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宗教的思索

ディートリヒ・ボンヘッファー

Dietrich Bonhoeffer·1906–1945·ドイツ·

恵みは、 安くも高くもあり得る

ベルリン大学の俊秀神学者として『キリストに従う』を書き、ナチスへの抵抗のなかで「宗教なきキリスト教」を構想した獄中の思想家

  • 告白教会
  • 高価な恵み
  • 宗教なきキリスト教
  • 倫理
  • 獄中書簡

時代の空気

ヴァイマル末期の混迷からヒトラー第三帝国、そして世界大戦へ滑り落ちていく時代だった。ベルリンの教養市民層は政治と神学の境を曖昧にしたまま、国民教会と国家の融合を黙認していた。1933年4月のアーリア条項は教会にも及び、ユダヤ系聖職者の公職追放が強行される。これに抗う告白教会と、体制協力派「ドイツ的キリスト者」が分裂し、1934年バルメン宣言が出された。ポメラニアの寒村フィンケンワルデの神学校は1937年にゲシュタポに閉鎖される。1944年7月の暗殺未遂事件後、抵抗者たちは強制収容所へ移送されていった。

01ブレスラウの学者の家、ベルリンの少年期

1906年2月4日、ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)に八人兄弟の六番目(双子の妹ザビーネと同時生まれ)として生まれた。父カール・ボンヘッファーは当時ヨーロッパで高名な精神医学者・神経学者、プロイセン科学アカデミー会員。母パウラ・フォン・ハーゼは伯爵家出身の教育熱心な女性で、子どもたちを在宅教育で育てた。8人の子どもたちの食堂は小さな大学のようで、政治・音楽・科学・文学が夕食ごとに議論された。

1912年、父がベルリン大学精神医学教授に招かれて一家はベルリン西部グリューネヴァルトの静かな住宅街に移った。家族のサークルには歴史家デルブリュック、物理学者プランク、神学者ハルナック(隣人だった)が出入りした。ボンヘッファー兄弟の長兄カール=フリードリヒは物理学者、三男クラウスは法律家、姉妹も知識人層と結婚した ― ドイツ啓蒙教養市民層(Bildungsbürgertum)の理想型のような家庭だった。

家族の輪のなかには、決して埋まらない欠席者の席があった。1918年、第一次大戦のフランス戦線で次兄ヴァルター(当時18歳)が榴弾りゅうだんの破片で戦死せんしした。母パウラは半年以上ベッドから出られず、家中の音楽はしばらく止まった。母パウラがディートリヒの堅信式に贈った聖書は、もとは戦死した次兄ヴァルターのために用意されていたものだったと伝えられる ― ディートリヒはこの聖書を生涯手元で使い続けた。中産教養層の祝祭的な食卓の底に流れ続けた「家族の沈黙の戦慄」、それは戦争という公的事件が私的な家にもたらす傷だった。

14歳のディートリヒは、家族を驚かせたことに神学者になると宣言した。物理学か音楽(彼は優れたピアニストだった)と期待していた父は、息子に「教会は、お前が捧げるにはあまりにも貧相だ」と言った。ディートリヒは答えた ― 「それならば、私がそれを改革します」。この短い対話は、家族伝承として残された。

02チュービンゲン、ベルリン ― 神学の神童

1923年、17歳でチュービンゲン大学神学部に入学、1年後にベルリン大学に移った。当時のベルリン神学部は、アドルフ・フォン・ハルナック(教会史、自由主義神学の泰斗、1930年死去)、ラインホルト・ゼーベルク(組織神学)が教壇に立ち、ドイツ・プロテスタント神学の中心だった。若きボンヘッファーはハルナックの最後の演習に参加し、同時にカール・バルト(当時ゲッティンゲン教授)の『ローマ書』(第二版1922)を独学で読み込んだ。ハルナックの歴史的相対主義とバルトの「神の垂直性」の衝撃 ― この緊張が、生涯の神学の骨格を決めた。

1927年、21歳で博士論文(Sanctorum Communio、「聖徒の交わり」)を提出、summa cum laude で博士号を取得。社会学(ヴェーバー、テーニース)と神学を縒り合わせ、教会を共同体として社会学的に記述する試みだった。カール・バルトは後年「神学と社会学を統合したほとんど唯一の試み」として驚きをもって読んだ。1930年、24歳で教授資格論文(Akt und Sein)を提出。ハイデガー『存在と時間』(1927)を神学的に読み解き、行為の弁証法を組織神学に取り込む、異例の早熟な書物だった。

03ニューヨーク、アビシニアン・バプティスト教会

1930-31年、25歳のボンヘッファーはユニオン神学校(Union Theological Seminary、ニューヨーク)に一年間スローン・フェローとして留学した。最初、アメリカ神学の浅さに彼は強く失望した ― 「ここには神学というものがない、社会倫理の寄せ集めがあるだけだ」と書簡に書いた。しかし二つの出会いが、この留学の意味を決定的に変えた。

一つ目は、フランク・フィッシャーという黒人神学生との友情。フィッシャーに連れられて、ハーレムのアビシニアン・バプティスト教会(Abyssinian Baptist Church、アダム・クレイトン・パウエル・シニア主牧師)に通うようになった。黒人キリスト教徒の霊歌(ニグロ・スピリチュアル)、集合的な応答形式、苦難のなかの希望 ― 白人ドイツ知識人の神学と全く異なる、下からのキリスト教に衝撃を受けた。ボンヘッファーは大量の霊歌レコードを買い込み、ドイツに持ち帰った。1960年代の公民権運動をマルチン・ルーサー・キングが担うとき、キングがボンヘッファーを引用した背景には、30年前のこの若い白人神学者のハーレム体験がある。

二つ目は、フランス人平和主義神学生ジャン・ラセールとの出会い。ラセールは第一次大戦の敵国出身で、二人は「山上の垂訓」を共に読み返した。「汝の敵を愛せよ」はキリスト教国家間の戦争を正当化できない ― この読書経験が、ボンヘッファーを生涯の平和主義者(pacifist inclinations)へ向かわせる最初の契機だった。

1931年夏にドイツに戻ったとき、彼は別人のように変わっていた。「私はキリスト教徒になった」と友人に書いた ― 神学者になったのではなく、キリスト教徒になった、という自覚の変化だった。

04教会闘争、告白教会、フィンケンワルデ神学校

1931-32年、ベルリン大学で講義「教会の本質について」「キリスト論」を持ち、学生と若き牧師たちの間で人気教師となった。1933年1月、ヒトラー政権成立。同年4月7日の「職業官吏制度再建法」(「アーリア条項」)が教会にも適用されようとし、ユダヤ系改宗者の聖職者を公職から排除する動きが出た。ボンヘッファーは同月、ラジオ講演「指導者(Führer)と指導される者」で指導者原理を批判(放送は途中で遮断された)、論文「教会とユダヤ人問題」でアーリア条項への教会の抵抗ていこう義務を早い段階で明言した。

1933年秋、ボンヘッファーはロンドンのドイツ系プロテスタント教会(シデナム、ロンドン東部)の牧師として一時ドイツを離れた。同時期、ドイツではカール・バルトを中心に(1934年5月)が発せられ、ヒトラー体制に協力する「ドイツ的キリスト者」に対して告白教会こくはくきょうかい(Bekennende Kirche)が発足した。ボンヘッファーは海外からこの運動を支え、エキュメニカル運動(世界教会協議会の前身、WCC結成は1948年だがその草案作成段階の機関)の若手指導者として、を国際的に擁護した。

1935年4月、ボンヘッファーはドイツに戻り、バルト海沿岸の小村フィンケンワルデ(現ポーランド・シチェチネク近郊)で告白教会のための非合法神学校を主宰した。24人の若き牧師候補者と共同生活を送り、祈り、聖書、瞑想、相互の告白、身体労働を組み合わせた修道的な共同体を構想した。この経験から生まれたのが二冊の小著 ― (Nachfolge、1937。英題 The Cost of Discipleship)と『共に生きる生活』(Gemeinsames Leben、1939)である。

『キリストに従う』の中心概念は「高価な恵み(teure Gnade)」と「安価な恵み(billige Gnade)」の対比だった。キリストの十字架を忘れ、悔い改めと服従を省略した「許しの大量頒布」は安価な恵みであり、教会の世俗化の最深部である。対して高価な恵みは、神の子の命を代価とし、人間には十字架を負って従うことを要求する。キルケゴール『キリスト教の修練』の20世紀ドイツ版とも言える峻厳な書物で、1937年9月にがゲシュタポにより閉鎖された直前に刊行された。

051939年の決断、軍情報部でのレジスタンス

1939年6月、33歳のボンヘッファーはユニオン神学校(ニューヨーク)から再度の招聘を受け、戦争が近いと察した友人ラインホルト・ニーバーが安全を約束した。しかしわずか1か月後の7月、彼はドイツへ戻る船に乗った。ニーバーに送られた手紙には、歴史の古典となった一節がある ― 「私は戦争のこの時期をドイツのキリスト教徒と共に生きねばならない。もし今この時期の試練を自分の民族と共有しなければ、戦後の再建に参加する権利を持てないだろう」。

帰国した彼を待っていたのは、生活の手段そのものへの締め付けだった。1940年8月、帝国保安本部(RSHA)はボンヘッファーに「公的講演・説教の禁止」(Redeverbot)を、翌1941年3月には「執筆・出版の禁止」(Schreibverbot)を布告した ― 牧師として声を出すこと、神学者として書くことの両方が、公的には封じられたのである。同じ1940年秋、義兄ハンス・フォン・ドーナニー(法律家、司法省高官、後にアプヴェーア軍情報部中佐)が、ボンヘッファーをアプヴェーア(Abwehr、ドイツ国防軍情報部)の名目上の嘱託しょくたくとしてスカウトした。アプヴェーア長官ヴィルヘルム・カナリス提督とその部下ハンス・オスターは、密かにヒトラー政権転覆を計画する軍人抵抗運動の中核だった。ボンヘッファーの任務は、表向きはエキュメニカル運動の国際連絡係、実際には連合国との和平交渉ルート構築、そして後にはヒトラー暗殺計画(Abwehr-陰謀いんぼう、Abwehr-Verschwörung)の一員としての神学的・倫理的支えだった。神学校で「キリストに従う」を説いた人物が、いまや諜報ちょうほう機関の偽装出張券を握って国境を越え、敵国の主教と会談する ― この二重生活は、彼自身にとっても倫理学の試金石となった。

1942年5月、彼はスウェーデン・シグトゥナでジョージ・ベル(チチェスター主教、英国議会上院議員、長年のエキュメニカル運動の盟友)と極秘会談した。ドイツ国内の反ヒトラー勢力の存在と将来の暫定政府の構想を英国政府に伝え、クーデター成功後の和平条件を探る目的だった。しかしチャーチル政権は無条件降伏方針を譲らず、和平交渉は実を結ばなかった。 ― なお、政治指導者を排除する直接行動(暗殺あんさつ)については、ボンヘッファー自身は神学者として明示的に「正当化」を書き残してはいない。彼の『倫理』が立てる「責任の引き受け」と「罪を負う行為」は、tyrannicide(暴君殺し)を一般原理として認可する議論ではなく、極限状況において罪を引き受けてでも行動する者がいることを神の前で語る、ぎりぎりの言葉として書かれている。彼は殉教者である以前に、自分の手を汚すことを選んだ一人の人だった。

この時期、ボンヘッファーは『倫理』(Ethik)の断章を書き継いでいた。平時の倫理学ではなく、ナチス体制下で何が善行かを問う極限倫理学。「正義のための嘘」「罪への責任の引き受け」「究極の事柄(das Letzte)と究極手前の事柄(das Vorletzte)」。彼の倫理は、カント的な定言命法にも英米の徳倫理にも収まらず、現実(Wirklichkeit)そのものをキリストにおいて構成されたものとして受け取る独特の構造を持った ― 倫理の主語は個人でも社会でもなく「キリストにおいて和解された現実」である、と彼は書く。ここから、倫理は「私は何を為すべきか」ではなく「この現実において何が起こっているのか」を問うことになる。原理(Prinzip)を持たない倫理、キリスト論的責任倫理(Verantwortungsethik)として、ウェーバーとキルケゴール双方の遺産を独自に組み替えた未完の書物である。逮捕により中断され、弟子ベートゲ編集で1949年に刊行された。

は異なる。恵みは高価である、なぜならそれは神の子の命を代価とするからである。

『キリストに従う』第一部(1937)

06獄中の神学 ― 宗教なきキリスト教

1943年1月、ボンヘッファーは(婚約こんやく当時18歳)と婚約した。マリアの実家ヴェーデマイアー家はノイマルクのペッツィヒ荘を本拠とする旧貴族家、母方の祖母ルート・フォン・クライスト=レッツォウはポメラニアのクライン=クレッシン荘の女主人あるじで、フィンケンワルデ閉鎖後のボンヘッファーをたびたび荘園にかくまっていた。彼とマリアの間には18近い年齢差があり、母方の親族からは反対の声もあったが、二人は祖母の支えのもとで婚約した。― そしてその3か月後、二人の関係はテーゲル拘置所の鉄格子越しの書簡として続くことになる。同年4月5日、アプヴェーア内の資金流用疑惑(実際にはユダヤ人をスイスに逃がす極秘作戦「作戦7」の資金)を口実に、ゲシュタポによってテーゲル軍刑務所(ベルリン)に逮捕された。当初は通貨違反容疑、後に国防軍士気阻喪罪、最終的には1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件(シュタウフェンベルク暗殺計画)への関与が判明し、政治犯として扱われるようになる。

テーゲルの独房で、ボンヘッファーは婚約者マリア、両親、そして特に友人(フィンケンワルデ時代の弟子、戦後の伝記著者)に宛てて書簡を書き続けた。ベートゲへの手紙は、看守かんしゅの一人の密かな協力で刑務所外に運び出された。これらが後に(Widerstand und Ergebung、独語初版 1951、英題 Letters and Papers from Prison)として編集・刊行される。

獄中ごくちゅうの思索の中心は「」(religionsloses Christentum)だった。近代世界は成熟してきた(mündig geworden)。神を「ギャップを埋める仮説」として要請する宗教的神は、死につつある。この事態に教会が取るべき道は、失われた宗教性を補修することではなく、この世的(weltlich)にキリスト教を語り直すことだ。神はこの世の周縁にではなく、この世の中心に、弱さと苦しみのうちに現れる。「世界の内で弱くあり、苦しむ神だけが助けることができる」(1944年7月16日、ベートゲへの手紙)。

この獄中の断片思想は体系化される前に中断されたが、戦後の脱神話化神学(ブルトマン)、神の死の神学(1960年代アメリカ)、解放の神学(中南米)、そして公共神学(ハウアワス、モルトマン)にそれぞれ異なった仕方で受け継がれた。

07フロッセンビュルク、1945年4月9日

1944年10月、プリンツ・アルブレヒト通りのゲシュタポ本部地下独房に移送、1945年2月7日、ブーヘンヴァルト強制収容所きょうせいしゅうようじょへ、さらに4月3日、レーゲンスブルクを経てフロッセンビュルク強制収容所(バイエルン)に移された。

1945年4月8日、フロッセンビュルクの簡易法廷(SS裁判所)はボンヘッファー、義兄ハンス・フォン・ドーナニー、アプヴェーア長官カナリス提督、オスター将軍、カール・ザック軍判事、ルートヴィヒ・ゲーレ大佐、フリードリヒ・フォン・ラベナウ大佐に反逆罪で死刑判決を下した。ヒトラーの個人的命令による緊急処刑だった。

4月9日午前6時頃、フロッセンビュルクの処刑場でボンヘッファーは絞首刑こうしゅけいに処された。収容所の医師は後に証言している ― 「処刑の前、彼は跪いて祈った。私は49年間の医師生活で、あれほど神に服従して死ぬ人を見たことがない」。最後の言葉として同房の英国将校ペイン・ベストに残したとされるのは ― 「これは終わりだ。しかし私にとっては、始まりだ」(Das ist das Ende - für mich der Anfang des Lebens)。39歳。

この処刑はヒトラー自決のわずか21日前、ドイツ敗戦の1か月前だった。フロッセンビュルク収容所が米第90歩兵師団によって解放されたのは、その僅かわず2週間後の1945年4月23日である ― あと半月、いや数日処刑が遅れていれば、彼は生きて解放を迎えていた可能性が高い。家族の多くも同時期に殺された ― 兄クラウス(4月23日銃殺)、義兄ドーナニー(4月9日ザクセンハウゼン)、義兄リュディガー・シュライヒャー(4月23日銃殺)。遺体はフロッセンビュルクで焼却され、墓は残されていない。

08主要な出来事と著作

  1. ブレスラウに誕生、双子の妹ザビーネと共に
  2. 父カールがベルリン大学教授に招かれ、一家グリューネヴァルトへ
  3. 17歳でチュービンゲン大学神学部入学
  4. 21歳で博士論文『サンクトールム・コムニオ』
  5. 教授資格論文『行為と存在』、ユニオン神学校留学
  6. ニューヨーク、アビシニアン・バプティスト教会体験、ラセールとの交友
  7. ヒトラー政権成立、ラジオ講演で指導者原理批判
  8. ロンドン牧師、エキュメニカル運動で告白教会を国際的に支援
  9. フィンケンワルデで告白教会の非合法神学校を主宰
  10. 『キリストに従う』刊行、「高価な恵み」の神学
  11. ユニオン神学校再招聘を1か月後に辞退してドイツへ帰国
  12. アプヴェーア軍情報部でレジスタンス、ヒトラー暗殺計画に関与
  13. スウェーデン・シグトゥナで英国チチェスター主教と極秘会談
  14. 4月5日テーゲル軍刑務所で逮捕、獄中書簡の開始
  15. 7月20日事件後に関与発覚、ゲシュタポ本部地下独房へ
  16. 4月9日フロッセンビュルク強制収容所で絞首刑。39歳
  17. 遺稿『倫理』刊行
  18. 獄中書簡集『抵抗と信仰』刊行、「宗教なきキリスト教」が戦後神学へ

残した思想の輪郭

  • 高価な恵みと安価な恵み ― 悔い改めと服従を省略した許しの大量頒布に対し、十字架を負って従う信仰を対置する
  • キリスト論的倫理 ― 定言命法にも状況倫理にも収まらない、具体的責任の引き受けとしての倫理学
  • 究極と究極手前 ― 終末論的救済(究極)と此岸的正義(究極手前)の両方を保つキリスト論的秩序
  • 宗教なきキリスト教 ― 世界が成熟した時代の神学として、神を「中心」「弱さ」「苦しみ」のうちに置き直す
  • 告白教会と教会闘争 ― ルター派教会をナチス体制への神学的抵抗の場として引き受ける公的責任
  • キリストに従う共同体 ― 祈り・瞑想・告白・労働を分ち合うフィンケンワルデの修道的教会モデル
1945年4月9日早朝、フロッセンビュルク強制収容所で絞首刑により死去。39歳。ヒトラー自決の21日前、ドイツ敗戦のわずか1か月前だった。遺体は焼却され、墓は残されていない。
7
  • 最期二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: bonhoeffer.mdx Chapter 7: 1945 年 4 月 9 日午前 6 時頃、フロッセンビュルク強制収容所の処刑場でボンヘッファーは絞首刑に処された。収容所医師 Hermann Fi...

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1935年、29歳のボンヘッファーがフィンケンワルデで主宰した告白教会の非合法神学校。そこでの講義から生まれ、1937年9月にゲシュタポが学校を閉鎖する直前に刊行された『キリストに従う』冒頭章である。...

  • 抜粋二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 高価な恵みと安価な恵みは異なる。恵みは高価である、なぜならそれは神の子の命を代価とするからである。

  • 抜粋二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 高価な恵みと安価な恵みは異なる。恵みは高価である、なぜならそれは神の子の命を代価とするからである

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: bonhoeffer.mdx pullsource '『キリストに従う』第一部(1937)' は Bonhoeffer 'Nachfolge' (Christian Kaiser Verlag 193...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: bonhoeffer-1.source 『キリストに従う(Nachfolge)』第一部冒頭章「高価な恵み」(1937年) — Dietrich Bonhoeffer, Nachfolge (Münch...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 時とは、我らに与えられたもっとも高価な賜物である ― それは取り返しがつかない

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ディートリヒ・ボンヘッファーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

  • 入門ボンヘッファー獄中書簡集 ― 抵抗と信従(増補新版)

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生きた跡を辿るPlaces

ディートリヒ・ボンヘッファーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フロッセンビュルク強制収容所記念館ゆかり

    フロッセンビュルク, ドイツ

    1945年4月9日、ヒトラー暗殺計画への関与でこの収容所で処刑された。常設展と教育センターを持つ国立記念館

  • ボンヘッファー・ハウス(ベルリン)住居

    ベルリン, ドイツ

    両親が1935年に建てた家。屋根裏でボンヘッファーは『倫理学』と「10年後」を書いた。ベルリン福音主義教会運営、見学可

さらに辿るならExternal References

ディートリヒ・ボンヘッファーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

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