黒澤明
自伝で「自分について正直に語れない」と書いた人は、 最後の映画で、なぜ「まあだだよ」と笑う座敷を映したのか。
自伝で自分を「蝦蟇」と呼んだ映画監督は、半世紀のあいだ、3 人で脚本を書き、雨の中の侍の群れを撮り、燃える城を撮り、最後の長編で師弟が「まあだだよ」と返す座敷を映した。
- 映画
- 翻案
- 共同脚本
- 集団の撮影
- 死の認識
戦争と占領をくぐった日本映画が、世界の映画祭に届き、やがてテレビに客を奪われていく時代 — ひらく
時代の空気
1910年生まれの黒澤明が育った東京には、大正期の自由教育と関東大震災後の荒廃が続いていた。PCL入社後の映画界は、戦時下の検閲と動員、敗戦後のGHQ占領下の制度転換をくぐり、1950年『羅生門』の海外受賞を経て日本映画黄金期へ入る。高度成長期にはテレビの普及で映画館の位置が変わり、1970年代以後は国内製作の停滞、ソ連や米国資本との協働、バブル期から平成初期の国際映画祭評価が、ひとつの監督の仕事場を国境の外へ押し広げた。
01「まあだだよ」
夕暮れの座敷に、教え子たちが集まっている。祝われているのは、年老いた作家の。教え子の一人が声をかける。「先生、もうそろそろよろしいですか」。百閒は答える。「まあだだよ」。
1993 年の映画(大映 / 電通 / 黒澤プロダクション)の一場面である。原作は内田百閒。教え子たちが百閒の還暦や古稀、喜寿を祝う「摩阿陀会」(まあだ会)の話が、この夕暮れの座敷の場面になった。監督は黒澤明。これが、彼の最後の長編になった。
この監督は、その 9 年前に出した自伝で、自分を山の蝦蟇(がま)にたとえていた。鏡に映った自分を見て、驚きのあまり脂汗を流す、あの蝦蟇である。人間は自分について正直に語れない、とも書いた。そう書いた人の最後の長編は、この座敷の返事をタイトルにした。なぜ、この返事だったのか。
その答えを探すために、時は 43 年前に戻る。1950 年、雨の門の下である。
02雨の門の下で
1950 年、『羅生門』(大映)が公開された。原作は、小説家・芥川龍之介のと『羅生門』。一人の武士が殺された。その事件を、木樵(きこり)、盗賊、武士の妻、そして武士の霊が、それぞれ別の証言として語る。
ところが、四つの話は食い違う。観客は、誰の話もまるごとは信じられない。どれが本当かは、観客が自分で考えることになる。そして終盤、雨の羅生門で、木樵は捨て子を抱いて去っていく。
この映画は、1951 年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受けた。翌 1952 年には米アカデミー賞の名誉賞も受けた。日本映画が海外で評価される道を、この一作が切り開いた。
を並べ、答えは観客に預ける。自分について正直に語れないと書く人は、映画では、こう語った。では次に、彼はもっと近くにある問いを撮る。人は死を前にして何をするか、である。
03雪のブランコ
1952 年、(東宝)が公開された。主人公は、役所の老いた課長。胃癌(いがん)を宣告される。雪の降る、完成間近の小公園のブランコで、彼は「ゴンドラの唄」を歌う。
映画は、この場面だけで終わらない。彼の死後、同僚たちが葬儀で語り合う。その長い告別式の回想と、ブランコの場面が組み合わされている。
本人はこの映画について、こう語っている。「『生きる』という映画では、私は、人間が死を意識した時に何をするかということを描きたかった」(『蝦蟇の油』、および 1952 年公開時インタビュー)。一人の語りでは閉じない。この方針は、ここでも保たれている。
ところで、この映画の脚本は、黒澤が一人で書いたものではない。宿に籠もった、三人の男たちがいた。
04宿に籠もる三人
脚本家・は、のちに黒澤組の仕事ぶりを一冊の本に記した。(文藝春秋、2006)である。そこには、『生きる』(1952)や(1954)の脚本会議の様子が描かれている。
黒澤、橋本、そして脚本家の。三人は宿に籠もる。それぞれ別の部屋で、シーンを書く。夕方になると持ち寄り、声に出して読み合う。「みんなで書こう」「3 人で同じシーンを別々に書いてみよう」(橋本忍が記録した黒澤の発話)。気に入らないシーンには、黒澤が「もう一回書け」と言う。そして書き直す。
『七人の侍』では、書く傍らで、七人の侍の「履歴書」を一人ずつ作った。それをもとに、各シーンへ広げていった(橋本忍が黒澤の方法論として記録、『複眼の映像』2006)。脚本の段階で映画が決まる。その考えを、彼らは三人の競い合いとして実行した。
自伝で「自分について語れない」と書く人が、脚本は 、侍の群れを撮った。では、その物語の種は、どこから持ってきたのか。
05芥川、シェイクスピア、そして宮崎駿
黒澤の作品を並べると、原作に選んだ書き手の列が見えてくる。芥川龍之介の『藪の中』『羅生門』(『羅生門』1950)。イギリスの劇作家シェイクスピアの(『蜘蛛巣城』1957)。ロシアの小説家ドストエフスキーの(『白痴』1951)。同じくロシアの作家ゴーリキーの(『どん底』1957)。そして再びシェイクスピアの(『乱』1985)。海外の古典と日本の歴史を、一つの画面に重ねる。(ほんあん)を繰り返す作り方だった。
1993 年、御殿場の自宅別荘で、アニメーション作家の宮崎駿と対談した。その記録は『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(徳間書店、1993)という本になった。映画は世界中の言葉を越えて通じる。そういう趣旨のことを、黒澤の側が語ったと収録されている。
宮崎はのちに、52 歳の自分が「黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」と振り返ることになる。先を行く映画監督と、後に続くアニメーション作家。二人がひとつ屋根の下で、映画というものが言葉を越えて通じることについて話した記録である。
芥川、シェイクスピア、ドストエフスキー、宮崎駿。別の書き手の言葉を借り、同じ時代の作り手の隣に座る。「自分について正直に語れない」と書いた人は、そうやって半世紀を過ごした。だが、その半世紀は、まっすぐな一本道ではなかった。
06鏡の前の蝦蟇
半世紀の途中には、途切れた時期がある。1971 年、黒澤は自殺未遂を経験した。その後、1975 年にソ連のモスフィルムでを撮った。1980 年には、アメリカの映画監督コッポラとルーカスの製作協力を受け、『影武者』(東宝)を撮った。日本での製作が、海外の資本の助けで再開した。1985 年には『リア王』を『乱』に翻案した。
その途中、1984 年に自伝が出た。(岩波書店)である。冒頭は、自分を蝦蟇にたとえる話から始まる。山の中の蝦蟇が、鏡に映った自分を見る。驚きのあまり、脂汗(あぶらあせ)を流す。その脂汗を集めたものが膏薬(こうやく)になる、という言い伝えがある。自分の自伝も、そのような脂汗だ、と彼は書く。
人間というものは自分について正直に語れない。どうしても自分を飾らずに語ることはできない。
自伝の入口で、自分の語りは飾らずにはいられない、と書く。そう書いた人が、その 9 年後に撮ったのが、あの座敷だった。
07ふたたび、夕暮れの座敷
ここで、冒頭の座敷に戻ろう。教え子が問う。「先生、もうそろそろよろしいですか」。百閒が返す。「まあだだよ」。
この返事は、軽い座興に見える。だが、彼自身の半世紀と重ねると、別の顔を見せる。自殺未遂のあと、ソ連で撮り、海外の助けで日本に戻り、『リア王』を『乱』にした。その人が、最後の長編に「まあだ」と笑う場面を選んだ。
『生きる』の問いを思い出してほしい。人は死を意識したとき、何をするか。その問いは、ここでは座敷の軽い遊びに変わっている。まだだよ。まだ終わらない。
自分について正直に語れない人が、語る代わりに半世紀やってきた仕事。「まあだだよ」は、その答えでも結論でもない。続きがある、という返事として、映画の側に残されている。あなたなら、この座敷の返事をどう聞くだろうか。
08作品に見る問いの輪郭——複数性・翻案・未完の返事
黒澤明の自伝『蝦蟇の油 自伝のようなもの』(岩波書店、1984)の序章は、自己語りの困難をはっきり認めるところから始まる。奇妙なのは、その困難を認めながら、彼が映画の現場で選んできたのは個人の独白ではなく、3 人で書き、集団を撮り、最後に師弟の座敷を映すという、徹底して複数性を抱える作業だったことである。一人の手が「自分について語れない」と書きながら、その手は脚本会議の宿に籠もり、農村と侍の群れを並べ、晩年に「先生、もうそろそろよろしいですか」と問う場面を撮った。語れないと言う人ほど、別の方法で見ようとしていたかもしれない、という方向から作品群は問い直せる。
『羅生門』では、人間が自分について正直に語れないという『蝦蟇の油』序章の認識が、すでに作品の構造として形になっている。語れないことを諦めない仕方として、黒澤は複数の証言を並べ、観客自身に判断を引き取らせる装置を作った。終盤に置かれた捨て子を抱く動作も、結論を語りで閉じない代わりに、別の身体の動きで残されている。『生きる』の告別式の回想も、一人の語りでは閉じない構造を保っている。
脚本第一主義は、黒澤組では一人の独走ではなく、3 名の刃で研ぐ作業として実装されていた。脚本の段階で映画が決まるという考え方を、一人で書ききれないという認識から逆算し、競合する 3 人の手の運用に翻訳した方法だった(『複眼の映像 私と黒澤明』2006)。
作品配置としては、芥川・シェイクスピア・ドストエフスキー・ゴーリキーの文学作品を映画の身体に翻案するという方向と、宮崎駿という同時代の作り手と対談記録として隣り合うという方向の両方に伸びている、と読める。「自分について正直に語れない」という出発点からはじまった仕事は、半世紀のあいだ、別の書き手の言葉と別の作家の身体の隣で、自分が見たいものを画面に置いてきたとも言える。
そして『まあだだよ』。死を意識して何をするか、という『生きる』の問いは、ここでは座敷の軽妙な遊びへ変奏されている。3 人で書き、集団を撮り、海外古典と日本史を重ね、同時代の作り手とひと夏の対談を残した仕事が、最後の頁に置いた「まあだだよ」。それは、自分について正直に語れない人が、語ることの代わりに半世紀やってきた仕事の答えでも、結論でもない。続きがあるという座敷の返事として、映画の側に残されている。作品群から立ち上がるのは、自分を語れない者が、複数の声と借りた言葉と未完の返事によって何を見ようとしたのか、という問いである。
主要作品の年表をひらく
主要作品Works Timeline
- 1943姿三四郎映画(東宝)監督デビュー作
- 1948酔いどれ天使映画(東宝)三船敏郎との初共同作
- 1950羅生門映画(大映)芥川龍之介『藪の中』翻案。1951 ヴェネツィア金獅子賞、1952 米アカデミー名誉賞
- 1952生きる映画(東宝)橋本忍・小国英雄共同脚本
- 1954七人の侍映画(東宝)橋本忍・小国英雄共同脚本
- 1957蜘蛛巣城映画(東宝)シェイクスピア『マクベス』翻案
- 1961用心棒映画(東宝)
- 1965赤ひげ映画(東宝)三船敏郎との最後の協働作
つながり
- 宮崎駿
伴走 — 御殿場の対談で「黒澤監督の前だと小僧になっちゃう」と振り返った、後続のアニメーション作家。
- クリストファー・ノーラン
共鳴 — ハリウッド娯楽だけでなく、20世紀映画史の古典遺産を引き受ける姿勢を示す後代の監督。
- 芥川龍之介
先駆 — 同じ事件を語り手ごとに別々に語る——『羅生門』の複数視点は、この作家の『藪の中』から来ている。
- ウィリアム・シェイクスピア
先駆 — 『蜘蛛巣城』と『乱』——黒澤が二度、日本の身体に置き直した戯曲の書き手。
- フョードル・ドストエフスキー
先駆 — 黒澤が戦後の北海道へ舞台を移してまで撮った『白痴』。その原作を書いたロシアの文豪。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「黒澤明」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Akira Kurosawa"
公式Englishカンヌ国際映画祭『影武者』(1980 パルム・ドール) 公式アーカイブ
出典 Citations
- 著書
本人による自伝。冒頭の「蝦蟇」比喩から脚本論まで、PCL 助監督時代と『羅生門』までの自己描写の primary source。本編は『羅生門』(1950)で打ち切られている。
黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』岩波書店 / 岩波現代文庫, 1984 ▸
- 著書
脚本家・橋本忍による黒澤組脚本会議の記録。『生きる』『七人の侍』の 3 人共同執筆プロセスを当事者として描く。本人 quote ではないが共同執筆者の primary 記録。
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋 / 文春文庫, 2006 ▸
- 著書
1993 年御殿場の自宅別荘で行われた宮崎駿との対談を書籍化。NHK 系で放送、徳間書店から書籍化。映画の普遍性と師弟関係について両者が語る。
『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店, 1993 ▸
- 作品本文
黒澤本人が大量の自筆水彩で残した絵コンテ集。1970 年代の制作中断期に絵コンテだけは描き続けたとされ、製作再起動時の設計図になった。「絵コンテを描かない」という流通する誤認の反証になる primary 物理資料。
黒澤明『乱』絵コンテ集 / 『夢』絵コンテ集, 1985 / 1990
- アーカイブ
コッポラ / ルーカス製作協力で完成した『影武者』(1980)のカンヌ・パルム・ドール受賞記録。海外資本との協働の公的事実。
カンヌ国際映画祭 1980 パルム・ドール『影武者』受賞アーカイブ, 1980 ▸
- アーカイブ
黒澤プロダクション関連の作品クレジット・年譜・撮影記録の集約。本人没後の整理だが、撮影クレジットの primary source として参照される。
黒澤プロダクション / 黒澤明研究会 公式アーカイブ, 1998– ▸
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