森鴎外
諦念のなかで、 どこまで人は歩けるか?
陸軍軍医総監でありながら、翻訳と史伝で日本近代文学の骨格を築いた二重生活の人
- 諦念(レジグナチオン)
- 史伝
- 舞姫
時代の空気
江戸末期の文久二年、石見津和野藩医森家に生まれ、廃藩置県後の上京で第一大学区医学校(現東大医学部)に最年少入学した。明治十七年から二十一年、ドイツ陸軍衛生学留学でライプツィヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンを巡り、ペッテンコーファーとコッホに師事した。日清・日露の従軍と小倉左遷を経て陸軍軍医総監に昇りつつ、海軍高木兼寛の麦飯論を退けた脚気論争では多くの戦病死を招いた。漱石と並ぶ近代文学の祖として『舞姫』からゲーテ『ファウスト』翻訳まで西洋文学の受容を担い、明治天皇崩御と乃木希典殉死を機に『澀江抽齋』ら史伝主義へと深化した。
01津和野の藩医の子
文久2年(1862年)1月19日(陰暦、新暦2月17日)、石見国鹿足郡津和野(現島根県津和野町)の藩医森静男と峰子の長男として生まれた。本名森林太郎。津和野藩亀井家は四万三千石の小藩で、森家は代々藩主の侍医を務めた家柄だった。祖母清子の手で育てられた幼少期、6歳ですでに『論語』の素読を始め、藩校養老館で四書五経とオランダ語を学んだ。神童と呼ばれた林太郎の手の届くところには、もう一人の重要な縁戚がいた。父静男の従兄で幕府開成所教授・洋学者の西周である。「哲学」「主観」「客観」「理性」など西洋哲学の基本訳語を創ったこの伯父が、上京後の進路を後見することになる。
明治5年(1872年)、10歳で廃藩置県後の東京へ父と出、宅に身を寄せ、ドイツ語塾「進文学舎」で学んだ。明治7年、第一大学区医学校(現東京大学医学部)予科の入学試験に挑むが、年齢不足で予科に入れず、年齢を二歳加増して受験したと伝えられる。本科を卒業したのは明治14年、19歳。同期で最年少だった。卒業後すぐ陸軍軍医副として任官し、以後、軍医の道を歩むことになる。
02独逸留学 ― ライプツィヒからベルリンへ
明治17年(1884年)8月、陸軍省の命でドイツ陸軍衛生学研究のため派遣された。22歳。ライプツィヒでフランツ・ホフマンに就いて衛生学の基礎を、ドレスデンでヴィルヘルム・ロートに従って軍陣衛生を、ミュンヘンでマックス・フォン・ペッテンコーファーに就いて環境衛生学を、最後にベルリンでロベルト・コッホ研究室で細菌学を学んだ。ドイツ語は堪能で、留学生のなかでも抜きん出ていた。
帰国直前のベルリンで、若いドイツ人女性と恋仲になった。近年の独語戸籍・乗船記録の調査では、Stettin 出身の帽子工女に比定される人物である。明治21年9月、鴎外が帰国した直後、彼女は単身横浜まで追ってきたが、家族と陸軍の説得を経て一ヶ月余りで帰独した。この経験が(明治23年)の原形となる。主人公太田豊太郎が別れの後に「餘は彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と語り手を恨む独白で小説を閉じるとき、そこに帰国船で沈黙する青年軍医の影が重なる。しかし鴎外自身は、女性の実像や関係の詳細について生涯沈黙を守った。エリスは史実の女性と異なる文学的形象であり、沈黙の選択もまた鴎外の生涯の作法の一部となった。
03翻訳と軍医と ― 明治20年代
明治21年9月、帰国。陸軍軍医学校の教官となりつつ、雑誌『しがらみ草紙』を主宰し、翻訳・評論を精力的に発表した。明治23年から24年にかけて、留学体験を素材にした『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のいわゆる独逸三部作を雅文体で次々と発表し、近代日本文学の自我問題の起点となる。アンデルセン『即興詩人』(明治25-34年)の訳業は日本語散文の一つの到達点で、のちに夏目漱石が「名訳」と絶賛することになる。
明治22年、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚したが、長男於菟(のち医学者)を儲けたあと一年で離婚。於菟は森家で引き取られた。明治27-28年、日清戦争に第二軍兵站軍医部長として従軍し、台湾派遣にも加わった。明治32年6月から35年3月までの三年弱、第十二師団軍医部長として小倉へ「左遷」され、酒癖と Naumann 論争の余波が因とも噂された。この小倉左遷時代は鴎外の人生の陰翳で、『鶏』『独身』などの私小説的短編に結晶した。明治35年、再婚相手として荒木志げ(40歳と19歳)を迎え、以後、茉莉(随筆家)・杏奴・不律(4歳早世)・類(随筆家)を儲ける。
04脚気論争 ― 麦飯を拒んだ判断
軍医としての鴎外には、後世に深い傷を残す論争がある。脚気(ビタミンB1欠乏症)の原因をめぐる論争である。明治期、日本陸軍では脚気が猛威を振るい、日清・日露戦争で夥しい戦病死者を出した。海軍軍医高木兼寛は経験的に麦飯食が脚気を予防することを発見し、海軍では明治18年の遠洋航海で麦飯採用後に罹患を激減させていた。
しかし陸軍の鴎外は、ドイツ留学で身に付けた細菌病因説を支持し、白米食堅持の立場を変えなかった。コッホ細菌学の権威に寄り過ぎたこと、実証データよりも理論を優先したこと、米食を兵士士気の根幹とみる陸軍内部の組織的硬直など、複合的な要因が指摘される。日露戦争(明治37-38年)で陸軍は約25万人の脚気罹患者と、約2万7千人の脚気死亡者を出した。明治40年に軍医総監に栄進した鴎外に、この判断の責任は重く、近代医学史における大きな汚点として今も論じ続けられる。鴎外を司書として読む立場からは、ここを糊塗せず、近代化の合理が同時代の経験的医学を退けた構造として直視する必要がある。
05観潮楼、明治40年代の創作期
明治25年、鴎外は本郷駒込千駄木町21番地の自邸を「観潮楼」と名付けた。東京湾が遠く望めた高台から付けた名だった。この家で、鴎外は再婚の妻志げ子と子らと暮らし、毎月観潮楼歌会を開いた。伊藤左千夫、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋らが集い、短歌革新の拠点となった。
明治42年、『スバル』が創刊され、鴎外は再び小説家として旺盛な活動に入る。『ヰタ・セクスアリス』(明治42年、発禁処分)、『青年』(明治43-44年)、(明治44-大正2年)、『かのやうに』(明治45年)と次々発表。並行してアンデルセン、シュトリンドベリ、イプセンの翻訳を進め、大正2年にはゲーテ『ファウスト』第一部・第二部の完訳に至る。『かのやうに』で鴎外は「レジグナチオン(諦念)」の語を論じた。近代人が科学と宗教・慣習の矛盾に直面したとき、矛盾を「かのように」引き受けて生きる姿勢 ― それが鴎外の成熟の核心だった。
かのれじぐなちよん(諦念)の心持ちは、我々日本人の生活を考える上で、極めて大切なものではあるまいか。
06乃木殉死と史伝への転回
明治45年(1912年)7月、明治天皇崩御。9月13日、大葬の日に乃木希典夫妻が殉死した。この事件が鴎外の後半生を決定的に変えた。同世代の陸軍軍人の自裁という出来事は、軍医総監の椅子にある鴎外に、制度と忠義と生き残りを一身に引き受け続ける意味を改めて問い返した。
わずか五日後、鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書き下ろし、『中央公論』10月号に掲載した。以後、(大正2年)、『佐橋甚五郎』『大塩平八郎』『堺事件』(大正3年)、『安井夫人』『山椒大夫』(大正4年)と、歴史小説を矢継ぎ早に発表する。やがて史伝へと深化し、(大正5年)、『伊澤蘭軒』(大正5-6年)、『北條霞亭』(大正6-9年)という晩年の三部作に至る。これらは旧字旧仮名で連載され、と呼ぶべき様式を確立した。
『澀江抽齋』は、江戸末期の弘前藩医・経学者・考証学者の生涯を、丹念な資料調査で再構成した伝記作品で、日本近代散文の最高峰の一つに数えられる。鴎外自身が江戸の教養人と深いところで繋がっていたことを、この仕事は静かに証明している。
07軍医総監・博物館総長、そして死
明治40年、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長(軍医として最高位、中将相当)に就任。以後12年、近代軍医制度の確立に尽くした。大正5年、現役を退き、翌大正6年には帝室博物館総長兼図書頭に就任した。歴史・古典・文物への晩年の沈潜を支える職務だった。
大正11年(1922年)、体調を崩す。腎萎縮症と肺結核が進行していた。7月6日、親友賀古鶴所に遺言を口述筆記させた。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「死ハ一切ヲ打ツ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ」 ― 官位・勲章・肩書をすべて拒み、津和野藩医の息子として葬ってほしいという簡潔な遺言だった。7月9日午前7時、観潮楼で死去。満60歳。
墓は東京向島弘福寺、のち三鷹禅林寺へ改葬された(太宰治と同じ寺だが、改葬時期は鴎外の死からずっと後)。遺言通り、墓石には「森林太郎墓」とのみ刻まれている。
08主要な出来事と著作
- 石見津和野の藩医森家に誕生。本名林太郎、伯父に洋学者西周
- 10歳で上京、西周宅に寄寓。ドイツ語塾進文学舎で学ぶ
- 東京大学医学部本科卒業。19歳、同期で最年少
- ドイツ陸軍衛生学留学。ライプツィヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンの四都市でホフマン・ロート・ペッテンコーファー・コッホに師事
- 『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の独逸三部作。『即興詩人』翻訳に着手
- 本郷駒込千駄木に観潮楼を構える。『しがらみ草紙』主宰
- 日清戦争に第二軍兵站軍医部長として従軍、台湾派遣
- 小倉左遷時代。第十二師団軍医部長。『鶏』『独身』に結晶
- 日露戦争に第二軍軍医部長として満州従軍。陸軍は脚気で約25万人罹患・約2万7千人死亡
- 陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任(軍医として最高位、中将相当)
- 観潮楼歌会を主宰、伊藤左千夫・与謝野鉄幹・石川啄木らが集う
- 『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』『かのやうに』連載。ゲーテ『ファウスト』翻訳完成
- 明治天皇崩御・乃木希典殉死。『興津弥五右衛門の遺書』を直後に発表
- 『阿部一族』『大塩平八郎』『堺事件』『山椒大夫』『高瀬舟』など歴史小説群
- 史伝三部作『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』『北條霞亭』
- 帝室博物館総長兼図書頭に就任
- 7月9日、観潮楼で死去。享年60。墓には『森林太郎墓』のみ
残した思想の輪郭
- 諦念(レジグナチオン) ― 近代人が抱える矛盾を、否定でも解決でもなく「かのように」引き受ける倫理
- 翻訳文体 ― 『即興詩人』『ファウスト』以下、独・デンマーク・スウェーデン語からの訳で日本語散文の骨格を作った
- 史伝主義 ― 『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』『北條霞亭』など、江戸の考証家や医者の生涯を丹念に再構成する、私小説とも歴史小説とも異なる様式
- 二重生活 ― 陸軍軍医総監という官職と、小説家・翻訳家という別人格を最後まで両立した稀有な例
- の影 ― 細菌病因説に固執して麦飯食を退け、日露戦争で多数の脚気死者を生んだ負の遺産
- 「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」 ― 一切の官位肩書を拒んだ遺言、出自への還り
出典と確認メモ
6件- 思想二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: ogai.mdx Chapter 8 残した思想の輪郭 段落: 森鷗外 (1862-1922) の思想・文業を 5 項目で要旨化した editorial summary ― 諦念 (レジグナチオン R...
一次資料を開く鷗外作品全文 (青空文庫)、『かのように』(1912) Resignation 倫理の代表作
- 解釈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 明治45年(1912)、『中央公論』に発表された短編「かのやうに」で主人公五条秀麿の口を借りて示された要旨。独逸帰りの青年史学者が、神話を歴史として信じられない時代に、それでも「かのように」生きる構え...
一次資料を開く図書カードに '初出: 「中央公論」1912(明治45)年1月' '著者名: 森鴎外' '生年 1862-02-17 / 没年 1922-07-09' を明記。...
- 出典校訂版で確認済み要旨訳
要旨訳: 「かのやうに」(明治45年)から要旨
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: かのれじぐなちよん(諦念)の心持ちは、我々日本人の生活を考える上で、極めて大切なものではあるまいか
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: かのれじぐなちよん(諦念)の心持ちは、我々日本人の生活を考える上で、極めて大切なものではあるまいか。
- 要旨訳二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: われわれは、資性の許す範囲において、なるべく従順に人生の荷物を負うべきだ
つながり
- 夏目漱石
同時代 — 漱石(1867-1916、英国留学1900-02)と鷗外(1862-1922、ドイツ留学1884-88)は明治文壇の両雄。鷗外は観潮楼歌会を主宰、漱石は木曜会を主宰、互いに面識はあり往復書簡も残るが、直接の師弟関係はなく、明治期近代文学の独逸派・英国派として双璧をなす。鷗外『雁』(1911-13)と漱石『こころ』(1914)の同時代性
- 谷崎潤一郎
先駆 — 谷崎は少年期から鷗外の『舞姫』『雁』と翻訳文体に親しみ、後年『文章読本』(1934)で鷗外の翻訳文体の品位と簡潔さを高く評価。鷗外の史伝物(『渋江抽斎』1916、『伊沢蘭軒』1916-17)の古典回帰の流れは、谷崎の『春琴抄』(1933)『細雪』(1943-48)など関西の古典的世界への耽美的回帰の遠い前提
- 樋口一葉
伴走 — 森鴎外は雑誌『めさまし草』(1896創刊、鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨の合評欄)で1896年4月『たけくらべ』を「真の詩人」「明治の名作」と高く評価し、無名の女戸主作家を文壇の中心へ押し上げた。鴎外は同年夏には自宅に一葉を招くことも検討したが結核の悪化で実現せず、11月23日の一葉死去にあたり追悼文を寄せた。明治文壇の権威が在野の女性作家を見出した稀有な伴走関係
さらに読むならFurther Reading
森鴎外の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門舞姫・うたかたの記 他三篇
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生きた跡を辿るPlaces
森鴎外が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
森鴎外を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「森鷗外」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Mori Ōgai"
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