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宗教的思索

ディートリヒ・ボンヘッファー

Dietrich Bonhoeffer·1906–1945·ドイツ·

「敵を愛せよ」と説いた牧師は、 なぜ暗殺計画に加わったのか

ベルリン大学の俊秀神学者として『キリストに従う』を書き、ナチスへの抵抗のなかで「宗教なきキリスト教」を構想した獄中の思想家

  • 告白教会
  • 高価な恵み
  • 宗教なきキリスト教
  • 倫理
  • 獄中書簡
国と教会がひとつに溶け合い、ヒトラーに逆らう牧師が牢へ送られた時代 — ひらく

時代の空気

ヴァイマル末期の混迷からヒトラー第三帝国、そして世界大戦へ滑り落ちていく時代だった。ベルリンの教養市民層は政治と神学の境を曖昧にしたまま、国民教会と国家の融合を黙認していた。1933年4月のアーリア条項は教会にも及び、ユダヤ系聖職者の公職追放が強行される。これに抗う告白教会と、体制協力派「ドイツ的キリスト者」が分裂し、1934年バルメン宣言が出された。ポメラニアの寒村フィンケンワルデの神学校は1937年にゲシュタポに閉鎖される。1944年7月の暗殺未遂事件後、抵抗者たちは強制収容所へ移送されていった。

011945年4月9日、フロッセンビュルクの朝

1945年4月9日、朝の6時ごろ。バイエルンのフロッセンビュルク強制収容所きょうせいしゅうようじょで、一人の男が処刑場に立った。前の日、収容所の簡易法廷は彼に反逆罪で死刑を言い渡していた。ヒトラー本人の命令による、急ぎの処刑だった。

一緒に死刑を言い渡されたのは、軍の大物たちだった。軍情報部の長官カナリス提督、オスター将軍。軍判事のザック、そして大佐が二人。彼の義兄ハンス・フォン・ドーナニーも、同じ日に別の収容所で命を奪われる。将軍たちの列に、39歳の牧師が一人まじっていた。名をディートリヒ・ボンヘッファーという。

収容所の医師は、後にこう証言している。「処刑の前、彼は跪いて祈った。私は49年間の医師生活で、あれほど神に服従して死ぬ人を見たことがない」。同じ収容所にいた英国将校ペイン・ベストに残したとされる最後の言葉は、こうだった。「これは終わりだ。しかし私にとっては、始まりだ」。彼は絞首刑こうしゅけいで死んだ。

この日は、ヒトラーが自ら命を絶つ21日前だった。ドイツが降伏する1か月前だった。収容所が米軍に解放されたのは、わずか2週間後の4月23日である。処刑が数日でも遅れていれば、彼は生きて解放を迎えていた可能性が高い。

しかし本当の問いは、日付ではない。この男は牧師であり、大学で神学を教えた学者だった。若い日に「汝の敵を愛せよ」の言葉を読み、戦争に反対する気持ちを強めた人だった。その人が、なぜヒトラー暗殺の罪で、将軍たちと並んで絞首台に立っていたのか。答えを探すために、時は39年前に戻る。

02ブレスラウの学者の家、ベルリンの少年

1906年2月4日、ディートリヒ・ボンヘッファーはブレスラウに生まれた。今のポーランド、ヴロツワフである。八人兄弟の六番目で、双子の妹ザビーネと同時に生まれた。父カールは、ヨーロッパに名の知られた精神医学者だった。母パウラは伯爵家の出で、子どもたちを家で教えた。

夕食の食卓では、政治も音楽も科学も文学も、毎晩のように話し合われた。1912年、父がベルリン大学の教授に招かれた。一家はベルリン西部、グリューネヴァルトの静かな住宅街へ移った。家には歴史家デルブリュックや、物理学者プランクが出入りした。神学者は隣人だった。

長兄は物理学者に、三男は法律家になった。ドイツの教養ある市民の家の、お手本のような家庭だった。けれど食卓には、決して埋まらない席があった。1918年、次兄ヴァルター(18歳)がフランス戦線で戦死した。第一次世界大戦の、榴弾りゅうだんの破片によるものだった。

母は半年以上、ベッドから出られなかった。家中の音楽は、しばらく止まった。母がディートリヒの堅信式に贈った聖書がある。堅信式とは、教会で信仰を自分のものとして誓う式である。その聖書は、もとは戦死したヴァルターのために用意されていたものだと伝えられる。ディートリヒはこの聖書を、生涯手元で使い続けた。

14歳のとき、ディートリヒは家族を驚かせた。神学者になる、と宣言したのだ。父は物理学か音楽を期待していた。彼はすぐれたピアニストだったからだ。父は息子に言った。「教会は、お前が捧げるにはあまりにも貧相だ」。ディートリヒは答えた。「それならば、私がそれを改革します」。家族に伝わる、短いやりとりである。貧相な教会を改革すると言った少年は、どんな神学者になっていくのか。

03神学の神童

1923年、17歳でチュービンゲン大学の神学部に入った。1年後、ベルリン大学に移った。当時のベルリン神学部は、ドイツのプロテスタント神学の中心だった。教会史のアドルフ・フォン・ハルナック、組織神学のラインホルト・ゼーベルクが教えていた。ボンヘッファーは、ハルナックの最後の演習に参加した。

同時に、の『ローマ書』(第二版1922)を独学で読み込んだ。バルトは当時、ゲッティンゲン大学の教授だった。ハルナックは、聖書や教会の歴史を歴史学として冷静に調べる学者だった。バルトは逆に、神は人間の歴史の上から垂直に語りかける、と説いた。人間の側から神に届く道はない、という考えである。この二人の間の緊張が、ボンヘッファーの生涯の神学の骨組みを決めた。

1927年、21歳で博士論文を提出した。ラテン語で「聖徒の交わり」という意味である。最高評価(summa cum laude)で博士号を得た。教会を、人と人の共同体として社会学で描く試みだった。社会学者ヴェーバーやテーニースの考えと、神学とを編み合わせた。カール・バルトは後年、「神学と社会学を統合したほとんど唯一の試み」として驚きをもって読んだ。

1930年、24歳で教授資格論文を提出した。大学で教える資格を得るための論文である。ハイデガーの『存在と時間』(1927)を神学から読み解く、早熟な書物だった。こうして24歳で、彼はベルリン大学の教壇に立つ資格を手にした。だがその秋、彼はドイツを離れ、大西洋を渡る。

04ニューヨーク、ハーレムの教会

1930年から31年、ボンヘッファーはニューヨークのユニオン神学校に留学した。1年間のスローン・フェローという奨学生だった。最初、彼はアメリカの神学に強く失望した。「ここには神学というものがない、社会倫理の寄せ集めがあるだけだ」と手紙に書いた。しかし二つの出会いが、この留学の意味を決定的に変えた。

一つ目は、フランク・フィッシャーという黒人の神学生との友情だった。フィッシャーに連れられて、ハーレムのアビシニアン・バプティスト教会に通うようになった。主任牧師は、アダム・クレイトン・パウエル・シニアである。黒人キリスト教徒の霊歌(ニグロ・スピリチュアル)。牧師と会衆が呼びかけ合う礼拝。苦しみの中の希望。

白人ドイツ人の学者の神学とはまるで違う、下からのキリスト教だった。彼は大量の霊歌のレコードを買い込み、ドイツへ持ち帰った。30年後、公民権運動を担うマルチン・ルーサー・キングがボンヘッファーを引用する。その背景には、この若い白人神学者のハーレム体験がある。

二つ目は、フランス人の神学生ジャン・ラセールとの出会いだった。ラセールは平和主義者で、第一次大戦ではドイツの敵国の人だった。二人はを、共に読み返した。山上の垂訓とも言う。イエスが山の上で語った教えである。「汝の敵を愛せよ」は、キリスト教国どうしの戦争を正当化できない。この読書が、ボンヘッファーを戦争に反対する立場へ向かわせる最初のきっかけだった。

1931年夏、彼はドイツに戻った。別人のように変わっていた。「私はキリスト教徒になった」と友人に書いた。神学者になったのではなく、キリスト教徒になった。その自覚の変化である。だが彼が戻ったドイツは、2年後にまったく別の国になる。

05教会闘争、フィンケンワルデ神学校

1931年から32年、ボンヘッファーはベルリン大学で講義を持った。「教会の本質について」「キリスト論」。学生と若い牧師たちの間で、人気の教師になった。1933年1月、ヒトラーが政権を取った。4月7日、「職業官吏制度再建法」、いわゆるが出た。ユダヤ系の人を公職から追い出す法律である。これが教会にも及び、ユダヤ系の改宗者である聖職者を追い出す動きが出た。

ボンヘッファーはすぐに動いた。同じ4月、ラジオ講演「指導者(Führer)と指導される者」で、指導者原理を批判した。放送は途中で切られた。論文「教会とユダヤ人問題」では、アーリア条項に教会が抵抗ていこうする義務を、早い段階で明言した。

1933年秋、彼はロンドンのドイツ系プロテスタント教会の牧師になった。いったんドイツを離れたのである。同じころドイツでは、カール・バルトを中心に(1934年5月)が出された。ヒトラーの体制に協力する「ドイツ的キリスト者」に対して、(Bekennende Kirche)が発足した。ボンヘッファーは海外からこの運動を支えた。の若手指導者として、告白教会を国際的に擁護した。エキュメニカル運動とは、教派の壁をこえて世界の教会をつなぐ運動である。世界教会協議会の前身にあたる。

1935年4月、ドイツに戻った。バルト海沿岸の小さな村フィンケンワルデ(今のポーランド・シチェチネク近郊)に、告白教会のための非合法の神学校を開いた。である。24人の若い牧師候補者と共同生活を送った。祈り、聖書、瞑想めいそう、互いの告白、身体を使う労働。修道院のような共同体を、彼は構想した。この経験から二冊の小さな本が生まれた。(Nachfolge、1937。英題 The Cost of Discipleship)と『共に生きる生活』(1939)である。

『キリストに従う』の中心は、の対比だった。悔い改めも従うことも省いて、ゆるしを大量に配る。それは安価な恵みであり、教会が世の中に流される最も深いところだ。対して高価な恵みは、神の子の命を代価とする。人間には、十字架を負ってキリストに従うことを求める。キルケゴール『キリスト教の修練』の20世紀ドイツ版とも言える、厳しい本だった。1937年9月、フィンケンワルデ神学校はゲシュタポに閉鎖された。本はその直前に出た。神学校を失った彼を次に待っていたのは、もっと重い選択だった。

高価な恵みと安価な恵みは異なる。恵みは高価である、なぜならそれは神の子の命を代価とするからである。

— 『キリストに従う』第一部(1937) ― フィンケンワルデ神学校で若い牧師たちと暮らした日々から生まれた言葉

061939年の決断、軍情報部の二重生活

1939年6月、33歳のボンヘッファーは、ユニオン神学校から再び招かれた。戦争が近いと察した友人が、彼の安全を約束した。しかしわずか1か月後の7月、彼はドイツへ戻る船に乗った。ニーバーに送られた手紙には、歴史の古典となった一節がある。「私は戦争のこの時期をドイツのキリスト教徒と共に生きねばならない。もし今この時期の試練を自分の民族と共有しなければ、戦後の再建に参加する権利を持てないだろう」。

帰国した彼を待っていたのは、締め付けだった。1940年8月、帝国保安本部は彼に公の講演と説教を禁じた。1941年3月には、執筆と出版も禁じた。牧師として声を出すこと、神学者として書くこと。その両方が、公には封じられたのである。

同じ1940年秋、義兄ハンス・フォン・ドーナニーが彼を誘った。ドーナニーは法律家で司法省の高官、後に軍情報部の中佐となる人である。彼はボンヘッファーを、アプヴェーア(Abwehr、ドイツ国防軍情報部)の名目上の嘱託しょくたくにした。アプヴェーアの長官カナリス提督と部下ハンス・オスターは、ひそかにヒトラー政権をたおす計画を進める軍人たちの中心だった。

ボンヘッファーの任務は、表向きはエキュメニカル運動の国際連絡係だった。実際には、連合国との和平交渉の道をつくることだった。そして後には、ヒトラー暗殺計画の一員となる。(Abwehr-Verschwörung)と呼ばれる計画である。彼の役目は、神学と倫理の面から仲間を支えることだった。

神学校で「キリストに従う」を説いた人が、いまや諜報ちょうほう機関の偽装出張券を握って国境を越え、敵国の主教と会う。この二重生活は、彼自身にとっても倫理の試金石となった。

1942年5月、彼はスウェーデンのシグトゥナでジョージ・ベルと極秘に会った。ベルは英国チチェスターの主教で、英国議会上院の議員、長年のエキュメニカル運動の盟友だった。ドイツ国内に反ヒトラーの勢力があること、クーデター後の暫定政府の構想を、英国政府に伝えるためだった。クーデターが成功したあとの和平の条件を探る目的もあった。しかしチャーチル政権は無条件降伏の方針を譲らなかった。和平交渉は実を結ばなかった。

この時期、彼は『倫理』(Ethik)という本の断章を書き続けていた。平和な時代の倫理学ではない。ナチスの下で何が善い行いなのかを問う、極限の倫理学だった。だがこの本は、完成しない。

時とは、我らに与えられたもっとも高価な賜物である ― それは取り返しがつかない

— テーゲルの獄中からエーバーハルト・ベートゲに宛てた手紙より(『抵抗と信仰』所収、要旨訳)

07婚約、逮捕、テーゲルの手紙

1943年1月、ボンヘッファーは(当時18歳)と婚約こんやくした。マリアの実家は、ノイマルクのペッツィヒ荘を本拠とする旧貴族の家だった。母方の祖母ルート・フォン・クライスト=レッツォウは、ポメラニアのクライン=クレッシン荘の女主人あるじである。祖母は、フィンケンワルデ閉鎖後のボンヘッファーをたびたび荘園に匿かくまっていた。二人の年齢差は18近くあり、母方の親族には反対の声もあった。それでも祖母の支えのもとで、二人は婚約した。

その3か月後、1943年4月5日。ボンヘッファーはゲシュタポに逮捕され、ベルリンのテーゲル軍刑務所に入れられた。口実は、アプヴェーア内の資金流用の疑いだった。実際には、ユダヤ人をスイスへ逃がす極秘作戦「作戦7」の資金だった。容疑は最初は通貨違反、後に軍の士気をくじいた罪となった。二人の関係は、鉄格子越しの手紙として続いた。

1944年7月20日、が起きた。シュタウフェンベルク暗殺計画とも呼ばれる。この事件への関与が判明し、彼は政治犯として扱われるようになる。

テーゲルの独房で、彼は手紙を書き続けた。婚約者マリアへ、両親へ、そしてとりわけ友人へ。ベートゲはフィンケンワルデ時代の弟子で、戦後に伝記を書く人である。ベートゲへの手紙は、看守かんしゅの一人がひそかに協力して、刑務所の外へ運び出された。これらが後にとして編集され、世に出る。独語初版は1951年、英題は Letters and Papers from Prison である。独房の中で、彼は何を考えていたのか。

08『倫理』と「宗教なきキリスト教」 ― 獄中の思索

獄中の思索は、若い日の二つの論文の延長線上にある。ハルナックの歴史的相対主義とバルトの「神の垂直性」の衝撃 ― この緊張が生涯の神学の骨格を決めた。『サンクトールム・コムニオ』は社会学(ヴェーバー、テーニース)と神学を縒り合わせ、教会を共同体として社会学的に記述する試みだった。『行為と存在』はハイデガー『存在と時間』を神学的に読み解き、行為の弁証法を組織神学に取り込む、異例の早熟な書物だった。

逮捕まで書き継がれた『倫理』(Ethik)は、平時の倫理学ではなく、ナチス体制下で何が善行かを問う極限倫理学である。「正義のための嘘」「罪への責任の引き受け」「究極の事柄(das Letzte)と究極手前の事柄(das Vorletzte)」。彼の倫理は、カント的な定言命法にも英米の徳倫理にも収まらず、現実(Wirklichkeit)そのものをキリストにおいて構成されたものとして受け取る独特の構造を持った ― 倫理の主語は個人でも社会でもなく「キリストにおいて和解された現実」である、と彼は書く。ここから、倫理は「私は何を為すべきか」ではなく「この現実において何が起こっているのか」を問うことになる。原理(Prinzip)を持たない倫理、キリスト論的責任倫理(Verantwortungsethik)として、ウェーバーとキルケゴール双方の遺産を独自に組み替えた未完の書物である。逮捕により中断され、弟子ベートゲ編集で1949年に刊行された。

なお、政治指導者を排除する直接行動(暗殺あんさつ)については、ボンヘッファー自身は神学者として明示的に「正当化」を書き残してはいない。彼の『倫理』が立てる「責任の引き受け」と「罪を負う行為」は、tyrannicide(暴君殺し)を一般原理として認可する議論ではなく、極限状況において罪を引き受けてでも行動する者がいることを神の前で語る、ぎりぎりの言葉として書かれている。彼は殉教者である以前に、自分の手を汚すことを選んだ一人の人だった。

獄中ごくちゅうの思索の中心は「」(religionsloses Christentum)だった。近代世界は成熟してきた(mündig geworden)。神を「ギャップを埋める仮説」として要請する宗教的神は、死につつある。この事態に教会が取るべき道は、失われた宗教性を補修することではなく、この世的(weltlich)にキリスト教を語り直すことだ。神はこの世の周縁にではなく、この世の中心に、弱さと苦しみのうちに現れる。「世界の内で弱くあり、苦しむ神だけが助けることができる」(1944年7月16日、ベートゲへの手紙)。

この獄中の断片思想は体系化される前に中断されたが、戦後の脱神話化神学(ブルトマン)、神の死の神学(1960年代アメリカ)、解放の神学(中南米)、そして公共神学(ハウアワス、モルトマン)にそれぞれ異なった仕方で受け継がれた。「弱さのうちに現れる神」を書いた人は、まもなく自分自身の弱さの場所へ送られる。

09再び、フロッセンビュルクの朝

1944年10月、彼はプリンツ・アルブレヒト通りのゲシュタポ本部、その地下独房に移された。1945年2月7日、ブーヘンヴァルト強制収容所へ。4月3日、レーゲンスブルクを経てフロッセンビュルク強制収容所へ。4月8日、簡易法廷が死刑を言い渡した。

ここで、冒頭の朝に戻る。将軍たちと並んで絞首台に立った牧師。その道筋は、いま一本の線になって見える。ハーレムで、下からのキリスト教を知った。「汝の敵を愛せよ」を読んで、戦争を疑った。安価な恵みを退け、十字架を負って従えと説いた。そして自分の民族の試練を共に生きるために、安全なニューヨークから戻った。その先に、罪を引き受けてでも行動する道があった。自分の手を汚すことを、彼は選んだ。

4月9日の朝、彼はひざまずいて祈り、絞首刑に処された。39歳。家族の多くも、同じころに殺された。兄クラウスと義兄リュディガー・シュライヒャーは、4月23日に銃殺された。義兄ドーナニーは4月9日、ザクセンハウゼンで殺された。遺体はフロッセンビュルクで焼かれ、墓は残されていない。

恵みは高価だと書いた人が、自分の命でその代価を払った。あと数日で解放が来る、と誰も知らない朝だった。安全な場所が約束されていたのに、彼は自分の民族の側へ戻る船に乗った。あなたなら、その船に乗るだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. ブレスラウに誕生、双子の妹ザビーネと共に
  2. 父カールがベルリン大学教授に招かれ、一家グリューネヴァルトへ
  3. 17歳でチュービンゲン大学神学部入学
  4. 21歳で博士論文『サンクトールム・コムニオ』
  5. 教授資格論文『行為と存在』、ユニオン神学校留学
  6. ニューヨーク、アビシニアン・バプティスト教会体験、ラセールとの交友
  7. ヒトラー政権成立、ラジオ講演で指導者原理批判
  8. ロンドン牧師、エキュメニカル運動で告白教会を国際的に支援
  9. フィンケンワルデで告白教会の非合法神学校を主宰
  10. 『キリストに従う』刊行、「高価な恵み」の神学
  11. ユニオン神学校再招聘を1か月後に辞退してドイツへ帰国
  12. アプヴェーア軍情報部でレジスタンス、ヒトラー暗殺計画に関与
  13. スウェーデン・シグトゥナで英国チチェスター主教と極秘会談
  14. 4月5日テーゲル軍刑務所で逮捕、獄中書簡の開始
  15. 7月20日事件後に関与発覚、ゲシュタポ本部地下独房へ
  16. 4月9日フロッセンビュルク強制収容所で絞首刑。39歳
  17. 遺稿『倫理』刊行
  18. 獄中書簡集『抵抗と信仰』刊行、「宗教なきキリスト教」が戦後神学へ

残した思想の輪郭

  • 高価な恵みと安価な恵み ― 悔い改めと服従を省略した許しの大量頒布に対し、十字架を負って従う信仰を対置する
  • キリスト論的倫理 ― 定言命法にも状況倫理にも収まらない、具体的責任の引き受けとしての倫理学
  • 究極と究極手前 ― 終末論的救済(究極)と此岸的正義(究極手前)の両方を保つキリスト論的秩序
  • 宗教なきキリスト教 ― 世界が成熟した時代の神学として、神を「中心」「弱さ」「苦しみ」のうちに置き直す
  • 告白教会と教会闘争 ― ルター派教会をナチス体制への神学的抵抗の場として引き受ける公的責任
  • キリストに従う共同体 ― 祈り・瞑想・告白・労働を分ち合うフィンケンワルデの修道的教会モデル
1945年4月9日早朝、フロッセンビュルク強制収容所で絞首刑により死去。39歳。ヒトラー自決の21日前、ドイツ敗戦のわずか1か月前だった。遺体は焼却され、墓は残されていない。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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  • 入門ボンヘッファー獄中書簡集 ― 抵抗と信従(増補新版)

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生きた跡を辿るPlaces

ディートリヒ・ボンヘッファーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フロッセンビュルク強制収容所記念館ゆかり

    フロッセンビュルク, ドイツ

    1945年4月9日、ヒトラー暗殺計画への関与でこの収容所で処刑された。常設展と教育センターを持つ国立記念館

  • ボンヘッファー・ハウス(ベルリン)住居

    ベルリン, ドイツ

    両親が1935年に建てた家。屋根裏でボンヘッファーは『倫理学』と「10年後」を書いた。ベルリン福音主義教会運営、見学可

さらに辿るならExternal References

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