宮崎駿
描き続ける手は、 子どもと自然に何を託してきたか。
雨のバス停、湯屋の労働、水に沈んだ町。半世紀絵コンテを描き続ける手が、子どもと自然に託してきた問いを読む。
- 自然と人間
- 子どもの自立
- 戦争への抵抗
- 飛翔
- 失われた世界
主要作品Works Timeline
- 1978未来少年コナンアニメ(NHK 総合 (日本アニメーション制作))全 26 話の演出を担当した実質的な監督デビュー作。
- 1979ルパン三世 カリオストロの城映画(東宝 (東京ムービー新社))宮崎駿の劇場映画初監督作。1979 年 12 月 15 日公開。
- 1982風の谷のナウシカ (漫画版)漫画(徳間書店『アニメージュ』連載)1982 年連載開始、1994 年完結。単行本第 1 巻は 1983 年刊。
- 1984風の谷のナウシカ映画(東映 (トップクラフト制作 / 徳間書店・博報堂))ジブリ設立前の長編劇場アニメ。脚本も担当。
- 1986天空の城ラピュタ映画(東宝 (スタジオジブリ))ジブリ設立後の第 1 作。原作・脚本も担当。
- 1988となりのトトロ映画(東宝 (スタジオジブリ))『火垂るの墓』と二本立て公開。原作・脚本も担当。
- 1989魔女の宅急便映画(東宝 (スタジオジブリ))角野栄子の児童文学を原作とする。脚本も担当。
- 1992紅の豚映画(東宝 (スタジオジブリ))自身の漫画「飛行艇時代」を原作にした飛行艇乗りの物語。
時代の空気
1941年生まれの宮崎駿が少年期を過ごした東京には、敗戦後の空襲記憶と占領下の制度転換が残っていた。高度成長の都市化、テレビアニメの量産、1970年代の公害と学生運動の余熱を経て、1985年にスタジオジブリが設立される。バブル崩壊後の平成不況、1995年の震災と地下鉄サリン事件、2001年以後の戦争の報道が重なるなかで、日本のアニメーション映画は子どもの娯楽を越え、大衆芸術として劇場の中心へ出ていった。
問いの輪郭
宮崎駿の映画では、子どもはしばしば世界の説明を受ける前に、その世界へ立たされる。森の縁、、の労働、水に沈んだ町。そこでは自然も、癒やしの背景としてだけでは現れない。雨は暗く、森は大きく、川は汚れ、は街を覆う。作品からは、子どもを守られた小部屋へ閉じ込めるのではなく、未知のものと出会う存在として見る問いが立ち上がる。
この問いを、制作の側からも見たい。湯屋に並んだ働く者たちの背中、トトロの頭上を叩く雨音、ポニョが宗介の手を取って走る画面 ― それらを毎フレーム手で描き起こす作業は、半世紀以上続いてきた。子どもは、作品が何かを教える相手であるだけではなく、に向かう手の前に置かれ続けてきた相手でもある。
バス停、湯屋、海
の雨のバス停では、サツキとメイが父を待つ隣に、トトロが立つ。サツキが傘を差し出すという小さな身ぶりに、雨粒の音を喜ぶ巨大な存在が応答する。ここで自然は、説明される対象ではない。子どもの礼儀、父を待つ時間、暗い森の気配が重なったとき、日常の端から別の秩序が顔を出す。場面が問うているのは、自然を所有することではなく、まだ名づけきれないものと同じ場所に立てるか、ということに近い。
では、その問いは労働へ移る。千尋が「腐れ神」として来た客を洗う場面では、体内から自転車や釣り糸の塊、ガラクタが引き出され、川の神が姿を取り戻す。自然は、あらかじめ清らかなものとして置かれていない。回復は祈りだけでなく、手を動かす共同作業として描かれる。千尋は自然を救う英雄というより、湯屋の規則と重労働の中で、目の前の汚れを引き受ける子どもとして立つ。
『崖の上のポニョ』では、海が街を覆い、宗介とポニョが船で水没した町を進む。大人の目には災害的な光景でも、子どもの視点では世界が別の遊び場へ変わっている。宗介は「ぼくが守るからね」とポニョに語りかけ、ポニョは魚の姿に戻ったり人の子どもの姿に戻ったりしながら、その手を握り続ける。子どもは自然を所有しようとしない。ただ、約束を持ってその中を進む。
描き続ける手
この三つの場面に共通するのは、自然が概念としてではなく、身体感覚で出会う場として描かれる点である。雨音を聞く、湯屋で洗う、船で水面を進む。だから制作論の発言も、作品の外側の補足ではなく、同じ問いの別面として響く。Tom Mes による英訳 interview(2002 年、Midnight Eye)で宮崎は、物語について「絵コンテを描き始めたとき、物語が進みはじめる」と述べている。完成した思想を映像に移すのではなく、絵コンテを描く行為の中で物語が進む。
へのこだわりも、単なる作風の印ではない。Roger Ebert による英訳 interview(2002 年、2012 年公開記事)では「すべては人の手の描画から始まる」と語られている。これは、コンピューター利用の全面否定ではなく、画面の基準点を人間の手に置くという制作姿勢として扱える。スタジオジブリ公式『ゲド戦記』制作日誌(2006 年)には、宮崎が若いスタッフへ「イメージボードは、映画に登場するもの以外描いてはならない」と諭した記録が残されている。アイデアの量産ではなく、映画の中で実際に生きる画だけを描く。場が先にあり、子どもがそこを歩き、労働し、物語が生まれる。
三つの軸の交差
宮崎作品の子どもと自然を、描き続ける手から切り離して読むと、そこにはすぐ大きな言葉が入り込む。環境、反近代、癒やし、成長。しかしここで見たいのは、その手前にある小さな往復である。子どもが傘を差し出す。湯屋で汚れを抜く。船で水没した町を進む。描き手は絵コンテを描きながら物語を見つけ、手の線を画面の出発点に置く。
スタジオジブリ『熱風』2013 年 7 月号(憲法改正をめぐる特集)で宮崎は、日本という国家ではなく風土を見直す文脈で「この島の植物や自然が好き」と語っている。同じ号で、子どもたちに向けて「なんとかなるよ」と言うことにも触れている。これは反戦・憲法をめぐる発言の中の言葉であり、自然観や子ども観の包括的証明として読むべきではない。むしろ作品から見えるのは、自然を善と断定せず、子どもを純粋無垢と決めつけず、それでも世界を完全な絶望として渡さないための画面の作り方である。
老いと創作のあいだの緊張について、この頁は多くを断定しない。公開資料で確認できる範囲では、『ポニョ』の制作が衰えと想像力のせめぎあいの只中にあったことが NHK WORLD-JAPAN(2019 年)などで紹介されている。その限界のそばで、なお子どもと自然を描き続ける手。そこには、未来を明るく保証する声ではなく、手を動かし続けることでしか渡せない「まだ手渡せる世界」の感触が残る。
先に手を取った書き手たち
宮崎駿は、子どものころに読んだ一冊の本を生涯にわたって反芻してきた。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937)である。岩波少年文庫を語った『本へのとびら』(2011)には、岩波少年文庫には収録されていないこの題名がそれでも繰り返し顔を出す。2023 年に発表した同題の長編映画は、吉野の小説の映画化ではない——下敷きはアイルランド人作家による別の児童文学だと本人が語っている——が、母が遺した本としてその一冊が画面に置かれるとき、宮崎が少年期に出会った言葉を半世紀以上たどってきたことが見えてくる。
もう一人、宮崎が手元から離さなかった先人がいる。宮沢賢治である。『千と千尋の神隠し』(2001)で千尋が乗り込む海原電鉄について、宮崎はロバート・ホワイティングとの対談で「それは『銀河鉄道の夜』の僕のイメージなんですよ」と語っている(『ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」』角川書店、2008)。同じ『本へのとびら』(2011)で薦める 50 冊のなかには、賢治『注文の多い料理店』も含まれている。少年期からの読書が、半世紀ほど後の画面と語りに、別の形で現れている。
『風立ちぬ』(2013)では、関係はいっそう公然と示された。劇場ポスターには「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」と刻まれた。2011 年 1 月の企画書で宮崎は、零戦の設計者・堀越二郎と、同時代を病とともに生きた文学者・堀辰雄を「ごちゃまぜにして、ひとりの主人公『二郎』に仕立てている」と書く。公開時のインタビューでは「この時代の人で 1 番自分に身近に感じられたのが堀越二郎と堀辰雄だった。堀越二郎の内面はおのずと堀辰雄になっていった」と述べた(日経新聞、2013 年 7 月)。技術者と文学者を一人の身体に重ねるという奇妙な操作は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』(1936-38)と、ポール・ヴァレリーの「いざ生きやも」を、二郎という設計者の生のなかへ繰り入れる試みだった。
同時代の年長者とは、対話の場で正面から向き合った。1992 年、堀田善衞(1918 年生)・司馬遼太郎(1923 年生)との鼎談集『時代の風音』(朝日新聞社)に、1941 年生まれの宮崎は「教わる側」として加わる。冷戦終結直後の価値観の崩落を、年長の二人にぶつけて 20 世紀を整理しようとした記録だった。
翌年、宮崎は静岡県御殿場の黒澤明の別荘に呼ばれた。NHK 系で放送された対談(『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993)で宮崎は、「自分の義理の父と話してるときと非常に印象が似ていました。僕も、こんな白髪でね、職場にいるとジジイなんですけど、黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」と振り返っている。先行する巨匠を前にして、52 歳の宮崎が自分を「小僧」と呼びなおしたことが、関係の質を端的に示す。
一方、もっとも近くにいた先行者には複雑な訣別を行わなければならなかった。1989 年に手塚治虫が没した直後、宮崎は『出発点』(徳間書店、1996)に収められる追悼文で、手塚の TV アニメーションを「彼は本来ヒューマニズムでないのに、そのヒューマニズムのフリをする」と厳しく評した。同じ文章で宮崎は、「18 歳を過ぎて自分で漫画を描かなければならないと思ったときに、自分に染み込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすかということが大変な重荷になった」とも書いている。乗り越えるためには弔いの場であっても言葉を選ばなかった、という両義性が、宮崎にとっての「出発点」の重さをそのまま示している。
同時代の対話相手としては、解剖学者・養老孟司との往復が長い。1996・1998・2001 年の三度にわたる対談をまとめた『虫眼とアニ眼』(徳間書店 2002 / 後に新潮文庫)では、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を切り口に、虫の目で世界を見る人と、アニメーションで世界を立ち上げる人とが、自然のディテールと子どもの身体について語り合った。10 年以上の継続性をもった同時代対話は、宮崎にとって例外的に開かれた回路である。
海を越えた書き手も、長く宮崎の側にあった。引退会見(2013 年 9 月)で宮崎は、「自分の好きなイギリスの児童文学作家で、もう亡くなりましたけど、ロバート・ウェストールという男がいまして、その人が書いたいくつかの作品の中に、ほんとうに自分の考えなければいけないことが充満している」と述べ、ウェストール作品の一節「君はこの世に生きていくには、気立てが良すぎる」を引いた。「それは少しも褒め言葉じゃないんですよ。そんな形では生きていけないぞお前は、というふうに言っている言葉なんですけど。それは、ほんとうに胸打たれました」と続けた宮崎は、児童文学が伝えるべき核として「この世は生きるに値する」を、ウェストールから受け取った遺産として再発信した。
吉野・賢治・堀越・堀辰雄・堀田・司馬・黒澤・手塚・養老・ウェストール。並べてみると、宮崎が手を取ろうとしたのは、戦争を抜けてきた書き手と、子どもの言葉に責任を持とうとした書き手の二系統である。乗り越えるために激しく評した手塚も、教わるために自分を「小僧」と呼びなおした黒澤も、繰り返し読み返したウェストールも、宮崎にとっては同じひとつの問いの相手だったように見える——子どもに渡せる言葉を、どこから引いてくるか。手は、それらを編むために描きつづけた。
出典 Citations
- 著書
1979-1996 年の自選エッセイ・対談・講演集。創作観の一次資料として最も網羅的。
宮崎駿『出発点 1979-1996』徳間書店, 1996
- 著書
『出発点』続編。『もののけ姫』以降の制作メモ、講演、対談を収録。
宮崎駿『折り返し点 1997-2008』岩波書店, 2008
- 著書
スタジオジブリ プロデューサーによる長期記録。本人発言の引用が豊富。
鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』文春新書, 2019
- 動画
「風立ちぬ」後の引退撤回と短編「毛虫のボロ」制作期の長期密着記録。
NHK ドキュメンタリー「終わらない人 宮崎駿」, 2016
つながり
- 手塚治虫
批判的継承 — 宮崎駿は手塚治虫の死後 3 ヶ月、追悼文「手塚治虫に『神の手』をみた時、ぼくは彼と訣別した」(初出 Comic Box 1989 年 5 月号、所収『出発点 1979-1996』徳間書店 1996)で、手塚の TV アニメーションについて「彼は本来ヒューマニズムでないのに、そのヒューマニズムのフリをするでしょう。それが破綻をきたしてるんですよ」と批判した。同文で宮崎は「自分に染み込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすかということが大変な重荷になった」とも書く。継承と訣別の両義性が、追悼の場に同居している。
- 宮沢賢治
継承 — 宮崎駿は『千と千尋の神隠し』(2001)の海原電鉄シーンを宮沢賢治『銀河鉄道の夜』への応答として構想したと語る。「それは『銀河鉄道の夜』の僕のイメージなんですよ」(『ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」』ロバート・ホワイティングとの対談、角川書店、2008)。岩波少年文庫を語った『本へのとびら』(2011)で薦める 50 冊にも、賢治『注文の多い料理店』が含まれている。少年期からの読書が、半世紀ほど後の画面と語りに別の形で現れている。
- 吉野源三郎
継承 — 宮崎駿は子どものころに読んだ吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937)を生涯にわたって反芻してきた、と語る。岩波少年文庫を語った『本へのとびら』(岩波新書、2011)には、岩波少年文庫には収録されていない同書がそれでも繰り返し顔を出す。2023 年に発表された同題の長編アニメーション映画は、宮崎本人によれば吉野書の映画化ではなく、別作品(アイルランド人作家による児童文学)を下敷きとしたもの。ただし母が遺した本としてその一冊が画面に置かれており、1937 年の児童書が一人の読み手のなかで半世紀以上たどられ続けたことが姿を見せる。
- 養老孟司
伴走 — 解剖学者と映画監督の三度にわたる対談集『虫眼とアニ眼』(徳間書店 2002 / 新潮文庫)。1996・1998・2001 年の対談記録で、子ども・自然・虫・身体について語り合った。養老の里山論「人が入ることで自然が豊かになる」と、宮崎の『もののけ姫』(1997)タタラ場と森の共存描写は、隣り合う問いとして読める。既存 miyazaki-hayao MDX line 63 でも『虫眼とアニ眼』が言及されている。
- 司馬遼太郎
伴走 — 1992 年、堀田善衞(1918 年生)・司馬遼太郎(1923 年生)・宮崎駿(1941 年生)の三人による鼎談集『時代の風音』(朝日新聞社、1992、後にスタジオジブリ再刊)。冷戦終結直後の鼎談で、司馬は「あとがき」相当で宮崎を「二十一世紀の側」の人として位置づけた。世代の異なる三人がひと夏 20 世紀を話した記録。既存 miyazaki-hayao MDX line 57 で言及済。
- 米津玄師
伴走 — 映画『君たちはどう生きるか』(2023)主題歌「地球儀」の制作期間 4 年。米津玄師は 1997 年に小学 1 年で映画館で『もののけ姫』を観た原体験から、2018 年の初対面を経て主題歌依頼に至る。米津は宮崎を「偉大な師匠として、もっと言うと、父親のような存在として」と語り、彼に対して「ちゃんと自分のことを否定してくれて、それと同時に『お前は生きていていいんだよ』と教えてもらう」ことを求めていた、と述べる(音楽ナタリー、2023、https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi24)。
- 黒澤明
伴走 — 1993 年御殿場の黒澤の別荘で NHK 系放映の対談を実施、徳間書店から『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(1993)として書籍化。52 歳の宮崎が「黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」と振り返り、黒澤側からは映画の普遍性が語られた。先行世代の映画監督と後続のアニメーション作家のひと夏の対談記録。
さらに読むならFurther Reading
宮崎駿の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門出発点 1979~1996
宮崎駿 / 徳間書店
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宮崎駿 / 岩波書店
Amazonでこの版を探す →副読本へのとびら ―岩波少年文庫を語る
宮崎駿 / 岩波新書
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生きた跡を辿るPlaces
宮崎駿が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 三鷹の森ジブリ美術館記念館
三鷹市, 日本
宮崎駿が館主として企画から関わった、ジブリ世界観の常設発信地。短編作品を上映する「土星座」も併設
- ジブリパーク記念館
長久手市, 日本
愛・地球博記念公園内に2022年開園。「サツキとメイの家」「ジブリの大倉庫」「魔女の谷」など、宮崎作品の風景を物理空間化した近年の集大成
- サツキとメイの家期間展示
長久手市, 日本
2005年「愛・地球博」で公開された『となりのトトロ』草壁家の昭和30年代再現家屋。現在はジブリパーク「どんどこ森」の中核施設
さらに辿るならExternal References
宮崎駿を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「宮崎駿」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Hayao Miyazaki"
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