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司
風土の知恵

司馬遼太郎

Shiba Ryōtarō·1923–1996·日本·

「二十一世紀を見ることができない」と書いた人は、 小学六年生の教科書に、何を書いたのか。

歴史小説家でありながら『街道をゆく』全 43 巻を 25 年書き続け、晩年は小学六年生の教科書を書き下ろした。「歩いて見る」「人と会って聞く」「土地から人を考える」三軸の手仕事を読む。

  • 街道をゆく
  • 楽天家と鬼胎
  • 土地と人間
  • 余談ながら
  • 昭和論
戦争を知る大人たちが、次の世紀をどう語ればよいか迷っていた時代 — ひらく

時代の空気

1923年生まれの司馬遼太郎は、関東大震災の年に生まれ、昭和前期の軍国化のなかで大阪外国語学校から学徒出陣し、戦車隊将校として敗戦を迎えた。戦後は新聞記者として復興期の社会を歩き、1960年代の高度成長と週刊誌・新聞連載の時代に歴史小説の読者を広げる。1971年からの『街道をゆく』は、列島各地の土地と記憶をめぐる連載となり、冷戦終結直後の平成初期には、昭和前期をどう語るかが戦後日本の大きな問いとして残っていた。

01小学六年生の教科書、最初の一行

1989 年。ひとりの歴史小説家が、小学六年生の国語の教科書に文章を書き下ろした。大阪書籍の教科書のためである。題は。書いたとき、彼は 65 歳だった。

『』やを書いた人である。大人の読者で、名前を知らない人は少ない。その人が、十二歳の子どもに向けた文章を、こう書き出した。

「いま、私は持ち時間が、すでにすくなくなっているのに気づいている。例えば、二十一世紀という時代がやってくる。私は、その二十一世紀というものを見ることができないにちがいない」

自分は次の世紀を見られない。教科書の最初に、そう書いた。そして文章の終わりでは、まだ会ったことのない未来の読者を「たのもしい君たち」と呼んだ。

長い歴史小説を書き、街道を 25 年歩き続けた人が、なぜ晩年の仕事のひとつに小学生の教科書を選んだのか。なぜ、まだ見ぬ子どもを「たのもしい」と呼べたのか。

答えを探すために、時を 18 年前に戻す。1971 年、琵琶湖の西を通る道からである。

02湖西のみち――土地から人を見る

1971 年、雑誌『週刊朝日』で、ひとつの旅の連載が始まった。題は。第一巻の最初の旅は「湖西のみち」、琵琶湖の西側を通る道である。書き手は、歴史小説家の司馬遼太郎だった。

その第一巻に、彼はこう書いた。「人間というものは、自分で意識する以上に、土地から逃れられない」(朝日新聞社、1971)。人を「思想」や「主義」から見るのではない。その人が立っていた。歴史も、土地の高い低い、気候、暮らしの上に立ち上がるものとして眺める。『街道をゆく』全体の出発点になる考え方が、ここにある。

旅は、彼ひとりのものではなかった。朝日新聞の写真部の人や編集者が同行し、絵を描く画家も加わった。やである。一回の旅で 1〜2 巻分の連載になる。そういう書き方を、彼は 25 年続けた。

連載は、彼が亡くなる 1996 年まで止まらなかった。全 43 巻。歴史小説を書きながら、なぜもう一つの仕事を四半世紀も手放さなかったのか。手がかりは、小説を書く前の仕事にある。

03人と会って話をきく

司馬は、作家になる前は新聞記者だった。産経新聞の文化部で 13 年間記者を務めたあと、作家専業になった。

そのことを、彼自身がこう書いている。「私は新聞記者あがりだから、ことを、書くことの根に置いている」(『以下、無用のことながら』文藝春秋、2001 没後編集)。

人に会う。話を聞く。それを書く。記者の仕事のやり方は、作家になっても消えなかった。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』のような長い小説を書くのと同じ時期に、その同じ体の動きが、小説と街道の旅という二つの形に分かれて続いていた。

歩いて見る。人と会って聞く。土地から人を考える。街道の旅の方法は、この三つにまとめられる。では、その同じ時期に書かれた歴史小説には、どんな人が描かれていたのか。

04『坂の上の雲』の楽天家たち

1968 年から 1972 年にかけて、司馬は『坂の上の雲』を書いた。明治という時代を生きた人々の物語である。第一巻の「あとがき」(文藝春秋、1969)で、彼は登場人物たちをこう説明した。

「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」

一朶(いちだ)とは、ひとかたまり、という意味だ。坂をのぼる人が、空の白い雲だけを見つめて進む。書名『坂の上の雲』は、この一節から来ている。

ここで気をつけたいのは、「楽天家たち」という言葉である。彼は明治の人すべてをほめたわけではない。前だけを見て歩く、特定の体質の人々を選んで描いた。そう自分で説明している。

では、坂をのぼりきった先には、何があったのか。彼はその先の時代に、別の名前をつけた。

05虚心、そして鬼胎の四十年

1986 年、雑誌『文藝春秋』で、新しい連載が始まった。である。第一巻が本になったのは 1990 年。その巻頭に、彼はこう書いた。

歴史に対しては、でありたい というのが、私の願いである。

— 『この国のかたち』第一巻(文藝春秋、1990。連載は 1986 年開始)の巻頭。歴史をどう見るかを、最初に宣言した一文

虚心とは、あらかじめ決めた考えを持たずに、物事をそのまま見ようとする心のことだ。歴史を思想で切って裁くのではない。むかしの記録(史料)と、土地と、人間に、まっさらな心で向き合う。

同じ本のなかに、こんな一文もある。

日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。

— 同じ『この国のかたち』(文藝春秋)から。日本人と「思想」の関係について書いた一節

思想は外からやってくるもの、と日本人は思いこんでいる。そう書いた人が、街道の旅では、思想からではなく土地から人を見ていた。二つの仕事は、ここでつながって読める。

同じ『この国のかたち』のなかで、彼はある時代を「」と呼んだ。日露戦争(1905)が終わったあとの明治の末から、敗戦(1945)までの約 40 年間である。鬼胎(きたい)とは、ふつうでない胎児という古い言葉だ。明治の楽天と、昭和前期の異常さを、別の言葉で呼び分けるための造語だった。

(1939)を主題とする小説のために、彼は史料を 30 年以上集めていた。しかし、書ききれなかったとされる。明治を「のぼり坂」として書ききった人が、その先の 40 年を小説にできなかった。

小説にならなかった時代を、彼は別の場所で語ることになる。ずっと年下の二人と向き合って。

06『時代の風音』――堀田善衞と宮崎駿の隣で

1992 年、冷戦が終わった直後の夏。三人の作り手が向き合って、20 世紀について語り合った。(1918 年生まれの作家)、司馬遼太郎(1923 年生まれ)、宮崎駿(1941 年生まれのアニメーション映画監督)。三人で話し合う形式を鼎談(ていだん)という。その記録が『時代の風音』(朝日新聞社、1992、後にスタジオジブリ編で再刊)である。司馬 69 歳、宮崎 51 歳だった。

司馬は「あとがき」にあたる場所で、こう書いている。「私は鼎談ではいちばん年寄りで、堀田さんと、それから宮崎駿さんという、私からみればずっとお若い方と、ずいぶん勝手なことを言いあったのですが、宮崎さんが入ってきてくださることで、話が二十世紀の枠を出ていって、二十一世紀の側からこの時代を見るような会話になった」(同前)。

自分がいちばん年寄りで、宮崎は「二十一世紀の側」に立つ人。そう位置づけた一節である。先生と弟子の関係ではない。世代のちがう三人が、ひと夏向き合って 20 世紀を話した、対等な記録だった。

「二十一世紀の側から見る」。この言葉は、その 3 年前に書かれた、あの教科書の最初の一行とひびき合う。

07ふたたび、教科書の頁へ

時を 1989 年に戻す。小学六年生の教科書『二十一世紀に生きる君たちへ』。自分は二十一世紀を見られない、と書き出したあと、彼は子どもたちに何を語ったのか。

語ったのは、「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」だった。そして、こう続けた。「みな似たような言葉である。これらの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない」(大阪書籍『小学国語』六年下、1989、後に『十六の話』中央公論社、1993 所収)。

やさしさは、生まれつきのものではない。訓練で身につけるものだ。子どもに向けて、彼はそう書いた。気持ちの話に流さず、だれでも練習すれば手に入る技として書いた。

文章の終わりで、彼は未来の読者を「たのもしい君たち」と呼んだ。自分が見ることのない世紀を生きる子どもたち。訓練を経て、他人の痛みを感じる人になりうる存在。だから、たのもしい。

ここまで読むと、冒頭の「なぜ」に形が見えてくる。人と会って話をきく。土地から人を見る。歴史に虚心でいる。街道と歴史小説で続けてきた仕事は、どれも「他人をそのまま見る」練習として読める。教科書の一文は、その練習を、次の世紀の子どもに向けて書き直したものと読める。

08三つの仕事の輪郭

司馬遼太郎の名は『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など長編歴史小説とともに記憶されているが、彼の手はもう一つの仕事を生涯のあいだ並行して動かし続けていた。1971 年に『週刊朝日』で連載が始まった『街道をゆく』は、彼の死(1996)まで止まることなく続き、最終的に全 43 巻、25 年の旅行エッセイとなった。歴史小説と並行して、なぜ「歩いて見る」「人と会って聞く」というもう一つの書法を、四半世紀手放さなかったのか。

『この国のかたち』の冒頭にある「歴史に対しては、虚心でありたいというのが、私の願いである」という一文は、この問いへの補助線になる。歴史を思想で裁断するのではなく、史料と土地と人間に虚心に接する。その願いの形が、歴史小説と街道のエッセイと晩年の子ども向け教科書、という三つの仕事に分かれて出力されていた、と読める。一回の旅行で 1〜2 巻分の連載になる、という書法を 25 年続けた事実そのものが、彼の方法を最も雄弁に示している。歴史小説家が小説と並行して、旅と聞き書きの記録を四半世紀手放さなかった、というその継続が、彼の歴史観の中身でもあった。

歴史を書くときの司馬には、いくつかの限定詞がある。『坂の上の雲』の「楽天家たち」は、明治全体の称揚ではなく、特定の体質の人々を選んで描いた、という自己説明である。『この国のかたち』の「鬼胎の四十年」は、明治の楽天と昭和前期の異常性を区別するための造語である。この区別を、戦争の美化や否定に短絡せず、本人が選んだ語彙のなかで読むことが要る。彼が時代を切り取るときに使う「楽天家」「鬼胎」という限定詞は、観察者として時代の体質を別の語で呼び分けようとした語彙である。史料を 30 年以上集めながらノモンハン事件を主題とする小説を書ききれなかったとされる事実は、彼の歴史区分を読むうえで重要な補助線として読める。

戦国の世界を別の角度から書いた仕事もある。司馬は『国盗り物語』(1965-66)で斎藤道三・織田信長・明智光秀を、『新史太閤記』(1968)で豊臣秀吉を主題にした。PhiloGlyph 内で別の角度から戦国を扱う徳川家康・武田信玄・上杉謙信・加藤清正の各 entry とは、司馬が小説で別人物から同時代を眺めたという対比関係に置ける。

「歩いて見る」「人と会って聞く」「土地から人を考える」は、観察者の身体から始まり、教科書の頁という別の場所にも届いた。歴史小説で書かれた楽天家と鬼胎、街道で歩かれた風土と暮らし、教科書で訓練として書かれたいたわり。三つの仕事は、虚心に書こうとした一人の手のなかで、少なくとも近い場所に置かれている。

土地から人を見ること。人と会って話をきくこと。他人の痛みを、訓練で感じられるようになること。この三つを並べたとき、読む側にも同じ問いが残る。自分はいま、目の前の人を、思想や肩書きからではなく、その人が立っている土地から見ているだろうか。

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主要作品Works Timeline

  1. 1962
    竜馬がゆく小説(産経新聞夕刊連載 / 文藝春秋)
    1962-66 連載、1963-66 単行本、後に文春文庫全 8 巻
  2. 1962
    燃えよ剣小説(週刊文春連載 / 文藝春秋)
    1962-64 連載、1964 単行本。新選組副長・土方歳三を主題
  3. 1963
    国盗り物語小説(サンデー毎日連載 / 新潮社)
    1963-66 連載、1965-66 単行本。斎藤道三・織田信長・明智光秀の三世代
  4. 1966
    新史太閤記小説(小説新潮連載 / 新潮社)
    1966-68 連載、1968 単行本。豊臣秀吉を主題
  5. 1968
    坂の上の雲小説(産経新聞夕刊連載 / 文藝春秋)
    1968-72 連載、1969-72 単行本。第一巻「あとがき」で「楽天家たち」と書名の由来
  6. 1971
    街道をゆく随筆(週刊朝日連載 / 朝日新聞社、全 43 巻)
    1971 年から没年(1996)まで連載、25 年。第一巻「湖西のみち」に「土地から逃れられない」発言
  7. 1972
    翔ぶが如く小説(毎日新聞連載 / 文藝春秋)
    1972-76 連載、1975-76 単行本。西郷隆盛・大久保利通を軸に明治維新後を描く
  8. 1986
    この国のかたち随筆(文藝春秋連載 / 文藝春秋、全 6 巻)
    1986-1996 連載、1990-1996 単行本。「鬼胎の四十年」の歴史区分

つながり

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出典 Citations

  1. 著書

    雑誌『文藝春秋』連載 1986-1996、単行本第一巻 1990 刊。「歴史に対しては、虚心でありたい」「鬼胎の四十年」など晩年の歴史観の primary source。連載最終回は本人没後掲載。

    司馬遼太郎『この国のかたち』全 6 巻、文藝春秋, 1986–1996 ▸

  2. 著書

    『週刊朝日』連載 1971 年から没年までの旅行エッセイ。「人間というものは、自分で意識する以上に、土地から逃れられない」(第一巻「湖西のみち」)など、土地と人間の方法論の primary。

    司馬遼太郎『街道をゆく』全 43 巻、朝日新聞社, 1971–1996 ▸

  3. 著書

    産経新聞夕刊連載 1968-72。第一巻「あとがき」に「楽天家たち」「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲」など書名の由来とともに明治観が語られる。

    司馬遼太郎『坂の上の雲』全 6 巻、文藝春秋, 1968–1972 ▸

  4. 著書

    1989 年大阪書籍『小学国語』六年下に書き下ろされた小学六年生向けエッセイ。後に『十六の話』(1993)所収。「いたわり」を訓練として渡す姿勢の primary。

    司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(『十六の話』中央公論社所収), 1989 ▸

  5. 著書

    1992 年の三人鼎談集。司馬「あとがき」相当で宮崎を「二十一世紀の側」と位置づけた発言の primary source。冷戦終結直後の世代越境対話の記録。

    堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日新聞社 / スタジオジブリ再刊, 1992 ▸

  6. アーカイブ

    2001 年開館(安藤忠雄設計)、自宅書斎(蔵書約 6 万冊)を保存・公開。著作年譜・取材ノート・原稿の primary archive。

    司馬遼太郎記念館 公式アーカイブ, 2001– ▸

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