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アダム・スミス

Adam Smith·1723–1790·スコットランド·

利己心は、 なぜ社会全体の富になりうるのか?

道徳感情論と国富論で、同情の倫理と「見えざる手」の経済を一つの体系に組み上げた道徳哲学者

  • 国富論
  • 見えざる手
  • 道徳感情論

時代の空気

スコットランド啓蒙のただ中だった。1707年の合同で議会を失った王国はかえって学知に活路を求め、ヒューム、ハチソン、リードらが英語で哲学を書いていた。グラスゴーは大西洋とタバコ交易で栄える商業都市、ジェイムズ・ワットの蒸気機関は1769年に特許を得る。1745年のジャコバイト蜂起の記憶はまだ生々しく、植民地への課税は北米で独立戦争へと火を噴いていた。海峡の向こうではケネーやテュルゴーが重農主義を論じ、関税と消費税は硬直し、貧民救済の旧法は綻びを見せていた。自由貿易と重商主義が相争うこの時代の只中に、人は静かに立っていた。

01カーコーディーの遺児

1723年6月5日に洗礼を受けたスコットランド、ファイフ州カーコーディー(Kirkcaldy)の出身。生年月日は洗礼日のみ確実で、誕生日は不明とされる。父アダム・スミス(弁護士・税関ぜいかん吏)は息子の誕生の二ヶ月前に他界していた。母マーガレット・ダグラスが一人息子を育てた。母方ストラセンリーの実家がしばしば滞在先となり、母と息子の強い絆は生涯続いた。アダムは結婚することなく、終生母と一緒に暮らした。

4歳の頃、母方の家を訪れていた折にスコットランドの「ジプシー」(ロマ)に連れ去られたが、叔父が後を追って奪還したと伝わる(諸説あり、真偽は確定しない)。後に伝記者ドゥガルド・スチュワートはこの事件に触れ、もし救出されていなければ「彼はみすぼらしいジプシーになっていただろう」と書き残している。カーコーディーの町立学校(バージ・スクール)で学び、友人に数学者ジョン・ドラモンドらがいた。港町カーコーディーは石炭と塩の交易で栄え、密輸も日常の風景だった。スコットランド経済の現場を日々見ながら育ったことになる。

02グラスゴー大学のハチソン、オックスフォードの退屈

1737年、14歳でグラスゴー大学に入学した。フランシス・ハチソン(Francis Hutcheson)の道徳哲学講義に強く影響された。ハチソンは道徳感覚(moral sense)を人間の本性に内在させる道徳哲学を唱え、スコットランド啓蒙けいもうの先駆となる思想家だった。ラテン語・ギリシア語で倫理を論じるのではなく、英語で学生と議論する彼の教授スタイルも、アダムに深い印象を残した。

1740年、17歳でオックスフォード大学ベリオル・カレッジのスネル奨学生(Snell Exhibition)となった。本来の任期は11年に及びうるものだったが、彼は6年で去った。オックスフォードの教育には深く失望し、また学監からはイングランド国教会への強制的な同調を求められて精神的にも消耗していった。後に『』第5編で痛烈に批判している ―「オックスフォードでは、教授たちはずいぶん前に、教える仕事を装うことさえ全く放棄してしまっている」。彼はもっぱら独学で古代ローマ・ギリシアの古典、フランス文学、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』(1739年刊)を読み込んだ。ヒュームの本を読んでいるのを見つけた指導教授がそれを取り上げ叱責した、という逸話もある。

03エディンバラの公開講義、ヒュームとの友情

1746年にオックスフォードを去り、カーコーディーの母のもとへ帰った。1748年から1751年にかけて、ケイムズ卿(Lord Kames)の後援でエディンバラで修辞学しゅうじがくと純文学の公開講義を行った。聴講者には若き法律家や商人がいた。ここで同じエディンバラの哲学者デイヴィッド・ヒュームと出会い、生涯続く深い友情が始まった。年長のヒュームが兄のようにスミスを支え、スミスもまたヒュームを知的伴走者として敬愛した。二人は終生互いの著作を読み合い、手紙を交わし続けた。

1751年、28歳でグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌1752年に道徳哲学講座(ハチソンの後任)に移った。以後13年間、彼はグラスゴーで自然神学、倫理学、正義と法、政治経済学(警察・税・軍備)の四部構成の講義を毎年行なった。後の『』と『国富論』はいずれも、この講義から生まれる。

04『道徳感情論』1759

1759年、36歳。『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments、TMS)を刊行した。『国富論』の17年前である。

中心概念は共感きょうかん(sympathy)と公平な観察者かんさつしゃ(impartial spectator)である。人間は他者の境遇に自らを想像的に置き、他者の感情を自分自身の感情として追体験する(共感)。そして自分の行動を、もし利害関係のない第三者が見たらどう判断するだろうかというの視点で吟味する。道徳とは、この想像的視点から見て是認される感情と行動の一致なのだ(TMS 第1部第1篇)。

道徳感覚は神から天賦されたものでも、純粋な理性の演繹でもない。社会的な鏡の中で形成される。人間は孤島にいたら自分の顔を知らないのと同じように、他者がいなければ道徳を持ち得ない。この書物は出版後たちまち評判となり、スコットランドを越えてヨーロッパで読まれた。フランス語訳、ドイツ語訳が続いた。カントは『実践理性批判』の準備期にこの書を読み、「イギリス道徳家の最良」と評したとされる(諸説あり)。スミス自身は生涯にわたって本書の改訂を続け、最終第6版は死の直前の1790年に出版された。

05フランス旅行 ― ヴォルテール、ケネー、ダランベールと議論

1763年末、40歳のスミスは若きバクルー公爵こうしゃく(Duke of Buccleuch)の家庭教師の話を受けた。教授職を辞任し、年俸の倍を超える終身年金(年£300)を約束された。この経済的独立が、以後17年間の研究生活を支え、『国富論』執筆を可能にした。1764年初に大陸に出発。

フランス滞在は約2年半(1764-66)。トゥールーズ、ジュネーヴ(引退中のヴォルテールを訪問、深く尊敬した)、パリ(ディドロ、ダランベール、エルヴェシウス、オルバックらのサロン、そしてフランソワ・ケネーやテュルゴーらフィジオクラート(重農主義じゅうのうしゅぎ者)のサークルで、ケネーの『経済表』(Tableau économique)を軸にした議論に加わった)を巡った。

ケネーの重農主義は農業のみを富の源泉とする体系で、スミスは農業偏重には同意しなかったが、自由放任(laissez-faire)、政府介入の抑制、自然秩序の思想を深く吸収した。ケネー(1774年没)が『国富論』刊行(1776年)まで生き延びていれば、スミスはこの書の献辞をケネーに捧げたかもしれない、とその伝記者は書いている。

バクルー公爵の弟が急死して旅行は中断された。1766年秋、スミスは巨額の年金を抱えて帰国した。

06カーコーディーの書斎、ロンドン、『国富論』1776

帰国後、スミスは再びカーコーディーの母の家へ戻った。1767年から1773年まで約6年、彼は静かな漁港の書斎で、ヨーロッパ中の経済観察と講義ノートを束ねる巨大な書物を書き続けた。1773年からは草稿を抱えてロンドンに移り、最終3年間を首都で書き継いだ。バークやエドワード・ギボン、ジョンソン博士らと旧交を温めながらの推敲だった。規則正しいが孤独な仕事だった。

1776年3月9日、『諸国民の富の性質と原因の研究』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、通称『国富論』、WN)がロンドンで刊行された。本文二巻、全5編。ちょうどアメリカ独立宣言の4ヶ月前だった。

核となる思想は以下の束だ。富の源泉は土地でも金でもなく、労働である(、WN 第1編第5章)。労働生産性は分業ぶんぎょうで飛躍的に上がる(ピン工場の有名な例、WN 第1編第1章)。価格には自然価格しぜんかかくと市場価格があり、市場価格は需給の偏りによって自然価格の周囲を動く(WN 第1編第7章)。市場では各人が自分の利益を追求するだけで、に導かれて社会全体の富が増える(WN 第4編第2章)。国家の役割は防衛、司法、公共事業の三つを基本とすべきで、重商主義じゅうしょうしゅぎ(輸出偏重と保護関税)は商人と製造業者の利害に偏った誤りだ(WN 第4編)。

「見えざる手」という比喩は、TMS 第4部に一度、WN 第4編第2章に一度の、合わせて二度しか彼の主著には登場しない。後世が標榜する単純な自由放任イデオロギーの旗印というより、限定された文脈で示された逆説の一語だった。それを忘れて『国富論』だけを読むと、共感の倫理と制度設計の細やかさが、一気に視界から消えてしまう。

『国富論』は刊行後半年で初版が完売し、スミスは生涯で5版まで改訂を監督した。ピット首相、バーク、ヒュームらが絶賛した。親友ヒュームはこの本を読んだ直後、1776年8月25日に65歳で死去した。スミスは深い悲しみとともに、『ヒューム氏の生涯と性格』という簡素な回想を公表した。敬虔なキリスト教徒を装わなかったヒュームへの追悼は、「徳と叡知において、人間の弱さが許すかぎり完全に近い人」と結ばれ、英国の宗教界から激しい非難を浴びた。

我々が夕食を期待できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛からではなく、彼らの利己心からである。

『国富論』第1編第2章

07関税監督官、晩年の焼却、死

1778年、55歳のスミスはスコットランド関税監督官かんとくかん(Commissioner of Customs)に任命された。皮肉なことに、関税廃止論を書いた彼が、関税徴収の現場責任者となった。とはいえ当時の関税・消費税(Customs/Excise)制度は密輸の蔓延を抑えきれぬほど硬直しており、彼はその細部を内側から知ることになる。ロンドンではなく、エディンバラのパンムア館(Panmure House)に母と従姉とで居を構え、以後12年間ここで暮らした。

エディンバラではオイスター・クラブやポーカー・クラブで地元の知識人 ― ウィリアム・ロバートソン、ヒューゴー・ブレア、ジェイムズ・ハットン、アダム・ファーガソン、ジョセフ・ブラック ― と週に一度食卓を囲んだ。スコットランド啓蒙の最盛期の中心にいた。1784年、母マーガレットが90歳で他界した。独身のままの息子は深く打ちのめされた。

1787年、グラスゴー大学の名誉学長(Rector)に選ばれた。晩年、「法と統治の理論と歴史」を主題とする第三の大著を構想していたが、ついに完成しなかった。1790年7月初め、自宅で友人ブラック博士とハットンに「自分の死後、未刊の草稿そうこうをすべて焼いてくれ」と頼んだ。二人は躊躇したが、最終的に一室に運ばれた16冊の手稿が火に投げ込まれた(発表する価値のある短論文数編のみ残され、のちに『哲学論集』として刊行)。

1790年7月17日、エディンバラのパンムア館で腸の病により死去した。67歳。キャノンゲート墓地(Canongate Kirkyard)に埋葬された。墓石には『道徳感情論』と『国富論』の著者であることが刻まれている。遺産の大半は遺言により従弟デイヴィッド・ダグラスに包括遺贈された。同時に、生涯を通じた匿名の慈善活動が死後に明らかになった。

08主要な出来事と著作

  1. ファイフ州カーコーディーで洗礼(父は二ヶ月前に没)、母マーガレットに育てられる
  2. 14歳でグラスゴー大学入学、ハチソンに師事
  3. オックスフォード・ベリオル・カレッジのスネル奨学生、6年で離脱
  4. エディンバラで修辞学・純文学の公開講義、ヒュームと出会う
  5. グラスゴー大学論理学教授、翌年道徳哲学講座に移籍
  6. 『道徳感情論』刊行
  7. バクルー公爵の家庭教師として大陸旅行、ケネー・テュルゴー・ヴォルテールと議論
  8. カーコーディーで『国富論』執筆
  9. ロンドンに移り草稿を仕上げる
  10. 3月9日、『諸国民の富』刊行。8月、親友ヒューム死去
  11. スコットランド関税監督官に就任、エディンバラ・パンムア館に居を移す
  12. 母マーガレット死去
  13. グラスゴー大学名誉学長に選出
  14. 7月17日、エディンバラで死去。享年67。未完の手稿16冊を死の直前に焼却

残した思想の輪郭

  • 共感と公平な観察者 ― 道徳は他者の感情への想像的追体験と、利害を超えた第三者視点の内面化で成立する
  • 見えざる手 ― TMS と WN に各一度しか登場しない比喩で、自由放任の標語ではなく、自己利益が結果として社会全体の富に資するという逆説を限定的に示した一語
  • 分業 ― ピン工場の有名な例に見られる、労働生産性を桁違いに高める社会的組織原理。同時に労働者の精神への鈍化作用も指摘されている
  • ― 価格は地代・賃銀・利潤の通常率の合計たる自然価格を中心に、需給によって市場価格が周りを動く
  • ― 輸出偏重と保護関税の体系を、商人と製造業者の利害に偏った誤りとして退けた WN 第4編の主題
  • ― 分業が進み交換が日常となった段階の社会、利己心と共感が制度を通じて編み合う場
  • 道徳と経済の二本立て ― TMS と WN は独立ではなく、共感の社会と利己心の社会を両面から描く一つの体系を成す(への応答)
1790年7月17日、エディンバラのパンムア館(Panmure House)で腸の病により死去。67歳。キャノンゲート墓地に埋葬された。
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  • 文脈原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 1776年刊『国富論』第1編第2章、分業と交換の起源を論じる箇所。スミスはここで利己心を称揚しているのではなく、日々の食卓が他人の善意ではなく相互の利益の見込みによって支えられている現実を、冷静に指差...

    一次資料を開くProject Gutenberg canonical 公開テキスト。Book I, Chapter II 'Of the Principle which gi...

  • 要旨訳原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: 我々は自分の行為を、公平な観察者であれば眺めるであろうそのとおりに吟味しようと努める

    一次資料を開くPart III, Section I, Chapter I 'Of the Principle of Self-approbation and of Self...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 我々が夕食を期待できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛からではなく、彼らの利己心からである

    一次資料を開くBook I, Chapter II 'Of the Principle which gives Occasion to the Division of Lab...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 我々が夕食を期待できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛からではなく、彼らの利己心からである。

    一次資料を開くBook I, Chapter II。原文 'It is not from the benevolence of the butcher, the brewer...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: smith.mdx pullsource '『国富論』第1編第2章' は Adam Smith, Wealth of Nations, Book I, Chapter II 'Of the Princ...

    一次資料を開くBook I, Chapter II 'Of the Principle which gives Occasion to the Division of Lab...

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生きた跡を辿るPlaces

アダム・スミスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • パノミュア・ハウス(アダム・スミス・ハウス跡)住居

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    スミスが晩年を過ごし『道徳感情論』の改訂を行った邸宅。現在は研究センター

  • キャノンゲート教会墓地墓所

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    地図で見る →確認 2026-04-19
  • カーコーディ(スミス生誕地)生誕

    カーコーディ, イギリス

    1723 年スミスが生まれた港町。生家跡近くに顕彰碑が立つ

    地図で見る →確認 2026-04-19

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