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宮
芸術的直観

宮崎駿

Miyazaki Hayao·1941–·日本·

雨のバス停で、 少女はなぜ、名前も知らないものに傘を差し出したのか。

雨のバス停、湯屋の労働、水に沈んだ町。半世紀絵コンテを描き続ける手が、子どもと自然に託してきた問いを読む。

  • 自然と人間
  • 子どもの自立
  • 戦争への抵抗
  • 飛翔
  • 失われた世界
空襲の記憶が残る東京に育ち、アニメが工場のように量産される時代に、手で描くことを選び続けた — ひらく

時代の空気

1941年生まれの宮崎駿が少年期を過ごした東京には、敗戦後の空襲記憶と占領下の制度転換が残っていた。高度成長の都市化、テレビアニメの量産、1970年代の公害と学生運動の余熱を経て、1985年にスタジオジブリが設立される。バブル崩壊後の平成不況、1995年の震災と地下鉄サリン事件、2001年以後の戦争の報道が重なるなかで、日本のアニメーション映画は子どもの娯楽を越え、大衆芸術として劇場の中心へ出ていった。

01雨のバス停

雨が降っている。バス停に、姉のサツキと妹のメイが立っている。二人は父を待っている。の、の場面だ。後ろには暗い森がある。

そこへ、大きなものが並んで立つ。トトロである。サツキは、自分の傘を差し出す。雨粒が傘を叩く音を、その巨大な存在は喜ぶ。子どもの小さな礼儀に、森の側が応えた。

この場面には、説明がない。トトロが何者なのか、誰も教えてくれない。それでもサツキは、傘を差し出すという当たり前の身ぶりを取る。日常の端から、別の秩序が顔を出す瞬間である。

なぜ、この監督の映画では、子どもが世界の説明を受ける前に、その世界へ立たされるのか。なぜ自然は、やさしい背景としてだけでは現れないのか。答えを探すために、時をずっと戻す。雨のバス停より何十年も前、一人の少年が読んでいた本から始めたい。

02少年が読んだ本

宮崎駿は、子どものころに読んだ一冊の本を、生涯にわたって読み返してきた。吉野源三郎(1937)である。少年が世界の中で自分の立ち位置を考える小説だ。

その本は、岩波少年文庫を語った『』(2011)にも顔を出す。岩波少年文庫には収録されていない題名なのに、それでも繰り返し出てくる。2023 年、宮崎は同じ題名の長編映画を発表した。ただし吉野の小説の映画化ではない。下敷きはアイルランド人作家による別の児童文学だと、本人が語っている。それでも画面には、母が遺した本としてその一冊が置かれる。少年期に出会った言葉を、半世紀以上たどってきたことが見えてくる。

もう一人、宮崎が手元から離さなかった書き手がいる。宮沢賢治である。(2001)で、千尋は原電鉄という電車に乗り込む。この電車について宮崎は、ロバート・ホワイティングとの対談で「それは『』の僕のイメージなんですよ」と語っている(『ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」』角川書店、2008)。

同じ『本へのとびら』(2011)で薦める 50 冊のなかには、賢治『』も含まれている。少年期からの読書が、半世紀ほど後の画面と語りに、別の形で現れている。けれども、本を読むだけでは絵は描けない。絵を描き始めた若い宮崎の前には、あまりに大きな先輩がいた。

03こそぎ落とす

その先輩とは、手塚治虫である。漫画とテレビアニメの、戦後日本の大きな出発点となった人だ。1989 年に手塚が亡くなった直後、宮崎は追悼文を書いた。後に『出発点』(徳間書店、1996)に収められる文章である。

そこで宮崎は、手塚の TV アニメーションを「彼は本来でないのに、そのヒューマニズムのフリをする」と厳しく評した。弔いの場での、きつい言葉である。同じ文章で宮崎は、若い日のことも書いている。「18 歳を過ぎて自分で漫画を描かなければならないと思ったときに、自分に染み込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすかということが大変な重荷になった」。

染み込んだものを、こそぎ落とす。それが宮崎にとっての「出発点」の重さだった。1985 年、宮崎はを設立する。自分の手で描く場所を持った監督は、子どもと自然を、どんな場面に置いたのか。雨のバス停の先で、二つの場面を見ていく。

04湯屋と海

『千と千尋の神隠し』では、問いは労働へ移る。千尋は、という大きな風呂屋で働かされている。そこへ「腐れ神」と呼ばれる客が来る。千尋はその客を洗う。体内からは自転車や釣り糸の塊、ガラクタが引き出される。汚れが抜けたとき、川の神が姿を取り戻す。

ここでは、自然があらかじめ清らかなものとして置かれていない。回復は祈りだけでなく、手を動かす共同作業として描かれる。千尋は自然を救う英雄というより、湯屋の規則と重労働の中で、目の前の汚れを引き受ける子どもとして立つ。

『崖の上のポニョ』では、海が街を覆う。宗介とポニョは船で、水没した町を進む。大人の目には災害の光景だ。しかし子どもの視点では、世界が別の遊び場へ変わっている。宗介は「ぼくが守るからね」とポニョに語りかける。ポニョは魚の姿に戻ったり、人の子どもの姿に戻ったりしながら、その手を握り続ける。

傘を差し出す。汚れを抜く。約束を持って水の上を進む。三つの場面の子どもは、自然を所有しようとしない。では、こうした場面は、どこから生まれてくるのか。監督自身が語った、絵の描き方に耳を傾ける。

05絵コンテの先に

映画は、ふつう脚本から作られる。宮崎の場合は少し違う。とは、場面を一コマずつ絵で描いた設計図のことだ。Tom Mes による英訳 interview(2002 年、Midnight Eye)で宮崎は、物語について「絵コンテを描き始めたとき、物語が進みはじめる」と述べている。完成した考えを映像に移すのではない。絵コンテを描く行為の中で、物語が進む。

the story develops when I start drawing storyboards

— Tom Mes による英訳インタビュー「Midnight Eye」(2002年)。物語の作り方を問われて、脚本より先に絵コンテを描く自身のやり方を語った言葉

へのこだわりも、単なる作風の印ではない。Roger Ebert による英訳 interview(2002 年、2012 年公開記事)では「すべては人の手の描画から始まる」と語られている。これは、コンピューター利用の全面否定ではない。画面の基準点を、人間の手に置くという制作姿勢として扱える。

スタジオジブリ公式『ゲド戦記』制作日誌(2006 年)には、宮崎が若いスタッフへ「イメージボードは、映画に登場するもの以外描いてはならない」と諭した記録が残されている。とは、映画の世界を先に絵にしてみる下描きのことだ。アイデアの量産ではなく、映画の中で実際に生きる画だけを描く。場が先にあり、子どもがそこを歩き、労働し、物語が生まれる。

しかし手は、一人で動くのではない。宮崎が年上の人たちと正面から向き合った記録が、いくつか残っている。

06「小僧」になる

1992 年、宮崎は二人の年長者と語り合った。作家の(1918 年生)と、司馬遼太郎(1923 年生)である。鼎談集『時代の風音』(朝日新聞社)に、1941 年生まれの宮崎は「教わる側」として加わる。冷戦が終わった直後で、それまでの価値観が崩れていた。宮崎はその崩落を年長の二人にぶつけ、20 世紀を整理しようとした。

翌年、宮崎は静岡県御殿場の黒澤明の別荘に呼ばれた。『七人の侍』の監督である。NHK 系で放送された対談(『何が映画か——「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993)で、宮崎はこう振り返っている。「自分の義理の父と話してるときと非常に印象が似ていました。僕も、こんな白髪でね、職場にいるとジジイなんですけど、黒澤監督の前だと『小僧』になっちゃうんですよ」。先行する巨匠を前にして、52 歳の宮崎が自分を「小僧」と呼びなおしたことが、関係の質を端的に示す。

同じ時代を生きる相手とは、解剖学者・養老孟司との往復が長い。1996・1998・2001 年の三度にわたる対談は、(徳間書店 2002 / 後に新潮文庫)にまとめられた。『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を切り口に、虫の目で世界を見る人と、アニメーションで世界を立ち上げる人とが語り合った。話題は、自然の細部と子どもの身体である。10 年以上続いた同時代の対話は、宮崎にとって例外的に開かれた回路だった。

教わる側に立つ、小僧になる、虫の目に学ぶ。年上の人たちへの向き合い方は、やがて一本の映画の表に出てくる。

07敬意を込めて

『風立ちぬ』(2013)では、先人との関係がいっそう公然と示された。劇場ポスターには「とに敬意を込めて」と刻まれた。堀越二郎は零戦を設計した技術者、堀辰雄は同じ時代を病とともに生きた小説家である。

2011 年 1 月の企画書で宮崎は、この二人を「ごちゃまぜにして、ひとりの主人公『二郎』に仕立てている」と書く。公開時のインタビューでは「この時代の人で 1 番自分に身近に感じられたのが堀越二郎と堀辰雄だった。堀越二郎の内面はおのずと堀辰雄になっていった」と述べた(日経新聞、2013 年 7 月)。技術者と文学者を一人の身体に重ねる、奇妙な操作である。それは、堀辰雄の小説『風立ちぬ』(1936-38)と、詩人ポール・ヴァレリーの「いざ生きやも」を、二郎という設計者の生のなかへ繰り入れる試みだった。

同じ年の 7 月、スタジオジブリの小冊子『熱風』は憲法改正をめぐる特集を組んだ。そこで宮崎は、日本という国家ではなく風土を見直す文脈で「この島の植物や自然が好き」と語っている。同じ号で、子どもたちに向けて「なんとかなるよ」と言うことにも触れている。

そして 2013 年 9 月の引退会見。宮崎は、海を越えた一人の書き手の名を挙げた。「自分の好きなイギリスの児童文学作家で、もう亡くなりましたけど、という男がいまして、その人が書いたいくつかの作品の中に、ほんとうに自分の考えなければいけないことが充満している」。そしてウェストール作品の一節「君はこの世に生きていくには、気立てが良すぎる」を引いた。

「それは少しも褒め言葉じゃないんですよ。そんな形では生きていけないぞお前は、というふうに言っている言葉なんですけど。それは、ほんとうに胸打たれました」。宮崎はそう続け、児童文学が伝えるべき核として「この世は生きるに値する」を、ウェストールから受け取った遺産として再発信した。生きていくには気立てが良すぎる子ども。その子どもに、傘を差し出させたのは誰だったのか。雨のバス停へ戻る。

08ふたたび、雨のバス停 ― 問いの輪郭

宮崎駿の映画では、子どもはしばしば世界の説明を受ける前に、その世界へ立たされる。森の縁、雨のバス停、湯屋の労働、水に沈んだ町。そこでは自然も、癒やしの背景としてだけでは現れない。雨は暗く、森は大きく、川は汚れ、海は街を覆う。作品からは、子どもを守られた小部屋へ閉じ込めるのではなく、未知のものと出会う存在として見る問いが立ち上がる。

この問いを、制作の側からも見たい。湯屋に並んだ働く者たちの背中、トトロの頭上を叩く雨音、ポニョが宗介の手を取って走る画面 ― それらを毎フレーム手で描き起こす作業は、半世紀以上続いてきた。子どもは、作品が何かを教える相手であるだけではなく、絵コンテに向かう手の前に置かれ続けてきた相手でもある。

雨のバス停で、サツキが傘を差し出す。ここで自然は、説明される対象ではない。子どもの礼儀、父を待つ時間、暗い森の気配が重なったとき、日常の端から別の秩序が顔を出す。場面が問うているのは、自然を所有することではなく、まだ名づけきれないものと同じ場所に立てるか、ということに近い。湯屋、海の場面と合わせて三つに共通するのは、自然が概念としてではなく、身体感覚で出会う場として描かれる点である。雨音を聞く、湯屋で洗う、船で水面を進む。だから制作論の発言も、作品の外側の補足ではなく、同じ問いの別面として響く。

宮崎作品の子どもと自然を、描き続ける手から切り離して読むと、そこにはすぐ大きな言葉が入り込む。環境、反近代、癒やし、成長。しかしここで見たいのは、その手前にある小さな往復である。子どもが傘を差し出す。湯屋で汚れを抜く。船で水没した町を進む。描き手は絵コンテを描きながら物語を見つけ、手の線を画面の出発点に置く。

『熱風』2013 年 7 月号の「この島の植物や自然が好き」「なんとかなるよ」は、反戦・憲法をめぐる発言の中の言葉であり、自然観や子ども観の包括的証明として読むべきではない。むしろ作品から見えるのは、自然を善と断定せず、子どもを純粋無垢と決めつけず、それでも世界を完全な絶望として渡さないための画面の作り方である。

老いと創作のあいだの緊張について、この頁は多くを断定しない。公開資料で確認できる範囲では、『ポニョ』の制作が衰えと想像力のせめぎあいの只中にあったことが NHK WORLD-JAPAN(2019 年)などで紹介されている。その限界のそばで、なお子どもと自然を描き続ける手。そこには、未来を明るく保証する声ではなく、手を動かし続けることでしか渡せない「まだ手渡せる世界」の感触が残る。

手塚治虫への追悼文についても、ひとつ付け加えておく。乗り越えるためには弔いの場であっても言葉を選ばなかった、という両義性が、宮崎にとっての「出発点」の重さをそのまま示している。

吉野・賢治・堀越・堀辰雄・堀田・司馬・黒澤・手塚・養老・ウェストール。並べてみると、宮崎が手を取ろうとしたのは、戦争を抜けてきた書き手と、子どもの言葉に責任を持とうとした書き手の二系統である。乗り越えるために激しく評した手塚も、教わるために自分を「小僧」と呼びなおした黒澤も、繰り返し読み返したウェストールも、宮崎にとっては同じひとつの問いの相手だったように見える——子どもに渡せる言葉を、どこから引いてくるか。手は、それらを編むために描きつづけた。

雨のバス停で、少女が名前も知らないものに傘を差し出せたのはなぜか。その問いに答える材料は、もう読者の手の中にある。では、あなたが最後に傘を差し出したのは、いつ、何に対してだったか。

本ページは PhiloGlyph による作品越しの独自解釈です。 ご本人の見解を代表するものではありません。 本文の引用・解釈に誤りや、追加すべき出典があれば、ページ末尾の「修正を提案する」よりお寄せください。
主要作品の年表をひらく

主要作品Works Timeline

  1. 1978
    未来少年コナンアニメ(NHK 総合 (日本アニメーション制作))
    全 26 話の演出を担当した実質的な監督デビュー作。
  2. 1979
    ルパン三世 カリオストロの城映画(東宝 (東京ムービー新社))
    宮崎駿の劇場映画初監督作。1979 年 12 月 15 日公開。
  3. 1982
    風の谷のナウシカ (漫画版)漫画(徳間書店『アニメージュ』連載)
    1982 年連載開始、1994 年完結。単行本第 1 巻は 1983 年刊。
  4. 1984
    風の谷のナウシカ映画(東映 (トップクラフト制作 / 徳間書店・博報堂))
    ジブリ設立前の長編劇場アニメ。脚本も担当。
  5. 1986
    天空の城ラピュタ映画(東宝 (スタジオジブリ))
    ジブリ設立後の第 1 作。原作・脚本も担当。
  6. 1988
    となりのトトロ映画(東宝 (スタジオジブリ))
    『火垂るの墓』と二本立て公開。原作・脚本も担当。
  7. 1989
    魔女の宅急便映画(東宝 (スタジオジブリ))
    角野栄子の児童文学を原作とする。脚本も担当。
  8. 1992
    紅の豚映画(東宝 (スタジオジブリ))
    自身の漫画「飛行艇時代」を原作にした飛行艇乗りの物語。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

宮崎駿の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

宮崎駿が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 三鷹の森ジブリ美術館記念館

    三鷹市, 日本

    宮崎駿が館主として企画から関わった、ジブリ世界観の常設発信地。短編作品を上映する「土星座」も併設

  • ジブリパーク記念館

    長久手市, 日本

    愛・地球博記念公園内に2022年開園。「サツキとメイの家」「ジブリの大倉庫」「魔女の谷」など、宮崎作品の風景を物理空間化した近年の集大成

  • サツキとメイの家期間展示

    長久手市, 日本

    2005年「愛・地球博」で公開された『となりのトトロ』草壁家の昭和30年代再現家屋。現在はジブリパーク「どんどこ森」の中核施設

さらに辿るならExternal References

宮崎駿を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

出典 Citations

  1. 著書

    1979-1996 年の自選エッセイ・対談・講演集。創作観の一次資料として最も網羅的。

    宮崎駿『出発点 1979-1996』徳間書店, 1996

  2. 著書

    『出発点』続編。『もののけ姫』以降の制作メモ、講演、対談を収録。

    宮崎駿『折り返し点 1997-2008』岩波書店, 2008

  3. 著書

    スタジオジブリ プロデューサーによる長期記録。本人発言の引用が豊富。

    鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』文春新書, 2019

  4. 動画

    「風立ちぬ」後の引退撤回と短編「毛虫のボロ」制作期の長期密着記録。

    NHK ドキュメンタリー「終わらない人 宮崎駿」, 2016

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