トマス・モア
王の友でいることと、 自分の心にうそをつかないことは、同時にできるか?
『ユートピア』を書き、王の良心に死んだルネサンス期イングランドの大法官
- ユートピア
- 信仰のために死す
- ロンドン塔
王が教会の上に立とうとした時代。一枚の誓いの紙が、命の分かれ目になった。 — ひらく
時代の空気
15世紀末から16世紀初頭、テューダー朝の英国は薔薇戦争の余波からヘンリー七世(在位1485-1509)の中央集権で立ち直り、息子ヘンリー八世(1509即位)は若き学識ある王として人文主義者を厚遇した。1499年エラスムスの訪英でコレット・リナクル・モアらの英国人文主義が芽吹く。印刷術が聖書ヘブライ・ギリシア原典学を広め、1517年ルターの95箇条が大陸を揺らす。1527年からの離婚問題、1533年アン・ブーリン戴冠、1534年王権至上法でヘンリーが英国国教会首長となり、旧来カトリックの宣誓拒否者は死刑、1536年北部反乱「巡礼の恵み」が抗う、緊張に満ちた幕開けだった。
011535年7月6日、丘の上で
1535年7月6日、ロンドン塔の丘、タワーヒルに一人の男が連れ出された。名はトマス・モア。57歳。数年前まで、王のもとで国の法をつかさどる最高の役職にいた人である。
処刑台(しょけいだい)に登るとき、彼は近衛兵(このえへい)に冗談めかして言った。「上らせてくれ、下りるときは自分でなんとかする」。台の上では、髭(ひげ)を刀の刃からわきへどけた。「これだけは反逆しなかったから切るには及ばない」。それから短く、最後の一言を残したと伝わる。
首は1ヶ月、ロンドン橋にさらされた。買い取って葬(ほうむ)ったのは、長女マーガレットだった。
この男は、王の親しい友だった。王は彼の家をふいに訪ね、夕食を共にした。庭を歩きながら、星と神の話をした。その友が、なぜこの丘に立つことになったのか。時は45年ほど前に戻る。
02大司教の館の少年
12歳のころ、モアはロンドンのランベス宮殿で小姓(こしょう)として働いていた。主人はジョン・モートン。カンタベリー大司教にして国の大法官(だいほうかん)。当時いちばんの政治家だった。モートンはこの賢い少年を気に入った。「やがてすばらしい人物になる」と言ったと伝わる。
少年はこの館で、上質なラテン語と、公の場でのふるまいを身につけた。
モアは1478年、ロンドンのミルク・ストリートに生まれていた。父ジョン・モアは弁護士で、のちに裁判官になる堅実な人だった。母は貿易商の娘で、若くして病で亡くなり、父は再婚した。
1492年、モアはオックスフォード大学に進んだ。ジョン・コレットやトマス・リナクルといった学者のもとで、ギリシア語とラテン語を学ぶ。だが2年後、父の望みでロンドンに呼び戻された。法律家になるためである。
1496年に法曹院(ほうそういん)リンカーンズ・インに入った。1502年、弁護士の資格を得た。父と同じ道を、まっすぐ歩いているように見えた。だが同じころ、彼の心は別の場所に引かれていた。
03修道院の壁と、友の手紙
1499年、21歳のモアは、エラスムスと出会った。古典を学び直して人間を見つめる学問、人文主義(じんぶんしゅぎ)の学者である。12歳年上のこの人と、モアはすぐに親しくなった。エラスムスはイングランドにいるあいだモアの家に泊まり、離れてからも手紙を送り合った。は、生涯続くことになる。
同じころ、モアは(チャーターハウス)に約4年下宿した。厳しい決まりで知られる修道院である。毎日の礼拝と瞑想(めいそう)、そして苦行。肌に直接あたる剛毛(ごうもう)のシャツも試した。このシャツは、生涯着続けることになる。
修道士になるか、それとも外の世界で生きるか。彼は迷ったすえ、結婚と世俗(せぞく)の仕事を選んだ。だが心の中の修道院生活は、ずっと続いた。
1505年、ジェーン・コルトと結婚した。長女マーガレット、エリザベス、セシリー、息子ジョンの4人が生まれた。妻は1511年に早く亡くなった。モアはすぐに、裕福な未亡人アリス・ミドルトンと再婚する。新しい妻に学問はなかったが、家をまとめる力があった。
モアは娘たちにも、息子と同じ古典の教育をした。当時としてはめずらしいことだった。長女マーガレットは、のちにとなる。イングランドでもっとも学のある女性の一人と呼ばれる人である。
家庭と書斎と法廷。それで満ちているように見える人生を、国の政治が放っておかなかった。
04王の友
1504年、モアは初めて下院議員に選ばれた。国王ヘンリー7世が求めた増税に反対し、王の不興(ふきょう)を買った。政治的な勇気を見せた最初の場面である。1510年にはロンドンの副市長になった。商人や職人のもめごとを裁いて、評判を上げた。
1509年、ヘンリー7世が亡くなり、息子のが王になった。17歳。学問を好む若い王だった。王はエラスムスやモアのような人文主義者を厚くもてなした。
モアは外交の使節、法廷の弁護士、商人の連合ハンザ同盟との交渉役として力を示した。1518年には王の相談役の一員になった。1521年には騎士(ナイト)の位を受け、1523年には下院議長になった。
1521年には、もう一つの仕事があった。ドイツでルターが教会を批判し、宗教改革(しゅうきょうかいかく)の火がついていた。ヘンリー8世はルターに反論する本(しちひせきようごろん)を出す。モアはその起草を助けた。教皇はこの本をたたえ、王に「信仰の擁護者」の称号を与えた。
1527年、画家ハンス・ホルバインがエラスムスの紹介でモアの家を訪れた。書斎に本を抱えて集まる家族を、素描(すびょう)に残した。完成した絵は失われたが、その模写(もしゃ)が今日に伝わる。絵の中の父は、王の側近として、出世の頂上に近づいていた。
出世の背中を押したのは、王との個人的な親しさだった。王はモアの家を突然訪れ、夕食を共にした。庭を歩きながら、天文学と神学を論じた。
だがモアは、この寵愛(ちょうあい)を信じきってはいなかった。婿(むこ)のウィリアム・ロパーが、のちに伝記に書いている。「モアは王にどれほど寵愛されても、決して驕らなかった。王が一日彼の首を切って自分の領土を一つ手に入れられるなら躊躇しないだろう、と家族に語った」。この言葉は、やがて現実になる。
05どこにもない島
時をすこし戻す。1515年、モアは貿易の交渉のためフランドルに渡った。今のベルギーあたりである。交渉の合間に、彼はひとつの島の話を書きはじめた。誰も行ったことのない島の話である。
書名は。モアが自分で作った言葉だ。ギリシア語の「どこにもない場所」と「善い場所」を重ねた、しゃれである。この言葉はのちに、世界中で使われるようになる。
本は1516年、ラテン語で出版された。旅人ヒュスロダエウスが、モアと友人に島の話を語る、という形をとる。旅人の名も、ギリシア語で「たわごとの語り手」を意味するしゃれだった。
島には、私有財産(しゆうざいさん)がない。だれもが一日6時間働く。信仰は自由で、金や銀は便器(べんき)に使われている。
この島では金と銀は便器とする。なぜなら人を惑わす物だからだ。そして彼らはこれを笑いながら、我々が金を尊び貧しい者を蔑むのを愚かと見る。
島にはまだキリスト教が伝わっていない。それでも人々は、理性と道徳で暮らしている。一方で、犯罪者と捕虜は奴隷にされ、戦争は雇った兵士に任せる。理想の島は、どこか奇妙でもある。
モア自身は、財産をもつ妻子ある人だった。この本のどこまでが本気で、どこからが皮肉なのか。それは今も読者にゆだねられている。だが、ヨーロッパの不公正や貧困を鋭く突いたことは確かだった。
そして、この島に「信仰の自由」を描いた男が、13年後、まったく別の顔を見せる。
06大法官の火
1529年10月、モアはイングランドの大法官になった。国の裁判と法をつかさどる、王に次ぐ最高の官職である。前任の(すうききょう)が王の信頼を失って失脚したあとの後任だった。聖職者でない者がこの職に就くのは、異例のことだった。
在任は約3年。法廷では、その実務の力と清らかさで高い評価を受けた。この3年を、と呼ぶ。
だが同じころ、ルター派の考えがイングランドに流れこんでいた。ティンダルが英語に訳した新約聖書が持ちこまれ、秘密の集会が増えた。モアはカトリックの護教者(ごきょうしゃ)、つまり教会を守る論客だった。英語で反論の本を書き続けた。
彼の在任中、トマス・ビルニーら6名のプロテスタントが、異端として火刑に処せられた。モアが自分で拷問(ごうもん)を命じたかどうかは、史料が割れている。だが少なくとも、その処刑に法的な責任を負っていた。
『ユートピア』で信仰の自由を描いた人が、異なる信仰の人を火に送る。この矛盾(むじゅん)は、彼の像に今も影を落とす。しかし、モア本人の目には矛盾ではなかったのかもしれない。その理由は、終盤の章でくわしく見る。
そしてこの時期、王にはもうひとつの望みがあった。離婚である。
07王の離婚と、沈黙
ヘンリー8世は、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効にしたかった。理由は二つ。男の子が生まれないこと。そして、新しく愛したと結婚したいことだった。だが、結婚を無効にできるのはローマ教皇(きょうこう)だけである。教皇クレメンス7世は、キャサリンの甥(おい)である神聖ローマ皇帝カール5世の圧力で、許さなかった。
1532年5月、議会は、教会が王に従うことを決めた。イングランドの教会がローマから離れる、最初の一歩だった。モアは翌日、大法官を辞めた。理由は健康のためとしたが、実際は王の宗教政策への抗議だった。
1533年6月、アン・ブーリンの戴冠式(たいかんしき)が行われた。モアは姿を見せなかった。招待とともに送られた20ポンドの式服代も、そのまま返した。
1534年4月13日、モアに宣誓書が突きつけられた。新しい王位継承の法を認める誓いである。だがそれは同時に、教皇の権威を否定することでもあった。モアは宣誓(せんせい)を拒んだ。旧友のロチェスター司教も、同じく拒んだ。二人はロンドン塔に投獄された。
塔の独房で15ヶ月。彼は『苦難に対する慰めの対話』を英語で書き続けた。娘マーガレットは何度も父を訪れ、宣誓するよう説得した。父の決心は揺るがなかった。「マーガレット、お前が私の愛娘だからこそ、この最後の試練において真実に生きる父を見せることが最大の贈り物だ」と言ったと伝わる。
モアは、王を公に批判したわけではない。ただ誓わず、黙っていただけだった。その沈黙が、法廷でどう扱われるのか。
08丘の上に戻る
1535年7月1日、モアは大逆罪(たいぎゃくざい)で有罪となった。争点は、黙っていた彼が王の至上権(しじょうけん)を認めなかった、という点である。証人リチャード・リッチが、実際にはなかった会話を作り上げて偽証(ぎしょう)した。それが決定的な証拠とされた。
この裁判で、モアは初めて沈黙を破った。「議会は神の法を超える法を作ることはできない」。
反逆罪の刑は、本来は吊るし、引き裂き、焼き殺す残酷なものだった。王は最後の恩情(おんじょう)として、斬首に減刑した。かつて庭を並んで歩いた友からの、最後の情けだった。
そして7月6日、丘の上。冗談を言いながら台に上り、髭をどけたあと、彼は最後の言葉を口にした。
私は王のよき僕、しかし神の僕が先である
王の僕であることを、彼は最後まで否定しなかった。ただ、その上にもう一人の主人がいた。順番の問題だった。それだけのことで、この人は首を差し出した。
首は1ヶ月ロンドン橋にさらされた。長女マーガレット・ロパーが買い取り、家族の墓に葬った。妻アリスは財産を失い、無一文で生き延びた。
ロパーが書き残した、あの言葉を思い出してほしい。「王が一日彼の首を切って自分の領土を一つ手に入れられるなら躊躇しないだろう」。モアは王を知っていた。知っていて、なお誓わなかった。
友を失ったエラスムスは嘆いた。「金よりも純粋な魂が失われた」。だがこの死の意味は、その後400年かけて、何度も書き直されていく。
09聖人か、異端狩りか――後世の評価と考証
モアの死はヨーロッパ全土のカトリック知識人に衝撃を与え、1535年夏には早くも、その勇気を讃える詩や短伝がヨーロッパ中で出版された。1886年、教皇レオ13世が福者(beatified)に列し、1935年5月19日、殉教400年に合わせて教皇ピウス11世が、同じく宣誓拒否で処刑されたジョン・フィッシャー枢機卿とともに列聖した。このから65年後の2000年、ヨハネ・パウロ2世は彼をと宣言した。1534年の宣誓拒否――として知られる――から翌年のまでの15ヶ月が、こうして「良心の公人」の原像として教会に公式化された。
世俗の世界での評価も高い。ロバート・ボルトの戯曲『すべて季節の人(A Man for All Seasons)』(1960)とフレッド・ジンネマン監督の映画化(1966、アカデミー作品賞6部門)は、彼を「良心に殉じた公人」の原型として20世紀に再提示した。後世の政治思想史では、ソローの(1849)が論じた、法より良心を上位に置く態度の遠い先例としても引かれる。「」という順序づけは、王への忠誠そのものは否定せず、しかし忠誠の上位に別の審級を置くという構造を持ち、合法的命令に対する市民的不服従の古典的事例と見なされてきた。
しかし近年、彼のプロテスタント弾圧者としての顔も改めて議論されるようになった。ヒラリー・マンテルの小説『』三部作(2009-2020)は、の視点からモアを頑固で冷酷な異端狩りとして描き直し、英語圏で新しい議論を喚起した。(模写がノステル・プライアリに現存)が伝える書斎の家長の像と、マンテルが描く異端狩りの像は、同じ人物の二つの顔である。
をどう評価するかは、この二つの顔の接点にある。大法官在任中、モアは『異端をめぐる対話(A Dialogue Concerning Heresies, 1529)』をはじめ計百万語以上の論駁書を英語で書き、ルター派を激しく弾圧した。現代の価値観では矛盾と見える――『ユートピア』で宗教的寛容を描いた人物が、プロテスタントを火刑にする。しかしモアにとって、ユートピアの「寛容」は架空の前キリスト教社会の理性的寛容であり、真のキリスト教の共同体を裂く異端は別の問題だった。これは歴史家が今も議論する彼の人物像の陰影であり、聖人としての列聖後も消えない影として残る。
『ユートピア』自体も、単純な制度設計図ではない。1516年ルーヴァンで人文主義者トマス・リュプセットの編集により刊行された全二巻のうち、第一巻は旅人ラファエル・ヒュスロダエウスとモア自身・友人ペーター・ヒレスの対話、第二巻はヒュスロダエウスによる島の制度の報告である。島の制度は、私有財産の廃止、全員の労働義務(一日6時間)、宗教的寛容、離婚と安楽死の許容(ただし厳格な条件付き)、奴隷制(犯罪者と捕虜、それ以外は基本的に平等)、戦争の最小化(傭兵を雇って近隣諸国の紛争を処理)などが組み合わされる。ヒュスロダエウスの極端な主張と、対話者モアの常識的反論が並列され、読者は「どこまでが著者の本音でどこからが皮肉か」を自ら判断することになる。モア本人は聖職者制度と私有財産の廃止に賛同しなかった(妻子持ちで財産家だった)。しかしこの書の中で、当時の欧州諸国の不公正、奴隷制、戦争、贅沢、貧困を鋭く告発したのは確かだった。
なお1521年の『七秘跡擁護論』(Assertio Septem Sacramentorum)――ルターの『教会のバビロン捕囚』に対するヘンリー8世名義の反論書――については、主筆は王自身とする伝承だが、近代の研究は実質的にモアら側近の手が大きいと見る。教皇レオ10世がこの書に対しヘンリーへ「信仰の擁護者(Fidei Defensor)」の称号を授けたことを踏まえれば、王の信仰の擁護者としての名声を築いた筆が、のちに王の教会支配を拒む筆と同一だったことになる。
王の僕であり、神の僕であり、そして異端者にとっては死刑の執行者だった。この三つの顔を一人の人間として読むとき、「王のよき僕、しかし神の僕が先」という順序は、あなたの中では何と何の間に引かれるだろうか。
10主要な出来事と著作
- 2月7日、ロンドン・ミルク・ストリートに誕生
- ランベス宮殿のモートン枢機卿邸に小姓として仕える
- オックスフォード大学カンタベリー・ホールで古典語を学ぶ
- エラスムスと出会う
- ロンドン・カルトジオ会修道院に下宿、修道誓願を検討
- 初の下院議員、ヘンリー7世の増税に反対
- ジェーン・コルトと結婚(4子)
- ロンドン副市長(under-sheriff)就任
- 妻ジェーン死、アリス・ミドルトンと再婚
- フランドル通商使節、『ユートピア』執筆開始
- 『ユートピア』ルーヴァンで刊行(ラテン語第一版)
- ナイト叙任、ヘンリー8世『七秘跡擁護論』起草を補助
- ランカスター公領大法官に就任
- ホルバインがモア家族の素描を制作
- 10月、イングランド大法官に就任、『異端をめぐる対話』刊行
- 5月、大法官辞任
- 6月、アン・ブーリン戴冠式に欠席
- 4月13日、宣誓拒否でロンドン塔に投獄
- 7月1日有罪、7月6日タワーヒルで斬首。享年57
- レオ13世により福者に列せられる
- 5月19日、ピウス11世によりフィッシャーと共に列聖
- ヨハネ・パウロ2世が政治家の守護聖人と宣言
残した思想の輪郭
- 『ユートピア』 ― 架空の島で現実社会の不正を諷刺、近代社会思想に新語と新ジャンルを与える
- 人文主義の倫理 ― 古典教養と敬虔なキリスト教の統合、エラスムスとの共同戦線
- 女子教育の実践 ― 娘マーガレットらにラテン・ギリシアを教え、学識ある女性の育成を示す
- 法と良心の衝突 ― 合法的命令でも良心に反するものには従わない、市民的不服従の古典的事例
- 殉教のウィット ― 死の直前にも冗談を忘れない精神の余裕、スウィフトらに引き継がれた英国的諷刺の源流
- プロテスタント弾圧の影 ― 寛容を説いた人が異端者を火刑に処した、歴史的人物の陰影
つながり
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トマス・モアの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ユートピア
トマス・モア / 訳: 平井正穂 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
トマス・モアが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ロンドン塔ゆかり
ロンドン, イギリス
トマス・モアが処刑前に幽閉された場所、敷地内に処刑台跡
- 聖ピーター・アド・ヴィンクラ教会墓所
ロンドン, イギリス
ロンドン塔内の王立礼拝堂、トマス・モアが葬られたと伝わる
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トマス・モアを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「トマス・モア」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Thomas More"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Thomas More"
Project GutenbergEnglishUtopia(Gilbert Burnet 英訳)— Project Gutenberg
『ユートピア』英訳