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武
実践の知

武田信玄

Takeda Shingen·1521–1573·日本·

動くべきとき、 止まるべきときは?

「風林火山」の旗のもと、父を追放し川中島で上杉と戦い、上洛の途上に倒れた甲斐の虎

  • 風林火山
  • 甲斐
  • 騎馬軍団
将軍の力は名ばかり。隣の国を奪い合い、父と子さえ争う時代 — ひらく

時代の空気

戦国時代中期(大永-天正)、室町幕府は名目化し、甲斐源氏の流れを汲む武田氏十九代の嫡男として晴信は生まれた。北条氏康・今川義元・上杉謙信・織田信長と同時代を生き、信濃北部の川中島平で上杉と十二年対峙した。桶狭間(一五六〇)以後の今川衰退を機に駿相同盟を解消、釜無川には信玄堤を築き、分国法「甲州法度之次第」で領内を律した。元亀三年(一五七二)、足利義昭の信長包囲網要請に応じて西上戦を起こし、十二月に三方ヶ原で家康を撃破するも、翌年四月、信濃駒場で上洛果たせず病没した。

01京へ向かう軍が、止まった日

1573年2月、三河(今の愛知県東部)の野田城が開いた。徳川方の小さな城だった。武田の軍は、その二か月前に三方ヶ原で徳川家康を打ち破っている。次は京だ。誰もがそう思っていたはずの春である。

だが、そのころから信玄の体は急に弱っていた。血を吐くことがくり返された。陣の中で横になる日が増えた。信玄は西へ進むのをやめ、軍を甲斐(かい、今の山梨県)へ戻すと決めた。

帰り道の信濃(今の長野県)の駒場で、4月12日、信玄は息を引き取った。京には届かなかった。『』という書物は、その遺言を伝えている。「我が死を三年秘せ。遺骸は甲府に運ばず、諏訪湖に沈めよ」。死は隠されたが、織田と徳川はまもなく気づいた。

なぜ、この男の死は三年も隠さねばならなかったのか。なぜ、勝ちつづけていた軍は、動くのをやめたのか。時は、三十二年前に戻る。

02父の帰る道を閉ざす

1541年6月14日。武田晴信は、父の信虎が帰る道を閉ざした。信虎は、娘の嫁ぎ先である駿河(するが、今の静岡県中部)の今川義元を訪ねていた。父が国を出たあと、晴信は板垣信方(いたがきのぶかた)・甘利虎泰(あまりとらやす)ら重臣と手を結び、国境を閉じた。信虎はそのまま駿府で義元に守られ、のち京で暮らした。最後は信濃の高遠で長く生き、1574年に83歳で亡くなった。息子より長生きした父である。

晴信は1521年、甲斐の守護武田信虎の長男として生まれた。武田は源氏の名門で、晴信はその十九代目の跡取りだった。信虎は、国の中の武士たちを力でまとめた厳しい大名だった。本拠は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)。母は大井の方、幼名は太郎という。

1536年に元服し、将軍足利義晴から「晴」の字をもらって晴信と名乗った。翌年、京の公家三条家の娘を妻に迎える。山国の大名にとって、都との縁は重い意味を持った。初陣も1536年、信濃の平賀城攻めだった。戦ひとすじの父とは違い、晴信は幼いころから読書を好んだ。漢文や和歌に親しむ子として知られていた。

父を追い出したのは、冷たい行いに見えて、家臣たちの総意だった。信虎の厳しい政治に耐えかねた武士たちが、学問のある若い晴信を担ぎ上げたのである。血を一滴も流さず、晴信は家督(かとく、家の当主の座)を手にした。このは、のちの信玄が見せる政治の手腕の、最初のしるしだった。

国をとった若者は、次に、山の向こうの信濃へ目を向ける。

03信濃、二度の負け

家督を継いですぐ、晴信は信濃へ攻め込んだ。1542年、諏訪(すわ)の領主諏訪頼重を甲府へ呼び出して自害させ、諏訪の地を手に入れた。頼重の娘は側室となり、のちに四男の勝頼を産む。以後、晴信は信濃の小笠原や村上といった領主たちを、順に切りくずしていく。

だが、信濃は簡単ではなかった。1548年、上田原で村上義清と戦い、板垣信方と甘利虎泰を一日で失う大敗をした。晴信自身も傷を負った。父の代から仕えた二人の重臣である。家督を継いで七年目の若い当主にとって、取り返しのつかない傷だった。以後、晴信は無理な決戦を避け、裏から手を回す策と粘りの戦いを織り交ぜるようになる。

1550年、砥石(といし)城攻めでふたたび村上に敗れた。だが翌年、(さなだゆきたか、幸村の祖父)が城の内側を切りくずし、砥石城は血を流さずに落ちた。幸隆は以後、武田の情報と謀(はかりごと)を支える。軍師のもこのころの人である。馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景ら、のちに「」と呼ばれる重臣たちも、顔をそろえた。

一方で1547年、晴信は「(こうしゅうはっとのしだい)」という法を定めていた。国の中のけんかは両方を罰する。土地の争いは裁判で決める。百姓を守る。そして当主自身もこの法に従う、と書かれていた。

信濃を追われた村上義清は、北の越後(えちご、今の新潟県)へ逃げ、ある男に助けを求めた。長尾景虎。のちの上杉謙信である。

04川中島、十二年の相手

1553年、晴信と長尾景虎は、信濃北部の川中島で初めて向かい合った。以後十二年、二人は五度この地で戦う。1553年、1555年、1557年、1561年、1564年。最初の戦いの翌年、晴信は今川・北条と三国同盟を結んだ。南の心配をなくし、北へ力を集めるためだった。

もっとも激しかったのは、1561年9月10日のである。妻女山(さいじょさん)にこもる謙信の軍に対し、山本勘助は「啄木鳥(きつつき)の戦法」を出した。別の隊を夜のうちに山の裏へ回し、朝、敵を平地へ追い落として挟み撃ちにする。だが謙信は霧にまぎれて先に山を下り、信玄の本隊を直撃した。

信玄は本陣で謙信と一騎打ちになったと伝えられる(『甲陽軍鑑』による)。武田は弟の武田信繁、山本勘助、諸角虎定ら多くの重臣を失い、上杉も深い傷を負った。どちらが勝ったかは、いまも決着していない。

この間の1551年、晴信は出家して「信玄」と名乗っていた。謙信ものちに出家する。戦国でもっとも強い二人の武将は、互いを仏の道の名で呼び合う、不思議な宿敵となった。

十二年戦って、川中島の土地は決まらなかった。では、その十二年の間、信玄は国の内で何をしていたのか。

疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし

— 『孫子』軍争篇(武田軍旗「風林火山」の出典)。速さと静けさ、攻めと不動を切り替える兵法の言葉

05川を治め、道を通す

信玄の強さは戦場だけではなかった。甲斐は山の国で、釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の氾濫(はんらん、川があふれること)に苦しんでいた。信玄はこの二つの川が合わさる場所にを築いた。切れ目のある堤防を何本も並べ、水の勢いを分ける「霞堤(かすみづつみ)」という工法である。下流の水害は減り、この方法はのちに日本各地の川でまねされた。

八ヶ岳の南のふもとには、まっすぐな軍用の道「(ぼうみち)」を通した。甲斐から信濃へ、兵を早く送るためである。金山を開いて財源をつくり、甲州金という貨幣も鋳造した。1547年の甲州法度之次第は、のちに増やされて全五十五条になった。

信玄は城を築かなかった。甲府の本拠は、館(やかた)のつくりの躑躅ヶ崎館のままだった。「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」。信玄の言葉として伝わるこの一節(後の世の編集も混じるという説がある)は、その考えをよく表している。堅い城に頼らない。家臣の結びつきと、街道の要所で国を守る。

守りを固めた国の南で、時代が動いた。1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたのである。

06息子を閉じこめ、西へ

義元の死のあと、跡を継いだ今川氏真の国は急速に弱っていった。信玄はそこを取りにいく。だが今川は同盟の相手であり、氏真は信玄の娘の嫁ぎ先だった。長男の武田義信は父に強く反対した。信玄は1565年、義信を東光寺に閉じこめる。義信は二年後、同じ寺で自害した(毒殺・病死など諸説あり)。今川から来ていた義信の妻は、駿河へ送り返された。

父を追い出した男が、こんどは息子を閉じこめた。1568年、信玄は駿河へ攻め込んだ。同盟相手の北条とも一時は敵となった。駿河を取るために、南と北の関係そのものを組み替える決断だった。

1572年10月、信玄はついにを始めた。三河の徳川家康、美濃の織田信長を倒し、京へ上る。将軍足利義昭からの信長包囲網要請(信長を囲んで討てという呼びかけ)に応える形だった。兵はおよそ二万五千(諸説あり)。青崩峠(あおくずれとうげ)を越え、遠江(とおとうみ、今の静岡県西部)へ入った。

12月22日、三方ヶ原の台地で、信玄は徳川家康を迎え撃った。家康は城にこもらず、浜松城を出て武田軍の背後を叩こうとした。信玄はそれを読んでいた。陣形を魚鱗(ぎょりん、魚のうろこの形)に変え、正面から受け止めた。徳川と織田の援軍あわせて約一万一千は、夕闇の中で崩れた。家康は数名の供とともに浜松城へ逃げ帰った。家康は三十一歳、信玄は五十二歳(数え年)だった。

完全な勝利だった。武田軍は遠江から三河へ進み、野田城を囲む。京は、その先にあった。

07山のように、動かず

ここで、冒頭の1573年に戻る。野田城が開いた2月、信玄の体はすでに限界だった。血を吐き、陣で伏せる日が続いた。病の名は、肺結核、胃がん、鉄砲傷のあとなど、いまも確かではない。

西へ進めば京は近い。それでも信玄は軍を甲斐へ返した。その途中の信濃駒場で、4月12日、信玄は息を引き取った。五十三歳(数え年)だった。

「我が死を三年秘せ」。この遺言の意味は、そのあとの九年が答えている。家督は四男の勝頼が継いだ。もともとは孫の信勝が大人になるまでの、つなぎの当主という変則的な形だった。勝頼は、父が残した重臣団と、法と道と堤の仕組みを、そのまま背負うことになる。

1575年、長篠の戦い。勝頼は織田・徳川連合軍の鉄砲隊に大敗し、馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら「武田四天王」の主だった者を、ほぼ一度に失った。1582年、甲斐の田野で。勝頼は自害し、武田氏滅亡。信玄の死から、わずか九年だった。

信玄の菩提寺(ぼだいじ、一族の墓を守る寺)は甲斐の恵林寺(えりんじ)である。住職の(かいせんじょうき)が信玄の葬儀を取り仕切った。1582年、織田軍がこの寺を焼いた。快川は「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火も自ずから涼し」の言葉を残したと伝わる。

疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし。

— 『孫子』軍争篇(武田軍旗「風林火山」の出典)。動けなくなった男が旗に掲げた、四つの句

「人は城」と言った男の国は、その人がいなくなると九年で崩れた。死を三年隠せという遺言は、国が信玄ひとりの上に立っていたことを、本人がいちばんよく知っていたしるしなのかもしれない。

風のように速く動くことと、山のように動かないこと。あなたにとって難しいのは、どちらだろうか。

08考証 ― 伝説と史実のあいだ

生年月日は大永元年(1521年)11月3日、新暦に直せば12月1日とされるが、旧暦の生年月日には史料間でなお諸説がある。生誕地は石和(現笛吹市)の館とも、信虎が今川氏の侵攻に備えて移した要害山城(現甲府市)とも伝わる。幼名は太郎(勝千代の伝もある)、のち諱を晴信と改めた。母大井の方は西郡の有力国人大井信達の娘であり、兄弟は四男四女、姉妹を含めれば一族の縁戚は信濃・駿河・相模に広がっていた。武田氏は清和源氏新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする甲斐守護の名門である。出家は天文20年(1551年)とするのが通説だが、永禄2年(1559年)再受戒説もあり、史料間で揺れる。

信虎追放は非情な簒奪のように見えて家臣団の総意であり、当主自身が父を放逐することで領内を再編した手続きは、「甲州法度之次第」(信玄家法)で当主自身も法に服すと明記する分国法へと構造的に通じている。天文16年(1547年)の二十六箇条は、領内の喧嘩両成敗・所領裁判・百姓保護を成文化し、のち増補されて全五十五条に整った。当主も法に服す旨を明記した点で、戦国期分国法のなかでも先進的な性格を帯びる。天文23年(1554年)8月29日成立の甲駿相三国同盟は、南方の安全を確保し、信濃方面の北進に集中できる地政学的足場を整えた。

第四次川中島の一騎打ちは『甲陽軍鑑』の伝えるところで、軍記物のため史実性は一部議論がある。「我が死を三年秘せ、遺骸は諏訪湖に沈めよ」の遺言も同書に拠り、諸説ある。山本勘助の実在性は長く議論されたが、現在は戦国の一将として認められつつある。「武田二十四将」の呼称は江戸期以降に軍記・絵画で定着した後世の呼び方で、当時の実在組織ではない。「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」や陣中八訓も、後世の編纂による面があり諸説ある。上杉謙信が塩不足の武田領へ塩を送った逸話も、真偽は諸説ある。

「風林火山」は『孫子』の一節を軍旗に染めたもので、速度・沈黙・破壊・不動の四つの局面を切り替える用兵思想の表明である。信玄堤は天文11年から数次にわたって築かれ、完成は永禄年間と伝える。霞堤は切れ目を持つ不連続な堤防で流れを分散させる工法であり、のちに日本各地の河川で模倣された。棒道は上の棒道・中の棒道・下の棒道からなり、財源は黒川金山・湯之奥金山などの金山開発と印判付きの甲州金の鋳造によった。

で家康が逃走中に脱糞したという有名な俗説は、近代以降に流布した後代逸話の系列に属し、同時代の一次史料には根拠が薄い。完敗の屈辱を後世が増幅した語り口として扱うのが穏当である。信玄の病名は肺結核説・胃癌説・狙撃後遺症説など諸説あり確定しない。野田城外で銃創を負って衰えたという伝もあるが、史料的裏づけは薄い。没地は信濃伊那郡駒場(現長野県下伊那郡阿智村)が通説だが、根羽・浪合など異説がある。勝頼への継承は、嫡子信勝への中継ぎ当主として位置づけられた変則的な相続であり、強すぎる家臣団と領国制度が若い当主に重すぎたことは、長篠・天目山の戦いで露呈した。信玄の菩提寺恵林寺(現山梨県甲州市塩山、臨済宗妙心寺派)では快川紹喜が大導師を務め、天正10年の焼き討ちで快川は焼死したと伝える。信玄の墓は恵林寺と信濃各地に点在している。

09主要な出来事と著作

  1. 甲斐石和(諸説あり)で武田信虎の嫡男として誕生。幼名太郎、本名晴信
  2. 元服、将軍足利義晴から偏諱「晴」を賜り武田晴信と名乗る。三条家娘と婚儀
  3. 6月14日、父信虎を駿河へ追放し家督を相続(無血クーデター、20歳)
  4. 諏訪頼重を討ち諏訪郡を併合。諏訪御料人を側室に迎える
  5. 甲州法度之次第26箇条を定める(のち増補で55条)
  6. 上田原で村上義清に敗北、板垣信方・甘利虎泰が戦死
  7. 出家し信玄と号する(1559再受戒説もあり)。真田幸隆の調略で砥石城を無血開城
  8. 上杉謙信と川中島で五度の対決
  9. 8月29日、今川・北条との甲駿相三国同盟成立
  10. 第四次川中島、最激戦。弟信繁・山本勘助らを失う
  11. 嫡男義信を東光寺に幽閉(1567自害)、駿河侵攻路線が確定
  12. 駿河侵攻開始。今川氏真の領国を切り取る
  13. 10月、西上作戦開始。12月22日、三方ヶ原で徳川家康・織田援軍を撃破
  14. 2月、野田城攻略。4月12日、信濃駒場(諸説あり)で病没。享年53
  15. 勝頼、長篠で大敗。馬場信春・山県昌景・内藤昌豊ら戦死
  16. 天目山(田野)で勝頼自刃、武田氏滅亡。恵林寺焼き討ち

残した思想の輪郭

  • 風林火山 ― 孫子を旗印に掲げ、速度・沈黙・破壊・不動の四つの局面を使い分ける用兵思想
  • 人は城・人は石垣 ― 堅城に頼らず家臣の結束と情を最大の防壁とする、躑躅ヶ崎館の館造りの思想
  • 治水と金山 ― 信玄堤の霞堤工法、甲州金の鋳造、甲州法度次第による領国経営の総合戦略
  • 無血の家督奪取 ― 父信虎追放は暴力革命ではなく家臣団の総意、老練な政治力の初演
  • 信玄と謙信 ― 川中島五度の対峙、塩不足の越後へ塩を送った逸話(真偽は諸説あり)など、宿敵にして互敬
  • 勝頼への継承の限界 ― 強すぎる家臣団と領国制度が、父を喪った若い当主には重すぎ、長篠・天目山で露呈した
元亀4年(1573年)4月12日、西上作戦の途上、信濃駒場(現長野県下伊那郡)で病没。53歳。遺言で死は三年秘匿された。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

武田信玄が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 恵林寺墓所

    甲州, 日本

    信玄の菩提寺。夢窓疎石開基の名刹で、快川紹喜の「心頭滅却」の逸話で知られる

  • 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)所属

    甲府, 日本

    信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡に建つ神社。武田信玄を祭神とする

さらに辿るならExternal References

武田信玄を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。