和辻哲郎
人は、ひとりで生きているのか。 それとも、人と人の「あいだ」で生きているのか?
姫路の医家に生まれ、漱石門下から京都学派周辺を経て、日本の風土と「間柄」から独自の倫理学を築いた哲学者
- 風土
- 人間の学としての倫理学
- 古寺巡礼
- 京都学派周辺
- 間柄
西洋の学問を学びながら「日本とは何か」を問い、その問いごと戦争にのみ込まれていった時代 — ひらく
時代の空気
明治末から大正・昭和へと近代日本が西洋哲学の受容と国家主義のあいだで揺れた時代だった。一高・東京帝大ではケーベル・井上哲次郎・桑木厳翼が大正教養派を育て、漱石が早稲田南町の漱石山房で木曜会を開いていた。1923年の関東大震災は都市と共同体の脆さを露わにし、1927年に留学先のドイツではハイデガー『存在と時間』第一部が刊行されたばかりで欧州哲学界を震撼させていた。1937年の日中戦争・1941年の太平洋戦争のもと総動員体制が組まれ、敗戦後は新しい平和憲法と丸山真男・大塚久雄らによる戦中思想批判の場へ移っていった。
011942年、戦争のさなかに出た一冊
1942年。日本がアメリカとの戦争に入った翌年である。その年、岩波書店から一冊の本が出た。『倫理学』中巻。著者は和辻哲郎、50代の東京帝国大学教授だった。
この本は、人が生きる「つながり」の段階を描いていた。家族、隣人、そして国。その一番上に「日本国民」を置いた。天皇は、祭りによって人々をひとつにまとめる頂点とされた。
家族より、国が上。この順番は、戦争のために国民全員を動かす体制を、哲学の言葉で正しいとする働きを持った。
ところが、この本を書いた人は、八年前にこう書いていた。
人間は、単なる「ひと」としてあるのでも、単なる「人々」としてあるのでもなく、常に「」としてある
「間柄(あいだがら)」とは、人と人のあいだの関係のことだ。ひとりぼっちの「個人」でもなく、顔のない「集団」でもない。人は、いつも誰かとのあいだで生きている。和辻はそう考えた。
その考えが、なぜ戦争の国を支える理屈になったのか。七年後の1949年、戦争に負けた日本で『倫理学』下巻が出る。そこでは、国を一番上に置く姿勢は明らかに後ろへ下がっていた。その間に、彼の中で何があったのか。
問いは、彼が生まれた町から始まる。時は53年前、1889年に戻る。
02姫路の医者の家に生まれた文学青年
1889年3月1日、和辻哲郎は兵庫県の仁豊野村に生まれた。今の姫路市である。父の瑞太郎は開業医だった。和辻家は代々、村の医者として人々の体を診てきた家である。哲郎は、その次男だった。
少年時代は姫路の町で過ごした。城下町の白い漆喰の壁と、瓦屋根。播州平野のおだやかな気候。そのなかで彼は、日本の古い文学と西洋の哲学の両方に心をひかれていった。
1906年、17歳で第一高等学校(一高)に入る。東京にあった、旧制高校の名門である。ここでの彼は、哲学者というより文学青年だった。同級生の谷崎潤一郎らと1910年に同人誌『新思潮』を作り、詩や短編小説を書いた。
1909年、東京帝国大学の哲学科に進む。(いのうえてつじろう)に東洋の哲学を学んだ。ドイツ哲学は、に学んだ。ケーベルはロシア生まれのドイツ人で、東京帝大で20年近く教えた。静かに学問を愛する人だった。夏目漱石やも、この先生に学んでいる。和辻はケーベルの姿を、生涯の手本とした。
1912年、大学を卒業した。同じ年、故郷に帰っている間に高瀬照と結婚する。照は女子高等師範学校を出た教師だった。生涯にわたって、和辻の学問を支える伴走者となる。翌1913年、24歳で最初の本『ニイチェ研究』を出した。日本で最初のまとまったニーチェ研究書として、学者たちの目に留まった。
そして、この本を読んだ一人の作家がいた。
03漱石の家の木曜日
その作家は夏目漱石だった。『こころ』やで知られる、当時の日本を代表する小説家である。漱石は早稲田南町の自宅、漱石山房で、毎週木曜の夜に人を集めていた。木曜会と呼ばれる集まりである。
1913年ごろから、和辻はこの木曜会に出入りするようになった。集まるのは漱石門下の作家や学者たちである。鈴木三重吉、小宮豊隆、森田草平、寺田寅彦、阿部能成。和辻は、そのなかで最年少の一人だった。漱石は『ニイチェ研究』を読み、「このまま行けば日本の哲学者として大成するだろう」と語ったという。小宮豊隆が、そう回想している。
漱石が和辻に残したものは、「」という言葉だった。1914年、での講演『私の個人主義』で、漱石はこの言葉を語った。西洋のまねをする「他人本位」をやめ、自分の内側の基準に立ち返ること。近代の日本を生きる人の、基本の姿勢である。
けれども、漱石の小説はもっと暗かった。『こころ』『道草』『明暗』の登場人物たちは、自分を持てば持つほど孤独になる。人を信じられなくなる。「自己本位」は、その底に暗い穴を持っていた。
1916年12月、漱石は49歳で死んだ。胃潰瘍による大量の出血だった。和辻は深い衝撃を受け、翌年「夏目先生の追憶」という文章を書く。以後、彼は生涯にわたって漱石について書き続けた。
そして一つの課題が残った。「自己本位」を、人を孤独にしない形で受け取り直すこと。自分を持ちながら、人とのあいだに生きること。これが和辻の一生の仕事になる。ただし、その答えが形になるまで、まだ二十年近くかかる。
04奈良の古い寺で、体で感じたこと
1918年5月、和辻は奈良に行った。一週間、古い寺をめぐる旅である。法隆寺、薬師寺、東大寺、唐招提寺。仏像と建物を見て歩き、西洋の美術と比べながら考えた。
翌1919年、その旅の記録をとして岩波書店から出す。30歳だった。本はすぐに売れ、若者に広く読まれた。阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三の『愛と認識との出発』と並ぶ本になる。これらの書き手はと呼ばれた。この時代の若者の心を育てた、教養を重んじる人々である。
ただ、これはただの美術案内ではなかった。法隆寺の塔の柱は、白い漆喰の上にどう立っているか。奈良盆地の朝の湿った空気のなかで、中宮寺の弥勒菩薩半跏像の微笑みはどう見えるか。和辻は、自分の体と目で感じたことを細かく書いた。文化を、そこで人が生きている環境として描いたのである。
すでに前年の1918年、『偶像再興』で大正教養派の論客として名を上げていた。1920年には『日本古代文化』で、古代日本の暮らしと神話を論じる。同じころ、柳田國男やが民俗学を切り開いていた。ただ、彼らが土地を歩いて調べたのに対し、和辻は文献を読む道を選んだ。
1920年から法政大学・東洋大学で教えた。この間、母を亡くしている。1923年にはが東京を襲った。人の命には限りがある。それを支える家族や町も、もろい。和辻の関心は、しだいに人が生きる意味と倫理へ向かっていく。
奈良の寺で体で感じたこと。それが哲学の方法になるのは、まだ先である。彼はまず、京都へ向かった。
05ベルリンで読んだ一冊、船の上で見た海
1925年、36歳で京都帝国大学の助教授になる。担当は倫理学だった。京都には西田幾多郎とがいた。二人は、と呼ばれる哲学の流れの中心である。和辻は二人と親しくつきあったが、同じ道は歩まなかった。西田の『』に始まる「」や「場所」の深い形而上学には、距離を置いた。彼が向かったのは、もっと具体的な、土地と人のつながりの倫理だった。
1927年、文部省の在外研究員としてドイツに渡る。主にベルリンにいた。この年、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』が出たばかりだった。人はどう在るかを、時間の流れから解き明かした本である。ヨーロッパの哲学界に、大きな衝撃を与えていた。和辻はその場で、すぐに読み込んだ。
彼は感動した。同時に、何かが足りないと強く感じた。ハイデガーは人の在り方を「」から見事に描いた。しかし「空間性」、つまり人がどこに、どんな土地にいるかは十分に語られていない。人はいつも、ある場所の、ある風土のなかにいるはずなのに。
留学は、予定より早く切り上げられた。1928年、和辻は船で帰国する。地中海、アラビア海、インド洋を通る長い航路である。地中海の乾いた空気。アラビアの砂漠。インドの雨季の湿気。そして東アジアの、稲を育てる湿った土地。この対比が、のちの本の種になった。旅の日記は断片しか残っていない。だが和辻自身は、これがの「体験的根拠」だと繰り返し語っている。
ベルリンで感じた足りなさと、船の上で見た海。二つが一つの本になるまで、あと七年。その前に、彼はまず「人間」という言葉を読み直す。
06「人」と「間」──人間という字を読み直す
1934年、『』を岩波書店から出す。同じ年、東京帝国大学の倫理学教授になった。この本は、のちの『倫理学』全3巻の入口として書かれた小さな本である。だが、和辻倫理学の考えの土台が、ここに詰まっている。
出発点は「人間」という漢字だった。「人」に「間」がついている。人と人の「間(あいだ)」。それこそが人間だ、と和辻は読んだ。英語の individual、ドイツ語の Individuum は「これ以上分けられない一つ」を意味する。西洋は個人を、それ以上分けられない粒として考える。和辻はそこに、根本から違う考え方を見た。
「間柄」は、和辻が作った言葉ではない。だが彼は、この日常の言葉を倫理学の鍵にした。人は、ひとりの「ひと」ではない。顔のない「人々」でもない。いつも誰かとの「間柄」として在る。冒頭に掲げた一句は、この本の序論にある。
この考えの手本は、ドイツの哲学者ヘーゲルにあった。ヘーゲルは『法の哲学』で、人が生きる共同体を家族、、国家の三段階で描いた。和辻はその骨組みを、日本の家族、隣人、町内、国民という、具体的な間柄の層に書き直す。
ただし、一つの違いがあった。ヘーゲルは近代の市民社会を重く見た。和辻は家と家族の重みを保ちながら、国家に重心を置いていく。この傾きは、1930年代の後半にはっきりしてくる。冒頭の1942年の本へ続く道は、すでにここに敷かれていた。
07『風土』──土地が人を作る
翌1935年、『風土──人間学的考察』を出す。ベルリンの足りなさと、船の上の海が、ようやく一冊になった。序章で和辻は「風土」をこう定義する──「風土(ふうど)とは、ある土地の気候・気象・地質・地形・景観などの総合である。しかしこれは単なる自然環境ではなく、人間がその中で生きる仕方を規定し、同時に人間によって形成されるものである」。
つまり風土は、ただの自然ではない。人が自然のなかでどう生きるかを決め、同時に人によって作られるものである。自然と人は、切り離せない。
風土は単に自然環境ではなく、人間存在の自己了解の表現である
そのうえで和辻は、世界の風土を三つの型に分けた。モンスーン型は南アジアと東アジア。湿って豊かで、人は自然に身を任せ、みんなで生きる。砂漠型は西アジア。乾いて厳しく、人は自然と戦い、一つの神と固い共同体で立ち向かう。牧場型はヨーロッパ。おだやかで、人は自然を理性で管理する。近代科学はここから生まれた、と彼は考えた。
この分け方は明快で、強い印象を残した。一方で批判も多い。単純すぎる。ヨーロッパを中心に世界を見る見方の、裏返しにすぎない。日本をモンスーン型と決めることで、日本らしさを固定してしまう。それでも『風土』は戦後まで長く読まれ、海外でも翻訳された。
しかし、この本が出た二年後、日本は中国との戦争に入る。土地が人を作るという考えは、「日本」を語る言葉として、別の顔を見せ始めた。
08ふたたび、1942年
1937年、日中戦争が始まる。1941年、太平洋戦争。そのなかで、和辻の政治的な発言は国家主義の色を強めた。国家主義とは、個人より国を上に置く考え方である。
こうして1942年、『倫理学』中巻が出た。家族、隣人、そして「日本国民」。間柄の層は、国民を一番上として積み上げられた。天皇は、祭りによって人々をひとつにまとめる頂点に置かれた。
戦争のあいだ、和辻は多くの文章を書いた。『続日本精神史研究』(1935)、『面とペルソナ』(1937)、『日本精神』(1943)、『アメリカの国民性』(1944)。どれも風土、家族、祭りから「日本」らしさを語るものだった。それらは、大東亜共栄圏という戦争の理念を、文化の面から支える働きを持った。和辻自身は、文学報国会などの戦争協力の団体には正式には加わらなかった。だが、間柄の倫理が戦争の国の倫理に吸い込まれたことは、事実として残った。
ここで、冒頭の問いに戻ろう。なぜ、人と人の「あいだ」を大切にする哲学が、戦争の国を支えたのか。答えの一つは、彼の倫理学の形そのものにある。間柄の層は、家族から国民へと積み上がる。その一番上に国があるなら、国が求めることは、そのまま倫理になる。そして、その積み重ねのなかで、ひとりの人間の自由が立つ場所は小さかった。
人間は、単なる「ひと」としてあるのでも、単なる「人々」としてあるのでもなく、常に「間柄」としてある
1945年、日本は戦争に負けた。和辻は1949年まで東京帝大の教授を続けた。新しい平和憲法のもとで、『倫理学』下巻を書き上げる。下巻では、国を一番上に置く姿勢は明らかに後ろへ下がった。中心は、国と国のあいだの倫理に移る。1950年の『鎖国──日本の悲劇』では、江戸時代の鎖国こそ近代日本のつまずきの遠い原因だと論じた。開かれた世界へ向かう姿勢を、はっきり示したのである。
戦後、らは戦争中の思想を厳しく問い直した。和辻の戦中と戦後は、つながっているのか、切れているのか。彼自身は、そのつながりを十分に説明したとは言えない。この問いは、いまも決着していない。
1952年、上下2巻を完成させる。古事記の神話から仏教、儒教、国学、明治の啓蒙まで。日本の倫理の考え方を、古代から近代まで一本の通史として書き上げた大著である。1949年に日本学士院会員となり、1955年に文化勲章を受けた。
1960年12月26日の早朝、東京・練馬区の自宅で心筋梗塞のため死去した。71歳だった。鎌倉の東慶寺に葬られた。漱石門下の旧友たちの多くは、すでにこの世にいなかった。
人は、誰かとの「あいだ」で生きている。その「あいだ」が家族から国まで積み上がるとき、ひとりの人間はどこに立てばいいのか。和辻が残したのは答えではなく、この問いである。
09思想の骨格──間柄・風土・人倫、そして戦時の翳
ハイデガーと空間性。 『風土』序言で和辻は、ハイデガーが人間存在の構造を時間性として見事に分析した一方で、空間性を十分に展開しなかったことに物足りなさを覚えた、という趣旨を述べる。人間は常に特定の場所と風土のうちに存在するのであり、空間性=風土性こそが時間性と並んで存在構造を規定する、というのが『風土』の基本主張である。『古寺巡礼』における具体的な身体経験と視覚経験の解剖──文化を「生きられた環境」として再構築する記述──は、この方法論の原型をなす。
ヘーゲル人倫の日本的再構築。 「間柄」の倫理学は、ヘーゲル『法の哲学』の人倫(Sittlichkeit)の構造を明確に参照する。ヘーゲルが家族→市民社会→国家という三段階の人倫の展開を描いたのに対し、和辻は同じ構造を日本の家族・隣人・町内・国民という具体的な間柄の層として書き直した。ただしヘーゲルが近代市民社会(ブルジョア社会)を重視したのに対し、和辻は家族と家の重みを保ちつつ国家に重心を置く傾向が1930年代後半に顕著になる。『倫理学』全3巻(上巻1937、中巻1942、下巻1949)は、この間柄論をさらに体系化し風土論と結合させたもので、上巻:人間存在の基礎構造、中巻:家族・隣人・国家の人倫、下巻:国際関係と歴史、という章立てを持つ。戦時中(1942)に中巻が、戦後(1949)に下巻が出版されたことは、本書の評価を分ける要因となる。
風土類型論とその批判。 モンスーン型・砂漠型・牧場型の三類型は明快で印象的だったが、後の批判は多い──単純化、ヨーロッパ中心主義の裏返し、経験的根拠の薄さ、日本=モンスーン型という自己本質化の危険性──などが指摘される。それでも『風土』は戦後まで日本の地理学・社会学・思想史の基礎参考書として読まれ続け、20世紀日本思想の代表作の一つとして国際的にも翻訳された。
京都学派との距離。 京都帝大時代、西田幾多郎・田辺元とは距離を持ちつつも同僚として親しく交流した。しかし和辻自身は京都学派の「絶対無」「場所」の形而上学とは一線を画し、より具体的な風土と共同体の倫理学へ向かった。漱石門下から出発して哲学的体系を築いた唯一の日本近代哲学者として、和辻の占める位置は固有であり、西田京都学派と並ぶ20世紀前半日本哲学の双璧をなし続ける。
漱石の自己本位の読み換え。 漱石が講演『私の個人主義』(1914、学習院)で定式化した「自己本位」は、西洋模倣の「他人本位」から脱して自分の内面的基準に立ち返るという、近代日本の知的実存の基本姿勢である。しかし漱石自身の小説(『こころ』『道草』『明暗』)では、「自己本位」は孤独と他者不信に帰結する暗い底を持った。和辻の一生の思索は、この「自己本位」を個人の孤立に陥らせずに「間柄」の倫理として読み換えるという課題として展開し、『人間の学としての倫理学』の「人間は間柄としてある」という定式の最終的な実装にまで続く連続した仕事だった。1917年の「夏目先生の追憶」から1950年の「漱石の人物」まで続いた回想と評論は、和辻の漱石論の到達点である。
戦時の翳と戦後の再出発。 1942年の『倫理学』中巻は「日本国民」を人倫の最高次として定位し、天皇を祭祀的統合の頂点として位置づける。国家を家族・社会の上位に置くこの序列は、戦時下の総動員体制を哲学的に正当化する効果を持った。戦時中の多数のエッセイ(『続日本精神史研究』1935、『面とペルソナ』1937、『日本精神』1943、『アメリカの国民性』1944など)は、「日本」の独自性を風土・家族・祭祀の観点から論じるが、具体的には大東亜共栄圏思想の文化的裏打ちとして機能する側面があった。和辻自身は特定の戦争協力組織(文学報国会・大東亜文学者大会など)に公式には属さなかったが、間柄の倫理が戦争国家の倫理に吸収された事実は、戦後の丸山真男・大塚久雄・竹内好らからの批判の焦点となり、今日の和辻研究でも避けられない核心論点である。戦後の平和主義的論説は、この戦中期との論理的連続を十分に説明したとは言えず、彼の倫理学そのものが戦争との関係でどう再読されるべきかは、21世紀の現在も未決の課題として残る。『倫理学』下巻(1949)における国際間の倫理への転回、『鎖国──日本の悲劇』(1950、筑摩書房)における開かれた国際社会への志向、そして『日本倫理思想史』上下2巻(1952、岩波書店)──古事記の神話的倫理から仏教倫理、儒教倫理、国学、明治期の啓蒙までを扱い、今日でも日本思想史の教科書的参考書として使われる大著──は、戦後の再出発の姿勢を示す記念碑的著作である。戦中の立場との連続と断絶が、後の評価の分かれ目となる。
思想的遺産の複雑さ。 肯定的側面は──(1)「間柄」「風土」という日本語発想の哲学的昇華、(2)ヘーゲル人倫論の日本的再構築、(3)奈良古寺から始まる具体的な身体経験に基づく文化哲学、(4)日本倫理思想史の通史の確立。批判的側面は──(1)戦時下の国家主義的含意、(2)風土類型論の単純化とヨーロッパ中心主義の反転、(3)個人の自由の位置づけの弱さ──などが繰り返し問われる。
10主要な出来事と著作
- 兵庫県姫路の医家に誕生
- 第一高等学校入学、文芸青年期
- 東京帝国大学文科大学哲学科、ケーベル・井上哲次郎に学ぶ
- 『新思潮』第二次に谷崎潤一郎らと参加
- 東京帝大哲学科卒業、高瀬照と結婚
- 『ニイチェ研究』刊行
- 漱石の木曜会に最年少で出入り
- 『ゼエレン・キェルケゴオル』刊行
- 『偶像再興』刊行、大正教養派の論客に
- 『古寺巡礼』刊行、奈良の古寺紀行
- 法政大学・東洋大学で教える、『日本古代文化』(1920)
- 京都帝国大学助教授、西田・田辺と同僚
- ドイツ留学、ハイデガー『存在と時間』に接し空間性の補完を構想
- 『人間の学としての倫理学』、東京帝大教授就任
- 『風土──人間学的考察』刊行、三類型論
- 『倫理学』全3巻刊行(中巻は戦時下1942、下巻は戦後1949)
- 日本学士院会員に選定
- 『鎖国──日本の悲劇』、晩年の漱石論「漱石の人物」
- 『日本倫理思想史』上下2巻完結
- 文化勲章受章
- 12月26日東京で心筋梗塞により71歳で死去、鎌倉・東慶寺に埋葬
残した思想の輪郭
- 間柄の倫理学 ─ 「人間」を個人でも集団でもなく関係性として規定、「人」と「間」の漢語分析
- 風土の哲学 ─ ハイデガー『存在と時間』の空間性の不足を補完する独自の人間学的立場
- の三類型 ─ 世界風土の類型化、批判も多いが20世紀比較文化論の古典
- ヘーゲル人倫の日本的再構築 ─ 家族・隣人・国家の三段階を日本の間柄構造に翻訳
- 『古寺巡礼』 ─ 大正教養派の代表作、具体的身体経験から始まる文化哲学の方法論
- 漱石の自己本位の倫理学的読み換え ─ 個人の孤立を間柄の倫理として乗り越える生涯の課題
- 京都学派との距離 ─ 西田『善の研究』の絶対無ではなく、具体的な風土と共同体を重視
- 『倫理学』全3巻 ─ 中巻(1942)の戦時性と下巻(1949)の戦後性、一貫と断絶の二重性
- 日本倫理思想史の通史 ─ 『日本倫理思想史』上下2巻(1952)、戦後日本思想史の教科書的骨格
- 戦中の政治的立場の問題 ─ 国家主義的色合いと、戦後の国際志向への移行、今日までの評価論争
- 姫路の風土と奈良の古寺と鎌倉の墓 ─ 日本の具体的場所に身を置き続けた哲学者の生涯
つながり
- 夏目漱石
先駆 — 和辻が最年少で出入りした木曜会の主。その「自己本位」と孤独が、間柄の倫理学の出発点になった。
- ハイデガー
同時代 — フライブルクで和辻が読んだ『存在と時間』。『風土』はその「空間性の看過」への応答から生まれた。
- ヘーゲル
先駆 — 和辻の倫理学が拠り所にした「人倫」の概念は、この人の『法の哲学』から来ている。
さらに読むならFurther Reading
和辻哲郎の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門風土 — 人間学的考察
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生きた跡を辿るPlaces
和辻哲郎が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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