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エラスムス

Desiderius Erasmus·1466–1536·ルネサンス期ネーデルラント·

笑いながら、 本気で信じることはできるのか?

愚神の口を借りて教会を笑い、新約聖書を世界に読み直させた北方人文主義の王

  • 愚神礼讃
  • 新約校訂
  • 自由意志論
印刷機が生まれ、聖書を誰が読み、誰が決めるのかで、ヨーロッパが二つに割れ始めた時代 — ひらく

時代の空気

15世紀末から16世紀前半のヨーロッパは、グーテンベルクの活版印刷が知の流通を一変させ、原典回帰(ad fontes)を掲げる人文主義が北方にも広がっていた。ネーデルラントには共同生活兄弟会と近代敬虔運動の学校網が育ち、ロッテルダム、パリ、ロンドン、バーゼル、フライブルクを学者たちが往来した。1517年のルター95箇条以降、宗教改革が急進化し、1524-25年の農民戦争、聖像破壊、宗派分裂が続き、1529年バーゼルが改革派の支配下に入った。

011536年夏、バーゼルの夜

1536年7月11日から12日にかけての夜。スイスの町バーゼルで、一人の老人が死の床にいた。場所は印刷業者ヒエロニムス・フローベンの家。病は赤痢、年は69歳だった。

この老人は、生涯をラテン語で生きた人だった。ラテン語で書き、ラテン語で論じ、ヨーロッパ中の学者と手紙をやりとりした。ところが最期に口から出たのは、ラテン語でも古代ギリシア語でもなかった。母語のオランダ語で「親愛なる神よ(Lieve God)」。同席した人が、そう記録している。

彼は司祭だった。カトリック教会に属する聖職者である。それなのに、死んだ場所は宗教改革派(プロテスタント)が支配する町だった。遺言には、印刷所や友人、貧しい学生への援助が並んでいた。教会そのものへの贈り物は、一つも書かれていなかった。

死から23年後、カトリック教会は彼の全著作を(Index Librorum Prohibitorum)に載せる。一方のプロテスタントも、彼を「裏切り者」と呼んだ。両方から攻撃され、どちらにも属さずに死んだ司祭。彼の名はデジデリウス・エラスムス。

なぜ、教会の人間が、教会の外で死んだのか。なぜ、両方の陣営から憎まれる道を選んだのか。答えを探すために、時を70年前に戻す。

02ロッテルダムの少年

1466年頃、ネーデルラント(今のオランダ)のロッテルダムに、一人の男の子が生まれた。生まれた年は1469年だという説もある。父は司祭のヘラルト、母はマルガレータ・ローゲリウス。二人は結婚していなかった。

つまりエラスムスは私生児しせいじだった。当時の教会の決まりでは、それは教会の職につくうえで障害になる身分だった。父が司祭であるのに、その子は教会の中で不利な立場に置かれる。この矛盾を、彼は生まれた瞬間から背負っていた。

9歳頃、父は彼と兄ピーテルをデーフェンテルの学校に送った。そこは近代敬虔運動(Devotio Moderna)という信仰運動と、共同生活兄弟会きょうどうせいかつきょうだいかいの影響下にある学校だった。ここで彼はラテン語と聖書を学んだ。古代ギリシア・ローマの文章を大切に読む姿勢と、心からの信仰が結びついた場所だった。北方人文主義の種が、ここで蒔まかれたと言ってよい。

1483年頃、両親が疫病で次々に亡くなった。兄弟は後見人こうけんにん(親代わりに財産を管理する人)にだまされ、財産を失った。行き場のない二人は、ステーン修道院(アウグスティヌス会)に入った。1488年頃に修道誓願しゅうどうせいがんを立て、1492年、26歳頃に司祭となった(叙階じょかい)。

けれどエラスムス自身は、修道院の生活を嫌っていた。後にこれを「若い時の過ち」と呼んでいる。1517年には教皇レオ10世から、修道院に住む義務の免除と、私生児の身分の補完を正式に得ることになる。では彼はどうやって、修道院の壁の外へ出たのか。

03パリ、そしてモアという友

1495年、29歳頃。彼は修道院を出るための口実として、パリ大学神学部への留学をつかんだ。貴族の子の家庭教師をしながら、貧しい留学生として古典の勉強を続けた。当時の大学で主流だったスコラ神学(細かい理屈を積み上げる神学)には、すぐに幻滅した。むしろ古典ラテン語と、聖書を原典で読む研究に打ち込んだ。

1499年、彼はパトロン(支援者)の若いイングランド貴族マウントジョイ卿に同行し、イングランドに渡った。ロンドンで、生涯の友となる男に出会う。トマス・モア。1478年生まれの若い法律家で、のちにイングランドの大法官になる人物である。そして1535年、ロンドン塔に幽閉ののちタワーヒルで斬首される未来が待っていた。二人は12歳離れていたが、ウィットと古典への愛、キリスト教の倫理で深く通じ合った。

オックスフォードでは、ジョン・コレットに強い刺激を受けた。コレットはのちに聖ポール大聖堂の主任司祭となり、セント・ポールズ・スクールを創設する人である。彼はスコラ的な注釈を離れよと説いた。教父(初期キリスト教の指導者たち)にさかのぼり、聖書を読み直せ、と。ギリシア語原典への傾きは、その後、別系統の英国人文主義者との接触でも深まる。

1506年、40歳でイタリアへ渡った。トリノ大学で神学博士号を取り、ヴェネツィアのアルドゥス印刷所に滞在した。ギリシア・ローマ古典の印刷では頂点と言われた場所である。ここで『アダギア(Adagia、格言集)』を大幅に増やした。最終的に4,151の古典のことわざを集めることになる。この一冊で、彼の名はヨーロッパ全域の知識人に知られた。

だが、彼をもっと有名にする本は、まだ書かれていなかった。それは病気の床で、たった数日のうちに生まれる。

04病床の数日、『愚神礼讃』

1509年、43歳頃。ローマからイングランドへ戻る道すがら、アルプスを越えながら一冊の本を思いついた。『愚神礼讃(Moriae Encomium)』。ラテン語名Moriaはギリシア語で「愚かさ」を意味する。同時に、友人モアの名(Mori-ae、モアの)でもあるという洒落だった。

ロンドンのトマス・モア邸で、彼は病気になって動けなくなった。その数日の間に、この小さな諷刺の本を一気に書き上げた。1511年にパリで初版が出ると、忽たちまちヨーロッパのベストセラーになった。生前に35版以上を重ねている。

私は愚神だ。人間を動かすのは理性ではなく、私だ。愛も友情も結婚も、すべての人間活動の楽しさは私に負う。哲学者たちは私を蔑むが、私なしには彼らの高貴な議論も続かない。

— 『愚神礼讃』(1511年)、愚神が自分を名乗って語り始める場面の大意

本の形は変わっている。愚神(ストゥルティア)が、一人称で延々と自慢話をするのだ。前半は日常の愚かさを笑う。恋愛、結婚、商売、狩猟、愛国心。中盤から、矢は教会に向く。スコラ神学の空論、修道士の偽善ぎぜん、司教の富への執着、教皇の戦争。これらを痛烈に諷刺ふうしした。

そして最終部で、愚神は突然真剣になる。「真のキリスト教徒は、この世の知恵を愚かとする者である」。笑い話が、ひっくり返るのだ。愚こそ賢、賢こそ愚。この逆説が、この本の核心である。

ルター派はこれを教会改革の先駆と読んだ。カトリック正統派は「教会を内部から弱める書」と非難した。エラスムス自身は「真面目な友人への冗談として書いた」と弁明した。しかし刃は本物だった。笑いで教会を切った男は、次に何を手に取るのか。

051516年、聖書を原典から

エラスムスの生涯で最大の仕事は、1516年3月に世に出た。50歳頃である。バーゼルのフローベン印刷所から刊行された『新約聖書(Novum Instrumentum omne)』、いわゆる新約聖書校訂版だ。バーゼルで手に入る限られたギリシア語の写本を照らし合わせ、本文を組み直した。そこに新しいラテン語訳を並べて対照させた。1519年の第二版からは、書名が Novum Testamentum に改められる。

それまで西ヨーロッパで標準とされた新約聖書は、ラテン語のだった。4世紀末にヒエロニムスが改訂したもので、千年以上、これが支配的に使われてきた。西ヨーロッパの主流は、ギリシア語の原典を直接読み直すことから、長く遠ざかっていたのである。エラスムスの版は、印刷されたギリシア語新約聖書として最初に流通したものだった。この版が、その状況を根本から覆くつがえした。

ウルガータには誤訳や疑わしい箇所が数多くあった。エラスムス版はそれを明示した。例えば「ヨハネの第一の手紙5章7節」。三位一体さんみいったい(父と子と聖霊が一つの神であるという教え)に関わる一節で、と呼ばれる。彼が参照したギリシア語写本には、これが見あたらなかった。だから初版と第二版では省いた。しかし神学論争と、新たに示された写本を受けて、1522年の第三版で挿入した。これは、のちに再び論争となる。

この本はヨーロッパ中の知識人に衝撃を与えた。「(ad fontes)」という合言葉が、現実の形をとったのだ。ルターはこの版をもとに、1522年にドイツ語の新約聖書を訳した。は1526年に英訳した。エラスムスの原典主義がなければ、宗教改革の聖書運動は成立しなかった。

つまり彼は、宗教改革に最大の武器を渡した人だった。その翌年、一人の修道士が動き出す。

06ルターとの決裂

1517年、ルターがを掲げた。教会による免罪符の販売を批判する文書である。エラスムスは、好意的な距離を保った。教会改革の必要は感じていたし、ルターの批判の多くに共感していた。

しかし、改革は急進化し、暴力をともなうようになった。1524年から25年の。聖像破壊。宗派の分裂。これらは彼が夢見た「穏やかな改革」とは真逆だった。

1524年、58歳頃。長い沈黙を破って、彼は『論(De Libero Arbitrio Diatribe)』を刊行した。ルターは、人間の意志は救いに何の力も持たない、と説いていた。すべては神の(神からの一方的な恵み)による選びだ、と。的な恩寵論である。エラスムスはこれに反対した。人間の意志にも、救いに協働する余地がある。そう論じたのである。

ルターは激怒した。1525年、大著『奴隷的意志論(De Servo Arbitrio)』で反駁はんばくした。ルターにとってエラスムスは「キリストではなくキケロを愛する人文主義者」だった。エラスムスにとってルターは「神学の熱狂で平和を破壊する者」だった。この論争で、北方人文主義と宗教改革の道は決定的に分かれた。

以後、エラスムスはカトリック側にもプロテスタント側にも完全には属さない。両方から攻撃される、孤独な独立の学者として生きることになる。彼が本当に守りたかったものは、何だったのか。

07平和を訴える

1521年から、彼はバーゼルを本拠にした。フローベン印刷所の主任校訂者・編集顧問として働いた。教父の全集を次々に刊行した。アウグスティヌス、ヒエロニムス、オリゲネス。これは近代の教父学の基礎となる仕事である。

同時に、ヨーロッパの君主たちに平和を訴える小冊子を書き続けた。『戦争の好ましからざること』(1515)。『キリスト教君主の教育』(1516、皇帝カール5世に捧げた)。(1517)。同時代の宗教戦争と政治戦争に対して、はっきりした反戦論を展開した。

自然は人間に戦争を教えない。獣でさえ同族と争わない。それなのに理性を持つ人間だけが、信仰の名において、言葉一つの違いのために、隣人の血を流す。

— 『平和の訴え』(Querela Pacis, 1517年)、平和の女神が人間を責める場面の大意

もっとも不利な平和でさえ、もっとも正当な戦争に勝る

— 平和を訴えた一連の著作(1515〜17年頃)で繰り返した言葉、要旨

1529年、バーゼルが宗教改革派の支配下に入った。彼はプロテスタント的な争いを避けて、フライブルクに移った。オーストリア領で、カトリック圏の町である。それでも両派からの攻撃は続いた。1535年、彼はバーゼルへ戻った。プロテスタントの町へ、である。こうして翌年の夏、冒頭の夜が来る。

08ふたたび、1536年の夜

ここまで来れば、あの夜の意味は見えてくる。彼はカトリック教会を捨てなかった。1517年に教皇から身分の補完まで受けた司祭である。しかし改革の暴力にも加わらなかった。ルターに聖書という武器を渡しながら、ルターの神学には反対した。どちらの陣営にも属さない位置。それを最後まで動かなかったから、最期の場所はプロテスタントの町になり、遺言に教会への贈り物はなかった。

母語で発した「親愛なる神よ」も、同じ線の上にある。ラテン語は教会と学者の言葉だった。争う両派の言葉でもあった。最期の一言だけは、そのどちらでもない言葉で語られた。

事実の記録も確認しておこう。晩年の蔵書はすでに1525年にポーランド人人文主義者ヤン・ワスキ(Jan Łaski)に売却されていた。没後の文学的遺稿と家財は、主相続人ボニファキウス・アメルバッハらが管理した。遺言ではフローベン印刷所や親しい友人、貧しい学生への援助(のちに Legatum Erasmianum と呼ばれる)が指定され、教会そのものへの遺贈は含まれない。当時としては異例の内容だった。

カトリック教会は1559年に彼の全著作を禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)に入れた。プロテスタント側の評価は両義的で、初期にはルターを先取りした人文主義者として称賛される一方、ルターとの決別後は「中途半端な改革者」「裏切り者」としても攻撃された。しかし17世紀の敬虔主義、18世紀の啓蒙思想、19世紀の自由主義神学、20世紀のエキュメニズム運動に至るまで、「両派を超える独立の知性」としての彼の位置は再発見され続けている。

愚神の口を借りて教会を笑い、原典から聖書を読み直し、戦争に反対し、両方から憎まれた。真剣さに半分の笑いを混ぜる。その技は、味方を増やさない代わりに、誰も滅ぼさなかった。あなたなら、どちらの側にも立たない自由を、どこまでの代価を払って守るだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. ロッテルダムに私生児として誕生(生年は1466/1469諸説)
  2. デーフェンテルで共同生活兄弟会の学校に学ぶ
  3. ステーン修道院に入会
  4. 司祭叙階
  5. パリ大学へ、ラテン古典と原典聖書研究に専念
  6. イングランド滞在、ロンドンでモア、オックスフォードでコレットと出会う
  7. イタリア滞在、『アダギア』増補、トリノ大学で神学博士号
  8. モア邸で『愚神礼讃』執筆(1509)、パリで初版刊行(1511)
  9. 『新約聖書校訂版』(Novum Instrumentum)刊行、バーゼル
  10. ルター95箇条、『平和の訴え』執筆
  11. ルターとの自由意志論争
  12. バーゼルからフライブルクへ
  13. バーゼル帰還
  14. バーゼルで死去。享年69
  15. カトリック教会により全著作が禁書目録に

残した思想の輪郭

  • 原典へ還れ(ad fontes) ― 伝統的注釈でなく古典と聖書の原典を直接読む人文主義の標語
  • 新約聖書校訂版(1516) ― ギリシア語原典と新ラテン訳、ルター独訳・英訳の土台
  • ― 諷刺を通じて教会と社会の偽善を笑う、西洋諷刺文学の古典
  • 両派の独立 ― カトリックにもプロテスタントにも完全には与しない孤独な立場
  • ― 原始キリスト教(プリミティヴ・キリスト教)と古典教養の統合
  • 自由意志論 ― ルターの予定説的恩寵論に反対、人間の協働余地を擁護
  • 平和論 ― 戦争と暴力への一貫した反対、近代平和論の先駆
1536年7月12日、バーゼルの友人邸で赤痢により69歳で死去。最期の言葉は「**親愛なる神よ**」とオランダ語で発したと伝わる。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

エラスムスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

エラスムスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • バーゼル大聖堂(ミュンスター)墓所

    バーゼル, スイス

    1536年、プロテスタント都市の手で異例のエキュメニカルな葬儀を経て大聖堂に埋葬。赤大理石の墓碑銘が左側廊に残る

  • エラスムス像(ロッテルダム)ゆかり

    ロッテルダム, オランダ

    ヘンドリック・デ・ケイセル作、1622年除幕。オランダ初の公共ブロンズ像にして、軍人でも王でもない知識人を讃えた当時のヨーロッパで唯一の例

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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