夏目漱石
自己の本位と、 世間との折合いは?
ロンドンの孤独を経て近代日本人の内面を書き切った、漱石山房の主
- 則天去私
- 自己本位
- 近代の孤独
時代の空気
慶応三年に江戸の名主の家に生まれ、翌年の明治維新と共に育った。急速な西洋化のなか、帝国大学英文科で英文学者として鍛えられ、文部省留学生として一九〇〇〜〇二年のロンドンで近代帝国の物質と孤独に晒された。日露戦争前後、知識人は国家主義と個人主義のあいだで揺れた。福澤の脱亜論に懐疑を抱きつつも、漱石は東京帝国大学の権威を退き、新聞小説という大衆媒体に身を移した。漱石山房の木曜会に寺田寅彦・芥川龍之介・安倍能成らが集い、大正デモクラシー前夜の精神を育てた。
01牛込の末子、里子と養子
慶応3年(1867年)1月5日(陰暦、新暦では2月9日)、江戸牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)で生まれた。父夏目小兵衛直克はこの町の名主を務めた地方の名家で、母千枝との間の五男三女のうちの末子だった。本名金之助。「庚申の日に生まれた子は大泥棒になる」という迷信から、名前に「金」の字を入れると難を逃れるといわれた、という説も伝わる。
高齢の両親にとって、末子は重荷だった。生後すぐ古道具屋の四谷の家に里子に出され、翌年戻されたが、二歳で塩原昌之助夫妻の養子に出された。塩原家の夫婦仲が破綻し、九歳で実家に戻されたが、実父母を「お祖父さんお祖母さん」と呼ばされる捩れた少年時代を過ごす。生母千枝はこの頃すでに病み、明治14年に没した。戸籍上夏目家に復籍したのは明治21年、21歳のときだった。自分の出自が何度も書き換えられる経験は、晩年に至るまで漱石の内側に沈んでおり、最終長編の一歩手前で書かれた『道草』(大正4年)で、養父島田との金銭をめぐる軋轢として静かに掘り起こされることになる。
02帝国大学英文科、松山・熊本の教師
東京府第一中学を中退して二松学舎で漢学を学び、明治17年、大学予備門(のち第一高等中学校)に入学。同期に正岡子規がいた。子規との友情は漱石の人生の底流を決めた。俳号「漱石」は、明治22年頃、子規が「漱石枕流」という負け惜しみの故事から命名したものを金之助が譲り受けた雅号である。同年、子規の漢詩文集『七草集』に漱石の名で評を寄せた。
明治23年、帝国大学英文科へ進学。英文学を専攻したが、「ただ英文学の幽霊に襲われているような気がする」と生涯述べることになる不安が、このときすでに芽生えていた。明治26年、大学院進学の傍ら東京専門学校(現早稲田大学)・東京高等師範学校で英語を教えた。明治28年、松山中学校へ英語教師として赴任。子規が松山に帰省しており、松山市末広町の愚陀佛庵で52日間、子規と同居した。この下宿で子規と俳句を詠み合った日々は、漱石が生涯で最も素直に「文学」に触れた時間でもあった。翌29年、熊本の第五高等学校へ転じ、中根鏡子と結婚した。
03ロンドン留学、神経衰弱
明治33年(1900年)9月、文部省命で英国留学を命じられた。英語教育法の研究が名目だったが、ロンドンの漱石を待っていたのは、近代帝国主義都市の物質と人種差別と孤独だった。留学費は貧しく、下宿を転々とし、書店で本を買うために食費を削った。「自分は狼の群れに混じった一匹の斑犬だ」と日記に書いた。読み続けたのはカーライルやメレディス、そしてドイツ系の哲学者たちで、英文学を西洋の側から相対化する読書だった。
ロンドンで漱石は「」の概念を掴んだ。他人(西洋)の尺度で自分の文学を測ることをやめ、自分を出発点にして考え直す。後年の「私の個人主義」講演で漱石自身「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」(大正3年11月、学習院講演)と振り返っている。発見は救いであると同時に、神経衰弱を極限まで追い詰めた。文部省には「夏目発狂」の噂が流布し、留学期間満了を迎えて明治36年1月に帰国。
04『吾輩は猫である』『坊っちゃん』で文壇へ
明治36年4月、漱石は第一高等学校と東京帝国大学文科大学の英語講師となった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任であった。ハーンの自由闊達な講義に親しんだ学生は、文典に厳格な漱石を当初は冷遇した。神経衰弱の発作も再燃し、家では妻と子供たちに当たり散らす日々が続いた。後年『道草』で同じ時期を題材にして、家族への当たり散らしを凝視し直すことになる。
明治38年1月、友人高浜虚子が病気療養中の漱石に執筆を勧めた。書き始めたのがだった。俳句雑誌『ホトトギス』1月号に第一回が載ると、忽ち評判になり連載となった。同時期に(明治39年)、(同年)を立て続けに発表。「低徊趣味」「写生文」と呼ばれた初期の軽妙な文体は、子規の写生論の延長線上にあった。明治40年、漱石は東京帝国大学を辞し、朝日新聞に専属作家として入社。月給二百円という当時として破格の待遇で、新聞連載という大衆媒体に文学の場を移したことは、近代日本における「プロの小説家」職業化の象徴的な選択でもあった。
05修善寺の大患、『こゝろ』へ
明治43年(1910年)夏、胃病で伊豆修善寺温泉菊屋旅館に療養中、8月24日に大量の吐血を起こして危篤に陥った。一時は約三十分にわたり心拍停止状態となり、後に「修善寺の大患」と呼ばれた。この臨死体験が、漱石の作品を一段深くする。の前期三部作(明治41〜43年)に続き、『彼岸過迄』(明治45年)、『行人』(大正元〜2年)、(大正3年)へと続く後期三部作は、人間の罪と孤独、他者との不可能な関係を執拗に掘り下げた。
『こゝろ』下「先生と遺書」は、親友Kを裏切って恋人を得、その親友の自死を背負って生きた男の手記である。明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を機に、彼は自ら命を絶つ。近代日本人の自我と、その裏側にある後ろめたさを、漱石は一行一行、噛み締めるように書いた。
私の個人主義というものは、自分が自分で、他人が他人という個人主義なのです。
06漱石山房と木曜会、門下生たち
明治39年頃から、漱石の自宅早稲田南町の書斎には、毎週木曜日の午後、文学青年たちが集まるようになった。書斎の通称が漱石山房、集いが木曜会である。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、寺田寅彦、和辻哲郎、内田百閒、安倍能成、そして明治43年に入門してきた芥川龍之介、久米正雄、菊池寛ら、のちの大正文壇と京都学派周辺の主力がここで育った。
漱石は若い弟子たちに威張らず、対等の口で文学と人生を語った。大正5年2月、第四次『新思潮』創刊号に載った芥川の「鼻」を激賞する書簡を送り、「描写が正確で、同人一流の機知がある。もう二、三編こんなものを書いてごらんなさい」と書いた。この手紙が芥川を文壇に押し出した。明治44年8月の和歌山講演「現代日本の開化」で漱石は、西洋の内発的開化に対して日本の開化は外発的にならざるを得ず、それゆえ「皮相上滑り」になると診断した。木曜会に集う青年たちにとって、漱石は父であり、兄であり、師であった。
07則天去私、大正5年の死
晩年の漱石は則天去私という言葉をよく口にした。天に則り私を去る ― 自分という小さな囲いを超え、より大きな自然や運命に身を委ねる境地を指している、と解された。大正3年(1914年)11月、学習院輔仁会で行われた「私の個人主義」講演で漱石は自己本位が利己心とは異なることを丁寧に説いたが、「」はその先で東洋的な無私へ至ろうとする晩年の到達点でもあった。弟子たちの記録にのみ残る言葉で、漱石自身が書物の中で明確に定義したわけではない(このため解釈は現在も議論される)。
大正5年(1916年)11月22日、連載中だったを書き進めながら、漱石は大量に吐血した。胃潰瘍の再発である。12月9日夕刻、の病床で息を引き取った。享年49(満49歳)。『明暗』は第188回で未完に終わった。
葬儀は12月12日、青山斎場で営まれた。戸籍上の実名は「夏目金之助」、墓は雑司ヶ谷霊園にある。戒名は「文献院古道漱石居士」。門下の芥川龍之介、久米正雄らが受付を務め、葬列には当時の文壇・学界の主要人物が並んだ。
08主要な出来事と著作
- 江戸牛込馬場下横町に誕生(陰暦慶応3年1月5日)。本名金之助、夏目家の末子
- 里子・養子(塩原家)を経て9歳で実家に戻る。戸籍上の復籍は21歳
- 大学予備門で正岡子規と出会う。帝国大学英文科進学
- 松山中学校赴任。愚陀佛庵で子規と同居
- 第五高等学校(熊本)赴任。中根鏡子と結婚
- 英国留学(ロンドン)。神経衰弱で「夏目発狂」の噂、帰国命令
- 第一高等学校・東京帝国大学文科大学講師(ハーンの後任)
- 『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載開始
- 『坊っちゃん』『草枕』刊行
- 東大を辞し朝日新聞入社、専属作家となる
- 前期三部作『三四郎』『それから』『門』を朝日新聞に連載
- 修善寺の大患(8月、胃潰瘍の大吐血、約30分の心拍停止)
- 和歌山講演「現代日本の開化」で内発的・外発的開化を論じる
- 『こゝろ』連載。11月、学習院で「私の個人主義」講演
- 自伝的長編『道草』連載 ― 唯一の自伝的長編で養父島田との金銭の軋轢を描く
- 『明暗』連載中に胃潰瘍再発、12月9日早稲田南町で死去。享年49
残した思想の輪郭
- 自己本位 ― ロンドンで掴んだ「他者の尺度で自分を測らず、自分を出発点に考え直す」という個人主義の核心
- 則天去私 ― 晩年の境地とされる言葉、小さな自我を超え運命に身を委ねる態度(解釈は諸説)
- 内発的・外発的開化 ― 西洋に追いつく日本の近代化を「皮相上滑り」と診断した文明論(『現代日本の開化』)
- 近代の孤独と罪 ― 『こゝろ』『行人』『門』に結晶した、他者と本当に繋がることの不可能性への凝視
- 文と学の往還 ― 英文学者としての訓練と漢詩俳句の素養を両輪に、日本語の近代散文を鍛えた
- 木曜会の父 ― 芥川・久米・菊池・寺田・和辻ら大正文壇と京都学派周辺を育てた私塾的サロンの主
- 朝日専属作家という職業 ― 大学を辞し新聞連載を本務にした、近代日本で最初期の「プロの小説家」
出典と確認メモ
4件- 文脈原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 大正3年11月、学習院輔仁会に招かれた漱石47歳の講演。ロンドン留学期に陥った神経衰弱と、帰国後に見出した「自己本位」の方針を、未来の官吏となる学生たちの前で平語に開いた。自分が自分であることを許すの...
一次資料を開く青空文庫図書カード No.772。底本『ちくま日本文学全集 夏目漱石』(筑摩書房 1992 / 1998 校訂)。講演日: 大正 3 年 (1914) 11 月...
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 私の個人主義というものは、自分が自分で、他人が他人という個人主義なのです
一次資料を開く学習院輔仁会講演 (大正 3 年 11 月 25 日) 全文。philoglyph 引用 '自分が自分で、他人が他人という個人主義' の verbatim 一致...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい
一次資料を開く『草枕』冒頭。原文: 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」WebFetch...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: soseki.mdx pullsource '「私の個人主義」(学習院輔仁会講演、大正3年11月)' は夏目漱石が大正3年 (1914年) 11月25日に学習院輔仁会で行なった講演として正確。青空文庫...
一次資料を開く青空文庫図書カード No.772。底本『ちくま日本文学全集 夏目漱石』(筑摩書房、1992年初版/1998年校訂)。講演日: 大正3年11月25日 (1914)...
つながり
- 森鴎外
同時代 — 漱石(1867-1916、英国留学1900-02)と鷗外(1862-1922、ドイツ留学1884-88)は明治文壇の両雄。鷗外は観潮楼歌会を主宰、漱石は木曜会を主宰、互いに面識はあり往復書簡も残るが、直接の師弟関係はなく、明治期近代文学の独逸派・英国派として双璧をなす。鷗外『雁』(1911-13)と漱石『こころ』(1914)の同時代性
- 芥川龍之介
先駆 — 大正5年(1916)2月『新思潮』創刊号掲載の「鼻」を漱石が書簡で「敬服しました」「あんなものを二三十並べて御覧なさい」と激賞。同年夏から漱石門下の木曜会に出入りし、同年12月の漱石急逝まで半年ほどの短い師事関係。『羅生門』『芋粥』等の古典取材の短編は漱石の文体への応答として読み継がれる
- 正岡子規
伴走 — 松山中学の同僚、愚陀佛庵の同居、俳句「漱石」号の命名
- 小林秀雄
共鳴 — 小林秀雄は生涯漱石を深く読み、『私小説論』(1935)『近代絵画』(1958)等で繰り返し漱石を参照。特に漱石の「自己本位」(『私の個人主義』1915講演)が小林の批評の出発点「様々なる意匠」(1929)と響き合う。日本語で近代的自我を思考することの困難を、小説と批評で表現した二人の系譜
- 司馬遼太郎
対比 — 夏目漱石は明治後期から大正初期を内側から書いた小説家、司馬は同じ明治を 1969 年『坂の上の雲』第一巻「あとがき」で「楽天家たち」と限定して外から書いた歴史小説家。司馬の漱石論は『この国のかたち』『以下、無用のことながら』に散在し、「明治を内側から見た漱石」と「明治を外から書こうとした司馬」という対照として読める。
- 養老孟司
継承 — 養老孟司は『身体の文学史』(1997)、『養老孟司 特別授業『坊っちゃん』』(NHK 100分 de 名著、2018)で、夏目漱石を「身体」の抑圧史の眼で読み替えた。漱石の自身の神経衰弱と『坊っちゃん』の身体描写を、解剖学者の視座から再解釈する試み。
- 紫式部
先駆 — 『源氏』の心理描写が日本近代小説の源流の一つ、漱石ら明治以降の作家に広く浸透
- 和辻哲郎
先駆 — 一高・東京帝大時代に漱石の木曜会に最年少で出入り、漱石から「自己本位」の態度を受け継ぐ。漱石没後の1918年『漱石論』(改稿を経て『漱石の人と作品』1948)を書き、漱石文学の内面的孤独を「間柄」の倫理学で乗り越えようとした。漱石門下の谷崎・芥川と並ぶ哲学側の弟子
さらに読むならFurther Reading
夏目漱石の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門こゝろ
夏目漱石 / 岩波文庫
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夏目漱石 / 訳: 三好行雄 編 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
夏目漱石が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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