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芸術的直観

観阿弥

Kan'ami·1333?–1384·日本(南北朝)·

手放したあとに残るものが、 本当の持ち物なのだとしたら。

猿楽に流行の曲舞を取り込み、能の土台を作った観世座の祖 — 自著は一冊もなく、死の十五日前の舞だけが「散らない花」の証拠として息子の筆に残った

  • 猿楽
  • 観世座
  • 曲舞
  • 衆人愛敬
  • 物まね

主要作品Works Timeline

  1. 1370
    白髭の曲舞楽曲
    応安初年頃。流行芸能・曲舞の拍子を猿楽の謡に導入した音曲改革。能の音楽構造の基礎
  2. 1374
    今熊野猿楽(義満臨席の演能)作品
    一説に1375。将軍義満が初めて猿楽を見物し、以後観世座は幕府の愛顧を得た分水嶺
  3. 1384
    駿河・浅間の御前での最後の演能作品
    旧暦五月四日、法楽の舞。「花は弥増しに見えし」— 十五日後に同地で客死
  4. 1400
    風姿花伝(息子による教えの記録)著書
    観阿弥自身は一冊も書かなかった。その教えは世阿弥の筆でのみ結晶した

時代の空気

鎌倉幕府が滅んだ1333年に生まれたと伝わる(享年からの逆算である)。二つの朝廷が並び立ち、都の権力は移ろい、寺社の祭礼だけが変わらず巡ってくる。芸能者は神事に仕える身分のまま、勧進の舞台で銭を集め、パトロンを探して移動した。猿楽より田楽が格上とされ、負けた座は消える。安定のない時代は、芸には競争の時代だった。

01神事の座

観阿弥(1333?-1384)の出発点は、芸術家ではない。大和四座の一つ・結崎座ゆうざきざは、興福寺・春日社の神事に勤仕することを本務とする座であり、彼はその一員として出発し、のちに大夫として座を率いた(率い始めた時期を特定する記録は残っていない)。春日の若宮祭、興福寺の法会。舞台はまず祭祀の場であり、芸能者は共同体に奉仕する身分だった。

生年の1333は、鎌倉幕府が滅びた年 — といっても直接の出生記録はなく、息子が書き残した享年52からの逆算である。出自も、大和・山田猿楽の家に連なる説と、伊賀・服部氏の出とする説(上嶋家文書。真贋に論争がある)が並び立つ。名張には「観阿弥創座之地」の碑が立ち、伝承は地域で今も生きている。確かなことが少ない人である。それでも、神事に勤仕する座の一員という出発点は動かない。のちに能と呼ばれる芸能は、個人の表現からではなく、共同体に仕える務めから始まった。

02取り込む人

観阿弥の革新は、純化ではなく雑種化だった。当時の流行芸能だった曲舞くせまいの、拍子の面白さを主とする音曲。彼はこれを女芸人(乙鶴と伝わる)に学び、猿楽の謡に取り込んで《白髭の》を作った。伝統の側が流行の側から、男が女の芸から学ぶ。能の音楽構造の背骨は、この越境から生まれた。

『申楽談儀』には、ライバル芸能である田楽の名人・一忠を自分の芸の師と呼んだ、という観阿弥の言葉の趣意が伝わる(没後46年の回想の筆録である)。猿楽より田楽が格上とされた時代に、敵方の名人を師と仰ぐ。大柄な身体で女の物まねに優れた、という芸評も残る。ジャンルの垣根より芸の高みを取り、使えるものはすべて取り込む — 開かれていることは節操のなさではなく、強さである。都の貴人から田舎の見物まで誰も捨てない「」の姿勢と合わせて、この雑種の美学が、結果として650年続く芸能の土台になった。

03今熊野の一夜

1374年頃(一説に1375)、京・今熊野の演能に、数え17歳の将軍・足利義満が桟敷を構えた。大和の神事の座が、都の最高権力の眼前で舞う。この一夜で、田楽の後塵を拝していた猿楽は幕府の愛顧を得た。そして同じ舞台に、観阿弥の息子 — 数え12歳の鬼夜叉、のちの世阿弥がいた。父の芸が、息子の未来の扉を開けた夜である。

歴史の分水嶺は、あとから見れば一夜の演能の姿をしている。だが観阿弥にとってそれは、神事の勤仕から勧進興行、醍醐寺での七日間の興行と、座を京の市場へ押し上げてきた長い勝負の一手だったはずである。桟敷の誰も、この庇護がのちの北山文化を生み、650年後も同じ流派が同じ名で舞台に立つことを知らない。

04駿河・浅間の御前

1384年、東国への巡業の途上。旧暦五月四日、駿河の浅間の御前で、観阿弥は神仏に奉納する法楽の能を舞った。52歳。『風姿花伝』第一が伝えるその舞の姿は、こうである — 演目の多く(物数)はすでに若い世代に譲り、自分は易しいところを控えめに、彩りとして舞った。それでも「花は弥増いやましに見えしなり」。花は、いよいよ増して見えた。

十五日後の五月十九日、観阿弥は同地で客死する。世阿弥はこの最後の舞を、「」— 枝葉が落ち老木になっても散らずに残る花 — の証拠として書き残した。若さが咲かせる一時の花ではなく、稽古の生涯だけが残す花。手放したあとに残ったものこそが、本物だったことの証明である。減らすことでしか見えない花がある — この一段は、老いや移行期を生きるすべての人に向けて、六百年間開かれ続けている。

05書かれた父

観阿弥自身は、一行も書き残さなかった。私たちが読める観阿弥は、すべて息子の筆の中にいる。『風姿花伝』は亡父の教えを核として書かれ、『申楽談儀』は晩年の世阿弥が語った父の逸話を次男・元能が筆録した — 没後46年の記憶である。語られた教えが、最良の記録者を得て、世界最古級の演劇論の核になった。

だがそれは、この像に敬愛と正統化のバイアスがかかっていることも意味する。「亡父の教え」と世阿弥自身の理論の境界は、本文からはもう切り分けられない。最良の記録者を得ることは、幸運であると同時に、像の独占でもある。それでも、外の傍証は残る — 京都の石碑、駿河の伝承、名張の碑、そして何より、彼が土台を作った座が今も続いているという事実。書かれなかった人の実在は、書物の外側で証明されている。

06関係性

書架で観阿弥の隣に置ける人から。まず息子・世阿弥。父の物まね・曲舞・衆人愛敬の芸を、息子が幽玄の美学と理論に昇華した、書架でも稀な実の親子の直接継承である。

ソクラテスとは、深い共鳴がある。ともに一行も書かず、その思想は弟子(息子)の記録によってのみ残った「語りの人」。プラトンにとってのソクラテスと、世阿弥にとっての観阿弥は、記録者の敬愛というフィルターを通してしか会えない点まで同型である。

ファーティマ・ハトゥンとは対比になる。ともに自分の言葉を一切残さなかった人 — だが観阿弥は息子という最良の記録者を得て敬愛の筆で残り、ファーティマは敵の筆でのみ「妖術使い」として残った。記録者が誰かで、死後の像はここまで変わる。

千利休へは、中世から近世へ、「芸能を道として結晶化させた」系譜の始点と到達点という共鳴。観阿弥が雑種化と衆人愛敬で能の土台を広げ、利休が削ぎ落としでわびの茶を極めた — 開く美学と閉じる美学の対でもある。松尾芭蕉とは、旅の中で芸を磨き、旅先で客死した日本の芸道の原型的生涯として響き合う。

1384年・旧暦五月十九日、東国巡業の途上、駿河で死去。数え52歳。その月の四日、浅間の御前で法楽の能を舞ったのが最後の舞台になった。彼自身は一行も書き残さなかったが、教えは息子の『風姿花伝』に結晶し、座は観世流として650年後の今も舞台に立ち続けている。

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