回答をした。誰かが作者を別の彫刻家と間違えているのを聞いて、彼は夜こっそり礼拝堂れいはいどうに戻り、マリアの肩から胸にかかる帯に「MICHAELA[N]GELVS BONAROTVS FLORENTIN[US] FACIEBAT」と刻んだ ― 生涯で唯一の署名作品となった。

04『ダヴィデ』 ― 大理石の共和国

1501年、26歳のミケランジェロはフィレンツェに戻った。巨大な大理石ブロックが大聖堂工房に放置されていた ― 40年前に彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが粗削りを始めて失敗し、「巨人(イル・ジガンテ)」と呼ばれる欠けた石だった。誰もこの既に彫り始められた石を完成させる自信を持たなかった。

ミケランジェロは契約を結び、高さ5メートル超の『ダヴィデ』を3年かけて彫り上げた。1504年、大聖堂の屋根に上げる予定だったが、完成した像はあまりに素晴らしく、フィレンツェのヴェッキオ宮殿前に設置された(民衆が市庁舎前に運ぶのに4日を要した)。

この『ダヴィデ』は、フィレンツェ共和国の自己意識そのものだった ― ゴリアテ(異国の権力者)と戦う前の、緊張しつつも決意を固めた裸体の若者。メディチ家の追放と再来、フランスとスペインとピサとヴェネツィアに囲まれた小共和国の自覚の表現。「緊張しつつ自由な裸体」という後のルネサンス・バロック彫刻の原型となった。

05システィーナ礼拝堂の天井 ― 1508-1512

1505年、教皇ユリウス2世がミケランジェロをローマに呼び、巨大な自身の墓廟(40体以上の彫刻を含む)の製作を命じた。これが生涯の悪夢となる ― 依頼者の気まぐれと資金不足で計画は40年かけて何度も縮小され、ミケランジェロは「墓の悲劇」と呼んだ。

1508年、ユリウス2世は新たな命令 ― システィーナ礼拝堂の天井画てんじょうが。ミケランジェロは抵抗した ― 「私は絵描きではなく、彫刻家だ」と。しかし教皇きょうこうは譲らなかった。4年間、ミケランジェロはほぼ独力で高さ約20メートルの足場の上で、仰向けに近い姿勢で(実際には前傾の立位が主だったとする研究もある)、絵の具を身に滴らせながら作業した。

天井中央に並ぶのは、『創世記』の九つの場面(ノアの洪水から天地創造まで、時代を遡る順に)。周辺に預言者と巫女、各人物約300人。中心の『アダムの創造』で、神の手が指先一本でアダムに命を伝える場面は、西洋美術史で最も複製された図像となった(「神の手」はこの指先部分を現代が切り出して呼ぶ俗称で、本来の画題は「アダムの創造」である)。

1512年10月、37歳のミケランジェロは天井を完成させた。視力は悪化し、首は曲がり、一生ローマを憎んだ。報酬は契約の3,000ダカーティ。ローマ劇場で見たようなスケールの仕事だった。

腰は石弓の弦のように曲がり、顔は天を向き続ける。 ミルクのような絵の具が髭の上に雫を落とす ― そして私は画家ではない。

ソネット(1510-1511頃)

06フィレンツェ、再びローマ

1513年ユリウス2世死去、次々代のメディチ家出身の教皇(レオ10世、クレメンス7世)は、ミケランジェロをフィレンツェのメディチ家の墓廟(サン・ロレンツォ教会の新聖具室)、ラウレンツィアーナ図書館の設計、サン・ロレンツォの正面の依頼で忙殺した。『朝』『夕』『昼』『夜』の4体の寝そべる寓意像(メディチ家新聖具室、1524-1534)は、未完成感のある仕上げで逆に哲学的な陰影を持つ傑作となった。

1527年、神聖ローマ帝国軍のローマ劫略ごうりゃく(サッコ・ディ・ローマ)、1529-1530年、フィレンツェ共和国の最後の抵抗。この時期、ミケランジェロはフィレンツェの城壁の軍事工兵として防衛を指揮したが、市が陥落するとメディチ家からの追及を一時避ける必要があった。1532年ローマで57歳の彼は、23歳前後の青年貴族と出会い、熱烈な恋愛詩と贈答素描の往復が以後晩年まで続く。

1534年、ローマに戻り、以後30年、二度とフィレンツェには帰らなかった。レオ10世やクレメンス7世が代わり、後援パトロンが教皇庁・銀行家(ストロッツィ家)・大公コジモ1世のあいだで入れ替わっていく時代でもあった。

07『最後の審判』、ローマの晩年

1536-1541年、60歳のミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の祭壇壁に『最後の審判さいごのしんぱん』を描いた。巨大な裸体の群像、キリストの怒りに満ちた右手、地獄に落ちる罪人、天に引き上げられる義人。天井画から25年後、技法も精神もより暗く、より劇的になっていた。トリエント公会議後の検閲で裸体に布が描き加えられ、後世「ズボン履きの画家」と揶揄される修整を被ることになる。

この時期、彼は深い信仰的友情を(詩人、宗教改革に共鳴するペスカーラ侯爵未亡人)と結んだ。彼女への数十編のソネットと親密な書簡、彼女のための素描(『ピエタ』『サマリアの女』)は、後期ミケランジェロの精神的核心となる。エラスムス系のスピリトゥアーリ運動を介して受けた信仰刷新の感覚は、晩年の宗教詩と『最後の審判』の神学に染み通っていく。1547年に彼女が死去したとき、70歳を過ぎたミケランジェロは長く嘆いた。

カヴァリエーリへの愛とコロンナへの友情をどう読むかは、論者によって分かれる。19-20世紀の編者は男性向け恋愛詩の代名詞を女性形に書き換えて出版し、長く正体が隠された。プラトニズムの枠での魂の愛として、男色の自己疑問が宗教詩に転調する内面の記録として、あるいは現代的な意味での同性への愛として ― 解釈はなおひらかれている。少なくとも本人の手稿が残す代名詞と熱量は、虚飾なく読まれるに値する。

1546年以降、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家しゅにんけんちくかとして無給でドームの設計を引き受けた。71歳から死の日まで17年間、彼は自費で出勤した ― 「教皇は神の代理人、私は神の家を造っている」と。現在のサン・ピエトロのドーム(直径42m)は、彼の設計の核を保持する(完成は彼の死後の1590年、建築家ジャコモ・デッラ・ポルタらが遺された模型を元に引き継いだ)。

最晩年の彫刻『』(1552-1564、ミラノ・スフォルツァ城)は未完のまま作者の手を離れた。既に彫ったキリストの腕を削り直し、痩せたマリアとキリストの身体がほぼ融合する方へ向かっていく。並行して制作された『ピエタ・バンディーニ』(現フィレンツェ大聖堂博物館)も自ら鑿で破壊し、後に弟子が修復した未完の作だった。80代の手紙で甥レオナルドに老衰と死の近さを繰り返し訴えつつ、彼はなお石と向き合い続けた。

08ローマの死、フィレンツェへの密葬

1564年2月13日に発熱、2月18日午後5時、ローマの自宅で息を引き取った。88歳。数日前まで『ロンダニーニのピエタ』を彫り続けていた。甥のレオナルド・ブオナローティが駆けつけ、即座にフィレンツェ大公コジモ1世と連絡を取った。

ミケランジェロ自身はフィレンツェへの埋葬を希望していた。しかし教皇庁は、ローマで死んだ大巨匠をローマに埋葬したがっていた。甥レオナルドと大公コジモは、遺体を荷馬車の荷物として偽装し、密かにフィレンツェへ運んだ。教皇庁が発覚したときには、すでに遺体は国境を越えていた。

3月10日、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会で壮大な国葬。全市民が市役所前に集まった。後年の墓は弟子ヴァザーリの設計で、彫刻(絵画・彫刻・建築の三美神が悲しむ)が添えられた。偶然ながらサンタ・クローチェには、後にガリレオも同じ教会に埋葬されることになる。

09主要な出来事と著作

  1. カプレーゼに誕生。トスカーナ小貴族の家系
  2. 母フランチェスカ死去、6歳
  3. ドメニコ・ギルランダイオ工房で徒弟修業
  4. メディチ宮殿の彫刻学校(指導役ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ)
  5. ローマで『ピエタ』制作(サン・ピエトロ、唯一の署名作品)
  6. フィレンツェで『ダヴィデ』制作
  7. ユリウス2世墓廟の契約 ― 生涯の苦悩の始まり
  8. システィーナ礼拝堂天井画(創世記九場面)
  9. メディチ家新聖具室(『朝』『夕』『昼』『夜』)
  10. フィレンツェ共和国の城壁防衛を指揮
  11. トンマーゾ・デ・カヴァリエーリと出会い、恋愛詩・素描の往復が始まる
  12. システィーナ礼拝堂祭壇壁『最後の審判』
  13. ヴィットリア・コロンナとの信仰的友情と書簡(1547年彼女没)
  14. サン・ピエトロ大聖堂主任建築家(無給)
  15. 『ロンダニーニのピエタ』(死の直前まで制作、未完)
  16. 2月18日、ローマで死去。享年88。密かにフィレンツェへ移送、サンタ・クローチェに埋葬
  17. 孫の同名ミケランジェロが詩集『リーメ』を編集して初版刊行

残した思想の輪郭

  • テリビリタ(terribilità) ― 同時代から彼に冠された「畏怖を催すほどの強度」の表現力
  • 石の中の像 ― 彫刻は創造ではなく、余計なものを取り除いて既存の形を解放する発見の行為
  • 身体を通じた精神性 ― ヌードの解剖学的緊張をプラトン主義的魂の表現に昇華させる
  • 新プラトン主義と信仰の緊張 ― 古代の美学とキリスト教の贖罪観を生涯にわたり統合しようとする
  • 未完成の哲学 ― 後期ピエタに見る「仕上げないこと」の意味、近代の美学的課題を先取り
1564年2月18日、ローマの自宅で88歳で死去。三日後、甥の手で遺体は密かにフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ教会に埋葬された。
4
  • 抜粋校訂版で確認済み要旨訳

    要旨訳: 腰は石弓の弦のように曲がり、顔は天を向き続ける。 / ミルクのような絵の具が髭の上に雫を落とす ― そして私は画家ではない。

    一次資料を開くMet Museum 学術解説 + 原 sketch 図像。1509年 Michelangelo が Giovanni da Pistoia に宛てた caud...

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 石の中には既に像がある。私はただ余計なものを取り除いているだけだ

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: ミケランジェロ本人の著作にそのままの形で残る句ではなく、ヴァザーリ『画家列伝』(1568)や自作ソネットに散らばる言葉から、後世が彫刻観として再構成した伝承。ソネット第151番では、最も優れた芸術家も...

    一次資料を開くVasari 1568 second edition の 'Vita di Michelangelo' は Michelangelo 存命中に書かれた唯一の詳細...

  • 出典伝承として記録伝承

    伝承: (伝承。書簡の一節から再構成されたもの)

    一次資料を開くVasari 1568 second edition の 'Vita di Michelangelo' は Michelangelo 存命中に書かれた唯一の詳細...

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

ミケランジェロ・ブオナローティが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • カーザ・ブオナローティ記念館

    フィレンツェ, イタリア

    ミケランジェロの家系が管理した邸宅美術館、初期作《階段の聖母》を所蔵

  • システィーナ礼拝堂ゆかり

    ヴァチカン, ヴァチカン市国

    天井画《創世記》と祭壇壁《最後の審判》を現地で体験できる唯一の場所

  • サンタ・クローチェ聖堂墓所

    フィレンツェ, イタリア

    ミケランジェロの墓所を擁するフランチェスコ会聖堂

さらに辿るならExternal References

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