アルベルト・アインシュタイン
時間と空間は、 本当に絶対なのか?
特殊・一般相対性理論で物理学を塗り替えた特許局の元職員
- 相対性
- 光速不変
- 神はサイコロを振らない
時代の空気
ヴィルヘルム期ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、19世紀末の電気化と原子論勃興の只中で育った。1905年の奇跡の年は特許局の片隅で、1914-18年第一次世界大戦のさなかにベルリンで一般相対性理論を完成。1919年の日食観測が世界的名声をもたらしたのはヴァイマル共和国の混乱期、反ユダヤ主義の高まりとも重なった。1933年1月のナチス政権掌握により米国へ亡命、プリンストン高等研究所で22年を過ごす。1939年ルーズヴェルト宛書簡で原爆開発を促し、戦後はマッカーシズムと核軍拡の中で世界連邦と公民権運動を支持し続けた。
01ウルムのユダヤ人家庭
1879年3月14日、南ドイツ・ヴュルテンベルク王国のウルムに生まれた。父ヘルマンは電気工学の町工場を営み、母パウリーネは音楽を愛する女性だった。一家はすぐにミュンヘンに移住した。父と叔父ヤコブは電気機械工場「J・アインシュタイン&ツィー社」を始め、バイエルン鉄道の入札で当初は成功した。
幼いアルベルトは言葉を発するのが遅く、家族は彼の知的発達を心配した。4、5歳の頃、父が見せてくれた羅針盤に深く感動した ― 「何も触れていないのに針が向きを変える」。物質のないところに力がある。この感覚は後の場の理論への長い旅の出発点になる。
ミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムでのアインシュタインは、ラテン語と数学では優秀だったが、プロイセン的規律に反発する生徒だった。15歳のとき、家族の工場が破産しイタリアへ移住した。アルベルトはミュンヘンに残って学業を終えるよう求められたが、学校を離脱して家族の元へ向かった。イタリアの明るい空気の下で、彼は物理学に没頭し始めた。
02チューリヒ、ミレヴァ、そして特許局
1896年、17歳でドイツ市民権を放棄した(以後5年間無国籍)。スイスのチューリヒ連邦工科大学(ETH)の数学・物理教員養成課程に入学。クラスメートにミレヴァ・マリッチ(セルビア人、クラスで唯一の女性)がいた。二人は恋に落ちた。
1900年に卒業するも、アインシュタインは指導教授ヴェーバーと険悪な関係にあり、他の教授たちにも敬遠され、希望した大学助手の職は得られなかった。2年間の苦しい失業期間の後、1902年、友人の父の斡旋でベルン特許局に三等技術審査官として就職した。年俸3,500スイスフラン。1906年には二等技術審査官に昇格し、1909年にチューリヒ大学へ移るまで、特許出願の合否を判定する仕事を続けた。
1903年、ミレヴァと結婚。1901年から1903年にかけて、結婚前に二人の間に娘リーザールが生まれていたと推定される(養子に出されたとも死亡したとも諸説あるが、詳細は不明)。特許局時代の1904年に長男ハンス・アルベルト誕生。特許局での「退屈な」仕事は、実は彼の思索に理想的だった ― 電気技術特許は電磁場の本質を考える絶好の教材となり、書類を片付けた後の自由時間で、彼は相対性と量子の問題を練り上げた。
03奇跡の年1905
1905年、26歳のアインシュタインは4本の論文を『物理学年報』(Annalen der Physik)に投稿した。後に「Annus Mirabilis(奇跡の年)」と呼ばれることになる(月は投稿・受理時期、掲載は同誌の同年各号)。
- 3月投稿 ― (光電効果の説明)。光はエネルギー量子として不連続に吸収・放出されるという量子論の端緒。
- 5月投稿 ― ブラウン運動の説明。静止液体中に懸濁する微粒子の不規則な動きを、熱運動する分子との衝突で統計的に説明し、原子の実在を実験的に確証する道を開いた。
- 6月投稿 ― (「運動物体の電気力学について」)。光速の不変性と相対性原理から、時間と空間の絶対性を捨て去った。
- 9月投稿 ― (「物体の慣性はその含むエネルギーに依存するか?」)。質量とエネルギーの等価性。
特許局の三等技術者が一年で物理学の土台を揺るがしたこの事実に、ヨーロッパの物理学界は戸惑った。プランクとローレンツの支持が徐々に世論を変えた。1908年、ベルン大学に私講師として招かれ、1909年チューリヒ大学員外教授、1911年プラハ大学教授と昇進し、1914年にはベルリン大学教授兼プロイセン科学アカデミー会員として招聘され、1917年に設立されたカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の初代所長を兼ねた。
04一般相対性理論 ― 10年の格闘
特殊相対性理論は、等速運動する観測者同士の関係だけを扱っていた。加速と重力はどうか ― これがアインシュタインの次の問いだった。「落下するエレベーターの中の人は、重力を感じない」というの着想(1907)から、重力は時空の湾曲として再解釈できるのではないか、と彼は考えた。
以後8年間、彼はリーマン幾何学を学び、旧友マルセル・グロスマンと協力し、方程式を何度も書き直しては破棄した。水星近日点の移動、光の重力による屈曲、といった予言と観測の整合性を試行錯誤した。1915年11月、プロイセン科学アカデミーでの四週連続講演を経て、11月25日に最終形の重力場方程式を発表した。の完成だった。
1919年5月29日、英国の天体観測隊が皆既日食の際に太陽近傍の星光が予言通りに屈曲することを観測した。エディントン率いる西アフリカ・プリンシペ島とダイソンが送り出したブラジル・ソブラルの二地点観測の結果は、同年11月6日の英王立協会・王立天文学会合同会議で公表され、アインシュタインは一夜にして世界的名声を得た。『タイムズ』紙は「科学における革命」と報じた。
量子力学は印象深い。しかし内なる声が、それがまだ本当のものではないと私に告げる。理論は多くを説明するが、実際には古き者の秘密に近づいていない。いずれにせよ、神はサイコロを振らないと私は確信している。
05ノーベル賞、量子論との不和
1921年のノーベル物理学賞は、1922年にアインシュタインに授与された(受賞理由は相対性理論ではなく光電効果の法則 ― 委員会は相対性理論を「論争的」として避けた)。賞金の大部分は離婚したミレヴァへの慰謝料となった(ベルリン移住は1914年、ミレヴァとの離婚と従姉エルザとの再婚は1919年)。
1920年代、量子力学が若い世代の物理学者たち(ハイゼンベルク、ボーア、シュレーディンガー、ボルン)によって建設された。確率的解釈と不確定性原理は、自然界の根源に非決定性を置く解釈だった。アインシュタインは、自身が量子論の創始者の一人でありながら、この確率解釈には最後まで異議を唱えた。「神はサイコロを振らない」として日本で定着しているこの言葉は、1926年12月4日のマックス・ボルン宛書簡に由来する。原文は "Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt"(「ともあれ私は、あの老人[神]がサイコロを振らないと確信している」)であり、宗教的告白ではなく、量子の確率解釈の暫定性を訴える文脈での発言だった。
1930年代のボーア=アインシュタイン論争、1935年のEPR論文(アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン)は、量子力学の完全性を問う思考実験だった。アインシュタインは誤っていたという評価が長らく支配的だったが、クラウザー(1970年代)、アスペ(1980年代)、ツァイリンガーらに至るベルの不等式・量子エンタングルメント実験(2022年ノーベル物理学賞)は、むしろEPRの指摘した奇妙さの存在を実験的に確認した ― ただしアインシュタインが望んだ局所実在論の救済という結論ではなく、彼の提起した問題が深いものだったことを示す形で。
06アメリカ亡命、プリンストン
1933年1月30日、ナチスが政権を掌握した。同年3月、ユダヤ人であり公然の反戦論者であるアインシュタインの別荘はベルリン近郊カプートで捜索され、蔵書と書類は押収された。彼はすでに講演旅行で米国にいた。再びドイツに戻ることは絶対にしない、と決意し、ドイツ国籍とプロイセン科学アカデミー会員籍の放棄を表明した。
(IAS, 1930年設立)に教授として迎えられ、以後22年間、プリンストンで静かな研究生活を送った。1939年、ハンガリー出身の物理学者レオ・シラードの説得を受けて、ルーズヴェルト大統領宛の原爆開発を促す書簡(マンハッタン計画の端緒となる)に署名した。戦後、彼はこれを後悔した ― 「もしドイツが原爆を持たないと知っていたら、私は指を上げなかった」。
戦後は統一場理論の探求(重力と電磁気力の幾何学的統合)に余生を捧げたが、成功しなかった。また世界連邦政府の提唱、ヘブライ大学創設への尽力に代表される文化的シオニズムとユダヤ人の市民権擁護(ただし排他的な民族国家主義には距離を置き、ユダヤ・アラブ共存を望んだ)、1952年のイスラエル大統領就任打診の辞退、公民権運動への支持、マッカーシズム批判 ― 政治的発言を続けた。FBIの盗聴ファイルは彼の死の時点で1,400ページに及んだ。
07プリンストン、最期の計算
1955年4月、76歳のアインシュタインは腹部大動脈瘤の破裂で倒れた。医師は緊急手術を提案したが、彼は拒んだ ― 「人工的に命を引き延ばすのは趣味が悪い。自分の役割は終えた。エレガントに去るべきだ」。
プリンストン病院のベッドで、彼は死の前夜まで統一場理論の計算を紙に走らせていた。イスラエル独立7周年記念演説の草稿も未完のまま机に残っていた。4月18日午前1時15分、看護師が彼のうめきを聞いた ― ドイツ語で何かを呟いたが、彼女はドイツ語を解さなかった。そのまま息を引き取った。76歳。
遺言に従い葬儀は簡素で、遺骸は火葬された。ただし病理解剖にあたった病理医トマス・ハーヴェイが家族の事前同意なしに脳を摘出して長く保存し、後に条件付きで追認を得たが、学術的・倫理的な論争を呼び続けた。遺灰は翌日、デラウェア川に散骨された ― 場所は家族と親友の判断で伏せられた。
08主要な出来事と著作
- ドイツ・ウルムに誕生。ユダヤ系電気技師の家庭
- ドイツ市民権放棄。チューリヒETH入学
- ベルン特許局に就職
- ミレヴァ・マリッチと結婚
- 奇跡の年。4本の論文(光量子・ブラウン運動・特殊相対論・E=mc²)
- ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム研究所長
- 一般相対性理論の最終形を発表
- エディントンの日食観測で光の屈曲を確認、世界的名声
- ノーベル物理学賞(1922年授与、光電効果による)
- ナチス台頭により米国亡命、プリンストン高等研究所へ
- ルーズヴェルト宛の原爆開発促進書簡に署名
- イスラエル大統領就任打診を辞退
- 4月18日、プリンストン病院で腹部大動脈瘤破裂により死去。享年76
残した思想の輪郭
- 特殊相対性理論 ― 光速不変と相対性原理から時間・空間の絶対性を否定
- E=mc² ― 質量とエネルギーの等価性、原子核エネルギーの理論的基盤
- 一般相対性理論 ― 重力を時空の湾曲として幾何学的に再定式化
- 光量子仮説 ― 光を粒子性を持つ量子として扱う量子力学の端緒
- 局所実在論への信念 ― 量子力学の完全性への疑い、EPR論文、隠れた変数理論への期待
出典と確認メモ
6件- 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: einstein-1 context は、Albert Einstein から Max Born への 1926 年 12 月 4 日付私信の解説として正確。「Die Theorie liefert ...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 量子力学は印象深い。しかし内なる声が、それがまだ本当のものではないと私に告げる。理論は多くを説明するが、実際には古き者の秘密に近づいていない。いずれにせよ、神はサイコロを振らないと私は確信している。
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 神はサイコロを振らない
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: einstein.mdx pullsource 'ボルンへの書簡(1926年12月4日)' は Albert Einstein から Max Born 宛 1926年12月4日付書簡を指す attri...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 想像力は知識より大切だ。知識には限りがあるが、想像力は世界を包む
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 神は狡猾だが、悪意はない(Raffiniert ist der Herrgott, aber boshaft ist er nicht)
つながり
- アイザック・ニュートン
先駆 — アインシュタイン『特殊相対性理論』(1905)『一般相対性理論』(1915)はニュートン『プリンキピア』(1687)の絶対時空と万有引力を、光速度不変の原理のもとで時空の幾何学的構造として再定式化。『自伝』でニュートンを「実験科学と理論科学を一人で統一した最大の知性」と称賛しつつ、絶対時空の理論的放棄を「ニュートンの思考の牢獄からの脱出」と表現
- マリ・キュリー
伴走 — 1911年第1回ソルベー会議(ブリュッセル)で初対面以来、二人は生涯にわたる科学的友情を結んだ。アインシュタインは1911年のランジュヴァン事件のスキャンダル渦中にあるキュリーへ「俗論を真に受けて落胆する必要はない」と励ましの書簡を送った(1911-11-23付)。1913年夏にはアインシュタイン家とキュリー家がスイス・アルプスを共に徒歩旅行、量子論と放射能を語り合った。20世紀物理学の二つの革命を別領域で同時代に担った代表的な伴走関係
さらに読むならFurther Reading
アルベルト・アインシュタインの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門アインシュタイン 相対性理論
アインシュタイン / 訳: 内山龍雄 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
アルベルト・アインシュタインが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- アインシュタインハウス(ベルン)住居
ベルン, スイス
1903-1905年、「奇跡の年」に特殊相対性理論を書き上げた居室
- アインシュタイン博物館記念館
ベルン, スイス
ベルン歴史博物館内の常設展。生涯と業績を時代背景と共に網羅する
さらに辿るならExternal References
アルベルト・アインシュタインを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アルベルト・アインシュタイン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Albert Einstein"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Einstein's Philosophy of Science"
公式EnglishThe Collected Papers of Albert Einstein(Princeton University Press)
アインシュタイン全集のデジタル版
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