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I
風土の知恵

イムホテプ

Imhotep·BC2650頃–2600頃·古代エジプト·

本を一冊も残さなかった人の知恵は、 なぜ二千年ものあいだ消えなかったのか?

古王国エジプト第3王朝、ジェセル王の宰相として人類最古の石造大建築・階段ピラミッドを構想し、のちに医神として神格化された平民出身の知恵者

  • 階段ピラミッド
  • サッカラ
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  • 古王国第3王朝
  • 医学
  • 神格化
王の墓はまだ土のれんがで作られていた。石で永遠を建てるという考えは、まだ誰の頭にもなかった時代 — ひらく

時代の空気

古王国第3王朝、ジェセル王(ネチェリケト)の治世。首都メンフィスを拠点に、ナイル川は上下エジプト統一後の安定期に入っていた。日干し煉瓦と木の架構しか知らなかった王墓建築が、切石の大建築へと跳ね上がろうとする端境にあった。書記の家・彫刻の家・建築の家が神官官僚の制度として整い、ヘリオポリスの太陽神ラーへの信仰が高まりつつあった。ピラミッド・テキストが王の墓室に書かれ始めるのはこの後であり、後の第26王朝サイト復興期やプトレマイオス朝で、この時代の名匠が医神として神格化されることをまだ誰も知らない。

01王の足元に刻まれた、もう一つの名

サッカラ。ナイル川の西、砂漠のふちに広がる墓地である。その入口の近くに、小さな石の台座がある。もとは王の彫像が立っていた、その足元の石だ。そこに、一行の文が刻まれている。

「、下エジプト王の財務長官・建築家の長イムホテプ」。王の名のとなりに、家来の名がある。王の名は特別なものだった。家来の名を同じ石に並べることは、古王国の礼法としては破格である。

けれども、この文は刻まれた。王自身が、それを認めたのである。名を刻まれた男は、王の家の生まれではない。工匠(こうしょう)の子だと伝えられる、平民だった。なぜ平民の名が、王の足元に残されたのか。

その男は、本を一冊も残していない。それでも彼の名は、二千年以上のあいだ呼ばれ続けた。時を巻き戻す。ジェセル王が王座についたばかりの、紀元前2670年ごろへ。

02工匠の子、王のとなりへ

イムホテプは、紀元前27世紀に生まれたと伝えられる。場所はナイル下流、メンフィスの近くだった。父はカネフェル(Kanefer)。「神の建築家」を名乗る工匠の一人だったという。母はケレドゥアンク(Khereduankh)。後の世に「神の母」として祭られる女性だった。これらは、ずっと後の神殿の碑文が伝えることである。

ただし、注意がいる。「工匠の父を持つ」という話は、彼が神になった後に語られたものだ。王族とは違う生まれだと、たたえるための枠でもある。だから本当の出自は、はっきりとは分からない。確かなのは一つ。彼は王家の血を引かず、それでも宰相さいしょう(チャティ)の位についた。古王国のエジプトでは、めったにないことだった。

主人は第3王朝の二代目、ジェセル王(ネチェリケト)である。即位は紀元前2670年ごろと考えられる(学派により前後30年の幅がある)。そのころのエジプトは、まだ「初期王朝」の名残の中にあった。王の墓は、日干しれんがので作られていた。マスタバとは、長方形で平らな屋根をもつ、台のような墓のことだ。土と木と石の境目で、技術がゆれている時期だった。

彼の肩書は、サッカラ南壁の碑文に並んでいる。ジェセル王の葬祭複合体、その南の境をなす石灰岩の壁に刻まれたものだ。「下エジプト王の財務長官、上エジプト王に次ぐ第一の者(宰相、チャティに相当)、宮殿の大長官、世襲の貴族、、イムホテプは建てる者、彫る者、石の壺の作り手」。Treasurer of the King of Lower Egypt / First after the King of Upper Egypt / Administrator of the Great Palace / Hereditary Lord / High Priest of Heliopolis / Imhotep the builder, the sculptor, the maker of stone vases ― 行政と祭りと工芸を、一人で束ねる肩書である。この「」の集まりは、古王国でも後の時代でも、ほとんど例がない。

王を助ける立場でありながら、神への祭りと、書記の制度と、石工の工房を一人で見ていた。ヘリオポリスは、太陽神ラーの町である。彼はその大神官(だいしんかん)でもあった。この男に、王は何を建てさせたのか。

03六つのマスタバを積み上げる

イムホテプの最も大きな仕事は、サッカラにある。メンフィスの対岸に、ジェセル王のための墓を築いた。今、(Step Pyramid)と呼ばれる建物である。高さはおよそ60メートル。六段に重なる、石灰岩の山だ。底辺は、およそ121メートルかける109メートルある。

周りを、長い壁がぐるりと囲む。およそ545メートルかける278メートルの、葬祭そうさい複合体だ。中には王の儀式を石で写した祭殿、北の祠堂しどう、円柱の並ぶ廊下がある。の中庭も、石で作り直されている。ヘブ・セド祭とは、王の力をよみがえらせる祭りだ。建造は、紀元前2660年から2640年ごろと考えられる。

この建物が他のどの墓とも違うのは、考え方そのものだ。それまでのマスタバを、一つではなく六つ積み重ねた。日干しれんがではなく、切った石で積んだ。石で大きな建物を作った例として、人類史の最初期に数えられる。建築史の教科書は、しばしばここを「世界最古の石造記念碑」と呼ぶ。あるいは「石造建築の誕生の瞬間」と。

ただし、完成した図を一気に立てたのではない。発掘の研究、とくにジャン=フィリップ・ロエールの長い調査が示すことがある。最初は、ふつうのマスタバとして始まった。途中で台を広げ、さらに上に段を積んだ。そうして最後に、六段のピラミッドへと変わっていった。石の重さと地面の力を、作りながら学んでいったのだと読める。

柱にも工夫がある。パピルスやハスの茎を束ねた形を、石に写した円柱だ。後のエジプトの神殿、さらにギリシアのドーリス式の柱にまで影響が及んだ、と建築史は語ってきた。ただし直系の継承というより、遠い親戚のようなつながりとしてである。敷地の西側には南墓(South Tomb)がある。王の二つ目の墓で、地下には青いタイルを張りつめた、宮殿を写した部屋がある。壁の浮彫うきぼりは、ジェセル王を若い走者として刻む。ヘブ・セド祭で王の力を永遠に新しくする、その儀式を石に閉じこめたのだ。北の祠堂は、王のカー(分身としての魂)を拝む小さな石室である。

石を積む男は、しかし、建てることだけの人ではなかった。

04書かれなかった医学の書

イムホテプは、しばしば「医学の父」と呼ばれる。だが、彼が医学の本を書いたという直接の証拠は、まだ出ていない。手がかりとされるのが、だ。今ある写本は紀元前17〜16世紀ごろ、第二中間期に書き写されたと考えられる。ただ、文体や言葉が古い。内容は古王国の時代までさかのぼる可能性がある、と議論されている。

この書は、けがを体系的に分類する。「観察 → 診断 → 予後よご」という三つの段で、48の症例を並べる。予後とは、この先どうなるかの見通しのことだ。「治療できる」「抗して治療すべき」「治療できない」の三つに分ける。呪(まじな)いにほとんど頼らない、冷静な記述である。しかし、このパピルスのどこにも、イムホテプの名は書かれていない。彼の作だという話は、後の世の言い伝えによる。

もう一つの医学書、がある。紀元前1550年ごろ、新王国の写本だ。その処方の一部が「イムホテプの作」と語り継がれた、という説が古くからある。だが本文に彼の署名はない。研究者の間で、真偽は今も決着していない。

だから、これは「イムホテプがこの本を書いた」という強い主張ではない。けがの治し方や薬の処方を、体系として残す。その営みが、サッカラの書物の家の監督だったこの人に結びつけられた。そういう、敬意の運動なのである。診断と予後という枠組みは、呪文ではなく観察の積み重ねから組まれている。そこに、後の人々は彼の名を重ねた。

星についても、同じことが言える。サッカラの葬祭複合体は、東西南北の向きがとても正確だ。誤差は、わずか1度ほどしかない。夜空を見る熟達した人がいないと、これは成り立たない。星の南中なんちゅうを基準に、東西の線を決める。その古い作法を担ったのは、イムホテプ自身か、ヘリオポリスの神官団だと考えられている。太陽神ラーの祭りと暦の管理は、ヘリオポリス神殿の中心の仕事だった。

彼は本を残さなかった。あるいは残しても、ナイルの湿気と歳月が消したのかもしれない。それでも、手順と図面と制度に書かれた知恵は残った。サッカラの石そのものが、本と同じくらい長もちする記録の器だった。では、石に書かれた知恵は、人の記憶の中でどうなっていったのか。

05一滴の水 ― 没後の神格化

古王国の位の高い人は、死んだ後に祭られることはある。だが、神そのものになることは、めったにない。イムホテプの特別さは、死後およそ1400年かけて、少しずつ位が上がり続けた点にある。

第一の段階は、新王国、とくに第19王朝以降(紀元前13世紀以降)だ。彼は学問と書記を守る者、癒(いや)しの賢者として、書記の祠ほこらに祭られ始める。パピルスの書記は、仕事を始める前にイムホテプへ一滴の水を注いだという。これは書記の祈りの決まり文句として、複数のオストラコン(陶片)に確かめられる。(いしんか)がはっきり制度に現れるのは、この第19王朝以降である。

第二の段階は、(紀元前7〜6世紀)である。古王国の伝統を意識して復興する政策の中で、彼はメンフィスの主神プタハの子とされた。半神の位である。プタハはメンフィスの工匠の神であり、世界を作った神でもある。「口で名を呼ぶことによって世界を存在せしめる」神だ。その子とされたことで、イムホテプは「人の手による創造」の象徴になった。第26王朝(サイト復興期)のサッカラには、彼を祭る小さな祠堂群が新しく建てられた。

第三の段階は、プトレマイオス朝(紀元前4〜1世紀)である。とくにプトレマイオス5世エピファネス(在位 紀元前204〜180年ごろ)のころ、ついに独立した神になる。メンフィスには、が立った。後に Asklepieion of Memphis と呼ばれる、中心の聖域だ。サッカラの聖域(セラペウム近くの地下構造を含む)にも祠堂が設けられた。テーベ西岸のデイル・エル=バハリでは、賢者と並んで祭られた。フィラエ島の神殿群にも、祠堂がある。

これらの神殿には、病の人々が癒しを求めてこもった。夢の中で神のお告げを受け、治ったと感謝の石板を納める。夢参籠(むさんろう、インキュバティオ)と呼ばれる習慣だ。納められた碑文には、膝、腕、目など、治った部位をかたどった品が添えられた。ギリシアのアスクレピオス神殿で知られる、テラコッタの奉納物と同じ習慣である。

「平民から神へ」。エジプトで確かめられる例は、イムホテプとアメンホテプ・サー・ハプの二人だけだ。二人とも、書記・建築・癒しという「人の営みの積み重ね」の象徴として神に昇った。生まれではなく、行いによって神に近づけられた。とてもまれな道である。そこへ、海の向こうから新しい人々がやってきた。

人々の父、プタハ神の子、イムホテプ ― 書物の家の書記、建てる者、癒す者。

— 没後およそ1400年、プトレマイオス朝期サッカラ・イムホテプ神殿および後代祝詞に繰り返し現れる定型的敬称群の日本語再構成(底本として D. Wildung, Imhotep und Amenhotep, 1977 所収の諸碑文引用を参照)。単一碑文の逐語訳ではない

06二つの名で呼ばれた神殿

紀元前332年、アレクサンドロス大王がエジプトを征服した。以後、プトレマイオス朝(紀元前305〜30年)のもとで、エジプトとギリシアの世界は深く混ざり合う。ギリシア人には、よその神々を自分の神話に重ねる習慣があった。(ギリシア風の読みかえ)である。その中で、イムホテプはギリシアの医神いしんアスクレピオスと同一視された。

このは、いくつかの点で自然だった。どちらも死すべき人として生まれ、死後に神へ昇った。どちらも癒しの神殿を持ち、夢参籠の儀式を営む。どちらも書記や医師を守る神である。プトレマイオス朝のサッカラ、セラペウムの近くには、(イムホテプ神殿)があった。エジプトの神官とギリシア人の巡礼者、その両方が通う場所だ。同じ建物で、同じ病が、二つの名のもとで癒しを願われた。

この重なりには、もう少し深い意味がある。「ギリシア人がエジプトの神を借りた」だけでは足りない。書いて残された医学、つまりヒポクラテス派の流れがある。書かずに手順と制度で残された医学、つまりスミス・パピルスの流れがある。その二つが出会った場所が、ここだったとも言える。アレクサンドリアの図書館で、医学書が編まれ、訳されるとき。その背景には、イムホテプの名で祭られた神殿が、実際に病人を受け入れ続けたメンフィスとサッカラの現場があった。

ローマの時代、さらにコプトの時代まで、神殿での癒しの習慣はゆるやかに続いた。コプトの時代とは、4世紀以降、エジプトがキリスト教化する時期のことだ。神殿はキリスト教化の後に別の用途へ変えられ、やがて砂に埋もれた。20世紀、ロエールらフランスの考古学団が、サッカラの葬祭複合体を少しずつ掘り出した。イムホテプは再び、私たちの前に姿を現した。同じ20世紀の初め、(William Osler)がいた。近代医学の祖と仰がれた人である。彼はイムホテプを「医師の長兄(the first physician to emerge from the mists of antiquity)」と讃えた。現代の医学界での尊敬は、今も静かに続いている。

ただし、彼自身の墓所は今日も未発見である。サッカラ北の池の近く(今の Anubieion 周辺)にある、という説がフランス調査団によって長く追われてきた。だが確証はまだない。は、いまも残る大きな謎の一つだ。誰よりも大きな墓を建てた男の、自分の墓だけが見つからない。

ここで、サッカラの入口の台座に戻ろう。「ジェセル王、下エジプト王の財務長官・建築家の長イムホテプ」。王のとなりに平民の名が刻まれた理由は、もう見えているはずだ。王は自分の永遠を、この一人の男の手にあずけた。行政も、祭りも、石工の工房も、まとめて任せた。だから王は、その名を自分の足元に置くことを許した。

そして、この一行のような石の言葉が、彼の名で残った数少ない「書物」だった。医学の本も、星の本も、彼の名では残らなかった。残ったのは、石の建物と、手順と、制度と、この一行である。それだけで二千年以上、人々は彼の名を呼び続けた。本を残せない人は、何を残せば忘れられないのだろうか。

人々の父、プタハ神の子、イムホテプ ― 書物の家の書記、建てる者、癒す者。

— 同じ敬称を、名を刻まれた男の側から読み直すとき ― プトレマイオス朝期サッカラ・イムホテプ神殿および後代祝詞に繰り返し現れる定型的敬称群の日本語再構成(底本として D. Wildung, Imhotep und Amenhotep, 1977 所収の諸碑文引用を参照)。単一碑文の逐語訳ではない

07なぜ「哲学者」ではなく、それでも思想家なのか

イムホテプは書物を遺さなかった(あるいは遺された書物は現代に届いていない)。彼の名で流布する格言集 ― 断片的に引用される「知恵の書」 ― は、いずれも後代の書記が彼の名を冠して編んだもので、本人の直筆とは言い難い。その意味で、彼をソクラテスやプラトンと並べる「哲学者」として扱うことはできない。

しかし、PhiloGlyph が「思索者」を philosopher より広く引き受けるとき、イムホテプは外せない。なぜなら彼の仕事は、思想を書物ではなく公共の身体に定着させるという、哲学の一つの別解を示しているからである。

階段ピラミッドは、エジプト王権が自分たちを「永遠の時間の中に置く」ための思考装置だった。神殿は、病と死を前にした人間が「手続きを踏んで神と会う」ための作法の器だった。書記制度は、名もない一人の工匠の図面を千年先に渡すための保存の技術だった。これらを一身に設計した人の営みは、「書く哲学」ではなく「建てる哲学」、「癒す哲学」、「手渡す哲学」として読むことができる。

後世の王たちが、自分の治世の正統性を主張するとき、しばしば「イムホテプのように」と書いた。それは「賢人のように」とも「建築家のように」とも「聖者のように」とも訳せる、一つの複合した参照点としての彼の位置を示している。プラトンが『ティマイオス』でエジプトの古い神官に「お前たちギリシア人は子供だ」と語らせるとき、その背後にいる「エジプトの古い知」の人格的凝縮が、結局はイムホテプの系譜につながっている ― そう読むこともできる。

書くことでしか残らない思想と、建てることで残る思想。私たちが今「哲学」と呼んでいるものは、そのどちらだろうか。

08主要な出来事と遺産

  1. ジェセル王即位(年代は学派により前後30年の幅あり)、イムホテプ宰相・ヘリオポリス大神官・建築家の長として仕える
  2. サッカラ葬祭複合体(階段ピラミッドと円柱列廊・葬祭神殿・北祠堂・南墓を含む)の造営。マスタバから六段ピラミッドへ段階的に改稿しながら完成
  3. 没と推定(墓所未確定、サッカラ北の池・Anubieion 近郊への比定説が続く)
  4. 第19王朝以降、書記の守護者・癒しの賢者として祠に祀られる習慣が定着、書記の一滴の水の捧げ物
  5. 第26王朝(サイト復興期)、プタハ神の子として半神の位に昇格、サッカラに祠堂群が新たに造営される
  6. プトレマイオス5世エピファネスの頃、独立した神格として正式に神殿を持つ。メンフィス・サッカラ・テーベ西岸デイル・エル=バハリ・フィラエ島に祠堂、夢参籠による治癒の巡礼が営まれる
  7. ギリシア人によりアスクレピオスと同一視される(インテルプレタティオ・グラエカ)、サッカラ・アスクレピエイオン成立
  8. エジプトのキリスト教化に伴い神殿祭祀は衰退、やがて砂に埋もれる
  9. ジャン=フィリップ・ロエールらフランス考古学団によるサッカラ発掘、階段ピラミッド復元。ウィリアム・オスラーら近代医学界が「医師の長兄」として顕彰

残した思想の輪郭

  • 切石の大建築 ― 日干し煉瓦から切石へ、人類最古級の石造モニュメント。以後2500年のピラミッド建築・柱廊建築の起点
  • 段階的改稿としての設計 ― マスタバから六段へ、実作業の中で学びながら構想を書き換える「動く設計」
  • 診断と予後の枠組み ― エドウィン・スミス・パピルスに結び付けられた、呪文ではなく観察に基づく医学の原型
  • 夢参籠(インキュバティオ)の神殿 ― 神殿を「病と死に向き合う公共の場」として制度化、アスクレピオス神殿の先駆型
  • 平民から神へ ― 出自ではなく行いによって神格化された、エジプト史上きわめて稀な軌跡
  • 書かないで残す知恵 ― 書物ではなく石・手順・制度に「書く」ことで千年残る思想の別解
紀元前2600年頃、ジェセル王没後から長くて一世代のうちに没したと推定される(正確な年代・墓所は未確定、近年の探査でもサッカラの未発掘地区に比定され続けている)。没後2500年にわたって歴代王朝で祀られ、ヘレニズム期にギリシア人はこれをアスクレピオスと重ね、コプト・エジプト期まで巡礼が続いた。

つながり

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さらに辿るならExternal References

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