アダム・スミス
自分の得だけを考える人ばかりで、 なぜ社会は豊かになるのか?
道徳感情論と国富論で、同情の倫理と「見えざる手」の経済を一つの体系に組み上げた道徳哲学者
- 国富論
- 見えざる手
- 道徳感情論
議会を失ったスコットランドが、学問と商いに活路を求めていた時代 — ひらく
時代の空気
スコットランド啓蒙のただ中だった。1707年の合同で議会を失った王国はかえって学知に活路を求め、ヒューム、ハチソン、リードらが英語で哲学を書いていた。グラスゴーは大西洋とタバコ交易で栄える商業都市、ジェイムズ・ワットの蒸気機関は1769年に特許を得る。1745年のジャコバイト蜂起の記憶はまだ生々しく、植民地への課税は北米で独立戦争へと火を噴いていた。海峡の向こうではケネーやテュルゴーが重農主義を論じ、関税と消費税は硬直し、貧民救済の旧法は綻びを見せていた。自由貿易と重商主義が相争うこの時代の只中に、人は静かに立っていた。
01燃やされた16冊
1790年7月のはじめ。エディンバラの自宅パンムア館(Panmure House)で、67歳のアダム・スミスは二人の友人にひとつの頼みごとをした。学者のブラック博士と、ハットンである。「自分の死後、未刊の草稿をすべて焼いてくれ」。
二人はためらった。相手は『』と『』を書いた人である。その人の、まだ誰も読んでいない原稿を、火に入れろと言うのだ。けれど最後には、一室に運ばれた16冊の手稿が火に投げ込まれた。残されたのは、発表する価値のある短い論文数編だけだった。それらはのちに『哲学論集』として世に出る。
同じ月の7月17日、彼はこの館で息を引き取った。
なぜ、生涯を書くことに使った人が、最後に自分の原稿を燃やさせたのか。16冊の中には何があり、なぜそれは世に出てはならなかったのか。答えを探すには、この人の一生をたどる必要がある。時は67年前、1723年に戻る。
02港町の遺児
スコットランドの東海岸に、カーコーディー(Kirkcaldy)という港町がある。1723年6月5日、この町でひとりの男の子が洗礼を受けた。名はアダム・スミス。誕生日そのものは記録になく、確かなのは洗礼の日だけである。
父も同じアダム・スミスという名で、弁護士であり税関の役人だった。しかし父は、息子が生まれる二か月前に亡くなっていた。母マーガレット・ダグラスが、ひとり息子を育てた。母の実家ストラセンリーにもよく滞在した。この母との絆は、生涯とぎれることがなかった。アダムは結婚せず、終生母と一緒に暮らすことになる。
4歳のころ、ふしぎな事件があったと伝わる。母方の家を訪ねていた折に、「ジプシー」と呼ばれた旅の民(ロマ)に連れ去られたというのだ。叔父が後を追い、少年を取り戻した。真偽は確かでない。だが、のちに伝記を書いたドゥガルド・スチュワートはこう記している。もし救い出されていなければ「彼はみすぼらしいジプシーになっていただろう」と。
少年は町の学校(バージ・スクール)で学んだ。友人には、のちに数学者となるジョン・ドラモンドがいた。カーコーディーは石炭と塩の交易でにぎわい、密輸もまた日常の風景だった。人と物と金が動くその現場を、少年は毎日ながめて育った。14歳になった年、彼はこの港町を離れ、大学へ向かう。
03ハチソンの教室、オックスフォードの六年
1737年、14歳のスミスはグラスゴー大学に入った。ここで出会ったのが、道徳哲学の教授(Francis Hutcheson)である。ハチソンは、人にはよい悪いを感じ取る感覚(道徳感覚)が生まれつき備わっていると説いた。(けいもう)と呼ばれる学問の高まりの、先駆けとなった人である。
ハチソンの授業のやり方も、少年に強い印象を残した。当時の大学ではラテン語やギリシア語で倫理を論じるのがふつうだった。ハチソンは英語で語り、学生と議論した。生きた言葉で考えを交わす。その体験は、のちの講義にも本にも生きていく。
1740年、17歳で奨学生(スネル奨学生)として、オックスフォード大学ベリオル・カレッジに移った。任期は11年まで認められうるものだった。しかし彼は6年で去る。オックスフォードの教育に深く失望したからである。学監からはイングランド国教会に従うことも求められ、心をすり減らしていった。後年『国富論』第5編にこう書いている。「オックスフォードでは、教授たちはずいぶん前に、教える仕事を装うことさえ全く放棄してしまっている」。
授業に頼れないなら、自分で読むほかない。彼は古代ギリシア・ローマの古典やフランス文学を読み込んだ。そして、エディンバラの哲学者デイヴィッド・ヒュームが1739年に出した『』を手に取った。この本を読んでいるのを見つけた指導教授が、本を取り上げて叱ったという逸話もある。取り上げられたその本の著者と、彼はやがて生涯の友になる。
04エディンバラの講義、ヒュームとの友情
1746年、スミスはオックスフォードを去り、カーコーディーの母のもとへ帰った。転機は1748年に来た。有力者ケイムズ卿(Lord Kames)の後押しで、エディンバラで公開講義を開いたのである。題目は修辞学と純文学。つまり、文章と言葉の学問である。聴きに来たのは、若い法律家や商人たちだった。講義は1751年まで続いた。
この町で、彼はデイヴィッド・ヒュームと出会った。『人間本性論』の、あの著者である。年上のヒュームは兄のようにスミスを支えた。スミスもヒュームを、ともに考える相手として深く敬った。二人は終生、互いの本を読み合い、手紙を交わし続けた。
1751年、スミスはグラスゴー大学の論理学の教授になった。翌1752年には、恩師ハチソンの後をつぐ形で道徳哲学の講座に移る。以後13年間、彼は毎年同じ流れの講義を行った。自然神学、倫理学、正義と法、そして政治経済学(警察・税・軍備)の四部構成である。のちの二つの大著は、どちらもこの教室から生まれる。まず最初の一冊が、形になろうとしていた。
05『道徳感情論』― 心の中の観察者
1759年、スミスは『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments、略してTMS)を出した。『国富論』の17年前のことである。
この本の中心にあるのは、共感(sympathy)という働きだ。人は、他人の立場に自分を置いてみることができる。相手が悲しんでいれば、自分も胸が痛む。相手の喜びを、自分の喜びのように感じる。スミスはこの力を、道徳の土台に置いた。
もう一つの鍵が、(impartial spectator)である。自分の行いを、もし利害のない第三者が見たらどう思うだろうか。人はそう問いながら、自分の心の中に一人の観察者を育てていく。道徳とは、この観察者の目から見て「それでよい」と認められる感情と行いのことだ。
つまり道徳は、神からさずかったものでも、頭の中の理屈だけで組み立てたものでもない。人と人のあいだで、鏡を見るように形づくられる。無人島でひとり育った人は、自分の顔を知らない。同じように、他人がいなければ人は道徳を持てない。スミスはそう考えた。
本はたちまち評判になった。スコットランドを越えてヨーロッパで読まれ、フランス語訳、ドイツ語訳が続いた。ドイツの哲学者カントもこの本を読み、「イギリス道徳家の最良」と評したとされる(諸説あり)。スミス自身はこの本を生涯手直しし続け、最後の第6版は死の直前、1790年に出た。そしてこの評判は、彼の人生を思いがけない方向へ動かすことになる。
我々は自分の行為を、公平な観察者であれば眺めるであろうそのとおりに吟味しようと努める
06公爵とフランスへ
1763年の末、40歳のスミスに一つの話が来た。若いバクルー公爵(Duke of Buccleuch)の家庭教師になってほしい、という。条件は破格だった。教授の年俸の倍を超える、年300ポンドの終身年金である。彼は教授職を辞し、話を受けた。この一生の保障が、以後17年の研究生活を支え、『国富論』を書くことを可能にした。1764年のはじめ、二人は大陸へ出発した。
フランス滞在は約2年半に及んだ。まずトゥールーズ。ジュネーヴでは、引退していた作家ヴォルテールを訪ね、深く敬うようになった。そしてパリ。ディドロ、ダランベール、エルヴェシウス、オルバックら思想家たちのサロンに出入りした。
とりわけ大きかったのが、とのサークルである。彼らはフィジオクラート、日本語では(じゅうのうしゅぎ)者と呼ばれる。国の富はどこから生まれるのか。ケネーは農業こそがその源だと考え、『経済表』(Tableau économique)という図でそれを示した。スミスはこの集まりで、『経済表』を軸にした議論に加わった。
農業だけが富を生む、という考えにスミスは賛成しなかった。しかし、政府はよけいな口出しをせず、物事の自然な流れにまかせるべきだという考え(自由放任、laissez-faire)は、深く吸い込んだ。ケネーは1774年に亡くなる。もし『国富論』が出る1776年まで生きていたら、スミスはこの本をケネーに献げたかもしれない。伝記を書いた者はそう記している。
旅は突然終わった。バクルー公爵の弟が急死したのである。1766年の秋、スミスは大きな年金を抱えて帰国した。頭の中には、ヨーロッパ中で見聞きしたことがつまっていた。それを一冊にまとめるまでに、あと10年かかる。
07十年の書斎、『国富論』
帰国したスミスは、またカーコーディーの母の家へ戻った。1767年から1773年まで、およそ6年。静かな漁港の書斎で、彼は書き続けた。講義のノートと、ヨーロッパ中で見てきた経済のありさまを、一つの大きな本に束ねる仕事である。1773年からは草稿を抱えてロンドンに移り、最後の3年をそこで過ごした。バークやエドワード・ギボン、ジョンソン博士らと旧交を温めながらの推敲だった。規則正しいが、孤独な仕事だった。
1776年3月9日。『諸国民の富の性質と原因の研究』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)、通称『国富論』(WN)がロンドンで刊行された。本文二巻、全5編。海の向こうでアメリカが出る、ちょうど4か月前だった。
この本は、富とは何かを根本から問い直した。富の源は土地でも金銀でもなく、人の労働である()。そして労働は、分業によって何倍にも実りを増す。ピン工場の有名な例がそれだ。一人で全部を作るより、工程を分けて受け持ったほうが、はるかに多くのピンができる。
物の値段にも、二つの顔がある。だ。作るのにかかった費用にもとづく本来の値段が自然価格。日々の買い手と売り手の多い少ないで動く値段が市場価格。市場価格は、自然価格のまわりを上下する。
そして、この本で最も知られた考えが来る。市場では、一人ひとりが自分の利益を追い求めるだけでよい。それでも、まるでに導かれるように、社会全体の富は増えていく。国のすべきことは、防衛と司法と公共事業が基本である。輸出をふやし、輸入に高い関税をかけて国を富ませようとする重商主義は、商人と製造業者の都合に偏った誤りだ。スミスのは、この本の第4編を貫く主題になった。
『国富論』は半年で初版が売り切れた。スミスは生涯で5版まで手直しを見届けた。ピット首相、バーク、ヒュームらが称賛した。しかし喜びは長く続かなかった。親友ヒュームが、この本を読んだ直後の1776年8月25日、65歳で世を去ったのである。
スミスは深い悲しみの中で、『ヒューム氏の生涯と性格』という短い回想を公表した。ヒュームは、信仰深いキリスト教徒であるふりをしなかった人だった。その友を、スミスは「徳と叡知において、人間の弱さが許すかぎり完全に近い人」と結んだ。英国の宗教界は激しく非難した。そしてこのあと彼を待っていたのは、関税を集める側の役目だった。
我々が夕食を期待できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛からではなく、彼らの利己心からである。
08関税監督官、そして炉の前へ
1778年、スミスはスコットランド関税監督官(Commissioner of Customs)に任命された。皮肉な話である。関税をなくせと書いた人が、関税を集める現場の責任者になったのだ。当時の関税と消費税(Customs/Excise)の制度は、はびこる密輸を抑えきれないほど硬直していた。彼はその細部を、内側から知ることになる。住まいはロンドンではなく、エディンバラのパンムア館。母と従姉とともに移り、以後12年をここで暮らした。
エディンバラでは、オイスター・クラブやポーカー・クラブに通った。地元の知識人 ― ウィリアム・ロバートソン、ヒューゴー・ブレア、ジェイムズ・ハットン、アダム・ファーガソン、ジョセフ・ブラック ― と週に一度、食卓を囲んだ。冒頭のブラックとハットンは、この食卓の仲間である。彼はスコットランド啓蒙の最盛期、その中心にいた。
1784年、母マーガレットが90歳で亡くなった。独身のまま母と暮らしてきた息子は、深く打ちのめされた。1787年、グラスゴー大学の名誉学長(Rector)に選ばれた。若い日にハチソンの授業を聴いた、あの大学である。
晩年の彼には、まだ書きたい本があった。「法と統治の理論と歴史」を主題とする、第三の大著である。『道徳感情論』で人の心を、『国富論』で富のしくみを書いた。残るのは、法と政治だった。だが、それは完成しなかった。
ここで物語は、1790年7月の館に戻る。ブラックとハットンに焼くよう頼んだ16冊の手稿。そこに、この未完の仕事の跡はあったのだろうか。思い出してほしい。彼は『道徳感情論』を31年にわたり、六つの版まで手直しし続けた人である。自分の行いを、公平な観察者の目で吟味せよ。そう説いた人が自分の未完の原稿に向けた目は、おそらく誰よりも厳しかった。
7月17日、彼はパンムア館で腸の病により息を引き取った。67歳。キャノンゲート墓地(Canongate Kirkyard)に葬られた。墓石には、『道徳感情論』と『国富論』の著者であることが刻まれている。遺産の大半は、遺言により従弟デイヴィッド・ダグラスに遺贈された。そして死後、もう一つのことが明らかになった。彼が生涯、名を明かさずに続けていた慈善である。利己心を説いた人の、誰にも知られなかった行い。二冊の本は、本当に別々のことを言っていたのだろうか。
09二度しか現れない手 ― 二冊は一つの体系か
『国富論』の核をなす命題を、原典の位置とともに整理しておく。富の源泉は土地でも貨幣でもなく労働である(労働価値説の萌芽、WN 第1編第5章)。労働生産性は分業によって飛躍的に上昇する(ピン工場の例、WN 第1編第1章)。ただし同書は同時に、細分化された作業が労働者の精神を鈍らせる作用も指摘している。価格には自然価格と市場価格の区別があり、自然価格は地代・賃銀・利潤の通常率の合計、市場価格は需給の偏りによってその周囲を変動する(WN 第1編第7章)。各人の利益追求が見えざる手に導かれて社会全体の富を増やすという命題は WN 第4編第2章に置かれ、国家の役割は防衛・司法・公共事業の三つを基本とする。輸出偏重と保護関税の体系を商人と製造業者の利害に偏った誤りとして退ける重商主義批判が、第4編全体の主題をなす。
「見えざる手」という比喩は、TMS 第4部に一度、WN 第4編第2章に一度の、合わせて二度しか彼の主著には登場しない。後世が標榜する単純な自由放任イデオロギーの旗印というより、限定された文脈で示された逆説の一語だった。それを忘れて『国富論』だけを読むと、共感の倫理と制度設計の細やかさが、一気に視界から消えてしまう。
TMS の道徳論の構造も、ここで再確認しておく。人間は他者の境遇に自らを想像的に置き、他者の感情を自分自身の感情として追体験する(共感)。そして自分の行動を、もし利害関係のない第三者が見たらどう判断するだろうかという公平な観察者の視点で吟味する。道徳とは、この想像的視点から見て是認される感情と行動の一致なのだ(TMS 第1部第1篇)。道徳感覚は神から天賦されたものでも、純粋な理性の演繹でもない。社会的な鏡の中で形成される。人間は孤島にいたら自分の顔を知らないのと同じように、他者がいなければ道徳を持ち得ない。
ここから、いわゆるが立つ。共感を軸とする TMS と、利己心を軸とする WN は矛盾するのか。本稿の見立ては、両者は独立ではなく、共感の社会と利己心の社会を両面から描く一つの体系を成す、というものである。分業が進み交換が日常となった段階の社会、すなわちにおいて、利己心と共感は制度を通じて編み合う。肉屋やパン屋の利己心に夕食を頼れるのは、その取引を取り巻く法と慣習、そして相手の立場を想像する力が同時に働いているからだ、と読むことができる。
冒頭の問いに立ち戻る。生涯を書くことに費やした人が、なぜ最後に16冊を火に入れさせたのか。そして、利己心を説いたその人は、なぜ名を明かさぬ慈善を続けたのか。二つの問いは、おそらく同じ場所から出ている。自分の行いを見ている、心の中の観察者。あなたの中のその観察者は、いま、何を見ているだろうか。
10主要な出来事と著作
- ファイフ州カーコーディーで洗礼(父は二ヶ月前に没)、母マーガレットに育てられる
- 14歳でグラスゴー大学入学、ハチソンに師事
- オックスフォード・ベリオル・カレッジのスネル奨学生、6年で離脱
- エディンバラで修辞学・純文学の公開講義、ヒュームと出会う
- グラスゴー大学論理学教授、翌年道徳哲学講座に移籍
- 『道徳感情論』刊行
- バクルー公爵の家庭教師として大陸旅行、ケネー・テュルゴー・ヴォルテールと議論
- カーコーディーで『国富論』執筆
- ロンドンに移り草稿を仕上げる
- 3月9日、『諸国民の富』刊行。8月、親友ヒューム死去
- スコットランド関税監督官に就任、エディンバラ・パンムア館に居を移す
- 母マーガレット死去
- グラスゴー大学名誉学長に選出
- 7月17日、エディンバラで死去。享年67。未完の手稿16冊を死の直前に焼却
残した思想の輪郭
- 共感と公平な観察者 ― 道徳は他者の感情への想像的追体験と、利害を超えた第三者視点の内面化で成立する
- 見えざる手 ― TMS と WN に各一度しか登場しない比喩で、自由放任の標語ではなく、自己利益が結果として社会全体の富に資するという逆説を限定的に示した一語
- 分業 ― ピン工場の有名な例に見られる、労働生産性を桁違いに高める社会的組織原理。同時に労働者の精神への鈍化作用も指摘されている
- 自然価格と市場価格 ― 価格は地代・賃銀・利潤の通常率の合計たる自然価格を中心に、需給によって市場価格が周りを動く
- 重商主義批判 ― 輸出偏重と保護関税の体系を、商人と製造業者の利害に偏った誤りとして退けた WN 第4編の主題
- 商業社会 ― 分業が進み交換が日常となった段階の社会、利己心と共感が制度を通じて編み合う場
- 道徳と経済の二本立て ― TMS と WN は独立ではなく、共感の社会と利己心の社会を両面から描く一つの体系を成す(アダム・スミス問題への応答)
つながり
- ヒューム
伴走 — 遺言で遺稿の整理をスミスに託した終生の友。『道徳感情論』は、彼の共感論と並走した。
- マルクス
批判的継承 — 『国富論』の労働価値説を出発点に、その揺らぎを徹底的に読み抜いた批判者がいる。
- 福澤諭吉
共鳴 — 極東で『国富論』をいち早く講じ、自助と独立を説いた啓蒙家がいる。
- 平賀源内
同時代 — 『国富論』と同じ1776年、江戸でエレキテルを復元し、輸入代替のものづくりを試みた男がいた。
さらに読むならFurther Reading
アダム・スミスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門国富論
アダム・スミス / 訳: 水田洋 監訳 / 杉山忠平 訳 / 岩波文庫
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アダム・スミス / 訳: 高哲男 / 講談社学術文庫
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生きた跡を辿るPlaces
アダム・スミスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
アダム・スミスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アダム・スミス」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Adam Smith"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Adam Smith's Moral and Political Philosophy"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Adam Smith (1723—1790)"
Project GutenbergEnglishAn Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations — Project Gutenberg
『国富論』原著