アイザック・ニュートン
天と地の運動は、 同じ法則に従うのか?
万有引力と運動の三法則で天と地を統合し、近代科学の地平を決定づけた孤高の巨人
- プリンキピア
- 万有引力
- 微積分
時代の空気
ピューリタン革命の渦中、王と議会が銃火を交わすイングランドに生まれた。チャールズ一世は処刑され(1649)、共和政と護国卿政、王政復古(1660)を経て、カトリック国王ジェームズ二世への警戒が宮廷と教会を引き裂いていた。腺ペストとロンドン大火が街を二度殺し(1665-66)、その復興と並行して創立された王立協会が、ガリレオ・ケプラー・デカルトの遺産を継ぐ自然哲学の場となった。非国教徒の圧、暦の混乱、科学革命の高潮——揺れる島国の上で、彼は計算と神学を同時に書き続けた。
01ウールスソープの未熟児、母に捨てられた子
1642年12月25日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では1643年1月4日)、イングランド東部リンカンシャー州ウールスソープ(Woolsthorpe-by-Colsterworth)の小農地主の家に生まれた。生まれたのはガリレオ・ガリレイが死去した年であり、ピューリタン革命の渦中のイングランドだった。
父同名のアイザック・ニュートンは息子の誕生の3ヶ月前に没していた。母ハンナ・エイスコフが産んだアイザックは未熟児で、「1リットルのマグに入るほど小さかった」と後に母は語ったと伝える。生存は危ぶまれた。
3歳のとき、母は再婚して60代の牧師バーナバス・スミスのもとへ去った。幼いアイザックは母方の祖母に預けられた。母に捨てられたという傷は生涯癒えず、12歳のとき「罪の一覧」に「継父と母に対し家に火をつけて焼き殺すと脅したこと」と書き残している。母の再婚で生まれた異父妹弟たちへの複雑な感情も、生涯続いた。
02グランサム・グラマースクール、母の再召還
10歳頃、近隣グランサムのグラマースクール(古典文法学校)に通った。下宿先は薬剤師のクラーク家だった。内向的で級友との衝突もあったが、学業で徐々に頭角を現した。
14歳のとき、継父の死で母が戻ってきて、息子を農夫として家業を継がせようとした。アイザックは羊の世話を放り出して本を読み、水車の小模型を作り、風車模型のなかにネズミを入れて「粉屋」と呼んだ。叔父のウィリアム・エイスコフ(トリニティ・カレッジ出身の地方教区牧師)とグランサム校長ストークスが母を説得し、アイザックは復学を許された。1661年、18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジにサブサイザー(食事給仕などを行う貧学生)として入学した。
03ケンブリッジ、独学の海
トリニティ・カレッジでは、公式カリキュラムはアリストテレス哲学とユークリッド幾何学が中心だった。しかしアイザックはすぐにデカルト『幾何学』、ガリレオ『二大世界体系についての対話』、ケプラー『新天文学』、ウォリス『無限小算術』を独学で読み漁った。1664年、トリニティのスカラー(奨学生)に選ばれた。
アイザック・バロー教授(ルカス教授職初代)が、彼の数学的才能に気づいた。教授の講義と個別指導、そして哲学ノート「ある哲学的な問い」(Quaestiones Quaedam Philosophicae)を通じて、ニュートンは17世紀数学の最前線に到達した。
1665年、ペスト(腺ペスト)がロンドンに広がり、ケンブリッジ大学も休校となった。彼はウールスソープの生家へ戻り、1666年までの約18ヶ月、奇跡の年(annus mirabilis)を過ごす。この一人の書斎で、二項定理の一般化、流率法(微積分の初期形態)、光のプリズム分解(白色光が合成光であることの発見)、の萌芽(月が地球周回軌道に留まる力は地上のリンゴを落とす力と同じ逆二乗則に従うという着想)が、ほぼ同時期に芽生えた。
リンゴの逸話は後年本人がウィリアム・ステュークリに語ったもので、庭のリンゴの木の下に座っているときにリンゴが落ちるのを見て重力の普遍性を思い付いた、と伝える(創作ではなく本人証言だが、劇的な瞬間というより長年の考察の触媒だった)。
04ルカス教授、光学論争、フックとの確執
1667年、ケンブリッジに戻りフェローに選出された。1669年、バロー教授が後任にニュートンを推薦して辞任し、26歳のニュートンはルカス教授職(Lucasian Chair of Mathematics)の第2代保持者となった。この椅子はのちにホーキングが務めることになる。
1671年、自作の反射望遠鏡を王立協会に献上し、翌年会員に選出された。1672年、王立協会の『哲学紀要』に「光と色についての新理論」(A Letter … containing his New Theory about Light and Colors)を発表し、プリズムによる白色光の分解と再結合の実験を報告した。「白色光は単色光の混合であり、色は媒質によって作られるのではなく光自身の性質である」という主張は、当時支配的だったアリストテレス=デカルト的色理論を覆すものだった。
ロバート・フック(王立協会の主席実験官)はこれに真正面から反論した。フックは光の波動説を支持し、ニュートンの粒子説的理解を批判した。ニュートンは過敏に反応し、深く傷ついた。以後フックへの敵意は生涯消えなかった。1675/6年(旧式暦1675年2月5日、グレゴリオ暦1676年2月15日)の有名な書簡「巨人たちの肩の上に立ったから」も、身長の低かったフックを皮肉ったともいわれる(諸説あり)。
05『プリンキピア』1687
1684年8月、天文学者エドモンド・ハレーがケンブリッジを訪れ、「逆二乗の引力のもとで惑星はどんな軌道を描くか」と問うた。ニュートンは即座に「楕円軌道」と答え、それを過去に計算したが原稿を見失った、と答えた。ハレーは驚き、ニュートンに体系的な論文を書くよう強く勧めた。
2年半の執筆ののち、1687年7月5日、『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica、通称プリンキピア)が刊行された。ハレーが私費で出版費用を負担した。三巻構成。
第1巻で(慣性、力=質量×加速度、作用反作用)を公理として提示し、様々な力の下での運動を幾何学的に解析した。第2巻では流体中の運動と、デカルトの渦動説の数学的破綻を示した。第3巻「世界の体系」で、万有引力の法則 ― 宇宙のあらゆる二つの質量は互いに距離の二乗に反比例する力で引き合う ― を用いて、ケプラーの惑星運動の三法則、月の運動、彗星の軌道、潮汐現象を統一的に導出した。
天上の惑星運動と地上のリンゴの落下は、同じ法則に従う。アリストテレス以来の「天と地の二元論」を終わらせ、一つの物理学が誕生した。科学革命の完成である。
刊行と前後する1687年、カトリック国王ジェームズ2世がケンブリッジ大学にベネディクト派修道士の修士号授与を強要したとき、ニュートンは大学側の代表者として拒否を表明した。1688年の名誉革命を経て、1689年、彼はケンブリッジ大学から地区選出議員として召集された議会に送られる。ホイッグの席に座り、目立った演説はしないまま、窓を閉めるよう係員に頼んだことが議事録に唯一残るのみとも伝わる(諸説あり)。
もし遠くを見えたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったからだ。
06錬金術と神学の秘密の書斎
世間は彼を合理的科学の化身と讃えたが、ニュートン自身の書斎の大半は錬金術と神学に費やされていた。20世紀にケインズがサザビーで大量に買い取ったニュートン手稿を解読して、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、魔術師たちの最後の人だった」と書いたことはよく知られる。
彼は賢者の石を探し、水銀を金属の間で変化させる実験を繰り返した。実験室の火は夜中まで消えず、助手ハンフリー・ニュートン(血縁なし)は「先生は夢中になると食事をするのも忘れる」と証言している。水銀蒸気を大量に吸い込んだことが、晩年の神経発作の一因という説もある。
反三位一体論(アリウス派的神学)の膨大な手稿も書いた。キリストは神と一つの実体ではなく、父なる神に従う存在だと論じた。これは英国国教会の公式教義に反する異端で、ケンブリッジのトリニティ・カレッジ(三位一体カレッジ)のフェローが公然と持つことは到底できない信念だった。ニュートンは生涯この思想を密かに抱き、出版しなかった。聖書ダニエル書と黙示録の預言的解釈にも膨大な紙を費やした。
07造幣局長官、ライプニッツ論争、最期
1693年、50歳のニュートンは深刻な神経衰弱に陥った。友人サミュエル・ピープスやジョン・ロックに激しい被害妄想の手紙を送った(後に謝罪)。回復後、彼の関心は学問から公務へ転じた。1696年、王立造幣局の監事(Warden)に任命され、ロンドンに移住した。1699年、長官(Master)に昇進した。
造幣局の職務として、彼は英国貨幣の改鋳事業(大改鋳)を指揮し、偽造犯を自ら追跡した。偽造犯ウィリアム・チャロナーを監事(Warden)時代に変装して追跡し、証拠を積み上げ、1699年3月にタイバーンで絞首刑に処させた(長官昇進は同年クリスマス)。科学者の精密さが犯罪捜査に応用された稀な例である。
1703年、王立協会会長に選出され、死ぬまで会長職を務めた。1704年、フックの死を待ったかのように『光学』(Opticks)を英語で刊行し、と粒子説を改めて公にした。1705年にはアン女王よりナイトの称号を授けられ「サー・アイザック・ニュートン」となった。科学的功績ではなく政治的判断による叙勲とも言われるが、科学者として叙勲された最初期の例である。
同時期、微積分の優先権論争がゴットフリート・ライプニッツとの間で激化した。ニュートンは(1665-66年に発見、未公表)、ライプニッツは微分(1675年頃発見、1684年公表)を独立に発見していたが、ニュートン派は剽窃を告発した。王立協会の調査委員会(実質ニュートン自身が裏で主導)は1712年に『Commercium Epistolicum』としてライプニッツ不利の報告書を出した。この論争はイギリス数学を大陸のライプニッツ流表記から隔絶させ、18世紀のイギリス数学の停滞を招いた。
1713年、『プリンキピア』第2版が刊行され、巻末に「」(General Scholium)が新たに付された。ここで彼は「私は仮説を立てない」(Hypotheses non fingo)の有名な一行を残し、宇宙を秩序づける賢明にして万能の存在としての神を語った。物理法則の背後に神の意志を置くこの注解は、機械論的世界観への批判への応答であり、私的な反三位一体論とは別に、公の場で語った彼の神観だった。
1727年3月20日(ユリウス暦)、ロンドンのケンジントンで膀胱結石の悪化により死去した。84歳。遺体はウェストミンスター寺院に荘厳な国葬で埋葬された。国王ジョージ1世もこれを承認した。墓碑には「このような偉大な人類の誉れがかつて存在したことを喜べ」と刻まれている。
08主要な出来事と著作
- ユリウス暦12月25日、リンカンシャー・ウールスソープで未熟児として誕生(グレゴリオ暦1643年1月4日)
- 母ハンナが再婚、アイザックは祖母のもとに残される
- ケンブリッジ・トリニティ・カレッジに入学(サブサイザーとして)
- トリニティのスカラー(奨学生)に選出
- ペスト休校中に奇跡の年、流率法・光学・万有引力を着想
- ケンブリッジに復帰、トリニティ・フェローに
- 26歳でルカス教授職就任
- 反射望遠鏡を王立協会に献上
- 王立協会会員、『光と色の新理論』発表、フックと論争
- ハレーの訪問、『プリンキピア』執筆開始
- 『プリンキピア』刊行、ハレーが出版費用を負担。ジェームズ2世の大学干渉に拒否で立つ
- ケンブリッジ大学選出議員として議会に召集される(1690年解散まで)
- 深刻な神経衰弱、友人に奇怪な手紙を送る
- 王立造幣局の監事(Warden)としてロンドンへ
- 造幣局長官(Master)に昇進。偽造犯チャロナーを絞首刑に追い込む
- 王立協会会長に選出
- 『光学』(Opticks)刊行
- アン女王によりナイト叙勲、サー・アイザック・ニュートンに
- 王立協会が『Commercium Epistolicum』でライプニッツ不利の調査報告を刊行、微積分優先権論争の転機
- 『プリンキピア』第2版に「一般注解」(General Scholium)を追補、Hypotheses non fingoの一節を残す
- 3月20日(ユリウス暦)、ロンドンで膀胱結石により死去。ウェストミンスター寺院に国葬
残した思想の輪郭
- 運動の三法則 ― 慣性、F=ma、作用反作用、という古典力学の公理群を明示的に定式化した
- 万有引力 ― 宇宙のあらゆる質量は距離の二乗に反比例する力で引き合い、天と地の運動を同じ法則で統一する
- 流率法(微積分) ― 瞬間速度と接線問題を統一的に扱う解析学、ライプニッツと独立に発見した
- 光学の粒子説 ― 白色光は単色光の合成であり、色は光固有の性質で媒質に依存しない
- 錬金術と神学 ― 公表著作の裏で賢者の石探求と反三位一体論の膨大な手稿を書き続けた両義的な知性
- 実験と数学の結合 ― 推論と観測を往復させる方法論で、物理学を『プリンキピア』以後の姿へ決定づけた
出典と確認メモ
7件- 文脈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: newton.mdx Chapter 3 段落: ニュートンの林檎逸話の出典確認 editorial summary ― William Stukeley『Memoirs of Sir Isaac N...
一次資料を開くRoyal Society 公式 Stukeley MS/142 完全電子版 (2010 年公開)。Newton 林檎逸話の primary text: whe...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1676年2月、光学の色収差をめぐってフックと論争中だったニュートンが、和解の意を込めて書いた私信の一節。12世紀のシャルトルのベルナールが既に用いた比喩を引いた表現で、ニュートン自身の独創ではない。...
- 抜粋校訂版で確認済み定本確認済み
定本確認済み: もし遠くを見えたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったからだ。
- 抜粋校訂版で確認済み定本確認済み
定本確認済み: もし遠くを見えたとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったからだ
- 出典原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: newton.mdx pullsource 'ロバート・フックへの書簡(旧式暦1675/6年2月5日、グレゴリオ暦1676年2月15日)' は正確な書誌。ニュートン → フック書簡は当時のイングランド...
一次資料を開くHistorical Society of Pennsylvania 所蔵 Newton-Hooke 書簡 (1675年2月5日 Old Style 付)。原本...
- 引用伝承として記録伝承
伝承: 私は自分が世の人の目にどう映るのか知らない。ただ自分には、真理の大海が目の前に広がっているのに、浜辺でより滑らかな小石や美しい貝殻を拾って遊んでいる少年のように思えるのだ
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 私はまだ重力のこれらの性質の原因を現象から導き出すことができていない、そして私は仮説を立てない(Hypotheses non fingo)
つながり
- デカルト
批判的継承 — 『プリンキピア』(1687)第2巻の流体力学部分と第3巻で、デカルト『哲学原理』(1644)の渦動説(tourbillons)を流体運動の計算に基づいて反駁。一方で機械論的自然観と数学的記述の理想は継承、万有引力を渦の圧力ではなく瞬時的な遠隔力として定式化しニュートン力学を確立
- カント
先駆 — 初期論文『活力の正しい評価』(1746)『天界の一般自然史と理論』(1755)でニュートン力学に基づく太陽系の星雲起源説(カント=ラプラスの星雲説の先駆)を提唱。『純粋理性批判』(1781)ではニュートン自然科学の「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」を問いとして超越論哲学を展開
- アルベルト・アインシュタイン
先駆 — アインシュタイン『特殊相対性理論』(1905)『一般相対性理論』(1915)はニュートン『プリンキピア』(1687)の絶対時空と万有引力を、光速度不変の原理のもとで時空の幾何学的構造として再定式化。『自伝』でニュートンを「実験科学と理論科学を一人で統一した最大の知性」と称賛しつつ、絶対時空の理論的放棄を「ニュートンの思考の牢獄からの脱出」と表現
- ガリレオ・ガリレイ
先駆 — 『プリンキピア』(1687)第1巻「運動の法則」でガリレオ『新科学対話』(1638)の慣性と落体(等加速度運動)の研究を第1法則(慣性の法則)・第2法則(F=ma)として定式化・一般化。1676年フック宛書簡「もし私がより遠くを見ていたとすれば、それは巨人の肩の上に立っていたからです(If I have seen further, it is by standing on the shoulders of Giants)」の巨人の筆頭がガリレオ
- ケプラー
先駆 — ニュートン『プリンキピア』(1687)第1巻・第3巻でケプラーの三法則(楕円軌道・面積速度一定・公転周期の2乗は平均距離の3乗に比例)から万有引力の法則(F = G m₁m₂/r²)を逆算的に導出。ケプラー『新天文学』(1609)『世界の調和』(1619)の経験法則を、単一の力学法則で統合的に説明する科学革命の理論的頂点
- イザムバード・キングダム・ブルネル
先駆 — 父マーク・イザムバード・ブルネル(1769-1849、王立協会会員、テムズ・トンネル設計者)はニュートン力学を実務化した土木技師の第一世代に属し、息子イザムバードは父の現場で微積分・材料力学・構造静力学を実地に学んだ。Clifton 吊り橋(1864年完成、着工1831)・パディントン駅鋳鉄屋根(1854)・Great Western 7ft 広軌の径間設計は、いずれもニュートン力学を実測・実装した19世紀英国工学の頂点。思想史的影響ではなく、工学教育の系譜上の「先駆」
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アイザック・ニュートンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門プリンシピア — 自然哲学の数学的諸原理
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さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「アイザック・ニュートン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Isaac Newton"
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