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実践の知

トレゲネ・ハトン

Töregene Khatun·12世紀末頃–1246·モンゴル帝国·

定められた座がないとき、 力は何によって立つのか。

戦利品として与えられ、カアン空位の帝国を四年間、印璽と合意と根回しで統べた摂政皇后

  • 摂政
  • 空位期
  • 正統性
  • 印璽
  • モンゴル帝国

時代の空気

13世紀半ば、地上で最も大きな帝国に、玉座に座る者がいなかった。カアンは急死し、諸王は西征の途上に散らばり、遺言の後継者はまだ幼い。その四年間、帝国の印璽は一人の寡婦の手にあった。草原の帝国は文書で回りはじめていた — 漢語とモンゴル語を並べた勅令が道教の経典の印刷を守り、駅伝が大陸の端から端へ命令を運ぶ。ルーシの大公も、教皇の使節も、彼女の天幕に呼ばれた。歴史は彼女を書き残したが、その物語を史書に編んだのは、すべて彼女の敵だった。

01出発点は、選べなかった

トレゲネ・ハトン(生年不詳-1246)の記録は、彼女が何かを選ぶより前から始まっている。12世紀の末頃に生まれ — 出自は『集史』がウハズ・メルキトと記し、『元史』の氏族名からはナイマン説も立ち、史料のあいだで一致しない — 1204年から翌年頃のチンギス・カンによるメルキト征服で先夫から引き離され、戦利品として、チンギスの子オゴデイに第二夫人として与えられた。『元朝秘史』と『集史』は先夫の名を違えたまま、この大枠では一致している。

のちに帝国全体を統べることになる人物のはじまりが、人格を無視した分配だった。彼女はそこから、モンゴル帝国第二代カアンとなるオゴデイとのあいだに、グユクをはじめ五人の息子を産む。与えられた場所で、何を組み立てられるのか。彼女の生涯は、その問いを極端な縮尺で生きたものに見える。

02摂政になる前に、文書があった

1240年、まだ夫オゴデイの存命中に、皇后トレゲネの名で道蔵どうぞう — 道教の一切経 — の開版を保護する勅令が、漢語とモンゴル語を並べて刻まれた。彼女の名で現存する唯一の文書であり、そのモンゴル語三行は最古級の中期モンゴル語テキストとされる。遊牧の宮廷が、書物の印刷を守ると命じた記録でもある。

つまり摂政就任の二年前、彼女はすでに帝国の文書行政の中枢にいた。空位は二年後に予告なく来るが、この碑文を先に見ておくと、続く四年間の見え方が変わる。空白を統べた力は、空白が生まれてから急ごしらえされたものではなかった。

03空位の帝国を引き受ける

1241年12月、オゴデイが急死する。後継と定められていたとされる孫のシレムンはまだ幼く、諸王は西征の途上に散らばっていた(もっとも、その「遺志」の中身自体が、のちの勝者側による再構成を経ている可能性は残る)。地上で最も大きな帝国に、玉座に座る者がいない。1242年春、トレゲネはチャガタイら長老と諸子の同意を取り付けて摂政に就き、印璽いんじと財庫を握った。正式なカアンではないまま、ヤルリグ(勅令)は彼女の名で発せられ続けた。

彼女はカアンではない。チンギスの血も引かない。それでも四年間、帝国は彼女の印璽で動いた。勝者の側に立つ明の史官でさえ、『元史』の后妃表に「攝國、凡四年」 — 国を摂すること、およそ四年 — と記すほかなかった。定められた座がないとき、力は何によって立つのか。彼女の四年が示すのは、合意の調達、文書機構の掌握、人事、そして時間をかけた根回し — 正統性を「持つ」のではなく「組み立てる」政治である。

イルハン朝の史家ラシードゥッディーンは、彼女を美貌ではなく統率の資質の人と評し、同時に、チンギスの遺訓に従わず王族の長幼の秩序に混乱を投げ込んだと断罪した。敵の筆でさえ力量を消せなかった、とも読める。裏返せば断罪の中身は、遺訓より自分の判断を通した、ということでもある。

04自前の政府という賭け

摂政期の人事は、史書では奸臣の跳梁の物語として書かれている。夫の代の重臣チンカイやマフムード・ヤラワチは追われて逃亡し、ホラーサーン長官コルグズは失脚して処刑された。代わって人アブドゥッラフマーンが華北に登用され、マシュハド出身の捕虜だった女性ファーティマが、腹心として宮廷の実権に参画する。夫の代を支えた耶律楚材は周縁化され、1244年に失意のうちに死んだ。

視点を変えれば、これは既得権層を退けて自前の統治機構を組んだ人事とも読める。ただし、どちらの像も確かめようがない。彼女の物語を編んだ史書は、同時代のペルシア人官僚ジュヴァイニーの『世界征服者史』も、イルハン朝勅撰の『集史』も、明の勅撰の『元史』も、すべて勝者の側のものだから。徴税請負が増収と収奪の両面を持ったことまでは書いてよい。その先の「女傑」の物語も「悪女」の物語も、同じくらい史料から遠い。

確かなのは、空位の四年を運んだ機構が、彼女が自分で選んだ人々で組まれていたことだ。戦利品として与えられることから始まった人が、政権の中枢だけは、与えられたものを使わなかった — とまでは言える。

05黄金のオルド、そのあとで

1246年夏、山あいの平原に黄金の天幕 — シラ・オルドが立つ。(カアン選出の大会議)には、ルーシの大公、グルジアの王子、バグダードの使節、そして教皇の使節まで、4000人を超える人々が集まったと、その場に居合わせた修道士ジョン・オブ・プラノ・カルピニが書き残した。トレゲネが四年かけて支持を固めた長子グユクの即位が、ここで実現する。

そのあとが、短い。即位したグユクは母の側近を退け、ファーティマは妖術のかどで処刑された。トレゲネ自身も、即位からまもなく死ぬ。死因は、どの史料にも書かれていない。四年の到達点が、自分の作った政権による自陣営の解体だったことになる。空白を統べる力は、空白が閉じた瞬間に行き場を失うのかもしれない。それでも帝国の紀年には、彼女の四年が公式に刻まれたまま残った。

06関係性

書架のなかでトレゲネ・ハトンの隣に置けるのは、直接の影響線ではなく、時代と主題の並置で結ばれる人たちである。

ルーミー(同時代)。詩人ルーミー(1207-1273)の一家は、モンゴル軍が破壊する数年前に故郷バルフを離れ、アナトリアへ移った(「モンゴルから逃れた」という古い説明には研究上の異論がある)。トレゲネ摂政期の1243年、キョセ・ダーの敗戦でルーム・セルジューク朝はモンゴルに服属し、ルーミーの住むコンヤの上にも彼女の帝国の影が落ちる。征服の中枢に立った女性と、その圧力の下で詩を深めた人 — 同じ時代の対の星として。

クリスティーヌ・ド・ピザン(共鳴)。一世紀半のちのフランスで、寡婦として筆で生計を立てたクリスティーヌ・ド・ピザンは、『婦女の都』などで女性の統治能力を論じ、寡婦や摂政としての振る舞いを説いた。夫の死後の空白を引き受ける女性という主題の、理論家と実践者。影響の線は引けないが、同じ問いの両側に立つ。

マキアヴェッリ(対比)。正統性なき権力の獲得と維持を技術として理論化したのがマキアヴェッリなら、トレゲネはそれを理論なしに実行した。合意調達、人事、時間をかけた根回し、そして息子による自陣営の粛清という結末まで。書いた者と、生きた者。

そしてファーティマ(伴走)。マシュハドの捕虜からトレゲネの腹心へ — 空位の四年を最も近くで併走し、同時代の史家に独立の一章を立てさせた、もう一人の女性である。彼女がその知恵をどこで身につけたのかは、彼女自身の物語として語られるのがよい。ここではただ、二人が並んで歩いた事実だけを置いておく。

息子の即位を見届けて、まもなく彼女は死んだ。死の状況も、最後に思ったことも、敵の筆はひとことも書き残していない。

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この人が描かれた作品Portrayals

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  • 主人公・題材天幕のジャードゥーガル

    漫画 / 2021 — 作中表記はドレゲネ。オゴデイの妃として登場し、ファーティマとの出会いが物語の軸になる。

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