黒澤明
「蝦蟇」を鏡に映した手は、3 人で書き、集団を撮り、 「まあだだよ」と笑うまでに、何を見つめてきたか。
自伝で自分を「蝦蟇」と呼んだ映画監督は、半世紀のあいだ、3 人で脚本を書き、雨の中の侍の群れを撮り、燃える城を撮り、最後の長編で師弟が「まあだだよ」と返す座敷を映した。
- 映画
- 翻案
- 共同脚本
- 集団の撮影
- 死の認識
主要作品Works Timeline
- 1943姿三四郎映画(東宝)監督デビュー作
- 1948酔いどれ天使映画(東宝)三船敏郎との初共同作
- 1950羅生門映画(大映)芥川龍之介『藪の中』翻案。1951 ヴェネツィア金獅子賞、1952 米アカデミー名誉賞
- 1952生きる映画(東宝)橋本忍・小国英雄共同脚本
- 1954七人の侍映画(東宝)橋本忍・小国英雄共同脚本
- 1957蜘蛛巣城映画(東宝)シェイクスピア『マクベス』翻案
- 1961用心棒映画(東宝)
- 1965赤ひげ映画(東宝)三船敏郎との最後の協働作
時代の空気
1910年生まれの黒澤明が育った東京には、大正期の自由教育と関東大震災後の荒廃が続いていた。PCL入社後の映画界は、戦時下の検閲と動員、敗戦後のGHQ占領下の制度転換をくぐり、1950年『羅生門』の海外受賞を経て日本映画黄金期へ入る。高度成長期にはテレビの普及で映画館の位置が変わり、1970年代以後は国内製作の停滞、ソ連や米国資本との協働、バブル期から平成初期の国際映画祭評価が、ひとつの監督の仕事場を国境の外へ押し広げた。
問いの輪郭
黒澤明の自伝(岩波書店、1984)の冒頭は、自分自身を「蝦蟇」に喩える比喩から始まる。山中の蝦蟇が鏡に映された自分を見て、驚愕のあまり脂汗を流す——その脂汗を集めたものが膏薬になるという伝承を引きながら、自分の自伝もそのような脂汗だ、と彼は書く。「人間というものは自分について正直に語れない。どうしても自分を飾らずに語ることはできない」(同前、序章)。
奇妙なのは、自己語りの困難をはっきり認めながら、彼が映画の現場で選んできたのは個人の独白ではなく、、集団を撮り、最後に師弟の座敷を映すという、徹底して複数性を抱える作業だったことである。一人の手が「自分について語れない」と書きながら、その手は脚本会議の宿に籠もり、農村と侍の群れを並べ、晩年に「先生、もうそろそろよろしいですか」と問う場面を撮った。語れないと言う人ほど、別の方法で見ようとしていたかもしれない、という方向から問い直してみる。
羅生門 — 嘘の重なりから
その姿勢は、世界に黒澤の名を出した一作にすでに表れている。1950 年公開の『羅生門』(大映)では、芥川龍之介『藪の中』を原作に、武士殺害事件を木樵・盗賊・武士の妻・武士の霊がそれぞれ別の証言として語る。観客は誰の語りも全面的には信じられず、終盤、雨の羅生門で木樵が捨て子を抱いて去る。
人間が自分について正直に語れないという『蝦蟇の油』序章の認識は、ここではすでに作品の構造として形になっている。語れないことを諦めない仕方として、黒澤はを並べ、観客自身に判断を引き取らせる装置を作った。終盤に置かれた捨て子を抱く動作も、結論を語りで閉じない代わりに、別の身体の動きで残されている。
「という映画では、私は、人間が死を意識した時に何をするかということを描きたかった」(『蝦蟇の油』、および 1952 年公開時インタビュー)。1952 年の『生きる』(東宝)で胃癌を宣告された老課長が、雪の降る完成間近の小公園のブランコで「ゴンドラの唄」を歌う場面は、彼が死後に同僚たちが葬儀で語り合う長い告別式の回想と組み合わされている。一人の語りでは閉じない、という方針はここでも保たれている。
3 人で書く
その方針は、彼の脚本執筆の方法そのものにも現れている。脚本家・橋本忍が黒澤組の制作プロセスを記録した(文藝春秋、2006)には、『生きる』(1952)、(1954)などの脚本会議が描かれる。黒澤・橋本・小国英雄の 3 名が宿に籠もり、各自が別室でシーンを書き、夕方持ち寄って朗読し合う。「みんなで書こう」「3 人で同じシーンを別々に書いてみよう」(橋本忍が記録した黒澤の発話)。気に入らないシーンは黒澤が「もう一回書け」と言い、書き直す。
脚本第一主義は、黒澤組では一人の独走ではなく、3 名の刃で研ぐ作業として実装されていた。『七人の侍』では、執筆の傍らで侍 7 名のキャラクターを「履歴書」として一人ずつ作り上げ、それを基に各シーンへ展開していく方法が記録される(橋本忍が黒澤の方法論として記録、『複眼の映像』2006)。脚本の段階で映画が決まるという考え方を、一人で書ききれないという認識から逆算し、競合する 3 人の手の運用に翻訳した方法だった。
芥川・シェイクスピア・宮崎の隣で
黒澤の作品歴を並べると、彼が原作として選び続けた書き手の系列が見える。芥川龍之介『藪の中』『羅生門』(『羅生門』1950)、シェイクスピア『マクベス』(『蜘蛛巣城』1957)、ドストエフスキー『白痴』(『白痴』1951)、ゴーリキー『どん底』(『どん底』1957)、再びシェイクスピア『リア王』(『乱』1985)。海外古典と日本史を一つの身体に重ねていく、を繰り返す手だった。
1993 年、御殿場の自宅別荘で行われた宮崎駿との対談を書籍化した『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(徳間書店、1993)には、映画というメディアが世界中の言葉を越えて通じる、という趣旨が黒澤側から語られたと収録されている。同じ対談の場で宮崎は、52 歳の自分が「黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」と振り返ることになる。先行世代の映画監督と後続のアニメーション作家が、ひとつ屋根の下で映画というメディアの普遍性について話した記録である。
芥川・シェイクスピア・ドストエフスキー・宮崎駿。並べてみると、黒澤の作品配置としては、文学作品を映画の身体に翻案するという方向と、同時代の作り手と対談記録として隣り合うという方向の両方に伸びている、と読める。「自分について正直に語れない」という出発点からはじまった彼の手は、半世紀のあいだ、別の書き手の言葉と別の作家の身体の隣で、自分が見たいものを画面に置いてきたとも言える。
「まあだだよ」
最後の長編は、1993 年の(大映 / 電通 / 黒澤プロダクション)になった。原作は内田百閒。教え子たちが百閒の還暦・古稀・喜寿などを祝う「摩阿陀会」(まあだ会)の挿話が、夕暮れの座敷の場面として置かれる。教え子が「先生、もうそろそろよろしいですか」と問い、百閒は「まあだだよ」と返す。
タイトルになったこの返事は、軽い座興に見えて、彼自身の半世紀の手つきとも重なる。1971 年に一度自殺未遂を経験し、その後、1975 年にソ連モスフィルムで『デルス・ウザーラ』を撮り、1980 年にコッポラとルーカスの製作協力を受けて『影武者』(東宝)を撮り、1985 年にシェイクスピアの『リア王』を『乱』へ翻案した手は、晩年に「まあだ」と笑う場面を選んだ。
死を意識して何をするか、という『生きる』の問いは、ここでは座敷の軽妙な遊びへ変奏されている。3 人で書き、集団を撮り、海外古典と日本史を重ね、同時代の作り手とひと夏の対談を残した手が、最後の頁に置いた「まあだだよ」。それは、自分について正直に語れない人が、語ることの代わりに半世紀やってきた仕事の答えでも、結論でもない。続きがあるという座敷の返事として、映画の側に残されている。
出典 Citations
- 著書
本人による自伝。冒頭の「蝦蟇」比喩から脚本論まで、PCL 助監督時代と『羅生門』までの自己描写の primary source。本編は『羅生門』(1950)で打ち切られている。
黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』岩波書店 / 岩波現代文庫, 1984 ▸
- 著書
脚本家・橋本忍による黒澤組脚本会議の記録。『生きる』『七人の侍』の 3 人共同執筆プロセスを当事者として描く。本人 quote ではないが共同執筆者の primary 記録。
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋 / 文春文庫, 2006 ▸
- 著書
1993 年御殿場の自宅別荘で行われた宮崎駿との対談を書籍化。NHK 系で放送、徳間書店から書籍化。映画の普遍性と師弟関係について両者が語る。
『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店, 1993 ▸
- 作品本文
黒澤本人が大量の自筆水彩で残した絵コンテ集。1970 年代の制作中断期に絵コンテだけは描き続けたとされ、製作再起動時の設計図になった。「絵コンテを描かない」という流通する誤認の反証になる primary 物理資料。
黒澤明『乱』絵コンテ集 / 『夢』絵コンテ集, 1985 / 1990
- アーカイブ
コッポラ / ルーカス製作協力で完成した『影武者』(1980)のカンヌ・パルム・ドール受賞記録。海外資本との協働の公的事実。
カンヌ国際映画祭 1980 パルム・ドール『影武者』受賞アーカイブ, 1980 ▸
- アーカイブ
黒澤プロダクション関連の作品クレジット・年譜・撮影記録の集約。本人没後の整理だが、撮影クレジットの primary source として参照される。
黒澤プロダクション / 黒澤明研究会 公式アーカイブ, 1998– ▸
出典と確認メモ
4件- 著作原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 自伝の冒頭で、自分を「蝦蟇」に喩え、鏡に映して語ることの困難を述べた一節。映画『羅生門』(1950)の「人間は自分について正直に語れない」という主題と同じ構造を、自伝執筆という行為に向けた言葉。
一次資料を開く岩波書店公式書誌。『蝦蟇の油 自伝のようなもの』の publisher record (1984年単行本→2001現代文庫化)
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 人間というものは自分について正直に語れない。どうしても自分を飾らずに語ることはできない。
一次資料を開く序章 / 巻頭エッセイ箇所。黒澤本人の verbatim は『人間は、これは私である、といって正直な自分自身については語れないが、他の人間に托して、よく正直な自...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: kurosawa.mdx pullquote「人間というものは自分について正直に語れない。/ どうしても自分を飾らずに語ることはできない。」は、黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』序章の趣旨を抜粋・整...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』(岩波書店、1984)、序章「蝦蟇の油」
一次資料を開く岩波書店公式書誌。『蝦蟇の油 自伝のようなもの』publisher record (1984 年単行本 → 2001 現代文庫化)。philoglyph kur...
つながり
- 宮崎駿
伴走 — 1993 年御殿場の黒澤の別荘で NHK 系放映の対談を実施、徳間書店から『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(1993)として書籍化。52 歳の宮崎が「黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」と振り返り、黒澤側からは映画の普遍性が語られた。先行世代の映画監督と後続のアニメーション作家のひと夏の対談記録。
- クリストファー・ノーラン
共鳴 — 直接対話なき同窓性。Nolan は Criterion Top 10 に Stroheim『Greed』、Welles『Mr. Arkadin』、Lang『The Testament of Dr. Mabuse』、大島渚『戦場のメリークリスマス』などを挙げ、Hollywood エンタメだけでなく 20 世紀映画史の古典遺産を引き受ける姿勢を示している。黒澤もまた海外古典と日本映画を往復し、Criterion 系の古典シネマ文脈に置かれる作家であり、両者は直接の弟子関係ではなく、古典映画への参加姿勢として響き合う。
- 芥川龍之介
継承 — 黒澤明『羅生門』(1950、大映)は芥川龍之介『藪の中』(1922)を主軸に『羅生門』(1915)の枠を借りた翻案。木樵・盗賊・武士の妻・武士の霊が同じ事件を別々に語る複数視点の構造は、原作の主題を映画の身体に移した代表例。1951 年ヴェネツィア金獅子賞、1952 年米アカデミー名誉賞。
- ウィリアム・シェイクスピア
継承 — 黒澤は Shakespeare を二度翻案している。『マクベス』を能の様式と戦国の城に重ねた『蜘蛛巣城』(1957、東宝)、そして『リア王』を一文字秀虎の家として日本史に置き直した『乱』(1985)。海外古典を日本の身体へ重ねる方法論の中軸。
- フョードル・ドストエフスキー
継承 — 黒澤明『白痴』(1951、松竹)はドストエフスキー『白痴』(1869)の翻案。舞台を戦後日本の北海道へ移し、ムイシュキン公爵を亀田欽司として置き直した。『羅生門』ヴェネツィア受賞と同年の作。
さらに辿るならExternal References
黒澤明を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「黒澤明」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Akira Kurosawa"
公式Englishカンヌ国際映画祭『影武者』(1980 パルム・ドール) 公式アーカイブ
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