エラスムス
笑いのうちに、 真面目な信仰はあり得るか?
愚神の口を借りて教会を笑い、新約聖書を世界に読み直させた北方人文主義の王
- 愚神礼讃
- 新約校訂
- 自由意志論
時代の空気
15世紀末から16世紀前半のヨーロッパは、グーテンベルクの活版印刷が知の流通を一変させ、原典回帰(ad fontes)を掲げる人文主義が北方にも広がっていた。ネーデルラントには共同生活兄弟会と近代敬虔運動の学校網が育ち、ロッテルダム、パリ、ロンドン、バーゼル、フライブルクを学者たちが往来した。1517年のルター95箇条以降、宗教改革が急進化し、1524-25年の農民戦争、聖像破壊、宗派分裂が続き、1529年バーゼルが改革派の支配下に入った。
01ロッテルダムの私生児
1466年10月27日(または1469年、諸説あり)、ロッテルダムに生まれた。父は司祭ヘラルト、母はマルガレータ・ローゲリウス。両親は結婚していなかったため、エラスムスは私生児(当時の教会法では教会の職に就く資格の障害となる身分)だった。
9歳頃、父はエラスムスと兄ピーテルをデーフェンテルの学校に送った。そこは近代敬虔運動(Devotio Moderna)と共同生活兄弟会の影響下にある学校で、北方人文主義の種が蒔かれる場だった。ルネサンス人文主義の古典文献学が、敬虔な個人信仰と結びついた独特の雰囲気の中で、彼はラテン語と聖書を学んだ。
1483年頃、両親が疫病で次々に没した。兄弟は後見人に騙されて財産を失い、やむなくステーン修道院(アウグスティヌス会)に入会、1488年頃に修道誓願を立て、1492年に司祭に叙階された。しかしエラスムス自身は修道院生活を嫌い、後にこれを「若い時の過ち」と呼び、1517年に教皇レオ10世から修道院居住義務の免除と私生児身分の補完を正式に得る。
02パリ、オックスフォード、モアとの出会い
1495年、彼は修道院を抜け出すための口実としてパリ大学神学部への留学を得た。貴族の家庭教師をしながら、貧しい留学生として古典学を続けた。スコラ神学には幻滅し、むしろ古典ラテン語と原典聖書研究に打ち込んだ。
1499年、パトロンの若きイングランド貴族マウントジョイ卿に同行してイングランドに渡った。この滞在中にロンドンで生涯の友トマス・モア(1478-1535、1535年ロンドン塔に幽閉ののちタワーヒルで斬首される未来の大法官)と親交を結び、オックスフォードではジョン・コレット(のちの聖ポール大聖堂主任司祭・セント・ポールズ・スクール創設者)から、スコラ的註解を離れ教父に遡って聖書を読み直す姿勢を強く刺激された(ギリシア語原典への傾斜はその後の別系統の英国人文主義者との接触でも深まる)。二人は年齢差12歳だったが、ウィット・古典愛・キリスト教倫理で深く通じた。
1506年、40歳でイタリアへ。トリノ大学で神学博士号を取得し、ヴェネツィアのアルドゥス印刷所(ギリシア・ローマ古典の印刷の頂点)に滞在して『アダギア(Adagia、格言集)』を大幅増補(最終的に4,151の古典諺を集成)。この一冊で彼はヨーロッパ全域の知識人に名を知られた。
03『愚神礼讃』――モア邸の一週間
1509年、彼はローマからイギリスへ戻る道すがら、アルプスを越えながら『愚神礼讃(Moriae Encomium)』を着想した。ラテン語名Moriaはギリシア語の「愚かさ」であり、同時に友人Mori-ae(モアの)でもあるという洒落だった。
ロンドンのトマス・モア邸で、病気で動けなかった数日の間に、エラスムスはこの小さな諷刺書を一気に書き上げた。1511年にパリで初版が出て、忽ちヨーロッパのベストセラーとなり、生前に35版以上を重ねた。
私は愚神だ。人間を動かすのは理性ではなく、私だ。愛も友情も結婚も、すべての人間活動の楽しさは私に負う。哲学者たちは私を蔑むが、私なしには彼らの高貴な議論も続かない。
愚神(ストゥルティア)が一人称で延々と自慢話を展開する形式。前半は日常の愚行(恋愛、結婚、商売、狩猟、愛国心)を笑い、中盤から教会の愚行――スコラ神学の空論、修道士の偽善、司教の富への執着、教皇の戦争――を痛烈に諷刺する。最終部で愚神は突然真剣になり、「真のキリスト教徒は、この世の知恵を愚かとする者である」と逆転する。
この逆説――愚こそ賢、賢こそ愚――が書の核心である。ルター派はこれを教会改革の先駆と読み、カトリック正統派は「教会を内部から弱める書」と非難した。エラスムス自身は「真面目な友人への冗談として書いた」と弁明したが、刃は本物だった。
041516年――新約聖書校訂版
エラスムスの生涯最大の仕事は、1516年3月にバーゼルのフローベン印刷所から刊行された『新約聖書(Novum Instrumentum omne)』である。バーゼルで入手できた限られたギリシア語写本を照合して本文を再構成し、新しいラテン語訳と対照させた画期的な版である(1519年の第二版から書名は Novum Testamentum に改められる)。
それまで西方キリスト教世界で標準とされていた新約聖書は、4世紀末にヒエロニムスが改訂したラテン語ウルガータであり、それが広く支配的に用いられていた。千年以上、西ヨーロッパの主流はギリシア語原典を直接読み直すことから遠ざかっていた。エラスムスは印刷されたギリシア語新約聖書として最初に流通したこの版で、その状況を根本から覆した。
ウルガータ訳には誤訳や疑わしい箇所が数多くあり、エラスムス版はそれを明示した。例えば「ヨハネの第一の手紙5章7節」の三位一体に関する一節(コンマ・ヨハンネウム)は、彼が参照したギリシア語写本に見あたらないとして初版・第二版では省いたが、神学論争と新たに提示された写本を受けて1522年の第三版で挿入した(のちに再び論争となる)。
この書はヨーロッパ中の知識人に(ad fontes)という衝撃を与えた。ルターはこの版をもとに1522年にドイツ語新約聖書を翻訳し、ティンダルは英訳(1526)した。エラスムスの原典主義がなければ、宗教改革の聖書運動は成立しなかった。
05ルターとの決裂――自由意志論争
1517年、ルターが95箇条の提題を掲げたとき、エラスムスは好意的な距離を保った。教会改革の必要は感じていたし、ルターの批判の多くに共感していた。しかし急進化と暴力化にエラスムスは耐えられなかった。農民戦争(1524-25)、聖像破壊、宗派分裂――これらは彼の夢見た「穏やかな改革」とは真逆だった。
1524年、長い沈黙を破って彼は『自由意志論(De Libero Arbitrio Diatribe)』を刊行した。ルターの予定説的恩寵論(人間の意志は救済に何の力も持たない、すべては神の恩寵による選びである)に反対し、人間の意志にも救済に協働する余地があると論じた。
ルターは激怒し、1525年に大著『奴隷的意志論(De Servo Arbitrio)』で反駁した。ルターにとってエラスムスは「キリストではなくキケロを愛する人文主義者」だった。エラスムスにとってルターは「神学の熱狂で平和を破壊する者」だった。この論争で、北方人文主義と宗教改革の道は決定的に分かれた。
以後、エラスムスはカトリック側にもプロテスタント側にも完全には属さず、両方から攻撃される孤独な独立の学者として生きる。
06晩年のバーゼル・フライブルク、平和への呼びかけ
1521年からバーゼルを本拠に、フローベン印刷所の主任校訂者・編集顧問として、教父(アウグスティヌス、ヒエロニムス、オリゲネス)の全集を次々と刊行した。これは近代教父学の基礎となる仕事である。
同時に、ヨーロッパの君主たちに平和を訴える小冊子を書き続けた。『キリスト教君主の教育』(1516、カール5世に捧げる)、(1517)、『戦争の好ましからざること』(1515)は、同時代の宗教戦争と政治戦争に対して明確な反戦論を展開している。
自然は人間に戦争を教えない。獣でさえ同族と争わない。それなのに理性を持つ人間だけが、信仰の名において、言葉一つの違いのために、隣人の血を流す。
1529年、バーゼルが宗教改革派の支配下に入ると、プロテスタント的紛争を避けてフライブルク(オーストリア領、カトリック圏)に移住。それでも両派から攻撃され続け、1535年にバーゼルへ戻った。
07最期――両派の外に
1536年7月11日から12日の夜、バーゼルのヒエロニムス・フローベン(ヨハンの子)の家で、赤痢による死を迎えた。享年69頃。最期の言葉はラテン語でも古代ギリシア語でもなく、母語オランダ語の「親愛なる神よ(Lieve God)」だったと同席者は記録した。
晩年の蔵書はすでに1525年にポーランド人人文主義者ヤン・ワスキ(Jan Łaski)に売却されており、没後の文学的遺稿と家財は主相続人ボニファキウス・アメルバッハらが管理した。遺言ではフローベン印刷所や親しい友人、貧しい学生への援助(のちに Legatum Erasmianum と呼ばれる)が指定され、教会そのものへの遺贈は含まれない、当時としては異例の内容だった。
カトリック教会は1559年に彼の全著作を禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)に入れた。プロテスタント側の評価は両義的で、初期にはルターを先取りした人文主義者として称賛される一方、ルターとの決別後は「中途半端な改革者」「裏切り者」としても攻撃された。しかし17世紀の敬虔主義、18世紀の啓蒙思想、19世紀の自由主義神学、20世紀のエキュメニズム運動に至るまで、「両派を超える独立の知性」としての彼の位置は再発見され続けている。
08主要な出来事と著作
- ロッテルダムに私生児として誕生(生年は1466/1469諸説)
- デーフェンテルで共同生活兄弟会の学校に学ぶ
- ステーン修道院に入会
- 司祭叙階
- パリ大学へ、ラテン古典と原典聖書研究に専念
- イングランド滞在、ロンドンでモア、オックスフォードでコレットと出会う
- イタリア滞在、『アダギア』増補、トリノ大学で神学博士号
- モア邸で『愚神礼讃』執筆(1509)、パリで初版刊行(1511)
- 『新約聖書校訂版』(Novum Instrumentum)刊行、バーゼル
- ルター95箇条、『平和の訴え』執筆
- ルターとの自由意志論争
- バーゼルからフライブルクへ
- バーゼル帰還
- バーゼルで死去。享年69
- カトリック教会により全著作が禁書目録に
残した思想の輪郭
- 原典へ還れ(ad fontes) ― 伝統的注釈でなく古典と聖書の原典を直接読む人文主義の標語
- 新約聖書校訂版(1516) ― ギリシア語原典と新ラテン訳、ルター独訳・英訳の土台
- ― 諷刺を通じて教会と社会の偽善を笑う、西洋諷刺文学の古典
- 両派の独立 ― カトリックにもプロテスタントにも完全には与しない孤独な立場
- ― 原始キリスト教(プリミティヴ・キリスト教)と古典教養の統合
- 自由意志論 ― ルターの予定説的恩寵論に反対、人間の協働余地を擁護
- 平和論 ― 戦争と暴力への一貫した反対、近代平和論の先駆
出典と確認メモ
6件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1509 年イタリア旅行からロンドンのトマス・モア邸へ戻る途中の馬上で着想を得たと伝わる『愚神礼讃』(1511 年パリ初版)の基調精神を、編者が本書全体の趣意として凝縮したもの。原文の一文の直訳ではな...
- 抜粋解釈として提示要旨訳
要旨訳: 私は愚神だ。人間を動かすのは理性ではなく、私だ。愛も友情も結婚も、すべての人間活動の楽しさは私に負う。哲学者たちは私を蔑むが、私なしには彼らの高貴な議論も続かない。
一次資料を開くFolly 自己紹介セクション (§§1-3): 'I am Folly... without me, you find nothing happy, noth...
- 抜粋解釈として提示要旨訳
要旨訳: 自然は人間に戦争を教えない。獣でさえ同族と争わない。それなのに理性を持つ人間だけが、信仰の名において、言葉一つの違いのために、隣人の血を流す。
一次資料を開くQuerela Pacis (1517) 英訳全文。Peace 一人称が嘆く形式で『nature has formed one animal, and one ...
- 抜粋解釈として提示要旨訳
要旨訳: 真剣すぎる者は危険だ、半分の笑いが加われば彼の真剣さは人を滅ぼさない
一次資料を開くProject Gutenberg 版 Erasmus, In Praise of Folly (Hudson/Kennett 英訳)。Folly が宣言する『...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: erasmus.mdx pullsource: '『愚神礼讃』(Moriae Encomium, 1511年)の趣意'。Erasmus, Moriae Encomium (Paris: G. de G...
一次資料を開くMoriae Encomium 英訳 (Hudson 1668 / Kennett 1709) 全文。philoglyph pullsource attribu...
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: もっとも不利な平和でさえ、もっとも正当な戦争に勝る
一次資料を開くEarly English Books Online: Bellum Erasmi 英訳初版 (1533/4) 表紙書誌記録。'Dulce bellum ine...
つながり
- トマス・モア
伴走 — キリスト教人文主義の盟友、『愚神礼讃』はモア邸で執筆
- マルティン・ルター
対比 — エラスムス『自由意志論(De libero arbitrio)』(1524)に対しルター『奴隷的意志論(De servo arbitrio)』(1525)で応答、「自由意志は単なる名目にすぎない」と全面的に反論。人文主義(エラスムス、自由意志を肯定し改革を教育と道徳で進める)と改革派(ルター、恩寵のみによる義認)の決定的分岐点となり、北方人文主義は宗教改革と袂を分かつ
- アルブレヒト・デューラー
伴走 — 1520-21年ネーデルラント旅行日記でエラスムスとの面会を記録、1526年の銅版画肖像(エラスムス48歳像)を制作。北方人文主義の視覚と言語の双方を担った双璧
- ジャン・カルヴァン
批判的継承 — パリ・モンテギュ学院でエラスムス人文主義の原典批評を身につけセネカ『寛容について』注釈(1532)でラテン古典学者としてデビュー、後に『綱要』序文で人文主義的方法を神学に転用しつつ自由意志論争ではルター側に立つ
さらに読むならFurther Reading
エラスムスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門痴愚神礼讃 ― ラテン語原典訳
エラスムス / 訳: 沓掛良彦 / 中公文庫
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生きた跡を辿るPlaces
エラスムスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- バーゼル大聖堂(ミュンスター)墓所
バーゼル, スイス
1536年、プロテスタント都市の手で異例のエキュメニカルな葬儀を経て大聖堂に埋葬。赤大理石の墓碑銘が左側廊に残る
- エラスムス像(ロッテルダム)ゆかり
ロッテルダム, オランダ
ヘンドリック・デ・ケイセル作、1622年除幕。オランダ初の公共ブロンズ像にして、軍人でも王でもない知識人を讃えた当時のヨーロッパで唯一の例
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
エラスムスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「デジデリウス・エラスムス」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Erasmus"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Desiderius Erasmus"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Desiderius Erasmus (1468?—1536)"
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