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風土の知恵

樋口一葉

Higuchi Ichiyō·1872–1896·日本·

筆一本で、 家を背負えるか?

明治の女戸主として生計を背負い、24歳で散った「奇蹟の14ヶ月」の書き手

  • たけくらべ
  • 雅俗折衷
  • 貧と筆

時代の空気

明治中期、自由民権運動の余熱が冷めゆく一方で、教育勅語(1890)が公布され、跡見女学校・東京府立第一高等女学校など女子高等教育がようやく解禁されはじめた。雑誌『文学界』(1893創刊、北村透谷・島崎藤村)の周辺で、戯作風俗から心理小説へ筆が動き、雅文体と俗語が混じり合う。結核はなお治癒法のない死病で、士族の家計は維新後の禄高廃止で次々に傾いた。新吉原の遊郭文化が浅草北郊に広がり、内国勧業博覧会と日清戦争(1894-95)が近代化を加速させていた。

01樋口家の次女、奈津

明治5年(1872年)旧暦3月25日、東京府第二大区一小区内幸町うちさいわいちょう一丁目の東京府構内官舎で生まれた。父樋口則義、母多喜の次女。本名樋口奈津ひぐちなつ、のち夏子と呼ばれ、雅号「一葉」は文壇デビュー時の筆名である。樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨市・甲斐市寄り)の百姓の出で、父則義は維新前後に東京へ出、町同心から警視庁勤め、金銭の運用で士族の身分と東京府の下級官吏の職を得ていた。母多喜、長兄泉太郎、姉ふじ、妹くにとともに、武家とも町家ともつかぬ家のなかで育った。

幼い夏子は早くから本の虫だった。『源氏物語』『伊勢物語』をはじめ古典に傾倒し、草双紙を読破した。明治14年、本郷区中西尋常小学校に学んだが、明治16年、4年生のとき父の判断で退学させられた。11歳。「女子に学問は要らぬ」という当時の通念に従ったかたちだったが、本人は学問の継続を切に望み、以後は独学で古典と和歌を修めていく。

02萩の舎入門、父の死

明治19年(1886年)、14歳の夏子は中島歌子なかじまうたこの歌塾萩の舎はぎのやに入門した。は明治を代表する女性和歌塾で、士族・華族の子女が華やかに集う場だった。借金で生計を立てるほど経済的に逼迫した樋口家の娘が、絹の着物の令嬢たちに混じって稽古を受ける。後年の自筆日記『塵之中ちりのなか』には、華やかな姉弟子たちの装いと引き比べて自らの貧しさを書き留めた箇所があり、屈辱と憧憬を同時に抱えた十代の姿が、本人の筆で裏づけられている。貴族令嬢で先輩格の田辺花圃たなべかほ(後の三宅花圃)との交友は、ここで芽生えた。

明治20年、長兄泉太郎が肺結核で病死。明治22年(1889年)7月、父則義が事業の失敗(荷車請負業など)で負債を抱えたまま死去した。姉ふじは既に他家へ嫁ぎ、家に残ったのは母多喜と夏子と妹くにの女三人と、借金だった。17歳の夏子は、樋口家の戸主を相続した。明治の女戸主は法律的にも極めて稀な立場である。この瞬間から、彼女は自分と家族の生計を自分で立てねばならない世帯主となった。

03小説家への転身、半井桃水への師事

萩の舎の先輩田辺花圃(後の三宅花圃)が小説『藪の鶯』(明治21年)で原稿料を得たと聞き、夏子は小説で身を立てる決意を固めた。明治24年4月、当時人気の新聞小説家半井桃水なからいとうすいを訪ね、弟子入りを願い出た。桃水は30歳前後、朝鮮釜山勤務の経歴を持つ朝日新聞小説記者で、妻と早くに死別していた。親切に指導を始めた桃水との間には、やがて萩の舎で「弟子と師の関係を越えた」という噂が立つ。噂は夏子の母と姉弟子たちを深く傷つけ、一葉は明治25年(1892年)6月、涙を呑んで桃水と訣別けつべつした。手紙のやり取りを軸とした淡い情と師恩のあわいは、性関係をともなう恋ではなく、書くために書かねばならぬ者どうしの結ばれ方だったと、自筆日記に幾度も書き残されている。

この頃、処女作『闇桜』(『武蔵野』第1号、明治25年3月)で夏子は「一葉」の号を用いた。達磨大師が葦の葉一枚に乗って川を渡ったという故事による。漂泊・貧窮・孤独を自ら引き受ける覚悟を込めた名だった。

04下谷龍泉寺、吉原の近くで

明治26年(1893年)7月、一葉は母多喜と妹くにと三人で下谷区龍泉寺町りゅうせんじちょう(現台東区竜泉)に荒物・駄菓子の雑貨商ざっかしょうを開き、転居した。歩いて数分のところに新吉原しんよしわら遊廓があった。朝は子供たちが駄菓子を買いに来、夕刻は遊郭通いの男たちが往来する。筆を折って商売に専念した時期だが、店は当初こそ賑わったものの次第に客足が遠のき、10ヶ月で廃業はいぎょう、明治27年5月、本郷丸山福山町(現文京区西片)へ転居した。

龍泉寺の10ヶ月は、一葉の文学にとって決定的だった。新吉原の裏町、遊郭の子らや朋輩の風俗を、彼女は商人の視点から肌で見た。美登利、正太郎、信如――の子らの輪郭は、この商売のカウンターの向こうで形をなしていた。

05奇蹟の14ヶ月

明治27年(1894年)12月から明治29年(1896年)1月、一葉は後に「」と呼ばれる集中的な執筆期に入る。(明治27年12月、『文学界』)、『たけくらべ』(明治28年1月〜29年1月、『文学界』連載れんさい、のち『文藝倶楽部』に一括再掲)、『ゆく雲』(明治28年5月、『太陽』)、『軒もる月』(明治28年4月、『毎日新聞』)、(明治28年9月、『文藝倶楽部』)、(明治28年12月、『文藝倶楽部』)、(明治29年1月、『國民之友』)、『うつせみ』(明治28年、未定稿含む)、『裏紫』(明治29年2月、『新文壇』)、『われから』(明治29年5月、『文藝倶楽部』)――代表作のほぼすべてが、この14ヶ月のうちに書かれた。

雅俗折衷の独特の文体――和歌と古典の格調を下敷きに、江戸の町人言葉と明治の口語を織り込んだ――で、貧しい女・夭折する子・売られた娘・零落した士族の娘を、深い哀憐をもって描いた。『たけくらべ』の美登利が運命を予感して赤子のように泣き伏すラストシーン、『にごりえ』のお力が暗闇の中で斬り殺される結末、『十三夜』のお関が車夫に身を落とした旧知の録之助と再会する夜――それぞれが一葉文学の絶頂である。

明治29年4月、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨ら文壇の権威が雑誌『めさまし草』の合評欄「三人冗語」で『たけくらべ』を絶賛ぜっさんした。鴎外は「此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」と書いた。無名の若い女性作家に対する、明治文壇の最大級の讃辞だった。

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く。

『たけくらべ』冒頭(明治28-29年、『文学界』連載)

06肺結核、24年8ヶ月の生涯

しかし、名声が訪れたとき、一葉の身体はすでに尽きようとしていた。明治29年8月31日に結核けっかくと診断され、夏から秋にかけて容態は悪化、執筆不能となる。森鴎外は東大医学部青山胤通教授の往診を計らったが、既に手遅れだった。当時の結核は治癒法のない死病で、長兄泉太郎を奪った同じ病が、ふたたび樋口家を訪れていた。

11月23日(旧暦10月19日)午前11時半、本郷丸山福山町の借家で一葉は息を引き取った。満24歳6ヶ月。母多喜と姉ふじが看取った。葬儀は11月25日、築地本願寺で行われ、ほぼ家族だけの寂しい葬列だった。戒名「智相院釈妙葉信女」。墓は東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある(当初は築地本願寺内、のち関東大震災後に移転)。

死後、一葉の自筆日記が整理され、明治末から大正にかけて『しのぶぐさ』『若葉かげ』など主要な日記が出版された。一葉の日記は明治期女性文学の最高傑作の一つと評価される。平成16年(2004年)11月、新五千円札(E号券)の肖像に一葉が採用された。日本銀行券の肖像となった初の女性である(政府紙幣の神功皇后像を除く)。透かしとして配された右上の紋様には、自筆日記『塵之中』表紙の意匠が引かれている。

07主要な出来事と著作

  1. 東京府内幸町官舎に誕生。本名樋口奈津、のち夏子
  2. 本郷区中西尋常小学校4年で退学(11歳)。以後、独学で古典を学ぶ
  3. 萩の舎(中島歌子)に入門、和歌と古典を学ぶ。田辺花圃と交友
  4. 長兄泉太郎が肺結核で病死
  5. 父則義が事業失敗の末に死去、17歳で樋口家戸主相続
  6. 朝日新聞小説記者半井桃水に入門、小説指導を受ける
  7. 『闇桜』で文壇デビュー。萩の舎の噂を機に桃水と訣別
  8. 7月、下谷龍泉寺町(新吉原近く)で荒物・駄菓子の雑貨商を開業
  9. 5月、雑貨商廃業、本郷丸山福山町へ。12月『大つごもり』発表(奇蹟の14ヶ月開始)
  10. 『たけくらべ』連載開始(『文学界』)、『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』発表
  11. 『三人冗語』で鴎外・露伴・緑雨が『たけくらべ』を絶賛。8月結核診断、11月23日死去。24歳
  12. 新五千円札(E号券)の肖像に採用、日本銀行券で最初の女性肖像に

残した思想の輪郭

  • 雅俗折衷の文体 ― 和歌と古典の格調に江戸町人語・明治口語を織り込んだ独自の散文
  • 明治の女戸主(世帯主せたいぬし) ― 17歳で樋口家の戸主を相続、筆一本で母多喜と妹くにの生計を背負った現実
  • 貧しき女たちへの共感 ― 売られる娘、零落した士族の姉妹、夭折する少女 ― 主題の中心にいつも女の不自由がある
  • 奇蹟の14ヶ月 ― 明治27年末から29年初頭までの集中的執筆期、この短期間に代表作ほぼ全てが書かれた
  • 吉原に寄り添う視点 ― 『たけくらべ』で遊廓の裏町から子どもたちを見た、「外側からの哀憐」ではない視座
  • 鴎外の讃辞 ― 『三人冗語』で「まことの詩人」と呼んだ鴎外の文章は、近代文学批評の一つの瞬間
明治29年(1896年)11月23日、本郷丸山福山町の借家で肺結核により死去。24歳。
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    定本確認済み: 明治28年から翌年にかけて『文学界』に断続連載された『たけくらべ』の冒頭。吉原大門脇の見返り柳から、遊郭を囲むお歯ぐろ溝に映る灯りと喧騒までを、雅俗折衷の文で一気に視界に畳む。女戸主として家族を背負い...

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    定本確認済み: 大つごもり おほつごもりは明けて元朝、何事もなう過ぎたり

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