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宗教的思索

マルティン・ルター

Martin Luther·1483–1546·ドイツ·

救いは、 何によってもたらされるか?

「信仰義認」を叫び中世の教会権威を打ち破った修道士改革者

  • 95箇条
  • 信仰義認
  • 聖書のみ

時代の空気

神聖ローマ帝国はカール5世の即位を迎え、皇帝の権威と七選帝侯・諸侯領邦の自立がせめぎ合っていた。ローマでは新サン・ピエトロ大聖堂の造営費を賄うため贖宥状の販売がアウクスブルクの大商人フッガー家の融資と結びつき、教皇庁の財政と独占の鎖が露わになっていた。グーテンベルクの活版印刷は半世紀を経て安価なパンフレット文化を育て、エラスムスら人文主義者が「源泉へ」と原典回帰を呼びかけていた。スコラ神学はオッカム派の硬直のなかで内省を失い、農民層は領主と教会の二重の年貢に喘ぎ、修道院も都市の商業もどちらも信を細らせていた——宗教改革前夜の張りつめた空気のなかに、一人の修道士が立っていた。

01マンスフェルトの鉱山主の息子

1483年11月10日、ザクセン=アンハルト地方アイスレーベンに生まれた。翌日、聖マルティヌスの日に洗礼を受け、マルティンと名付けられる。一家はまもなく南西の小都市マンスフェルトに移り、父ハンス・ルダー(Luder)は銅山の採掘と精錬せいれんの事業で小富を築いた市民となった。母マルガレーテは職人家系の娘。家は厳格で宗教的、むちも日常的に使われた。

少年マルティンはマンスフェルトとマクデブルク、アイゼナハのラテン語学校を経て、1501年エアフルト大学に入学。1502年に学芸学部の学士がくし、1505年1月に哲学修士を取得した。父は彼を法律家にしたく、ユスティニアヌス『学説彙纂』の註解書を購わせている。しかし運命うんめいは違う方向を指した。

1505年7月2日、実家からエアフルトへ戻る帰路、シュトッテルンハイムの野で雷雨に遭った。落雷が傍らの木を裂き、地に伏した彼は鉱山町の守護聖人に祈った ― 「聖アンナよ、お助けください、私は修道士になります」。約束通り、わずか半月後の7月17日、父の反対はんたいを押し切ってエアフルトのアウグスチノ会(隠修士会)厳修派げんしゅうは修道院に入った。1507年に司祭に叙階され、初ミサで「自分は誰に向かって語っているのか」と戦慄せんりつしたと、後年の食卓談話で振り返っている。

02救いへの苦悶

修道士ルターは厳格だった。規則を厳守し、長時間の祈り、厳しい断食、繰り返しの告解こっかい ― 小さなつみまで思い出しては告解司祭に打ち明け、ときに六時間も赦しを求めて居続けたという。会の代理総長ヨハン・フォン・シュタウピッツは、この若者の強迫的な完全主義に辟易へきえきし、「神はあなたを怒ってはいない、あなたの方が神を怒っているのだ」「キリストの傷を見つめなさい」とさとした。

1508年、シュタウピッツの推挙でヴィッテンベルク大学に派遣され、道徳哲学(主にアリストテレス『ニコマコス倫理学』)を講じる。1510年から翌年にかけ、会内紛争の使節として徒歩でローマへ赴いた(生涯唯一のイタリア訪問)。聖地の商業化と高位聖職者の奢侈しゃしを目撃する一方、サンタ・スカラのひざまずく階段に当時の慣習通り這い上がりながらも、もはや救いを実感できなかったと、のち1545年の自伝的序文に記している。1512年10月18-19日、神学博士号を取得し、シュタウピッツの後任としてヴィッテンベルク大学聖書学講座教授に就任した。

1513年から詩編、1515-16年にローマ書、続いてガラテア書とヘブル書を講じるなかで、ルターはローマ書1章17節「神の義は福音に啓示されている。義人は信仰によって生きるであろう」を巡る瞑想めいそうで生涯最大の転機を迎えた ― 後年、自伝的序文(1545)で「」と呼ぶ瞬間である。神の義とは、人を罰する報復的義(iustitia activa)ではなく、無償でキリストを通じて信仰者に与えられる受動じゅどう的義(iustitia passiva)である。行為の積み上げでも教会の功徳の蓄えたくわえでもなく、ただ信仰のみ(sola fide)によって人は義とされる ― この確信が、以後のルター神学の核心となった。

0395箇条の提題 ― 1517年

1517年、ドミニコ会修道士ヨハン・テッツェルがブランデンブルクとマクデブルクの境を巡り、ザクセン選帝侯領の手前で贖宥しょくゆう状(いわゆる「免罪符」)を派手に販売していた。「金貨が箱に落ちて鳴るとき、煉獄の魂は天へ飛び立つ」という呼び込み句が伝わる。収益はローマの新サン・ピエトロ大聖堂の造営費と、マインツ大司教アルブレヒトが司教権複数保有(けん任は教会法上違法)を教皇から得るためにフッガー家から借りた金の返済に充てられていた(後者は秘匿されていた)。

ルターは激怒した。罪のゆるしは神と魂の関係であり、金で買えるものではない。1517年10月31日(万聖節前夜)、彼は『贖宥の効力を明らかにするための討論』()をラテン語でまとめ、上長であるマインツ大司教アルブレヒトとブランデンブルク司教ヒエロニムスに書簡として送付した。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、信徒の生涯すべてが悔い改めであるべきと欲したのである」(第1条)。第27条で先のテッツェルの呼び込みを名指しで否定し、第86条「教皇は今日最富裕さいふゆうのクラッスス級の富を持ちながら、なぜ自らのざいではなく貧しい信者の財で大聖堂を建てるのか」と問うた。

よく知られた「ヴィッテンベルク城教会の扉にくぎで打ち付けた」という場面は、ルター自身の同時代の記録には明確な言及がなく、友人フィリップ・メランヒトンが彼の死後に書いた序文(1546)が初出である。歴史家は象徴的伝承と史実を慎重に区別している(城教会の扉が当時のヴィッテンベルク大学の学術掲示板を兼ねていたため、書簡送付と並行して討論用に貼付された可能性は残る)。

反応は予想を超えた。書簡が他者の手で印刷に回された結果、提題は数週間でドイツ語訳され、活版印刷の力でライン下流からネーデルラントまで広まった。1518年4月、アウグスティノ会ハイデルベルク総会でルターは『ハイデルベルク討論』を行い、「栄光の神学」(行為と理性で神の栄光を上昇しようとする)を退け「十字架じゅうじかの神学」(隠れた神を苦難のキリストの背に見る)を掲げた。同年10月、教皇代理枢機卿カエタンとの尋問じんもん(アウクスブルク)で撤回を拒否。1519年7月のライプツィヒ討論ではエックとの応酬のなかで、コンスタンツ公会議が処刑した先駆せんく者ヤン・フスを「彼の主張の多くは正しい」と擁護してしまい、自らを異端いたんの系譜に連ねることとなった。

04ヴォルムス帝国議会 ― 1521年

1520年夏から秋にかけ、ルターは三大改革文書を矢継ぎ早に刊行した。『キリスト教界の改善に関しドイツのキリスト者貴族に与える書』(8月)、『教会のバビロニア捕囚ほしゅう』(10月、ラテン語)、(11月、ラテン語版を皇帝にも献じ、後にドイツ語版)。教皇・公会議・教会法の三つの「壁」(貴族書)を打ち破り、秘跡を聖書に照らして洗礼と聖餐の二つに絞り(残る告解は「補助的」と位置づけ直し、終油・婚姻・叙階じょかい・堅信を秘跡から除外)、「キリスト者はすべての者の自由な主であり誰にも従属しない/キリスト者はすべての者のしもべであり、すべてに従属する」(『キリスト者の自由』冒頭の二命題)という逆説ぎゃくせつを信仰の核に据えた。論(洗礼を受けた者は皆、霊的身分において祭司である)はローマの聖職階層の根幹を揺るがした。

1520年6月15日、教皇レオ10世は破門勅書『主よ立ち上がりたまえ(Exsurge Domine)』を発し、41項目の異端を列挙して60日以内に撤回しなければ破門すると宣告した。12月10日、ルターはヴィッテンベルクのエルスター門前で勅書とカノン法典(教会法集成)を学生たちに囲まれて公然といた。1521年1月3日、勅書『ローマ教皇に相応しく(Decet Romanum Pontificem)』により正式に破門はもんされた。

1521年4月、神聖ローマ皇帝こうていカール5世はヴォルムス帝国議会ていこくぎかいにルターを召喚した。危険な旅だった ― 1415年、コンスタンツ公会議が同様の安全通行証(salvus conductus)を発した後にヤン・フスを焚刑ふんけいに処した前例があった。4月17日、皇帝の前で著作のやまを示され、撤回するかと問われたルターは一日の猶予ゆうよを求めた。翌4月18日夕、彼はラテン語とドイツ語で答えた ― 「聖書の証言と明白な理性によって私が誤りを認められない限り、私は何も撤回できないし、撤回するつもりもない。教皇も公会議もしばしば誤りを犯し、相互に矛盾してきたのだから。私の良心は神の言葉に縛られている。良心に反して行動することは正しくも安全でもない。神よ助け給え、アーメン」。

「Hier stehe ich, ich kann nicht anders(我ここに立つ、他のしようなし)」の有名な結びは、最古の速記録(Aleander 報告)には含まれず、1521年の印刷版『ルター博士のヴォルムスでの行為』(Acta Lutheri)に初めて現れる。実際の口から出たかは歴史家のあいだで議論があるが、ヴォルムス演説そのもの ― 良心と明白めいはくな聖書を権威の上に置く姿勢 ― は、近代の良心の自由の起点として読み継がれることになる。

議会は5月8日付で(発効は5月25日以降)ヴォルムス勅令を発し、ルターを帝国の追放ついほう者とした。しかしザクセン選帝侯フリードリヒ賢公は彼を保護するため、帰途5月4日、テューリンゲンの森で武装騎士による「襲撃しゅうげき」を偽装してかくまった。

聖書と明らかな理性によって論駁されない限り、私は何も撤回できない。私の良心は神の言葉に縛られている。

ヴォルムス帝国議会での弁明(1521年4月18日)

05ヴァルトブルク城、ドイツ語聖書

1521年5月から翌1522年3月まで、ルターはアイゼナハ近郊の山上ヴァルトブルク城の一室にユンカー・イェルク(騎士きしゲオルク)の名でかくれ住んだ。ひげを伸ばし、剣を帯び、騎士の装いで地元へ降りることもあったという。胃腸の不調ふちょう、慢性的な便秘、孤独、神学的試練(Anfechtungen ― 神に見捨てられたとの疑念ぎねんの発作)に苦しんだ。「悪魔に向かって壁にインク壷を投げつけた」という伝承は晩年の食卓談話と城のガイド口承から育った象徴で、現存のシミは19世紀以降の創作の可能性が高い。

それでもこの十か月で、ルターはエラスムス校訂の1519年版ギリシア語新約聖書を底本に、約11週間で『新約聖書』のドイツ語訳を仕上げた。1522年9月、ルーカス・クラナッハの木版もくはん画(『ヨハネの黙示録』のバビロンの淫婦に教皇冠を被せた版で物議)を伴い、ヴィッテンベルクのメルヒオール・ロッタウ印刷所から「九月聖書」(September-Testament)として刊行され、初版三千部が数か月で売り切れた。旧約聖書はメランヒトン、アウローガルス(ヘブライ語)らとの共同作業で十二年をかけ、1534年完訳『ヴィッテンベルク全書聖書』として結実した。

このルター訳は、ザクセンの官房ドイツ語(Sächsische Kanzleisprache)を基盤に北独・南独の語彙を吟味して取り入れ、市場の女・町の子供・家の母から語彙を聞き取ったと『翻訳についての書簡』(1530)に記す ― 「翻訳とは、ラテン語からドイツ語への直訳ではなく、ドイツ語の口に合うように語らせることである」。分裂していた諸方言を超える近代標準ドイツ語の鋳型いがたを形づくり、後にゲーテ・ニーチェに至る言語的遺産となった ― 宗教改革を超える文化的遺産いさんと評される所以である。

06農民戦争、結婚、分裂

1524-1525年の農民のうみん戦争(Bauernkrieg)は、ルターの福音的自由の宣言を社会的解放と結びつけて農民層が蜂起した、近代以前ヨーロッパ最大級の民衆みんしゅう蜂起である。1525年3月にメミンゲンで採択された『農民の十二箇条』は牧師の自選、十分の一税の改革、農奴制の廃止を聖書から論証し、文中ルターの名にも訴えていた。これに対しルターは1525年4月『シュヴァーベンの十二条への平和の勧告』で諸侯と農民の双方に自制を求めたが、暴力が広がると同年5月『盗み殺す農民暴徒に抗して』(Wider die räuberischen und mörderischen Rotten der Bauern)を発表し、「狂犬を殺すように打ち、刺し、絞め殺せ」と諸侯に鎮圧ちんあつを促した。フランケンハウゼンの会戦(5月15日)を含む各地の戦闘で農民側の死者は10万人前後と推計される。この硬直は(霊的王国と世俗的王国は別の原理げんりで統治される)に支えられたものだったが、急進派トマス・ミュンツァーの黙示的叛乱はんらんと農民の素朴な訴えとを区別しきれなかった点で、後世の鋭い批判を浴び続けた。

1525年6月13日、41歳のルターは元シトー会修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚した。16歳下の彼女は1523年4月、復活祭前夜に他の8人とニンプシェン修道院をニシン樽に隠れて脱走だっそうした一人で、ヴィッテンベルクで奉公先を探していた。ルターは結婚を「天使の喜び、悪魔の苦悶」「信仰しんこうの告白の最終形」と書いた。カタリーナはルター家(旧ブラック・クロイスター)の会計を担い、ブタ・牛・馬を飼い、薬草を煎じ、自家醸造のビールで夫を慰め、五十人を超える下宿人と訪客を切り盛りした。「私のお方 ― 家の主」(mein Herr Käthe)と彼は彼女をユーモラスに呼んだ。1526年から1534年にかけ六人の子に恵まれたが、長女エリザベト(生後せいご八か月)と次女マグダレーナ(13歳)を早くに亡くし、後者の死は『食卓談話』にも沈痛に記録される。

宗教改革は急速に分裂した。1525年、エラスムスが『自由意志論』を発するとルターは翌年(De servo arbitrio)で反駁し、人文主義との断絶を宣告した。チューリヒのツヴィングリとは聖餐の「これは私の体である(Hoc est corpus meum)」を字義通りに取るかをめぐって対立し、ヘッセン方伯フィリップが調停を試みた1529年10月のマールブルク会談は、十五条のうち十四条で合意しながら最後の聖餐解釈で決裂けつれつした。1530年、メランヒトン起草『アウクスブルク信仰告白』が皇帝に提出され、ルター派教会は信仰告白共同体として領邦に根を下ろす。1531年シュマルカルデン同盟で福音派諸侯は軍事的にも結束したが、急進派(再洗礼派)との分離、領邦教会化(夫々の領邦の君主が「緊急司教」となる)が進み、「万人祭司」の理想は現実政治のなかで曲げられていった。

07晩年の影、アイスレーベンの死

晩年のルターは、痛風つうふう・腎結石・メニエール症状・心臓発作と病を重ね、怒りっぽく病身びょうしんがちだった。1531年から弟子たちが食卓と書斎で記録した『食卓談話』(Tischreden)は六千を超える断片を伝え、信仰の深い省察せいさつと、ユーモアと、時に粗野な罵倒や下品な冗談が混ざる ― 編集された語録ゆえ字義通りには引けないが、晩年の精神風景の最良の証言である。

そして1543年、60歳のルターは『ユダヤ人と彼らの嘘について』(Von den Juden und ihren Lügen)を発表した。改宗かいしゅうを拒むユダヤ人に対し、シナゴーグと学校を焼く、家を破壊する、祈祷書とタルムードを没収する、ラビの教授を禁じる、通行の安全を奪う、高利を禁じて重労働じゅうろうどうに就かせる、もしくは追放する ― いわゆる「七つの提言」を諸侯に提案した。1523年の『イエス・キリストはユダヤ人として生まれた』では改宗の希望を込めた寛容を説いていたが、改宗が進まぬまま晩年の絶望ぜつぼうと病とが結びつき、神学的反ユダヤ主義の極北とも言うべきこの暗い文書を残した。20世紀にナチスがニュルンベルク党大会でこれを反ユダヤ主義の「ドイツ的権威」として喧伝し、シュトライヒャーが法廷で引用した事実は、戦後のルーテル教会自身に長い自省じせいを強いた(1994年、米国福音ルーテル教会(ELCA)が公式に遺憾を表明、2017年、宗教改革500年に際してドイツ福音主義教会(EKD)も改めて謝罪を声明)。

1546年1月、故郷マンスフェルトの伯爵兄弟が領地と採鉱さいこう権の相続をめぐりあらそっていた調停のため、ルターは厳寒のアイスレーベンへ赴いた。2月14日に最後の説教(『説教は終わった、続きはあの世で』と冗談を残して降壇)。2月18日未明、相次ぐ胸部の激痛のなかでった。62歳。枕元の机には二日前に書き残した最後のメモがあった ― 「我らは乞食である、これは真理だ(Wir sind Bettler. Hoc est verum.)」。遺体いたいは氷雨のなかヴィッテンベルクに運ばれ、彼が95箇条を打ち付けたとされる城教会(現ルター記念教会)の説教壇の傍らに埋葬された。

08主要な出来事と著作

  1. 11月10日、アイスレーベンに誕生。父は銅山採掘・精錬業の市民
  2. エアフルト大学、学士から哲学修士へ。父は法律家を望む
  3. 7月2日シュトッテルンハイムの落雷の誓い。7月17日アウグスチノ会入会
  4. 司祭叙階。初ミサで「私は誰に語っているのか」と戦慄
  5. シュタウピッツの推挙でヴィッテンベルク大学派遣
  6. 会の使節として徒歩でローマへ(生涯唯一のイタリア訪問)
  7. 神学博士号取得。ヴィッテンベルク大学聖書学講座教授
  8. ローマ書講義。「塔の体験」 ― 受動的義の発見
  9. 10月31日、95箇条の提題をマインツ大司教アルブレヒトに送付
  10. 4月ハイデルベルク討論「十字架の神学」。10月カエタンと対決
  11. 7月ライプツィヒ討論。フスを擁護し異端の系譜に連なる
  12. 三大改革文書(『貴族』『バビロニア捕囚』『キリスト者の自由』)。破門勅書を焚く
  13. 1月正式破門。4月ヴォルムス帝国議会で撤回拒否。5月ヴァルトブルクへ
  14. ヴァルトブルク城、11週間で新約をドイツ語訳。9月「九月聖書」刊行
  15. 農民戦争。『盗み殺す農民暴徒に抗して』。6月13日カタリーナと結婚
  16. 12月『奴隷的意志論』 ― エラスムスとの決定的決裂
  17. 10月マールブルク会談でツヴィングリと聖餐解釈をめぐり決裂
  18. アウクスブルク信仰告白(メランヒトン起草)を皇帝に提出
  19. 『ヴィッテンベルク全書聖書』刊行(旧約含む完訳版)
  20. 『ユダヤ人と彼らの嘘について』 ― 晩年の深刻な汚点
  21. 2月18日、故郷アイスレーベンで急死。享年62

残した思想の輪郭

  • (sola fide) ― 人は行為ではなく、信仰によってのみ神の前で義とされる
  • (sola scriptura) ― 信仰の規範は教会伝承ではなく聖書だけである
  • 万人司祭論 ― すべての信者が司祭であり、特権的聖職者階級を必要としない
  • 二王国論 ― 霊的王国(教会)と世俗的王国(国家)は異なる原理で統治される
  • キリスト者の二重の自由 ― 信仰において誰からも自由、愛において万人の僕となる
  • 近代ドイツ語の形成 ― 聖書翻訳を通じたドイツ語標準化という意図せざる文化的遺産
1546年2月18日、故郷アイスレーベンに赴いた旅先で急死。62歳。最期の「我らは乞食である、これは真理だ」というメモが机に残された。
7
  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1521年5月から翌1522年3月まで、ルターはアイゼナハ近郊の山上ヴァルトブルク城の一室にユンカー・イェルク(騎士ゲオルク)の名で隠れ住んだ。髭を伸ばし、剣を帯び、騎士の装いで地元へ降りることもあっ...

  • 文脈伝承として記録伝承

    伝承: よく知られた「ヴィッテンベルク城教会の扉に釘で打ち付けた」という場面は、ルター自身の同時代の記録には明確な言及がなく、友人フィリップ・メランヒトンが彼の死後に書いた序文(1546)が初出である。歴史家...

  • 引用本文原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 聖書と明らかな理性によって論駁されない限り、私は何も撤回できない。私の良心は神の言葉に縛られている。

    一次資料を開くDeutsche Reichstagsakten Jüngere Reihe Bd. 2 (Gotha 1896 / Göttingen 1962) — 152...

  • 出典伝承として記録伝承

    伝承: ヴォルムス帝国議会(1521年4月)、伝承句 ― 直同時代記録には欠ける。philograph mdx pullsource (frontmatter) は本句『私はここに立つ。これ以上、他のしようが...

    一次資料を開くWeimarer Ausgabe (WA) は 19 世紀末 - 20 世紀の Luther 著作標準校訂版。Vol. 7 (1897) には Worms 15...

  • 引用原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 主が『悔い改めよ(poenitentiam agite)』と言われたとき、主は信者の全生涯が悔い改めであることを望まれた

    一次資料を開く95 Theses (1517-10-31) Thesis 1 Latin: 'Dominus et magister noster Iesus Christu...

  • 引用伝承として記録伝承

    伝承: 「私はここに立つ。これ以上、他のしようがない」 ― 伝承的な結びの言葉

    一次資料を開く結句 'Ich kan nicht anderst / hie stehe ich / Gott helff mir / Amen.' が初めて印刷された Wi...

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1521年4月、皇帝カール5世の召喚に応じヴォルムス帝国議会に立ったルターが、著作の撤回を迫られて答えた弁明の締めくくりとして流布する句。聖書と明白な理性に反しないかぎり撤回はできない、と述べたあとに...

    一次資料を開くWeimarer Ausgabe (WA) は 19世紀末-20世紀の Luther 著作標準校訂版。Vol. 7 (1897) には Worms 1521 帝...

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生きた跡を辿るPlaces

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