ジャン・カルヴァン
救われるかどうかは、 既に決まっているのか?
ジュネーヴに改革派神学を定着させ、『キリスト教綱要』を書き継いだ第二世代の改革者
- キリスト教綱要
- 予定説
- ジュネーヴ
- 宗教改革
- プロテスタンティズム
時代の空気
16世紀前半のフランスは、ピカルディの司教領や法服貴族を含む中産層が、王権と教会の間で職を糧にしていた時代だった。パリ大学にはエラスムスとビュデの人文主義が浸透し、ヘブライ語を含む原典批評が法学・神学の基礎へ据え直されていく。1533年のコップ学長就任演説事件と1534年の檄文(プラカード)事件で、フランソワ一世の保護は弾圧へ反転する。皇帝カール五世とフランソワ一世の長い抗争、トリエント公会議前夜のカトリックの動揺、ジュネーヴやストラスブールの市政革命のなかで、ルターに次ぐ第二世代の改革は都市法と教会規律へと姿を変えていった。
01ノワイヨンの公証人の子、パリの人文主義学生
1509年7月10日、フランス北部ピカルディ地方のノワイヨンで、ジャン・コヴァン(Jean Cauvin)として生まれた。ラテン語化してCalvinus、後にCalvin(カルヴァン)となる。父ジェラール・コヴァンは地域教会の公証人・会計係を務め、司教領の財務にも関わって、息子には聖職者としての将来を考えていた。母ジャンヌ・ルフランは早くに世を去り、ジェラールは再婚して幼いジャンに弟妹をもうけた。
12歳で父がノワイヨン司教座に手を回し、カルヴァンは聖職禄(定期収入付きの名目職)を得た。これは当時珍しくない教会内縁故で、この禄が彼の学費を賄った。1523年、14歳でパリへ出てコレージュ・ド・ラ・マルシュ、続いてモンテギュ学院で学ぶ。モンテギュ学院はエラスムスも学んだ厳格な学院で、同時期イグナティウス・ロヨラ(イエズス会創設者)も学んでいた。
パリで彼はエラスムスとギヨーム・ビュデ(王立教授団の創設に関わった同時代フランス最高の人文主義者)の流れを受け、古典語(ラテン語、ギリシア語、後にヘブライ語)と原典文献批評を身につけた。1528年、父の方針変更でオルレアン・ブールジュへ移り法学を学ぶ。オルレアンでは法学者ピエール・ド・レトワール、ブールジュではアンドレア・アルチャーティ(イタリアの著名な法学者、ルネサンス法学の中心人物)に師事した。
1531年に父死去、カルヴァンは法律家になる義務から解放され、パリへ戻りセネカ『寛容について(De Clementia)』注釈(1532)を自費刊行した。これは22歳の青年のラテン古典学者としてのデビュー作で、セネカのストア派的寛容論をルネサンス人文主義の方法で註解した技巧的な仕事である。この注釈は売れなかったが、後の『綱要』に続く彼の人文主義的方法論の基礎を示す。
02突然の回心、亡命へ
1533-34年頃、カルヴァンに「突然の帰順(subita conversio)」が訪れた。本人の証言(『詩篇注解』序文、1557)は極めて簡潔で、具体的な経緯を語らない──「神は私の心を、かくも堅く頑なであったものを、俄かに曲げて、教えを受ける状態にされた」。いつ、どこで、誰の影響か、内的体験の詳細は謎のままである。プロテスタント的福音派に転じたことは確かだが、当時のフランスの宗教状況(エラスムス人文主義、ルファーヴル・デターブル的福音派、ルター派の地下流入)のどの流れからの転回かは論争が続く。
1533年11月1日、パリ大学新学長ニコラ・コップの就任演説(カルヴァン起草説が有力)が、恩寵と信仰義認を強調するルター派的内容で物議を醸した。コップもカルヴァンもパリを脱出、バーゼル・ストラスブール方面へ逃れた。
1534年10月、パリの街頭にミサ批判のプラカード(札貼り事件、Affaire des Placards)が貼られ、王フランソワ1世が激怒、プロテスタント弾圧が本格化した。カルヴァンはフランスに戻れなくなり、亡命者として生涯を送ることが決定した。
1536年3月、26歳のカルヴァンはバーゼルで『キリスト教綱要(Institutio Christianae religionis)』初版をラテン語で出版した。これは6章構成の比較的小さな書で、迫害下のフランス人福音派の信仰問答的手引として書かれた。献辞はフランス王フランソワ1世に向けられており、フランス福音派が無害な良きキリスト教徒であることを王に訴える護教書の側面をもった。
03ジュネーヴ第一期(1536-38)──ファレルの引き留め
1536年夏、カルヴァンはイタリア経由でストラスブールへ向かう途中、戦乱を避けてジュネーヴに一泊した。当時ジュネーヴは直前(1536年5月)に市民投票で宗教改革を採択したばかりで、改革派のギヨーム・ファレル(1489-1565、南フランス出身の熱烈な改革者)が改革の定着のため必死に働いていた。
ファレルはカルヴァンがジュネーヴにいることを知り、彼を訪ね、神の怒りの呪いまで使って引き留めた。カルヴァン自身の回想(詩篇注解序文)は、この強制的引き留めを生涯の転機として記す──「ファレルは私を、すでに始めた旅の経路から引き離した」。こうして27歳のカルヴァンは、ジュネーヴで聖書講義者、続いて牧師として働き始めた。
第一期ジュネーヴ(1536-38)で彼とファレルは、規律ある教会制度を都市に持ち込もうとした。全市民が信仰告白(教会の教えへの公式同意)に署名すること、聖餐から破門する権限を牧師会が持つこと、道徳的規律(姦淫・賭博・宴会過度・怠慢への処罰)を教会が担うこと──これらの要求は、都市の世俗権力(市参事会)の権限を侵すとして強い反発を招いた。
1538年復活祭、カルヴァンとファレルは聖餐を拒否(規律に従わない市民に聖餐を与えない)という強硬策に出た。市参事会は激怒、両者を追放した。カルヴァンはストラスブールへ移住する。第一期ジュネーヴは失敗に終わった。
04ストラスブール期(1538-41)──円熟への三年
1538年から1541年まで、カルヴァンはストラスブール(当時神聖ローマ帝国の自由都市、改革派と穏健ルター派の混在地)で牧師として働いた。庇護者はマルティン・ブツァー(1491-1551)、ストラスブールの改革派指導者で、カルヴァンより18歳年長、神学的には調停的立場を取る成熟した改革者だった。
ブツァーから学んだ要素は決定的だった。長老制(プレスビテリアン)教会政治──牧師・長老・執事・博士の四職による教会統治──の制度モデル、聖餐論(キリストの、ルター派の実体的臨在とカトリックの化体説の中間)、信仰教育の重視、市民社会との規律的関わり方。カルヴァンはこれらを吸収し、ジュネーヴ復帰後に制度化する素材を得た。
1539年、彼は第二版を刊行、初版の6章から17章へと大幅に拡張した。ストラスブール滞在中には『ローマ書注解』(1540)も刊行、これは彼の聖書註解者としてのキャリアの出発点となる。
1540年、ストラスブールで(元再洗礼派の寡婦、二人の子の母)と結婚した。1542年、夫婦の間に生まれた息子ジャック(Jacques)は早産で授かったがほどなく息を引き取り、夫妻はもう子を授からなかった。1549年にイドレットも世を去り、カルヴァンは以後再婚せず、書簡の中で「私の生涯の最良の伴侶」を失ったと書き残した。
ストラスブールで彼は神聖ローマ帝国の諸会議(ハーゲナウ、ヴォルムス、レーゲンスブルク、1540-41)に改革派代表の一員として出席、メランヒトン(ルターの高弟)と親交を結び、ヨーロッパ改革派の国際ネットワークへの接続を得た。
05ジュネーヴ第二期──『綱要』の展開と予定説
1541年9月、ジュネーヴ市参事会はカルヴァンを召喚した。彼を追放した反対派の指導者たちが相次いで失脚し、ジュネーヴは再びカルヴァンを必要としていた。カルヴァンは躊躇しつつ受諾、以後1564年の死まで23年間ジュネーヴを離れない。
復帰後すぐに彼は『教会規則(Ordonnances ecclésiastiques)』(1541)を起草、これが市参事会の承認を得て施行された。四つの職(牧師・教師(博士)・長老・執事)、教会会議(Consistoire)──牧師と長老から構成され、信仰・道徳問題を裁く──の制度化である。これが長老制教会政治の古典的ひな型となり、後のスコットランド・オランダ・アメリカのプロテスタント教会組織の範型となった。なおジュネーヴはしばしば「神権政治の都市」と呼ばれてきたが、最終的な世俗権限は市参事会が握っており、教会会議は破門までで死刑権は持たなかった点には留意が要る。
並行して『綱要』は改訂を重ね、1559年のラテン語最終版で4巻80章の体系的大著となった。第1巻「創造者なる神の認識」、第2巻「贖い主なる神の認識」、第3巻「キリストの恵みの受領」、第4巻「教会と市民政府」。使徒信条の四分節構成に沿った神学大全である。
最終版で最も論争的な主題が──神は永遠から、救う者と捨てる者を選別している、という教説──である。ルターも予定論を説いたが、カルヴァンはこれを神の絶対主権を守る論理として最も厳密に定式化した。
予定とは、神の永遠の定めである。それによって神は、自ら各人に何を起ころうとするかを決定された。すべての人は等しい状態に創造されるのではなく、或る者には永遠の生命が、或る者には永遠の罰が予め定められた。それゆえ、各人はその一方へか他方へかの目的のために創造されたので、我々はこれを生命に予定されているか死に予定されているかと言う。
この教説は多くの読者に衝撃を与えた。人間の道徳的努力と救済が無関係なら、倫理の意味は何か、と。カルヴァンの答えは、恩寵への感謝の応答としての善行──救われたという確信を持つ者は、その感謝から自ずと聖化の生活へ向かう、というものだった。これは後のピューリタニズムの労働倫理、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の分析対象となる。
06セルヴェトゥス事件──ジュネーヴの影
1553年10月27日、スペイン出身の医師・神学者ミシェル・セルヴェトゥス(1511-1553、三位一体否認の神学者、肺循環の発見者としても知られる)が、ジュネーヴ市外のシャンペルで火刑に処された。
セルヴェトゥスは反三位一体論を核とする異端神学書『キリスト教の復興(Christianismi Restitutio)』(1553)を匿名出版した後、カトリック側のヴィエンヌ(フランス)で逮捕・有罪判決を受け、脱獄してジュネーヴに逃亡した。ジュネーヴに辿り着いた理由は今日まで謎(ルター派の都市へ向かう途中の通過点だった可能性が高い)である。彼はカルヴァンの説教中に発見され、逮捕された。
ジュネーヴ市参事会が裁判を担当し、カルヴァンは主要な告発者として証言した。当時の反三位一体論は帝国法上も死罪で、カトリック・ルター派・改革派の全てが一致して処刑すべき異端だった。市参事会は判決前にチューリヒ・ベルン・バーゼル・シャフハウゼン・ザンクト・ガレンの五都市へ意見を諮問、いずれも処刑を支持する回答を得た。1553年10月26日、市参事会は火刑を判決、翌日執行された。カルヴァン自身は斬首刑(より軽い処刑)への減刑を働きかけたが、火刑そのものを止めることはしなかった。
この処刑は当時から改革派内部でも論争を呼んだ。セバスティアン・カステリヨン(1515-1563、かつてカルヴァンの同僚)は『異端者について』(1554)を匿名刊行、「人を焼くことは人を殺すことであり、キリスト教徒のすることではない」と批判した。カルヴァンは『反カステリヨン』(1554)で反論したが、カステリヨンの書は後の寛容論(ロック、ヴォルテール)の先駆として読み継がれる。
はカルヴァン評価の影の中心である。プロテスタント改革が世俗権力と結びついた迫害体制を生む可能性を、この一件が示した。今日のジュネーヴでは1903年に処刑地シャンペルに贖罪碑が建てられ、カルヴァン改革派の後継者たちがセルヴェトゥス処刑への歴史的責任を刻んでいる。
07ジュネーヴ・アカデミー、ヨーロッパへの波及
1559年、カルヴァンは(後のジュネーヴ大学)を創設した。二つの学部──教養部(Schola privata)と神学部(Schola publica)──を設け、ヨーロッパ全域の改革派学生を受け入れる教育拠点とした。カルヴァン自身が第一期の教授団に名を連ね、後継者テオドール・ド・ベーズ(1519-1605、フランス人文主義者、カルヴァンの盟友)が初代学長となった。
アカデミーはヨーロッパ中のプロテスタント指導者を養成した。ジョン・ノックス(スコットランド)、ピエール・ヴィレ(フランス)、ザカリアス・ウルシヌス(ハイデルベルク信仰問答の起草者の一人)、トマス・カートライト(イングランド・ピューリタン)──彼らはジュネーヴで学び、帰国して各国の改革派教会を組織した。
カルヴァンの影響圏は結果として広範に及ぶ。オランダ改革派教会(ドルト会議1618-19でカルヴァン主義の五要綱を定式化)、スコットランド長老派(ノックス経由)、フランスのユグノー、イングランドのピューリタン(後のアメリカ移民の母体)、ハンガリー改革派、ドイツ改革派(ハイデルベルク・プファルツ地方)。プロテスタントの改革派(Reformed)系統は、世界史的にはルター派と並ぶ、あるいはそれ以上に広範な影響を残した。
同時にカルヴァンの書簡は膨大で、現存3,000通を超える。彼はヨーロッパの改革派の相談役として、各国の牧師・君主・市参事会からの質問に返信し続けた。この書簡網が、中央集権的教皇庁に対抗する分散型の改革派ネットワークとして機能した。
08晩年と死──墓なき改革者
1550年代後半からカルヴァンの健康は悪化の一途だった。腎結石、胆石、痛風、結核性の咳、慢性の頭痛が重なり、晩年は極度の痩身だった。それでも彼は1日に複数の説教と講義、書簡の口述筆記、市参事会への出席を続けた。
1564年2月、最後の説教を行った。4月25日、遺言を口述、遺産のほぼ全てを兄弟姉妹と教会に遺贈した。
5月27日、54歳で死去した。遺言により墓標なき共同墓地(Cimetière des Rois「諸王の墓地」、現在の市内墓地)に埋葬された。後世「偶像崇拝の対象となることを避けるため」と説明されるこの選択は、彼のプロテスタント的聖人否定・個人崇拝拒否の最後の一貫した表明である。彼の墓は今日どこか特定できない──特定できないことが、彼の意図の完遂である。
ジュネーヴ宗教改革記念碑(1917年完成、通称「宗教改革の壁」)には、カルヴァンを中心にファレル、ベーズ、ノックスの4人が並ぶ。しかし彼自身の墓は、この立派な記念碑の背後で、どこか匿名のままに存在を続けている。
09主要な出来事と著作
- ピカルディ地方ノワイヨンに公証人の子として誕生
- パリへ、コレージュ・ド・ラ・マルシュ・モンテギュ学院で学ぶ
- オルレアン・ブールジュで法学を学ぶ
- 『セネカ寛容論注釈』刊行、ラテン古典学者デビュー
- 「突然の回心」、パリ脱出
- 『キリスト教綱要』初版刊行、ファレルに引き留められジュネーヴへ
- ジュネーヴを追放、ストラスブールへ
- 『綱要』第二版、ブツァーに学ぶ
- イドレット・ド・ビュールと結婚
- ジュネーヴ復帰、『教会規則』制定
- 妻イドレット死去、再婚せず
- セルヴェトゥス火刑
- 『キリスト教綱要』最終版(全4巻80章)、ジュネーヴ・アカデミー創設
- ジュネーヴで死去、墓標なき共同墓地に埋葬。享年54
残した思想の輪郭
- 『キリスト教綱要』 ─ 4巻80章、改革派神学の体系化の頂点、プロテスタント第二世代の標準教科書
- 二重予定説 ─ 神の絶対主権の論理、救済と滅亡の永遠の定め
- 神の主権(soli Deo gloria) ─ すべての栄光は神のみに、人間の功徳を介さない
- 長老制教会政治 ─ 牧師・長老・教師・執事の四職、分散型教会統治のひな型
- 教会規律(Consistoire) ─ 牧師と長老による道徳審査、信仰の社会的制度化
- 召命としての職業 ─ 日常労働を神への奉仕と位置づけ、後の資本主義倫理の一源流(ウェーバー)
- 人文主義的聖書註解 ─ ラテン・ギリシア・ヘブライ原典の厳密な文献学、エラスムス以来の方法の神学的応用
- ジュネーヴ・アカデミー ─ ヨーロッパ改革派の教育拠点、3000通超の書簡による分散型ネットワーク
- セルヴェトゥス事件の影 ─ 改革と権力の結合が生む迫害体制の先駆的ケース
- 墓標なき埋葬 ─ 個人崇拝拒否の最後の一貫性
出典と確認メモ
6件- 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: ジュネーヴ市参事会が裁判を担当し、カルヴァンは主要な告発者として証言した。当時の反三位一体論は帝国法上も死罪で、カトリック・ルター派・改革派の全てが一致して処刑すべき異端だった。市参事会は判決前にチュ...
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: calvin-1.context: 1536 年バーゼル初版『キリスト教綱要 (Christianae Religionis Institutio)』を Calvin は生涯改訂し続け、1559 年版...
一次資料を開くChristian Classics Ethereal Library Beveridge 英訳。Book III Chapter XXI 'Of the Et...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 予定とは、神の永遠の定めである。それによって神は、自ら各人に何を起ころうとするかを決定された。すべての人は等しい状態に創造されるのではなく、或る者には永遠の生命が、或る者には永遠の罰が予め定められた。...
一次資料を開くCCEL Calvin Institutes III.21.5: 'By predestination we mean the eternal decree o...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 神は、永遠の堅き定めによって、すべての人について、自ら生命へ欲する者と、死へ捨てる者とを定められた
一次資料を開くCCEL Calvin Institutes Book 3 Chapter 21 全文 (Beveridge 1845 英訳)。§5 'By predestin...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: calvin.mdx pullsource '『キリスト教綱要』第3巻第21章第5節(1559年最終版)' は Calvin Institutio Christianae Religionis 155...
一次資料を開くCCEL Calvin Institutes 全文公開、Beveridge 1845 英訳。Book 3 Chapter 21 §5 'By predestin...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 自己についての知識なしに、神についての知識もない
一次資料を開くCCEL Calvin Institutes 全文公開、Beveridge 英訳 1845。Book 1 Chapter 1 'The Knowledge of...
つながり
- マルティン・ルター
批判的継承 — ルター『キリスト者の自由』『奴隷的意志論』を熟読した上で『キリスト教綱要』(1536初版)を体系化、聖餐論ではルター派と袂を分かちチューリヒ・ストラスブール系の改革派神学へ合流
- エラスムス
批判的継承 — パリ・モンテギュ学院でエラスムス人文主義の原典批評を身につけセネカ『寛容について』注釈(1532)でラテン古典学者としてデビュー、後に『綱要』序文で人文主義的方法を神学に転用しつつ自由意志論争ではルター側に立つ
さらに読むならFurther Reading
ジャン・カルヴァンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門キリスト教綱要(改訳版) 第1篇・第2篇
ジャン・カルヴァン / 訳: 渡辺信夫 / 新教出版社
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生きた跡を辿るPlaces
ジャン・カルヴァンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン・ピエール大聖堂ゆかり
ジュネーヴ, スイス
カルヴァンが1536-1564年に説教した改革派の母教会。彼の使用した椅子が今も残る
- 諸王の墓地(プランパレ)墓所
ジュネーヴ, スイス
1564年没。遺言により無銘の墓に葬られた。1999年、控えめな記念プレートが設けられた
さらに辿るならExternal References
ジャン・カルヴァンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジャン・カルヴァン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "John Calvin"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "John Calvin (1509—1564)"
Project GutenbergEnglishInstitutes of the Christian Religion, Vol. 1(Henry Beveridge 英訳)— Project Gutenberg
『キリスト教綱要』英訳第一巻
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