イザムバード・キングダム・ブルネル
体はもう限界だと分かっていて、 なぜ最後まで船の甲板に立ったのか?
大西洋を一本のレールで結ぶと宣言し、吊り橋・蒸気船・鉄道駅を生涯描き続けた英国の技師
- Great Western Railway
- 大西洋蒸気船
- Clifton 吊り橋
- パディントン駅
- 産業革命インフラ
蒸気と鉄が世界を作り変えていく時代。速さと大きさが、そのまま国の力だった。 — ひらく
時代の空気
英国産業革命の全盛期だった。一八二五年スティーヴンソンのストックトン-ダーリントン鉄道、一八三〇年リヴァプール-マンチェスター鉄道の成功で鉄道狂時代が始まり、一八三七年からヴィクトリア朝に入っていた。ブルネルの七フィート広軌はスティーヴンソンの標準軌と覇権を争い、一八三八年大西洋では Sirius と Great Western が蒸気船最初の競争を演じた。一八五一年水晶宮第一回万博、一八五三-五六年クリミア戦争、一八六五-六六年大西洋海底ケーブル敷設。一方ジョン・ラスキンが機械文明への懐疑を書き始めていた。
01甲板の上で、意識が途切れた
1859 年 9 月 5 日。ロンドンのテムズ川に、巨大な船が浮かんでいた。Great Eastern 号。長さ 211 m、乗客 4,000 人を乗せられる、世界最大の船である。設計したのは、53 歳の技師イザムバード・キングダム・ブルネルだった。
この日、船は最後の試験に入っていた。ブルネルは甲板に立っていた。そして、その場で意識を失った。担架で自宅へ運ばれ、医者は脳卒中と告げた。
彼の体は、とうに限界を超えていた。1840 年代の終わりから、腎臓の結石、肝臓の病、心臓の病を同時に抱えていた。1852 年には療養所で 3 か月を過ごした。1856 年からは息が苦しく、寝室に酸素ガスの装置を置いていた。その体で、彼は船の甲板に立っていた。
船の処女航海は 2 日後の 9 月 7 日。彼はそれを見ることができなかった。10 日後の 9 月 15 日、ロンドンの自宅で息を引き取った。
ここで一つの問いが残る。動けなくなると分かっている体で、なぜ最後まで現場に立ったのか。答えを探すため、時は 31 年前に戻る。場所は、テムズ川の底である。
私はなし得ることをする。ほかにどうしろと言うのか
02テムズ川の底で、水に呑まれる
1828 年 1 月 12 日。ロンドンのテムズ川の下で、世界初の川底トンネルが掘られていた。である。長さ 396 m、川の北岸ワッピングと南岸ロザーハイズを結ぶ計画だった。主任技師は父のマルク・イザムバード・ブルネル。21 歳のイザムバードは、父の右腕(主任補佐)として現場に入っていた。
この日、川の水がトンネルに流れ込んだ。前の年に続く、二度目の大出水だった。イザムバード自身が濁流に呑まれた。6 人の部下を失い、彼はかろうじて助け出された。肋骨を 3 本折り、内臓が破れた疑いで、半年の療養に入った。トンネルは資金が尽きて中断し、貫通するのは 14 年後の 1842 年である。
彼はどうして、この現場にいたのか。父マルクはフランスのノルマンディ生まれの技師だった。フランス革命の混乱から逃れ、ニューヨークを経て 1799 年にロンドンへ渡った。港の海軍工場で滑車を作る機械を作り、英国の工業界で名を上げた。1809 年には王立協会の会員になっている。母ソフィア・キングダムは、ロンドンで父と出会った英国人である。
1806 年 4 月 9 日、二人の息子は南の港町ポーツマスで生まれた。父の名に母の姓 Kingdom を挟み、イザムバード・キングダム・ブルネルと名付けられた。父は早くから、息子を自分の後継ぎと決めていた。4 歳で図形、8 歳でユークリッド(古代ギリシャの幾何学の教科書)、10 歳で製図の練習を始めた。
14 歳でフランスに送られ、カーンとパリの学校で古典を学んだ。翌年、名高い時計職人の工房で、機械製図と精密工作を教わった。ブレゲの死で修業は途切れた。だがフランス流の、図形どおりに寸分たがわず作る精密さは、彼の手に残った。
1825 年、父はテムズ・トンネルの工事を始めた。父が発明した「シールド工法」は、鋳鉄の動く殻で掘り口を守りながら進む方法である。後の世界中の地下鉄トンネルは、この方法から生まれた。19 歳のイザムバードはその現場で、川底の泥と水を相手に働いた。そして 1828 年 1 月、水に呑まれた。半年の療養を終えたとき、彼は 22 歳になっていた。次に彼が向かった先は、水の底ではなく、谷の上の空だった。
03空にかける橋、地を走る鉄道
1829 年、23 歳のイザムバードは、ブリストル市のの設計競技に応募した。エイヴォン川の深い谷に橋をかける計画である。谷の底から 65 m の高さ、塔と塔の間は 214 m。完成すれば、当時世界で最も長い吊り橋になる。
審査員はだった。英国土木工学会の初代会長で、メナイ吊り橋を設計した大御所である。テルフォードは自分の案を通すため、応募案をすべて退けようとした。だが翌 1830 年の二度目の競技で、24 歳のイザムバードの案が正式に選ばれた。塔にエジプト風の飾りをつけた彼のスケッチは、今も残っている。
工事は 1831 年に始まった。しかし同じ年にブリストルで暴動が起き、資金も足りず、何度も止まった。この橋がいつ完成するのか、この時点では誰にも分からなかった。
1833 年、27 歳のブルネルは Great Western Railway(GWR)の主任技師に選ばれた。ロンドンのパディントンとブリストルを結ぶ、全長 118 マイル(約 190 km)の鉄道である。英国の初期の鉄道の中でも、最も重要な路線の一つだった。
彼の選んだレールの幅は、まわりの技師たちを驚かせた。7 フィート 0.25 インチの広軌(broad gauge)。標準軌(4 フィート 8.5 インチ)の 1.5 倍の幅である。理由は「より安定した高速走行、より広い客車・貨車、より大きな機関車」だった。1838 年 6 月 4 日、ロンドンからメーデンヘッドまでの営業が始まった。1841 年 6 月 30 日にはブリストルまで全線がつながった。
途中には、世界最大の煉瓦アーチ橋メーデンヘッド橋(1838)がある。7 年かけて掘った長さ 2.9 km の(1841)がある。チップナム駅と、ブリストルのテンプル・ミーズ駅(1840)がある。線路はブリストルで終わる。ところがブルネルの頭の中では、レールはそこで終わっていなかった。
04レールを海の上へ
1836 年、GWR の取締役会で、30 歳のブルネルはこう言ったと伝わる。「鉄道はブリストルでは終わらない。そこから蒸気船でニューヨークまでレールを延ばす」。翌 1837 年、子会社の Great Western Steamship Company ができた。大西洋を渡る三隻の蒸気船の計画が動き出す。
一隻目は Great Western 号。1837 年に進水し、1838 年 4 月 8 日に初めて海へ出た。木の船体に、横の大きな水車(外輪)で進む船である(長さ 72 m、排水量 2,300 t)。当時世界最大の蒸気船だった。途中で港に寄らず、15 日間で大西洋を渡り切った。燃料にはまだ余裕があった。この船は 18 年間で 64 回、大西洋を渡る。
二隻目が Great Britain 号である。1843 年に進水し、1845 年 7 月 26 日に最初の航海に出た(長さ 98 m、排水量 3,700 t)。ブルネルはこの船で、三つの新しいことを同時にやった。船体を木ではなく鉄製にした。外輪ではなくスクリューで進ませた。そして大きさを、当時の常識の 2 倍にした。鉄の船体、スクリュー、大型化。この三つを一度にそなえた大洋横断蒸気船は、世界で初めてだった。
1846 年、船はアイルランド沖で岸に乗り上げた。ブルネルは丸 1 年かけて船を引き出し、直させた。船は 1852 年からオーストラリアへの移民航路(リヴァプール=メルボルン)に移った。1872 年までの 30 年間で、32 回世界を一周する。今はブリストルの港に係留され、博物館船として保存されている。英国の産業史家は「人類史上もっとも重要な船」と呼ぶ。
同じ 1846 年、陸では別の決着がついていた。ゲージ法(Railway Gauge Act)により、標準軌が事実上、国の決まりになった。広軌は性能では優れていた。だが他社の標準軌の線路と乗り入れができない。GWR の広軌は 1892 年 5 月まで走り続けた。最後は一夜で全線を標準軌に変える大工事で幕を閉じる。ブルネルの賭けは負けた。だが彼の作った路盤と駅と橋は、今も標準軌の列車を支えている。
海で勝ち、陸で負けた。彼が次に向かったのは、ロンドンの駅の屋根だった。
05鉄の大聖堂と、六日間で描いた病院
GWR のロンドン側の終点が、パディントン駅である。1854 年に開業した。設計はブルネル、建築家マシュー・ディグビー・ワイアットと組んだ。屋根は鋳鉄と錬鉄のアーチが三列(径間 20.7 m・14.9 m・21.3 m)、長さ 213 m。1851 年の第一回万博で建てられたクリスタル・パレス(ガラスと鉄の巨大な建物)から、強い影響を受けている。
駅の屋根は、ただ働くための空間である。そこに彼は、光と鉄の骨組みで大聖堂のような荘厳さを与えた。内装の飾りもワイアットに任せず、自分で描いた。運転席からプラットホームへ人が歩く線まで、すべて自分で製図した。19 世紀の鉄骨建築の頂点と呼ばれるのは、このためである。
橋も次々にできた。テムズ川のハンガーフォード吊り橋(1845)。ワイ川のチェプストウ鉄道橋(1852)。ブリストルのテンプル・ミーズ駅(1840)は、中世の館のような木の屋根を持つ。そして 1855 年、戦争が彼のもとに来た。
(1853-56)の前線の病院では、赤痢と腸チフスで兵士が次々に死んでいた。スクタリの英軍病院では、が看護の改革を始めていた。だが医師と建物の数が、まるで足りなかった。陸軍省はブルネルに「すぐ運べて、すぐ組み立てられる病棟」を頼んだ。彼は 6 日で設計を仕上げた。である。
木の部品をあらかじめ作り、船でダーダネルス海峡の向こう岸へ運び、現地で組み立てる。衛生、換気、上下水道を最初から組み込んだ 1,000 床の病棟だった。死亡率はスクタリの 42% から 3% に下がったと報告される。彼が生涯にただ一度関わった医療の建物であり、後の野戦病院や移動式病棟の原型になった。
1859 年 5 月 2 日。コーンウォールのタマー川に、が開通した。彼の最後の完成作である。渡り初めの列車に、彼も乗っていた。ただし、車椅子に座って。この体で、彼は 4 か月後に船の甲板へ向かう。
06甲板へ、もう一度
彼はなぜ、ここまで働いたのか。息子のイザムバード・ブルネル 2 世は、1870 年の伝記『父の生涯と業績』にこう書く ― 「一日 20 本の葉巻、週 4 日の徹夜、馬車の中で眠り、食事を製図板の上で済ます」。葉巻と徹夜は、彼の仕事のやり方そのものだった。
1840 年代の終わりから、体はいくつも同時に壊れ始めた。腎臓結石、肝不全、心臓の病。1852 年、ブライトンの療養所で 3 か月。1856 年からは息が苦しく、寝室に酸素ガスを常に置いた。そのあいだも、彼は三隻目の船を作っていた。
Great Eastern 号。1858 年に進水した。長さ 211 m、排水量 32,160 t、乗客 4,000 人。外輪とスクリューの両方で進み、港に寄らずに英国とオーストラリアを往復できる。この船より大きな船は、1899 年の Oceanic 号まで 43 年間、現れなかった。
そして 1859 年 9 月 5 日、最後の試験の甲板に戻る。彼は倒れ、担架で家に運ばれた。脳卒中だった。9 月 7 日、船は彼のいないまま処女航海に出た。9 月 15 日、ロンドン・ウェストミンスターのダッチェス街 18 番地の自邸で、彼は息を引き取った。53 歳。ケンサル・グリーン墓地の家族の区画に葬られた。墓碑はきわめて簡素で、「イザムバード・キングダム・ブルネル、技師、1806-1859」とだけ刻まれている。
冒頭の問いに戻る。倒れると分かっている体で、なぜ甲板に立ったのか。テムズの川底で水に呑まれた 21 歳。谷に橋をかけた 24 歳。レールを海の上へ延ばした 30 歳。彼は一度も、途中で降りていない。父に宛てたと伝わる言葉が、一つある。
私はなし得ることをする。ほかにどうしろと言うのか。
07分かれた評価 ― 賭けの男か、産業革命の象徴か
Great Eastern 号は商業的には大失敗だった(燃料補給港の不足、過大な乗客定員)。しかし 1866 年、の敷設船として英米を結び、19 世紀通信革命の実体を担った。解体後の部材はグリニッジに残る。
クリフトン吊り橋は、ブルネルが 24 歳で設計しながら生前に完成を見ずに没した。1864 年 12 月 8 日、没後 5 年、同業の友人技師 W.H. Barlow(セント・パンクラス駅屋根の設計者)と John Hawkshaw(エイヴォンマス港設計者)が遺稿を引き取り完成させた。吊り鎖はハンガーフォード吊り橋の解体材が再利用された。開通式では、没した設計者の名が何度も呼ばれた。
同時代の評価は二分されていた。一方では、GWR 広軌の敗北、Great Eastern 商業的失敗、Clifton 吊り橋の長期未完成など、「大き過ぎる賭けを繰り返す男」という批判があった。他方では、鉄道・蒸気船・駅舎・橋梁・トンネルという産業革命インフラの全領域で同時に第一線の仕事を続けた 産業革命の人的象徴 としての賞賛があった。
21 世紀の再評価は後者に大きく傾いている。2002 年 BBC「100 Greatest Britons」投票で 第 2 位(チャーチルに次ぐ)に選ばれた。Great Britain 号はブリストル、Great Eastern 号(解体部材)はグリニッジ、Clifton 吊り橋はブリストル、Paddington 駅はロンドン ― いずれも現役の、あるいは博物館として保存された 19 世紀インフラとして、現代人の生活と観光の中にある。彼の仕事は書物ではなく、鉄と煉瓦と煤と機関車の音として、英国の地に刻まれ続けている。
彼は「なし得ること」をした。では、その「なし得ること」の広さを決めたのは、彼の体だったのか、それとも彼の時代だったのか。橋を渡り、駅の屋根を見上げるとき、あなたはどちらを思うだろうか。
08主要な出来事と著作
- 4月9日、イングランド南岸ポーツマス・ブリテン街で誕生。父マルクはノルマンディ出身の亡命技師
- フランスのカーン・リセ、パリのコレージュ・アンリ4世、ブレゲ工房で機械製図修業
- 父マークのテムズ・トンネル事業に主任補佐として参加
- 1月12日、テムズ・トンネル第二次出水事故で生死の境を経験、6人の部下を失う
- 24歳、Clifton吊り橋設計競技で最終的に採用される
- 27歳、Great Western Railway主任技師に就任、7ft広軌を選択
- GWRロンドン=メーデンヘッド間定期運行開始、Great Western号が大西洋横断無寄港成功
- GWRブリストル全通、ボックス・トンネル(2.9km)7年の掘削完成
- Great Britain号進水(世界初の鉄製・スクリュー推進・大洋横断蒸気船)
- ゲージ法で標準軌が国策化、広軌の将来を事実上奪う
- Paddington駅開業(鋳鉄・錬鉄アーチ屋根、径間20.7m)
- クリミア戦争のためレンキオイ病院をプレハブ式で設計、死亡率42%→3%へ
- Great Eastern号進水(長さ211m、以後43年間最大船)
- 5月2日Royal Albert Bridge渡り初め式(車椅子参加)、9月5日Great Eastern船上で脳卒中、9月15日ロンドン自宅で死去、53歳
- 没後5年、Clifton吊り橋がBarlow・Hawkshawにより完成
- 5月20日、GWR広軌が一夜で標準軌へ改軌、ブルネルの工学的賭けの象徴的終幕
残した仕事の輪郭
- Great Western Railway ― ロンドン=ブリストル間の 7ft 広軌鉄道、1833-41 年の路盤と駅舎は標準軌で今も現役
- 大西洋蒸気船三隻(Great Western / Great Britain / Great Eastern)― 木造外輪から鉄製スクリュー、そして 211m の巨船まで、蒸気船史を一人で 20 年引き上げた
- Clifton 吊り橋(1830-1864)― 24 歳の設計、没後 5 年後の完成、ブリストルの永続的象徴
- Paddington 駅鋳鉄屋根(1854)― ワイアットとの協働による 19 世紀鉄骨建築の頂点、現在も現役
- Royal Albert Bridge(1859)― タマー川を渡るコーンウォール鉄道橋、彼の最後の完成作
- シールド工法の実地化 ― 父マークのテムズ・トンネル現場での施工経験は、以後のあらゆる地下鉄道工事の原型となる
- 産業革命インフラの人的象徴 ― 鉄道・蒸気船・橋梁・駅舎・トンネルを同時に第一線で推進した 19 世紀英国の代名詞
つながり
- アイザック・ニュートン
先駆 — ブルネルの吊り橋も駅の鉄屋根も、その実測と実装の底にはこの人の力学があった。
- ギュスターヴ・エッフェル
伴走 — ブルネル世代の錬鉄の語彙を受け取り、半世紀後に橋と塔として立てたフランスの技師。
- イムホテプ
先駆 — 切石の恒久建築へ最初に跳んだ人。鉄の橋と駅は、その長い系譜の19世紀的到達点にある。
生きた跡を辿るPlaces
イザムバード・キングダム・ブルネルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ブルネルのSSグレート・ブリテン号記念館
ブリストル, イギリス
1843年進水の世界初の鉄製スクリュー推進蒸気船。復元ドック博物館併設の「Being Brunel」は技師の書簡・日記・製図具を展示
- ケンサル・グリーン墓地 ブルネル家墓所墓所
ロンドン, イギリス
1859年没、父マルク・イザムバル・ブルネルと同じ家族墓に眠る(区画41, Grave 8590)
さらに辿るならExternal References
イザムバード・キングダム・ブルネルを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「イザムバード・キングダム・ブルネル」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Isambard Kingdom Brunel"
公式EnglishThe Brunel Museum(ロンドン)公式サイト
テムズ・トンネルに隣接するブルネル記念館