小林秀雄
見ることと考えることは、 同じだろうか?
『様々なる意匠』でデビューし、晩年の11年を『本居宣長』に注いだ近代日本批評の巨人
- 本居宣長
- 批評
- 様々なる意匠
震災のあとの東京で、作家たちは主義の旗を競い合っていた。 — ひらく
時代の空気
大正末から昭和初期、第一高等学校から東京帝国大学仏文に進み、ボードレール・ヴェルレーヌ・ランボーら象徴詩の翻訳に没頭した世代だった。富永太郎・河上徹太郎・三好達治ら同人圏のなかで、関東大震災後の東京は『文藝春秋』(大正12年創刊)と新感覚派・プロレタリア文学の二極が拮抗していた。昭和4年、『改造』懸賞批評の二等に『様々なる意匠』が入選し、批評家としての足場を得る。戦時下の文学報国会と『無常といふ事』(昭和17-21年)を経て、敗戦と第二芸術論争のあとは鎌倉雪ノ下に居を据え、晩年の11年を『本居宣長』に注いだ。昭和42年文化勲章。昭和58年3月、満80歳で没す。
01山室山、宣長の墓の前で
1976年、雑誌『新潮』で11年続いた連載が終わった。題は『本居宣長』。書いたのは、小林秀雄という批評家である。原稿用紙にして、およそ三千枚に及んだ。連載を始めたとき、彼は63歳だった。
その最後のくだりは、一つの墓の前で結ばれる。山室山の妙楽寺にある、本居宣長の墓だ。宣長は江戸時代の学者で、1801年に世を去っている。小林が生まれる百年以上も前の人である。
小林秀雄は、若いころ、作家がまとう意匠を剥ぐと宣言して世に出た人だった。作家に着せられた流行の衣を引きはがし、その奥の生きた人間と向き合う。そういう批評で、昭和の文学の中心に立った。生きている作家たちと、切り結ぶように書いてきた。
その男が、晩年の力のほとんどを、遠い昔の学者に注いだ。なぜ、死んだ学者の墓の前に立つことが、批評の終着点になったのか。
時は、55年前に戻る。1921年、東京。19歳の少年の家で、父が死んだ。
02崩れた家、19歳の長男
小林秀雄は1902年4月11日、東京の神田猿楽町に生まれた。父の豊造は宝石商だった。ベルギーのアントワープでダイヤモンドの研磨を学び、輸入から研磨まで手がけた。家は裕福で、洋書や絵画に囲まれていた。母の精子は、加賀藩の儒学者(じゅがくしゃ)の家の血を引いていた。
妹が二人いた。上の妹の高見沢潤子は、のちに兄の評伝『兄小林秀雄』を書く。1909年、一家は本郷西片町へ移った。大正のころの小林家は、神田で一番の富裕な商家だった。
その家が、1921年に傾いた。父の事業がうまくいかなくなり、同じ年、父は55歳で早くに世を去った。秀雄は19歳。豊かさに囲まれて育った少年は、家運が崩れる年に、一家の長男となった。
同じ1921年、秀雄は第一高等学校の文科丙類(フランス語の組)に入った。そこでという友を得る。フランスの象徴詩(しょうちょうし)に学んで詩を書く、若い詩人だった。1923年にはを体験した。神田の自宅は倒れずにすんだが、大震災の光景は心に刻まれた。
フランスの詩へ向かう道は、ここから始まった。だがその道の先で彼を待っていたのは、詩ではなく二つの別れだった。
03ランボーと、二つの別れ
1924年、秀雄は東京帝国大学の文学部仏文学科に入学した。指導教授は辰野隆(たつのゆたか)。フランス文学を教える、当時の第一人者である。在学中の1926年から、アルチュール・ランボーの翻訳を始めた。ランボーは十代で詩を書いた、フランスの詩人である。
だが翻訳より先に、痛手が来た。1925年11月、友の富永太郎が病で亡くなった。24歳だった。秀雄の青春に刻まれた、最初の深い傷である。
同じ11月、秀雄は二人の人物と知り合う。詩人のと、女優をめざすだ。中也は18歳、泰子は21歳、秀雄は23歳だった。翌12月、泰子は中也のもとを離れ、秀雄と暮らし始めた。
三人の関係は、それぞれの心に深い疵(きず)を残した。中也の詩にも、秀雄の批評にも、それは長く影を落とす。1928年4月、秀雄は泰子と別れた。この三角関係は、昭和の文壇で伝説になった。しかし当事者たちが自分の口で語るのは、1960年代以降のことである。
友を失い、恋も失った。消耗しきった青年は、しかし翌年、初めて自分の声で世に出る。
04『様々なる意匠』 ― 意匠を剥ぐ
1929年9月、雑誌の懸賞評論で、秀雄の『』が二等に選ばれた。一等は宮本顕治の「『敗北』の文学」、芥川龍之介を論じた文章だった。秀雄は27歳。これが批評家・小林秀雄の出発点である。富永の死と泰子との別れを経て、ようやく自分の声を文字に移す足場ができた。
当時の文壇には、いくつもの旗が立っていた。マルクス主義の文学。感覚を新しくすると唱えた。心の動きを追う心理主義。秀雄は、それらをまとめて「意匠」と呼んだ。意匠とは、着物の柄のことだ。時代が作家に着せる仮面のようなもので、思想でも方法でもない。その柄を剥いだ先にある、作家一人一人の「宿命」だけを見る。彼はそう宣言した。
翌1930年8月、白水社から訳詩集『』を出した。ランボーの『Une Saison en Enfer』の翻訳である。小林秀雄の名で世に出た、最初の一冊だった。日本でのこの本の最初の翻訳の一つでもある。
1933年、秀雄は森喜代美と結婚した。長女の明子が生まれるのは1939年である。同じ1933年、彼は仲間たちと一つの雑誌を立ち上げる。
05『文學界』と、戦争のなかの古典
1933年、文藝春秋社の支援のもと『文學界』(第二次)が創刊された。同人には、林房雄、武田麟太郎らが並び、秀雄もその一人となった。河上徹太郎は音楽と文学の両方を論じる批評家で、生涯の盟友となる。『文學界』は以後、戦前の純文学批評の中心の雑誌となった。
1935年、『改造』に『私小説論』を発表した。志賀直哉や横光利一の作品を手がかりに、日本の小説の「私」を、フランスの自然主義文学と比べて論じた。「我々の社会は、私小説作家たちが思っているほど私的なものではない」。この一文が、戦後の私小説批判の出発点になる。
1939年から40年には、『ドストエフスキーの生活』を『文學界』に連載した。ロシアの作家の手紙、日記、作品を隅々まで読み込む。その人の生命に直接触れようとする、伝記批評である。
やがて戦争が濃くなった。秀雄は文学報国会に名を連ね、『歴史と文学』(1941年)、『当麻(たえま)』(1942年)などを書いた。『当麻』は短い文章で、そこに次の言葉がある。
美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない
1942年から46年にかけて、秀雄は『文學界』『改造』『新潮』に、短い随想を書き続けた。平家物語、西行、実朝、徒然草。日本の古典を読む、静かな文章である。それらは戦後、『無常といふ事』(1946年、創元社)にまとめられた。古典のかすかな美に、身を寄せる文章だった。戦争に協力する言葉と、語らずにいたい何かのあいだで、それは揺れていた。
1942年4月には大陸を取材して『大陸の旅』を書いた。同じ年の11月、第一回大東亜文学者大会にも参加している(国内会場での発言記録がある)。戦後、こうした戦中の行いについて、秀雄自身がはっきり語り直すことはなかった。戦後の座談で「無智」を語った発言は、のちに物議を呼ぶ。
敗戦の翌年、彼は一人の音楽家についての文章を世に出す。数年がかりで書き上げたものだった。
06疾走する悲しみ ― 敗戦のあとで
1946年、『モオツァルト』を雑誌『創元』に発表した。数年がかりで書き上げた短い評論である。モーツァルトの音楽にある「疾走する悲しみ」を、ト短調交響曲40番や『ドン・ジョヴァンニ』を手がかりに追いかけた。頭で分析するのではなく、体で感じるように書いた。秀雄はモーツァルトを聴き続けて30年になる愛好家だった。この文章は戦後の知識人に深い影響を残し、今も批評の古典として読まれている。
同じ年、亡き友をしのぶ短文『』を発表した。長谷川泰子をめぐる青春の傷から二十年。ようやく中也のことを書ける場所に立った。
1946年から47年、がに「第二芸術 ― 現代俳句について」を発表した。桑原はフランス文学者で、短歌や俳句を「第二芸術」と切り捨てた。伝統の詩を守る側が反論し、が起こる。秀雄はこの論争に周辺から関わった。短歌や俳句そのものより、伝統と批評の関係をどう見るか。彼はその地点から距離を取った。
1952年から53年、『ゴッホの手紙』を『新潮』に連載した。画家ゴッホが弟テオに送った手紙の山を、丹念に読み解く長い評論である。狂気の画家の内側を明らかにするために、秀雄は『アルルの跳ね橋』などの絵と、手紙の記述を照らし合わせた。
『モオツァルト』と『ゴッホの手紙』。この二作が戦後の小林批評の頂点であり、晩年の『本居宣長』への助走でもあった。だがその前に、彼は住む場所を変える。
07鎌倉雪ノ下、見ることと考えること
1958年ごろ、秀雄は鎌倉の雪ノ下にある家に移った。以後25年、死ぬまでこの家で暮らす。静かな学者の家で、書架には古今東西の本と、日本の古典が並んだ。散歩が日課だった。朝は鶴岡八幡宮の境内を、夕方は北鎌倉の山裾を歩いた。
1964年から75年にかけて、『文藝春秋』に随筆『考えるヒント』を連載した。歴史、道徳、常識、芸術、国語。話題は多岐にわたるが、姿勢は一つだった。見ること。それが、そのまま考えることである。この本はベストセラーとなり、戦後の教養書として広く読まれた。
見ることは考えることである。物を見ずに物を考えることはできない。
1965年6月、秀雄は『新潮』で新しい連載を始めた。63歳。題は『本居宣長』。それが11年に及ぶ連載になる。
08宣長という鏡 ― ふたたび山室山へ
本居宣長(1730-1801)は江戸中期の国学者である。『古事記』を35年かけて読み解いたと、「」の論で知られる。秀雄はその生涯と仕事を、自分の思考と重ねながら書いた。宣長の古道の論、契沖からの流れ、との師弟と離反、藤井高尚ら弟子たちとの交わり。宣長の学問の全体を、文献学(古い文書を調べる学問)ではなく批評として論じた。
連載の途中、1967年に文化勲章受章。65歳だった。連載は1976年に完結し、翌1977年10月、新潮社から単行本になった。1978年には日本文学大賞を受けた。
秀雄にとって、宣長は自分と向き合う鏡だった。「見ること」と「物のあはれを知る」こと。それは、秀雄自身の批評の原理でもあった。若い日、彼は作家の意匠を剥いで、その奥の生きた人間を見ようとした。晩年の彼は、二百年近く前の学者の文章を、同じように見た。文章の奥にいる人間を、見る。見ることが、そのまま考えることになる。連載の末尾、山室山妙楽寺の墓参のくだりは、その方法の到達点として深い余韻を残す。
晩年の秀雄は、鎌倉の家で静かに暮らした。娘の明子との対談では、柳田國男、折口信夫、との交流が語られる。白洲正子は能や骨董について書く随筆家で、秀雄を「先生」と呼んで師事した。『両性具有の美』などの著作に、その影響が残る。
1982年の秋、腎臓の働きが弱った。1983年3月1日、鎌倉雪ノ下の自宅で腎不全のため死去。80歳。家族に看取られた。葬儀は3月5日、鎌倉市内で私的に営まれた。墓は鎌倉の東慶寺(臨済宗円覚寺派)にある。戒名は「秀岳院日秀居士」。生涯の友のは追悼で、「小林秀雄は批評を文学の一ジャンルにした最初の日本人だった」と書いた。
作家の仮面を剥ぐことから始めた人が、死んだ学者の墓の前で筆を置いた。人の書いたものを、本当に「見る」とはどういうことか。私たちは何かを読むとき、本当にそれを見ているだろうか。
09批評という文学 ― 意匠から宣長まで
『様々なる意匠』は、当時の文壇を席巻していたマルクス主義文学(プロレタリア文学)、新感覚派、心理主義など、各流派を「様々な意匠(イデオロギー)」として相対化し、「意匠を剥いだ先にある作家固有の宿命」を批評の対象に据えた。「意匠」は思想や方法ではなく、それぞれの時代が作家に着せる仮面である ― そう喝破した。批評を学問ではなく、芸術家の生命との直接対話として定義するこの宣言が、以後の昭和批評の枠組みを作った。
『私小説論』(1935年)は、志賀直哉や横光利一らの作品を踏まえて、日本近代小説の「私」と「社会」の関係を、フランス自然主義文学との比較のなかで論じた。「我々の社会は、私小説作家たちが思っているほど私的なものではない」という洞察が、戦後の私小説批判の出発点となる。『ドストエフスキーの生活』(1939-40年)は、ドストエフスキーの伝記と作品を、彼自身の宗教的・精神的危機の中で辿る伝記批評であり、手紙、日記、作品の隅々まで読み込み、「人物の生命に直接触れる批評」を実践した。
戦中の『無常といふ事』に収められた古典随想は、古典の幽(かす)かな美に身を寄せつつ、戦争協力の言説と、語らずにいたい何かのあいだで揺れていた。戦後、文学報国会・『大陸の旅』・第一回大東亜文学者大会をめぐる小林自身の総括は明示的にはなされず、「無智」を語った戦後座談での発言が物議を呼ぶことになる。桑原武夫が『世界』に発表した「第二芸術 ― 現代俳句について」に端を発する第二芸術論争に対しても、小林は短歌・俳句そのものより、伝統と批評の関係をどう見るかという地点から距離を取った。
『モオツァルト』(1946年)は、モーツァルトの「疾走する悲しみ」を、ト短調交響曲40番や『ドン・ジョヴァンニ』を手がかりに、生理的・感覚的に肉迫した短編評論である。『ゴッホの手紙』(1952-53年)は、弟テオへの手紙群を丹念に読み解き、狂気の画家の内面を明らかにしようとする長大な評論で、画家の実作(『アルルの跳ね橋』『星月夜』等)と手紙の記述を照合しつつ論じた。この二作は戦後の小林批評の頂点であり、晩年の『本居宣長』への助走でもあった。
『本居宣長』は、江戸中期の国学者・本居宣長(1730-1801)の生涯と業績、特に『古事記伝』(35年がかりの大著)と「もののあはれ」論を、小林自身の思考と重ねながら論じた大著である。宣長の古道論、契沖との系譜、賀茂真淵との師事と離反、藤井高尚ら門下との交流 ― 宣長学の全体を、文献学ではなく批評として論じた。原稿用紙にしておよそ三千枚、雑誌連載は11年に及んだ。小林秀雄にとって、宣長は自身と向き合う鏡だった。「見ること」と「物のあはれを知る」ことは、小林自身の批評の原理でもあった。『考えるヒント』の「見ること=考えること」の姿勢と、『様々なる意匠』の宿命論は、この一点で結ばれる。大岡昇平の追悼「小林秀雄は批評を文学の一ジャンルにした最初の日本人だった」は、その全体を指している。
10主要な出来事と著作
- 東京神田猿楽町に誕生。宝石商の長男
- 第一高等学校仏文科入学、富永太郎らと親交(中原中也との交友は大正14年以後)
- 父豊造の早世、小林家の家運が傾く
- 東京帝大仏文学科入学。指導教授辰野隆
- 長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係、同棲と別離
- 『様々なる意匠』が『改造』懸賞二等入選、批評家デビュー
- ランボー『地獄の一季節』(白水社)を翻訳刊行
- 『文學界』(第二次)同人として中核批評家に
- 『私小説論』を『改造』に発表
- 『ドストエフスキーの生活』連載
- 『無常といふ事』を諸誌に散発発表(1946 創元社刊)
- 『モオツァルト』『中原中也の思ひ出』を発表
- 桑原武夫の第二芸術論争に周辺から関与
- 『ゴッホの手紙』連載
- 鎌倉雪ノ下に定住、死ぬまでここで暮らす
- 『考えるヒント』を『文藝春秋』連載、戦後教養書として広く読まれる
- 『本居宣長』を『新潮』に約11年連載、晩年の大著
- 文化勲章受章(65歳)
- 『本居宣長』単行本刊行
- 『本居宣長』で日本文学大賞受賞
- 3月1日、鎌倉雪ノ下の自宅で腎不全のため死去。享年80
残した思想の輪郭
- 意匠と宿命 ― 流派の「意匠」を剥ぎ、作家固有の生命と対話する批評、『様々なる意匠』の宣言
- 見ること=考えること ― 『本居宣長』に結晶した、観察と思考を一つにする批評の方法
- 『モオツァルト』 ― 「疾走する悲しみ」を生理的・感覚的に肉迫した戦後批評の頂点
- 『ドストエフスキーの生活』 ― 伝記と作品を一つに読む、生命への直接対話としての批評
- 『本居宣長』11年の連載 ― 宣長を鏡に自己を照らす、小林批評の到達点
- 『文學界』と戦後批評の骨格 ― 河上徹太郎・林房雄らと共に昭和批評の中心を作った
つながり
- 本居宣長
先駆 — 小林秀雄が晩年の主著を丸ごと捧げた相手。「物のあはれ」を掘り当てた人。
- 夏目漱石
共鳴 — 「様々なる意匠」と響き合う「自己本位」。その言葉に至った小説家の生涯。
- 世阿弥
先駆 — 評論「当麻」で論じられた「花」の人。1909年の伝書初公開が、近代批評との出会いを可能にした。
さらに読むならFurther Reading
小林秀雄の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門本居宣長 (上)
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さらに辿るならExternal References
小林秀雄を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「小林秀雄(批評家)」項