小林秀雄
批評は、 学問でありうるか?
『様々なる意匠』でデビューし、晩年の11年を『本居宣長』に注いだ近代日本批評の巨人
- 本居宣長
- 批評
- 様々なる意匠
時代の空気
大正末から昭和初期、第一高等学校から東京帝国大学仏文に進み、ボードレール・ヴェルレーヌ・ランボーら象徴詩の翻訳に没頭した世代だった。富永太郎・河上徹太郎・三好達治ら同人圏のなかで、関東大震災後の東京は『文藝春秋』(大正12年創刊)と新感覚派・プロレタリア文学の二極が拮抗していた。昭和4年、『改造』懸賞批評の二等に『様々なる意匠』が入選し、批評家としての足場を得る。戦時下の文学報国会と『無常といふ事』(昭和17-21年)を経て、敗戦と第二芸術論争のあとは鎌倉雪ノ下に居を据え、晩年の11年を『本居宣長』に注いだ。昭和42年文化勲章。昭和58年3月、満80歳で没す。
01神田猿楽町、宝石商の長男
明治35年(1902年)4月11日、東京市神田区猿楽町(現千代田区神田猿楽町)に生まれた。父小林豊造はベルギーのアントワープでダイヤモンドの研磨を学んだ宝石商で、輸入から研磨まで手がけ、家は裕福だった。母精子は加賀藩儒学者の系譜を引く。本名小林秀雄(ひでお)。
長男秀雄の幼少期は、父の商売が成功した時期で、洋書や絵画に囲まれた家だった。妹に高見沢潤子(明治40年生、後に兄の評伝『兄小林秀雄』を書く)、その下にもう一人の妹がいた。明治42年、本郷西片町へ転居。大正期の小林家は神田一の富裕商家だった。大正10年、父豊造の事業が傾き、同年、父は55歳で早世する。秀雄19歳。裕福さに囲まれて育った少年は、家運が崩れる年に一家の長男となった。
02東大仏文科 ― ランボーの衝撃
大正10年、第一高等学校文科丙類(仏文)入学。富永太郎とは一高時代から親交を結んだ。は明治40年(1907)生、大岡昇平は明治42年(1909)生で年下にあたり、中原との本格的な交わりは大正14年以後となる。大正12年(1923年)、関東大震災を体験。東京神田の自宅は倒壊を免れたが、大震災の光景は秀雄の感受性に刻まれた。
大正13年(1924年)、東京帝国大学文学部仏文学科に入学。指導教授は辰野隆。大正14年(1925年)11月、友人富永太郎が24歳で病没 ― 秀雄の青春の最初の痛手となった。在学中の大正15年からアルチュール・ランボーの翻訳を始める。
大正14年(1925年)11月、秀雄は中原中也・長谷川泰子(女優志望)と知り合う。中也18歳、泰子21歳、秀雄23歳。同年12月、泰子は中也のもとを離れて秀雄と同棲を始めた。三人の関係はそれぞれの内面に深い疵を残し、中也の詩と秀雄の批評の双方に、長く陰として落ちることになる。昭和3年(1928年)4月、秀雄は泰子と別離。昭和の文壇にとってこの三角関係は伝説となるが、当事者たちの回想は1960年代以降に少しずつ書かれた。昭和8年(1933年)、秀雄は森喜代美と結婚し、長女明子は昭和14年(1939年)に生まれる。
03『様々なる意匠』 ― 1929年のデビュー
昭和4年(1929年)9月、『改造』の懸賞評論二等に『』が入選した(一等は宮本顕治「『敗北』の文学」 ― 芥川龍之介論)。27歳。これが小林秀雄の批評家デビューである。富永の夭折と泰子との決別を経た消耗の後で、ようやく自分の声を文字に移す足場が得られた一編だった。
翌昭和5年(1930年)8月、白水社から訳詩集『地獄の一季節』(ランボー『Une Saison en Enfer』)を刊行。小林秀雄の名で世に出た最初の単行本であり、本邦における本書の初訳の一つである。
『様々なる意匠』は、当時の文壇を席巻していたマルクス主義文学(プロレタリア文学)、新感覚派、心理主義など、各流派を「様々な意匠(イデオロギー)」として相対化し、「意匠を剥いだ先にある作家固有の宿命」を批評の対象に据えた。「意匠」は思想や方法ではなく、それぞれの時代が作家に着せる仮面である ― そう喝破した。批評を学問ではなく、芸術家の生命との直接対話として定義するこの宣言が、以後の昭和批評の枠組みを作った。
04『文學界』『私小説論』と戦中の沈黙
昭和8年(1933年)、『文藝春秋』社の支援のもと『文學界』(第二次)が創刊、河上徹太郎、林房雄、武田麟太郎らとともに小林秀雄は同人となった。以後、『文學界』は戦前昭和の純文学批評の中核誌となる。
昭和10年(1935年)、『改造』に『私小説論』を発表。志賀直哉や横光利一らの作品を踏まえて、日本近代小説の「私」と「社会」の関係を、フランス自然主義文学との比較のなかで論じた。「我々の社会は、私小説作家たちが思っているほど私的なものではない」という洞察が、戦後の私小説批判の出発点となる。
昭和14-15年、『ドストエフスキーの生活』を『文學界』に連載。ドストエフスキーの伝記と作品を、彼自身の宗教的・精神的危機の中で辿る伝記批評である。手紙、日記、作品の隅々まで読み込み、「人物の生命に直接触れる批評」を実践した。
戦時下の小林は文学報国会に名を連ね、『歴史と文学』(昭和16年)、『当麻 (たえま)』(昭和17年)などを書く。昭和17年から21年にかけて、『文學界』『改造』『新潮』に、平家物語・西行・実朝・徒然草を読む短い随想を散発的に発表していく。それらは戦後、『無常といふ事』(昭和21年、創元社)に収められる。古典の幽かな美に身を寄せるこれらの文章は、戦争協力の言説と、語らずにいたい何かのあいだで揺れていた。同17年4月から大陸を取材し『大陸の旅』を書き、同年11月の第一回大東亜文学者大会には参加(国内会場での発言記録あり)。戦後、これらをめぐる小林自身の総括は明示的にはなされず、「無智」を語った戦後座談での発言が物議を呼ぶことになる。
05『モオツァルト』『ゴッホの手紙』 ― 戦後の傑作
昭和21年(1946年)、『モオツァルト』を『創元』誌に発表。数年がかりで書き上げた短編評論で、モーツァルトの「疾走する悲しみ」を、ト短調交響曲40番や『ドン・ジョヴァンニ』を手がかりに、生理的・感覚的に肉迫した。小林自身、モーツァルトを聴き続けて30年になる愛聴家だった。戦後の知識人たちに深い影響を残し、今も批評文の古典として読まれ続けている。
同年、亡き友をしのぶ短文『』を発表。をめぐる青春の傷から二十年、ようやく中也のことを書ける場所に立った。
昭和21-22年、桑原武夫が『世界』に発表した「第二芸術 ― 現代俳句について」が起こした第二芸術論争にも、小林は周辺から関与した。短歌・俳句を「第二芸術」と切り捨てる桑原の議論は、伝統詩型の擁護派との論争を呼ぶ。小林は短歌・俳句そのものより、伝統と批評の関係をどう見るかという地点でこの論争に距離を取った。
昭和27-28年(1952-1953)、『ゴッホの手紙』を『新潮』連載。画家ゴッホの弟テオへの手紙群を丹念に読み解き、狂気の画家の内面を明らかにしようとする長大な評論である。小林はしばしば画家の実作(『アルルの跳ね橋』『星月夜』等)と手紙の記述を照合しつつ論じた。『モオツァルト』と『ゴッホの手紙』の二作は、戦後の小林批評の頂点であり、晩年の『本居宣長』への助走でもあった。
06『考えるヒント』 ― 鎌倉での日々
昭和33年(1958年)頃、小林は鎌倉雪ノ下の家に移り住み、以後25年、死ぬまでこの家で過ごす。鎌倉の家は静かな学者邸で、書架には古今東西の書物と日本の古典が並んだ。小林は散歩を日課にし、朝は鶴岡八幡宮の境内を、夕方は北鎌倉の山裾を歩いた。
昭和39-50年(1964-1975)、『文藝春秋』に随筆連載『考えるヒント』を書き続けた。歴史、道徳、常識、芸術、国語 ― 多岐にわたる主題を、小林独自の「見ること=考えること」の姿勢で論じた。ベストセラーとなり、戦後知識人の教養書として広く読まれた。
見ることは考えることである。物を見ずに物を考えることはできない。
07『本居宣長』 ― 11年がかりの晩年の大著
昭和40年(1965年)6月、小林は雑誌『新潮』に『本居宣長』の連載を開始した。63歳。以後、長期連載を続け、昭和51年(1976年)に連載を完結、約11年の長期連載だった。昭和52年(1977年)10月、単行本として新潮社から刊行。昭和53年、日本文学大賞を受賞した。
『本居宣長』は、江戸中期の国学者・本居宣長(1730-1801)の生涯と業績、特に『古事記伝』(35年がかりの大著)と「もののあはれ」論を、小林自身の思考と重ねながら論じた大著である。宣長の古道論、契沖との系譜、賀茂真淵との師事と離反、藤井高尚ら門下との交流 ― 宣長学の全体を、文献学ではなく批評として論じた。原稿用紙にしておよそ三千枚、雑誌連載は11年に及び、刊行は昭和52年(1977年)10月だった。
小林秀雄にとって、宣長は自身と向き合う鏡だった。「見ること」と「物のあはれを知る」ことは、小林自身の批評の原理でもあった。連載末尾、宣長の墓参(山室山妙楽寺)のくだりは、小林批評の到達点として深い余韻を残す。
文化勲章は先立つ昭和42年(1967年)、65歳のときに受章している。
08死と遺したもの
晩年の小林は、鎌倉の家で静かに暮らした。娘明子との対談(『小林秀雄全集』のインタビュー)では、柳田國男、折口信夫、白洲正子との交流が語られる。白洲正子は小林を「先生」と呼んで師事し、『両性具有の美』などの著作で小林の影響を受けた。
昭和57年秋、腎機能が低下。昭和58年(1983年)3月1日、鎌倉雪ノ下の自宅で、腎不全のため死去。満80歳。家族に看取られた。
葬儀は3月5日、鎌倉市内で私的に営まれた。墓は鎌倉東慶寺(臨済宗円覚寺派)にある。戒名「秀岳院日秀居士」。生涯の友大岡昇平は追悼で「小林秀雄は批評を文学の一ジャンルにした最初の日本人だった」と書いた。
09主要な出来事と著作
- 東京神田猿楽町に誕生。宝石商の長男
- 第一高等学校仏文科入学、富永太郎らと親交(中原中也との交友は大正14年以後)
- 父豊造の早世、小林家の家運が傾く
- 東京帝大仏文学科入学。指導教授辰野隆
- 長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係、同棲と別離
- 『様々なる意匠』が『改造』懸賞二等入選、批評家デビュー
- ランボー『地獄の一季節』(白水社)を翻訳刊行
- 『文學界』(第二次)同人として中核批評家に
- 『私小説論』を『改造』に発表
- 『ドストエフスキーの生活』連載
- 『無常といふ事』を諸誌に散発発表(1946 創元社刊)
- 『モオツァルト』『中原中也の思ひ出』を発表
- 桑原武夫の第二芸術論争に周辺から関与
- 『ゴッホの手紙』連載
- 鎌倉雪ノ下に定住、死ぬまでここで暮らす
- 『考えるヒント』を『文藝春秋』連載、戦後教養書として広く読まれる
- 『本居宣長』を『新潮』に約11年連載、晩年の大著
- 文化勲章受章(65歳)
- 『本居宣長』単行本刊行
- 『本居宣長』で日本文学大賞受賞
- 3月1日、鎌倉雪ノ下の自宅で腎不全のため死去。享年80
残した思想の輪郭
- 意匠と宿命 ― 流派の「意匠」を剥ぎ、作家固有の生命と対話する批評、『様々なる意匠』の宣言
- 見ること=考えること ― 『本居宣長』に結晶した、観察と思考を一つにする批評の方法
- 『モオツァルト』 ― 「疾走する悲しみ」を生理的・感覚的に肉迫した戦後批評の頂点
- 『ドストエフスキーの生活』 ― 伝記と作品を一つに読む、生命への直接対話としての批評
- 『本居宣長』11年の連載 ― 宣長を鏡に自己を照らす、小林批評の到達点
- 『文學界』と戦後批評の骨格 ― 河上徹太郎・林房雄らと共に昭和批評の中心を作った
つながり
- 本居宣長
継承 — 晩年の主著『本居宣長』で宣長の「物のあはれ」を批評の極北へ
- 夏目漱石
共鳴 — 小林秀雄は生涯漱石を深く読み、『私小説論』(1935)『近代絵画』(1958)等で繰り返し漱石を参照。特に漱石の「自己本位」(『私の個人主義』1915講演)が小林の批評の出発点「様々なる意匠」(1929)と響き合う。日本語で近代的自我を思考することの困難を、小説と批評で表現した二人の系譜
さらに読むならFurther Reading
小林秀雄の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門本居宣長 (上)
小林秀雄 / 新潮文庫
Amazonでこの版を探す →副読考えるヒント
小林秀雄 / 文春文庫
Amazonでこの版を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
さらに辿るならExternal References
小林秀雄を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「小林秀雄(批評家)」項
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸