本文へスキップ
φPhiloGlyph
風土の知恵

司馬遼太郎

Shiba Ryōtarō·1923–1996·日本·

「歩いて見る」と書く手は、 土地・歴史・子どもに何を渡してきたか。

歴史小説家でありながら『街道をゆく』全 43 巻を 25 年書き続け、晩年は小学六年生の教科書を書き下ろした。「歩いて見る」「人と会って聞く」「土地から人を考える」三軸の手仕事を読む。

  • 街道をゆく
  • 楽天家と鬼胎
  • 土地と人間
  • 余談ながら
  • 昭和論

主要作品Works Timeline

  1. 1962
    竜馬がゆく小説(産経新聞夕刊連載 / 文藝春秋)
    1962-66 連載、1963-66 単行本、後に文春文庫全 8 巻
  2. 1962
    燃えよ剣小説(週刊文春連載 / 文藝春秋)
    1962-64 連載、1964 単行本。新選組副長・土方歳三を主題
  3. 1963
    国盗り物語小説(サンデー毎日連載 / 新潮社)
    1963-66 連載、1965-66 単行本。斎藤道三・織田信長・明智光秀の三世代
  4. 1966
    新史太閤記小説(小説新潮連載 / 新潮社)
    1966-68 連載、1968 単行本。豊臣秀吉を主題
  5. 1968
    坂の上の雲小説(産経新聞夕刊連載 / 文藝春秋)
    1968-72 連載、1969-72 単行本。第一巻「あとがき」で「楽天家たち」と書名の由来
  6. 1971
    街道をゆく随筆(週刊朝日連載 / 朝日新聞社、全 43 巻)
    1971 年から没年(1996)まで連載、25 年。第一巻「湖西のみち」に「土地から逃れられない」発言
  7. 1972
    翔ぶが如く小説(毎日新聞連載 / 文藝春秋)
    1972-76 連載、1975-76 単行本。西郷隆盛・大久保利通を軸に明治維新後を描く
  8. 1986
    この国のかたち随筆(文藝春秋連載 / 文藝春秋、全 6 巻)
    1986-1996 連載、1990-1996 単行本。「鬼胎の四十年」の歴史区分

時代の空気

1923年生まれの司馬遼太郎は、関東大震災の年に生まれ、昭和前期の軍国化のなかで大阪外国語学校から学徒出陣し、戦車隊将校として敗戦を迎えた。戦後は新聞記者として復興期の社会を歩き、1960年代の高度成長と週刊誌・新聞連載の時代に歴史小説の読者を広げる。1971年からの『街道をゆく』は、列島各地の土地と記憶をめぐる連載となり、冷戦終結直後の平成初期には、昭和前期をどう語るかが戦後日本の大きな問いとして残っていた。

問いの輪郭

司馬遼太郎の名は『竜馬がゆく』など長編歴史小説とともに記憶されているが、彼の手はもう一つの仕事を生涯のあいだ並行して動かし続けていた。1971 年に『週刊朝日』で連載が始まったは、彼の死(1996)まで止まることなく続き、最終的に全 43 巻、25 年の旅行エッセイとなった。歴史小説と並行して、なぜ「歩いて見る」「人と会って聞く」というもう一つの書法を、四半世紀手放さなかったのか。

(文藝春秋、1990 年第一巻刊行。連載は 1986 年に『文藝春秋』誌上で開始)の冒頭で彼はこう書いている。「歴史に対しては、でありたいというのが、私の願いである」。歴史を思想で裁断するのではなく、史料と土地と人間に虚心に接する。その願いの形が、歴史小説と街道のエッセイと晩年の子ども向け教科書、という三つの仕事に分かれて出力されていた、と読める。

街道をゆく — 歩くことを書くことの根に置く

『街道をゆく』第一巻「湖西のみち」(1971)で、司馬はこう書いた。「人間というものは、自分で意識する以上に、土地から逃れられない」(朝日新聞社、1971)。これは『街道をゆく』全体の方法論的な出発点である。人間を「思想」「主義」から見るのではなく、その人が立っていた。歴史も、土地の起伏と気候と暮らしの上に立ち上がるものとして眺める。

この方法は、彼自身の経歴と接続している。司馬は産経新聞文化部記者を 13 年務めた後に作家専業へ移った。「私は新聞記者あがりだから、ことを、書くことの根に置いている」(『以下、無用のことながら』文藝春秋、2001 没後編集)。記者時代の聞き書きという身体作法が、街道の旅と並行して『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を書く彼のなかで、二つの形に分かれて続いていた。

『街道をゆく』連載は、彼ひとりの旅ではなかった。朝日新聞写真部・編集者が同行し、絵を担当する画家(須田剋太・安野光雅ら)も加わる。一回の旅行で 1〜2 巻分の連載になる、という書法を 25 年続けた事実そのものが、彼の方法を最も雄弁に示している。歴史小説家が小説と並行して、旅と聞き書きの記録を四半世紀手放さなかった、というその継続が、彼の歴史観の中身でもあった。

楽天家と鬼胎

歴史を書くときの司馬には、いくつかの限定詞がある。『坂の上の雲』第一巻「あとがき」(文藝春秋、1969)で彼はこう書く。「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」。書名『坂の上の雲』の由来となるこの一節で、司馬は明治人を「楽天家たち」と限定して書いている。明治全体の称揚ではなく、特定の体質の人々を選んで描いた、という自己説明である。

同じ『この国のかたち』のなかで、彼は別の時代を「」と呼んだ。日露戦争(1905)後の明治末から敗戦(1945)までの約 40 年。「鬼胎」は異常な胎児という古い言葉で、明治の楽天と昭和前期の異常性を区別するための造語である。彼は史料を 30 年以上集めながら、ノモンハン事件(1939)を主題とする小説を書ききれなかったとされる。明治を「のぼり坂」として書ききった人が、その先の四十年を小説にできなかった、という事実は、彼の歴史区分を読むうえで重要な補助線として読める。

この区別を、戦争の美化や否定に短絡せず、本人が選んだ語彙のなかで読むことが要る。彼が時代を切り取るときに使う「楽天家」「鬼胎」という限定詞は、観察者として時代の体質を別の語で呼び分けようとした語彙である。

宮崎駿と堀田善衞の隣で

司馬の仕事のなかで、別の世代の作り手と並んだ場として、ここで重要になる場がある。1992 年、堀田善衞(1918 年生)・司馬遼太郎(1923 年生)・宮崎駿(1941 年生)の三人による鼎談集『時代の風音』(朝日新聞社、1992、後にスタジオジブリ編で再刊)である。冷戦終結直後、司馬 69 歳、宮崎 51 歳。

司馬は「あとがき」相当の場で、こう書いている。「私は鼎談ではいちばん年寄りで、堀田さんと、それから宮崎駿さんという、私からみればずっとお若い方と、ずいぶん勝手なことを言いあったのですが、宮崎さんが入ってきてくださることで、話が二十世紀の枠を出ていって、二十一世紀の側からこの時代を見るような会話になった」(同前)。先行世代の歴史家として、宮崎を「二十一世紀の側」に立つ人として位置づけた一節である。師匠・弟子の関係ではなく、世代の異なる三人がひと夏向き合って 20 世紀を話した、という対等性のある記録である。

戦国の世界を別の角度から書いた仕事もある。司馬は『国盗り物語』(1965-66)で斎藤道三・織田信長・明智光秀を、『新史太閤記』(1968)で豊臣秀吉を主題にした。PhiloGlyph 内で別の角度から戦国を扱う徳川家康・武田信玄・上杉謙信・加藤清正の各 entry とは、司馬が小説で別人物から同時代を眺めたという対比関係に置ける。

子どもへの遺言

晩年の仕事に、もう一つ別の形がある。1989 年、彼は大阪書籍の小学六年生国語教科書のためにを書き下ろした。執筆時 65 歳。エッセイの冒頭で彼はこう書く。「いま、私は持ち時間が、すでにすくなくなっているのに気づいている。例えば、二十一世紀という時代がやってくる。私は、その二十一世紀というものを見ることができないにちがいない」。

教科書という限定された場のなかで、彼は「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」を語り、「みな似たような言葉である。これらの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない」(大阪書籍『小学国語』六年下、1989、後に『十六の話』中央公論社、1993 所収)と続けた。倫理を素朴な感情論に流さず、習得可能な技能として、子どもに対して書いた。

エッセイの末尾で彼は、未来の読者を「たのもしい君たち」と呼んだ。自分が見ることのない世紀を生きる子どもたちを、訓練を経て他者の痛みを感じる人になりうる存在として、頼もしいと書いて終えた。歴史小説を書き、街道を 25 年歩き、晩年の一時点で教科書を書き下ろした手は、この一文に近い場所で止まっていた。

「歩いて見る」「人と会って聞く」「土地から人を考える」は、観察者の身体から始まり、教科書の頁という別の場所にも届いた。歴史小説で書かれた楽天家と鬼胎、街道で歩かれた風土と暮らし、教科書で訓練として書かれたいたわり。三つの仕事は、虚心に書こうとした一人の手のなかで、少なくとも近い場所に置かれている。

本ページは PhiloGlyph による作品越しの独自解釈です。 ご本人の見解を代表するものではありません。 本文の引用・解釈に誤りや、追加すべき出典があれば、ページ末尾の「修正を提案する」よりお寄せください。

出典 Citations

  1. 著書

    雑誌『文藝春秋』連載 1986-1996、単行本第一巻 1990 刊。「歴史に対しては、虚心でありたい」「鬼胎の四十年」など晩年の歴史観の primary source。連載最終回は本人没後掲載。

    司馬遼太郎『この国のかたち』全 6 巻、文藝春秋, 1986–1996

  2. 著書

    『週刊朝日』連載 1971 年から没年までの旅行エッセイ。「人間というものは、自分で意識する以上に、土地から逃れられない」(第一巻「湖西のみち」)など、土地と人間の方法論の primary。

    司馬遼太郎『街道をゆく』全 43 巻、朝日新聞社, 1971–1996

  3. 著書

    産経新聞夕刊連載 1968-72。第一巻「あとがき」に「楽天家たち」「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲」など書名の由来とともに明治観が語られる。

    司馬遼太郎『坂の上の雲』全 6 巻、文藝春秋, 1968–1972

  4. 著書

    1989 年大阪書籍『小学国語』六年下に書き下ろされた小学六年生向けエッセイ。後に『十六の話』(1993)所収。「いたわり」を訓練として渡す姿勢の primary。

    司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(『十六の話』中央公論社所収), 1989

  5. 著書

    1992 年の三人鼎談集。司馬「あとがき」相当で宮崎を「二十一世紀の側」と位置づけた発言の primary source。冷戦終結直後の世代越境対話の記録。

    堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日新聞社 / スタジオジブリ再刊, 1992

  6. アーカイブ

    2001 年開館(安藤忠雄設計)、自宅書斎(蔵書約 6 万冊)を保存・公開。著作年譜・取材ノート・原稿の primary archive。

    司馬遼太郎記念館 公式アーカイブ, 2001–

4
  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1986 年 3 月、月刊『文藝春秋』連載開始の第 1 回冒頭文。1996 年没まで 11 年続く晩年の代表的随筆連載『この国のかたち』全六巻の宣言句として機能した。日本人の思想史的構えを 1 行で開...

    一次資料を開く司馬遼太郎『この国のかたち』第一巻 (文藝春秋単行本 1990 年; 文春文庫 1993)。連載は『文藝春秋』1986 年 3 月号 - 1996 年 2 月号...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: shiba.mdx pullquote '歴史に対しては、虚心でありたい / というのが、私の願いである。' は司馬遼太郎『この国のかたち』(文藝春秋、1990 第一巻刊行、連載は 1986 年『文藝...

    一次資料を開く『この国のかたち』第一巻 (文春文庫、文藝春秋)。1986 年 3 月号『月刊文藝春秋』巻頭随筆連載開始、1996 年 2 月作者急逝で連載終了 (ja.wik...

  • 抜粋二次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: philograph mdx pullquote (frontmatter) 内容『歴史に対しては、虚心でありたい / というのが、私の願いである。』source='司馬遼太郎『この国のかたち』第一巻...

    一次資料を開く司馬遼太郎『この国のかたち』第一巻 (文藝春秋単行本 1990 年; 文春文庫 1993)。連載は『文藝春秋』1986 年 3 月号 - 1996 年 2 月号...

つながり

全体のつながりを見る →

さらに辿るならExternal References

司馬遼太郎を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

修正を提案する Send a correction

一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。

修正フォームを開く ▸