芥川龍之介
ぼんやりとした不安は、 どこから来るのか?
王朝物から現代小説まで、精密な短編で人間の闇を切り出した「鬼才」の35年
- 羅生門
- 短編の精密
- ぼんやりとした不安
時代の空気
明治末から大正、昭和初期の東京は近代化と西欧文学受容の頂点で、田端には室生犀星・菊池寛・堀辰雄らが集まる「田端文士村」が形成されていた。夏目漱石の木曜会が文壇の中心をなし、第三次・第四次『新思潮』など同人誌から新人作家が押し出された。大正10年(1921年)、大阪毎日新聞特派員として中国を四ヶ月旅し、近代化の歪みと健康の悪化を持ち帰る。昭和初期の知識人は不眠と神経衰弱に苦しみ、ベロナールなどバルビツール酸系睡眠薬の常用が広がっていた。
01辰年辰月辰日、新原家から芥川家へ
明治25年(1892年)3月1日、東京市京橋区入船町(現中央区明石町)に生まれた。父新原敏三は牛乳製造業「耕牧舎」の支配人、母フクの長男。生年月日は辰年・辰月・辰日・辰刻(旧暦に当てはめると重なる)とされ、「龍之介」の名はこれに由来する。
生後7ヶ月、母フクが精神に異常をきたし、以後回復しないまま明治35年に死去した。龍之介は母の実家芥川家(本所小泉町)に引き取られ、伯母フキの養育のもとで育った。明治37年、正式に芥川家の養子となり、伯父道章を義父とした。母の発狂と早世は、終生彼の心を離れなかった。のち作品や手記で「もしかしたら自分も母のように」という恐怖が繰り返し現れる。
02一高・東大英文科 ― 久米正雄、菊池寛らとの第三次・第四次『新思潮』
府立三中から第一高等学校へ進み、ここで菊池寛、久米正雄、松岡譲、成瀬正一らと交わった。大正2年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。在学中の大正3年、菊池・久米・松岡・山宮允らと第三次『新思潮』を、大正5年2月に第四次『新思潮』を創刊した。
第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表。夏目漱石がこれを激賞する手紙を芥川に送った ― 「ああいうものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます」。この手紙が芥川を文壇に押し出した。以後、漱石の木曜会に加わり、漱石門下の若手として急速に頭角を現した。
03王朝物の連打 ― 『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』
大正4年11月、帝国大学在学中に雑誌『帝国文学』へを発表。平安末期の羅城門を舞台に、下人と老婆の応酬を描いたこの短編は、発表当初は大きな反響を呼ばず、の後で再評価された。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に材を取り、王朝の闇に現代人の心理を移植する手法は、以後『芋粥』(大正5年)、(大正7年)、(大正11年)と連打され、芥川の代表的様式となった。
大正5年7月、東京帝大卒業。卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」。12月、横須賀の海軍機関学校の英語教官として赴任。大正7年2月、塚本文(実業家の娘)と結婚。横須賀時代の月給は60円、文壇の原稿料が徐々にこれを上回り、大正8年3月、芥川は機関学校を辞して専業作家となった。大阪毎日新聞と社友契約を結び、経済的に自立した。
04中国旅行、現代小説への傾斜
大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞の特派員として中国に派遣された。上海、南京、漢口、北京、蘇州、杭州、洛陽など約4ヶ月の取材旅行である。中国の風物と近代化の歪みを見聞きしたが、旅行中から体調を崩した。帰国後、『支那游記』(『上海游記』『江南游記』『長江游記』『北京日記抄』など)を発表。中国旅行は芥川の健康と神経に深い打撃を残したとされる。
この頃から、芥川の創作は王朝物から現代物・私小説的作品へと軸を移す。(昭和2年執筆、第一章のみ同年6月『大調和』に生前発表、全六章は没後10月『文藝春秋』に掲載)、(昭和2年3月、『改造』)、『或阿呆の一生』(昭和2年、遺稿)、『玄鶴山房』(昭和2年1〜2月)、『蜃気楼』(昭和2年3月) ― どれも病と不安と自死の気配に満ちている。
05『文芸的な、余りに文芸的な』論争 ― 谷崎との対決
昭和2年(1927年)2月から、芥川は谷崎潤一郎と「筋のない小説」論争を繰り広げた。雑誌『改造』で谷崎が「饒舌録」を連載し、芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」で応じた。谷崎は小説の構成と筋の面白さを重視し、芥川は「筋のない、詩に近い純粋な小説」の可能性を擁護した。
この論争は、芥川にとって文学観の公然の表明だったと同時に、自身の創作行き詰まりの表白でもあった。**「話らしい話のない小説」**の追求は、『歯車』『或阿呆の一生』の断章的構造に結実するが、同時に芥川は「小説家として書きうるものを書き尽くしたのではないか」という予感に苛まれていた。論争は未決のまま、夏に中断することになる。
僕の将来に対する唯である。
06田端の家、不眠と薬物
大正3年末から、芥川は東京田端の芥川家に住んだ。以後、死ぬまで田端で暮らす。田端には室生犀星、菊池寛、堀辰雄らが周辺に住み、「」と呼ばれる文学者コミュニティを形成していた。
晩年、芥川は不眠と神経衰弱に苦しみ、ベロナール(バルビツール酸系睡眠薬)やカルモチンなどを常用するようになった。母の発狂を知る彼にとって、自身の神経の不調は「母の血」への恐怖と重なった ― この恐れは遺稿『或阿呆の一生』(昭和2年)の章「狂人の娘」などに自身の文で繰り返し現れる。義兄西川豊が保険金目当ての放火疑惑で鉄道自殺した事件(昭和2年1月)も、芥川に家族の負債を負わせた。
親友宇野浩二(大正末に精神に異常をきたし入院)を見舞った経験も、芥川を深く揺るがせた。「自分もやがて ― 」という確信的な予感が、遺書の各所に現れる。
07昭和2年7月24日、田端の自宅
昭和2年(1927年)7月24日未明、田端435番地の自宅寝室で、芥川は致死量の睡眠薬(ベロナールと他剤の混用)を服用して自ら命を絶った。満35歳。枕元には聖書が置かれていた。遺書として久米正雄宛の「或旧友へ送る手記」、そのほか妻文と子ら、菊池寛ほか宛の書簡・遺書数通、遺稿『或阿呆の一生』『歯車』などが残された。
「或旧友へ送る手記」で芥川は自死の理由を「将来に対する唯ぼんやりした不安」と書いた。この一句は昭和初期の知識人の精神状態を象徴する言葉として、以後しばしば引用される。葬儀は7月27日、谷中斎場で、菊池寛が葬儀委員長を務めた。墓は慈眼寺(豊島区巣鴨)。戒名「懿文院芥川龍之介居士」。
昭和10年(1935年)、親友菊池寛は芥川の業績を記念して「」を創設した。現在に至るまで、日本文学の新人登竜門として機能している。
08主要な出来事と著作
- 東京市京橋区入船町に誕生。生後7ヶ月で母フクが発狂、母方の芥川家へ
- 実母フク死去。芥川家で伯母フキに育てられる
- 第一高等学校入学。菊池寛・久米正雄らと同期
- 東京帝国大学英文学科入学
- 第三次・第四次『新思潮』創刊。『鼻』『羅生門』発表、漱石が『鼻』を激賞
- 東大卒業。横須賀海軍機関学校英語教官として赴任
- 塚本文と結婚。『地獄変』発表
- 機関学校を退職、大阪毎日新聞社友となり専業作家へ
- 大阪毎日新聞特派員として中国取材、4ヶ月の旅行で健康を崩す
- 『藪の中』発表。神経衰弱が進行
- 『河童』『玄鶴山房』。谷崎と『文芸的な、余りに文芸的な』論争。7月24日、田端で致死量の睡眠薬により自死。享年35
- 菊池寛により芥川賞創設、没後の新人文学賞として定着
残した思想の輪郭
- 王朝物の精密 ― 『今昔』『宇治拾遺』から素材を取り、近代心理を古典世界に移植する短編の型
- 「話らしい話のない小説」 ― 昭和2年、谷崎との論争で提示した詩的・断章的小説の構想
- ぼんやりした不安 ― 遺書の一句が捉えた昭和初期知識人の精神状態の結晶
- 母の血への恐怖 ― 生後7ヶ月での母の発狂を背負い続けた、自身の神経への宿命的恐れ
- 漱石門・木曜会 ― 漱石の激賞で文壇に押し出された、大正文壇における漱石門下の代表格
- 芥川賞 ― 死後に菊池寛が創設し、日本文学の新人登竜門として今に至る
出典と確認メモ
4件- 解釈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 昭和2年7月24日未明、田端の自宅で致死量の睡眠薬を呑む直前に、芥川は友人久米正雄に宛ててこの短い手記を書いた。生後七か月で母が発狂し、のちに「母の血」への恐怖を長く抱え続けた35歳。谷崎との「文芸的...
一次資料を開く本文 verbatim 確認: '少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。' / 末尾 '(昭和二年七月、遺稿...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: akutagawa.mdx pullsource '遺書「或旧友へ送る手記」(昭和2年7月)' は、芥川龍之介 (1892-1927) が 1927 年 (昭和 2 年) 7 月 24 日未明、田端の...
一次資料を開く青空文庫 (新字新仮名、底本『芥川龍之介全集』第 16 巻 岩波書店 1997)。冒頭 '誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない'、postsc...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: akutagawa-1.source 表記『遺書「或旧友へ送る手記」久米正雄宛(昭和2年7月、1927)』は完全に正確。芥川龍之介は1927年(昭和2年)7月24日服毒自殺、久米正雄宛遺書として「或旧...
一次資料を開く底本『芥川龍之介全集 第9巻』(岩波書店 1996年9月8日初版) 入力 file。「或旧友へ送る手記」全文。久米正雄宛遺書として canonical text...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である
一次資料を開く本文中段「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」(底本: 「芥川龍之介全集 第九巻」岩波書店、1978)
つながり
- 夏目漱石
先駆 — 大正5年(1916)2月『新思潮』創刊号掲載の「鼻」を漱石が書簡で「敬服しました」「あんなものを二三十並べて御覧なさい」と激賞。同年夏から漱石門下の木曜会に出入りし、同年12月の漱石急逝まで半年ほどの短い師事関係。『羅生門』『芋粥』等の古典取材の短編は漱石の文体への応答として読み継がれる
- 太宰治
共鳴 — 太宰治は高校時代から芥川に傾倒、昭和10年(1935)第一回芥川賞(石川達三『蒼氓』受賞)に「逆行」で候補入選したが落選、選考委員川端康成への恨み節を公然と書いた「川端康成へ」(1935)は文壇史に残る。『晩年』(1936)『人間失格』(1948)の自滅的誠実さは芥川『歯車』(1927)『或阿呆の一生』(1927)の系譜上にある
- 黒澤明
継承 — 黒澤明『羅生門』(1950、大映)は芥川龍之介『藪の中』(1922)を主軸に『羅生門』(1915)の枠を借りた翻案。木樵・盗賊・武士の妻・武士の霊が同じ事件を別々に語る複数視点の構造は、原作の主題を映画の身体に移した代表例。1951 年ヴェネツィア金獅子賞、1952 年米アカデミー名誉賞。
- 樋口一葉
先駆 — 芥川は1922年随筆「文芸的な、余りに文芸的な」および1916年9月東京帝大時代の書簡で樋口一葉を「明治の最も完成された短篇作家」と評価し、『たけくらべ』(1895-96)の雅俗折衷文体・自由間接話法的な視点移動を、自身の歴史小説『芋粥』(1916)『藪の中』(1922)の語り手構造の先例として参照した。直接の師承ではないが、明治の女性文学を大正の知的小説へ架橋する系譜上の先駆
さらに読むならFurther Reading
芥川龍之介の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門羅生門・鼻
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生きた跡を辿るPlaces
芥川龍之介が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 田端文士村記念館記念館
東京, 日本
芥川が晩年を過ごした田端の文士村を記念する区立資料館。直筆資料や書簡を展示
- 芥川龍之介生誕の地生誕
東京, 日本
中央区明石町、1892年に芥川が生まれた旧入船町の跡地。記念碑が残る
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「芥川龍之介」項
著作権切れ短篇を多数収録
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