上杉謙信
自分の得にならない戦を、 なぜ最後まで続けられたのか?
毘沙門天の化身を自任し、武田信玄と五度川中島で戦い、越後から上洛の途に斃れた「越後の龍」
- 川中島
- 毘沙門天
- 義の武将
- 越後の龍
- 軍神
将軍の力が消え、力のある者が国を奪い合った時代。越後の若い当主は、古い名と新しい戦のあいだに立った — ひらく
時代の空気
戦国時代中期、室町幕府は形骸化し、関東では一五四六年の河越夜戦で北条氏康が関東管領上杉憲政を駆逐、信濃では武田信玄が侵攻を進めていた。越後は守護代長尾氏が国主格に据わり、信濃・越後国境の川中島平で武田と十二年の対峙が始まる。同時代には織田信長が台頭し、本願寺の一向一揆が北陸を覆った。米と日本海塩、密教と毘沙門信仰、関東管領という朽ちかけた名跡——古い秩序の残響と新しい暴力が、この越後の若き当主の身辺で絡み合った時代である。
01厠で倒れた日
1578年3月13日、越後の春日山城(いまの新潟県上越市)。城の主、上杉謙信は厠(便所)で突然倒れた。意識は戻らなかった。その日の午後2時ごろ、息を引き取ったと伝わる。48歳、数え年では49だった。
4日前の3月9日、城では大きな軍議が開かれていたという。狙いは京の都だった。越中・加賀・能登を足場に、美濃・近江を通って京に迫る。集める兵は3万とも5万とも言われた。その計画のさなかの、あまりに急な死だった。
謙信は「我は毘沙門天の化身なり」と言い切った武将である。生涯妻を娶らず、酒を好んだ。武田信玄と5度、川中島で戦った。関東には十数回も兵を出した。だが自分の領地を広げるための戦は、退けたと言われている。
その人が、最後に京をめざした。それは義の戦だったのか。それとも別の何かだったのか。そして死の際に伝わる言葉は、49年の人生を「一睡の夢」と呼ぶ。戦に明け暮れた人が、なぜ人生を夢と言えたのか。
時は48年前、この城の麓の館に戻る。
四十九年一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒。
02寺で育った虎
1530年、春日山城の麓の館で、男の子が生まれた。父は長尾為景(ながおためかげ)。越後の守護代(守護の代理として国を治める役)だった。母は栖吉長尾家の出身とされる虎御前(とらごぜん)。幼名は虎千代(とらちよ)。寅の年に生まれた子で、寅の月、寅の日の生まれとも『上杉年譜』などは記す(伝承、諸説あり)。
兄弟は男四人、女四人。四男とも末子とも言われ、順序には諸説ある。長兄の晴景(はるかげ)が家を継ぐ立場だった。姉の仙桃院(せんとういん)はのちに長尾政景に嫁ぐ。その子が、のちのである。
父の為景は、力で越後を一つにした人だった。主君にあたる守護の上杉房能・定実を殺し、あるいは追い出した。長尾家はこうして越後の中心に座った。けれど1536年、為景は家臣の支持を失って隠居する。家は晴景が継いだ。為景はその後まもなく世を去ったと伝わる(没年には諸説ある)。
虎千代は7つの年(いまの数え方で6歳)に、(りんせんじ)に入った。の寺で、長尾家の菩提寺(先祖の墓を守る寺)である。出家したも同然の暮らしだった。天室光育(てんしつこういく)、ついで益翁宗謙(やくおうそうけん)という禅僧に学んだ。兵法の本、お経、漢文の書。天室光育は武士の子に仏の教えを説きながら、兵の心得も授ける気骨の僧だったという。謙信の学問の素養と、仏教への深い傾きは、この少年の日々に根を持つ。
1543年、13歳(数えで14歳)で元服し、長尾景虎(ながおかげとら)と名乗った。父の「景」と幼名の「虎」を合わせた名である。その年のうちに栃尾城(いまの長岡市)の主に据えられた。兄の命で、国人衆(こくじんしゅう、地元の有力な武士たち)の反乱を鎮める役を負う。若い景虎は三条長尾氏、本庄実乃、直江実綱ら有力な国人を巧みに束ね、反乱を鎮めた。「栃尾の若武者」の名が越後に広まった。
景虎はこのあと、生涯に五度名を変える。虎千代、平三景虎、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、そして上杉謙信。名が変わるたび、立場も一段上がっていく。だがその前に、兄の晴景は病がちだった。
03越後の主、京へのぼる
1548年、18歳。兄晴景は病弱で、国人たちを抑える力を失いつつあった。越後の乱れを心配した守護の上杉定実(さだざね)が間に入った。定実は、為景に殺された上杉房能の養子で、形だけの守護である。晴景は景虎に家督(家の主の座)を譲った。景虎は越後守護代として春日山城に入る。
1550年、上杉定実が跡継ぎのないまま没した。将軍足利義藤(よしふじ、のちの義輝)は景虎を越後の国主(実質的な守護)として認めた。関東管領の山内上杉氏との結びつきも、ここから強まる。越後一国が、名実ともに景虎のものになった。
1552年、一人の客が越後に逃げてきた。関東管領の(のりまさ)である。関東管領とは、室町幕府が関東を治めるために置いた重い役職だった。関東八か国の武士に号令をかける名跡(代々受け継ぐ名)である。その憲政が、相模の(うじやす)に追われたのだ。景虎は憲政を守り、関東への出兵を誓った。憲政の避難は、景虎にとって関東に手を出す大義名分になった。
1553年、23歳の景虎は初めて京にのぼった。後奈良天皇からは治罰の綸旨(敵を討つことを認める天皇の文書)を受けた。将軍足利義藤からは白傘袋(しろかさぶくろ)と毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)を賜った。天皇と将軍から特別に礼遇された大名の証である。同じ年の9月には比叡山延暦寺にも登り、仏法を修行したと伝える。
景虎はただの地方大名ではなくなった。朝廷と幕府の正しさを、その身にまとう武将になった。1559年には二度目の上洛を果たし、将軍足利義輝に会う。関東に攻め入る正当な理由を、朝廷と幕府の両方に認めさせる手続きを、一つずつ積み重ねていった。
話を1553年に戻す。京から帰った景虎のもとに、南の隣国から助けを求める声が届いていた。信濃(いまの長野県)からだった。
04川中島の十二年
1553年、武田晴信(はるのぶ、のちの武田信玄)が信濃に攻め込み、村上義清ら信濃の武士を越後へ追い払った。村上義清は景虎に救いを求めた。景虎は応じ、信濃出兵を決める。信濃は越後の南隣である。武田が信濃を取れば、越後の安全もあやうい。
同年8月、第一次川中島。景虎にとっては初陣のような戦いで、小さなぶつかり合いに終わった。以後12年間、二人は川中島で五度向かい合う。第二次は1555年、犀川をはさんで200日余りにらみ合い、勝敗はつかなかった。第三次は1557年の上野原の戦い。第四次は1561年、八幡原の激戦。第五次は1564年、塩崎での対陣である。
いちばん激しかったのが、1561年9月10日のだ。景虎(このころは長尾政虎、上杉憲政から「政」の字を貰ったあとの名)は妻女山に1万3千の兵を置いた。信玄は茶臼山に2万を置いた。信玄の軍師、は啄木鳥戦法を進言した。啄木鳥が木をつついて虫を追い出すように、別働隊で妻女山を襲う。敵を平地の本隊に誘い出し、挟み撃ちにする作戦である。
しかし景虎は霧にまぎれて、夜のうちに先に山を下りていた。そして車懸かりの陣(諸説あり、実在したかは議論がある)で、信玄の本隊を直撃した。この戦いで信玄の弟武田信繁、軍師山本勘助、諸角虎定らが討ち死にした。には一騎打ちの伝説も記されている。景虎が馬上から信玄の本陣に斬り込み、三太刀を浴びせた。信玄はそれを軍配で受け止めた、という。軍記物(ぐんきもの、後世に書かれた戦の物語)なので、本当かどうかは意見が分かれる。勝敗はつかず、どちらも深い傷を負った。八幡原には今も、二人の将の銅像が向かい合って立つ。
川中島は、ただの領土争いではなかった。信玄にとっては、京へ上る道を確かめるための戦いだった。景虎にとっては、村上義清たちを見捨てられないという義の戦だった。違う理屈が12年ぶつかり続けた。では景虎の言う「義」は、いったい何に支えられていたのか。
05毘沙門天の旗
景虎の心の中心には、毘沙門天への深い帰依(身をゆだねる信仰)があった。毘沙門天は北の方角を守る仏教の神で、多聞天(たもんてん)とも呼ばれる。春日山城の中に毘沙門堂を建て、出陣の前には必ず一人で夜を座して過ごした。「我は毘沙門天の化身なり」。景虎はそう名乗り、戦は毘沙門天の加護のもとで行われると信じた。「毘」の一字を染めた旗と、「懸り乱れ龍」の旗は、上杉軍のしるしになった。
運は天に在り、鎧は胸に在り、功は足に在り
この信仰から、景虎は生涯妻を娶らず、肉食もできるだけ慎んだと伝わる。実子はいない。養子を三人育て、跡継ぎの候補とした。甥の長尾顕景(のちの上杉景勝)、北条氏康の子(上杉景虎)、能登畠山氏の畠山義春である。こうした欲を抑えた暮らしは、戦国大名としてはきわだって珍しい。武田信玄、、徳川家康と並べても、異様なほどだ。独身で側室もいなかったことから、近代には女性説も唱えられた。これはあとの章で見る。
義を掲げることも、謙信の特徴である。上杉憲政をかくまって以来、関東への出兵は十数回に及んだ。1560年には10万の大軍を率いて関東に入る。翌1561年閏3月、鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から関東管領職と上杉姓を正式に譲り受け、上杉政虎(まさとら)と改名した。31歳だった。同じ年の末には将軍足利義輝から「輝」の字を賜り、上杉輝虎(てるとら)となる。さらに1570年ごろ、(こうやさん)金剛峯寺で髪を剃り、上杉謙信と号したと伝える。剃髪の場所と年には諸説ある。
1561年2月から3月の小田原城包囲は、関東管領として北条氏康を攻めた義戦の象徴だった。城は落ちなかった。だがこの出兵で、謙信が関東に号令する力は天下に示された。
「敵に塩を送る」という言葉がある。1568年ごろ、駿河の今川氏真と相模の北条氏康が、武田信玄への塩の供給を断った。そのとき謙信は信玄に塩を送った、と江戸時代の逸話集『常山紀談』などは伝える。この話が本当にあったのか。「送った」とはどういうことなのか。それはあとで考える。ここではまず、謙信がこの逸話で語り継がれる人だった、ということだけを覚えておいてほしい。
06西へ ― 能登と手取川
織田信長が力を伸ばすにつれ、謙信の目は西へ向いた。1574年、越中(いまの富山県)を平らげる。1576年には本願寺の顕如(けんにょ)と同盟を結び、信長を包囲する側の一翼を担った。
1577年7月、能登(いまの石川県北部)の七尾城を攻める。守将の畠山義綱(能登畠山氏)は内輪もめで割れていたが、城将の長続連(ちょうつぐつら)が固く守った。しかし9月、城内からの内応(裏切り)によって七尾城は落ち、畠山氏は滅んだ。
その直後、謙信は能登と加賀の境で、信長の援軍と出くわす。率いるのは柴田勝家だった。9月23日、手取川(いまの石川県白山市)のあたりで両軍が接したという。「」である。信玄亡きあと、織田軍の北陸進出をいったん押し返したことは確かだ。信長に反対する勢力の中で、謙信の地位は上がった。ただしこの戦いについて、史料はかなり心もとない。それも後の章で見る。
この勝ちに乗って、謙信は翌1578年春の上洛作戦を準備した。越中・加賀・能登を足場に、美濃・近江を通って京へ。集める兵は3万とも5万とも伝わる。物語は、冒頭の春日山城に戻ろうとしている。だがその前に、ここまでに出てきた伝承を、一度ふるいにかけておきたい。
07伝承と史実のあいだ
「敵に塩を送る」の故事――永禄11年(1568年)前後、駿河今川氏真と相模北条氏康が武田信玄への塩供給を断ったとき、謙信が信玄に塩を送ったという伝承が江戸期の逸話集『常山紀談』(湯浅常山、1739)や『北越軍談』等に見える。ただしこの逸話は同時代の一次史料には現れず、塩を能動的に「送った」のではなく、越後から信濃への日本海塩の通商路を遮断しなかった(=既存の流通を妨害しなかった)という解釈が近年の学説では主流である。つまり義挙ではなく、商業的な既成事実に後世の武士道的解釈が被せられた可能性が高い。それでもなお、この逸話が伝える「敵の窮地を私怨で追わず、義のために助ける」という武士道の理想は、謙信像の文化的核として定着した。
手取川の戦いも史料強度が弱い――上杉側の書状(河田長親宛謙信書状、天正5年9月29日付)が主たる根拠で、織田側史料(『信長公記』等)はほぼ沈黙する。戦闘の実態は大会戦ではなく撤退戦の追撃とする説、あるいはほぼ空振りだったとする説まで幅がある。勝敗の規模を過大評価しないことが近年の学説の主流である。ただし信玄亡き後、織田軍の北陸展開を一時押し返した事実は残り、反信長勢力の結節点としての謙信の地位は確かに上がった。
第四次川中島の一騎打ちと車懸かりの陣も同様で、『甲陽軍鑑』は軍記物であり史実性は議論が分かれる。八幡原の激戦そのものは動かないが、細部の多くは後世の脚色を含むと見ておくべきである。
独身と禁欲についても留保が要る。近代に作家八切止夫が独身・側室不在を根拠に唱えた女性説(一九六八年『上杉謙信は女だった』)は、文化的な読み替えの試みとして残ったが、一次史料との整合に欠けるとして史学的には主流の支持を得ていない。少数説と禁欲伝の両方を抱えたまま、人物像はしかし揺らがない。
死因は脳卒中(脳溢血)とするのが通説で、長年の大量飲酒が背景にあると推測される。謙信は塩引き鮭と梅干しを肴に濁り酒を大量に飲む習慣があり、越後の冬と塩分過多が血管に負担をかけていたと論じられる(『北越軍談』『上杉家御年譜』)。
辞世の偈は「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」と伝えるが、いずれも『甲陽軍鑑』『北越軍談』等の後代の編集で、真撰か後人仮託かは議論がある。ただし、生涯を禅と毘沙門信仰に浸し、臨終の一瞬まで悟達を求めた謙信の姿を凝縮する句として、広く流布している。
伝承をふるいにかけても、残るものがある。毘沙門堂の夜座、独身、村上義清と上杉憲政を見捨てなかったこと、関東管領の名跡を背負ったこと。これらを手に、もう一度あの3月13日に戻る。
08春日山、ふたたび
1578年3月9日、春日山城で大軍議が開かれたと伝える。13日、謙信は厠で倒れ、意識を取り戻さないまま、同日未刻(午後2時ごろ)に没した。48歳、数え年では49。上洛作戦の準備中に倒れた急死は、家中にも織田方にも衝撃を与え、北陸戦線の構図そのものを書き換えた。
生きるは所詮、生死一如の旅。四十九年一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒
すぐに跡継ぎ争いが起きた。養子の上杉景勝(甥)と上杉景虎(北条氏政の弟)が争う(おたてのらん、1578年から1579年)である。景勝の勝ちで終わった。上杉家はのちに豊臣の時代に越後を離れ、会津120万石へ。のあとには米沢30万石に減らされる。それでも謙信の血と心は、幕末まで続いた。米沢藩の(ようざん)による藩政改革も、その延長線上にある。
冒頭の問いに戻ろう。この人は、自分の領地のためではない戦を、なぜ続けられたのか。毘沙門天の化身と名乗り、出陣の前には一人で夜を座した。妻を持たず、肉を控えた。京に二度のぼり、天皇と将軍から戦の正しさを認めてもらった。逃げてきた上杉憲政を見捨てず、その名跡を継いだ。塩の逸話は後の世の脚色かもしれない。だが人々は、この人になら塩を送る話を託せると思った。そのことは動かない。
最後の上洛計画は、この人の中では義の続きだったのか。それとも、義という言葉が届かない場所へ踏み出そうとしていたのか。史料は答えてくれない。残っているのは、49年を「一睡の夢」と呼ぶ句だけである。もしこの句が本人の言葉でないとしても、人々はなぜ、この人にこの言葉を託したのだろうか。
09主要な出来事と遺産
- 越後春日山麓で長尾為景の末子として誕生。幼名虎千代
- 父為景隠居、兄晴景が家督を継承。虎千代は林泉寺天室光育のもとで学ぶ
- 14歳で元服、長尾景虎と名乗る。翌年栃尾城で国人反乱を平定
- 兄晴景から家督相続、19歳で越後守護代となる
- 関東管領上杉憲政が越後に避難、関東出兵の大義名分となる
- 初上洛、後奈良天皇の治罰綸旨を賜る。第一次川中島
- 武田信玄と川中島で五度対峙、第四次(1561)で最激戦
- 鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領職と上杉姓を正式に継承し、上杉政虎となる。小田原城包囲
- 敵に塩を送る伝承(真偽諸説)
- 出家し上杉謙信と号する(諸説あり)
- 本願寺顕如と同盟、反信長包囲網に加わる
- 能登七尾城を陥落させ畠山氏滅亡。手取川で柴田勝家を撃破
- 3月上洛作戦を準備中、春日山城の厠で卒倒、同日未刻に没す。享年49
- 御館の乱。養子景勝と景虎の後継争い、景勝が勝利
残した思想の輪郭
- 毘沙門天の化身 ― 北方護法神への深い帰依、毘の旗と懸り乱れ龍の旗、生涯独身の禁欲
- 義の武将 ― 村上義清・上杉憲政の救援に応じる義戦、私利の領土拡張を退ける戦の論理
- 関東管領としての責務 ― 鎌倉鶴岡八幡宮での継承、関東出兵十数回、名跡の重みを身体化
- 川中島の十二年 ― 武田信玄との五度の対峙、宿敵にして互敬、戦国最強同士の長い紡ぎ
- 敵に塩を送る ― 一次史料にはない江戸期の逸話(『常山紀談』)だが、文化的な武士道像の結晶として長く参照される
- 禅と文学の素養 ― 林泉寺天室光育の薫陶、和歌と漢詩と書に通じた文武両道の武将
- 手取川の戦い ― 上杉側書状に依拠する勝報で織田側史料は沈黙、規模を過大評価せぬよう留保。反信長包囲の結節点としての象徴性は残る
- 御館の乱と米沢藩 ― 謙信の血脈は景勝を経て幕末の米沢藩(鷹山の改革)まで続く
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
上杉謙信が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
上杉謙信を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「上杉謙信」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Uesugi Kenshin"