本文へスキップ
φPhiloGlyph
J

デリダ

Jacques Derrida·1930–2004·フランス·

読み返すたびに意味がずれる。 それは、読みまちがいなのか?

西洋形而上学を脱構築し、差延と痕跡の思考を開いたアルジェリア生まれのユダヤ系哲学者

  • 脱構築
  • 差延
  • エクリチュール
植民地が独立し、学生が街で立ち上がり、「正しい読み方」を決める権威がゆらいでいた時代 — ひらく

時代の空気

1930年生まれのデリダはフランス植民地下のアルジェリアで育った。1942年ヴィシー政権下のユダヤ人排除令で12歳のジャッキーは学校から追放される。戦後パリへ渡り、1954-62年のアルジェリア戦争、1962年独立、1968年五月革命を経験した。1960年代パリはレヴィ=ストロース構造主義、ラカン精神分析、アルチュセールのマルクス主義が拮抗し、彼は1967年三冊同時刊行で脱構築を提示。1992年ケンブリッジ名誉博士号騒動で分析哲学と大陸哲学の溝が露呈した。1989年ベルリンの壁崩壊後のグローバル化、難民問題、9.11後の対テロ戦争を背景に、晩年は歓待・贈与・正義を主題化した。

01ケンブリッジに届いた一通の手紙

1992年5月、イギリスのケンブリッジ大学。大学は一人のフランス人に名誉博士号を贈ろうとしていた。名はジャック・デリダ、61歳。世界でもっとも名の知れた哲学者の一人だった。

ところが、これに反対する手紙が新聞に載った。5月9日付の『タイムズ』紙である。署名したのは、イギリス国外を含む18人の哲学者だった。「彼の仕事は哲学の水準を満たしていない」。哲学者たちが、哲学者に向けてそう書いたのである。

大学は投票を行った。結果は、授与の可決だった。しかし手紙の問いは残った。なぜ、これほど有名な哲学者が「哲学ではない」と言われたのか。なぜ彼の本は、読む人をここまで二つに分けたのか。

答えを探すには、彼が書いたものの手前まで戻らなければならない。時は50年前、地中海の向こう岸へ戻る。

02学校を追われた12歳

1942年、フランス領アルジェリア。首都アルジェの近くに、エル・ビアールという町があった。12歳のジャッキー・デリダは、そこで育った少年である。父エメは酒類販売の商社に勤めていた。母ジョルジェットは、敬虔けいけんなユダヤ教徒だった。

一家はスペインにルーツをもつユダヤ人、セファラディムの家系である。家ではフランス語を話し、ふつうの中産市民として暮らしていた。アルジェの街には、ムスリム、フランス人入植者、ユダヤ系の人びとが混じり合って住んでいた。地中海の光と、この混じり合いが、のちの彼の考え方の土台となる。

その年、フランス本国にはがあった。ドイツに敗れたあと、ドイツに協力して生まれた政府である。政権はアルジェリアでも、ユダヤ人生徒を学校から追い出す命令を出した。ジャッキーは、通っていたベン・アクヌーン・リセ(高校にあたる学校)から追放された。

この排除の経験は、生涯彼の中で疼うずき続けた。自分がどこに属するかを、他人が線を引いて決めてしまう。その線を、彼はやがて言葉の側から問い直すことになる。だがそのためには、まず海を渡らなければならなかった。

03パリ、そしてフッサールという入口

1949年、19歳のジャッキーは一人でパリへ渡った。準備学級で学び直し、1952年、(ENS)に入学する。フランスの学者や教師を育てる、最難関の学校である。ここで彼は、パリ風に「ジャック」と名乗るようになった。

指導教員は。マルクス主義の哲学者として知られる人だった。友人には、のちに社会学者となるピエール・ブルデュー、哲学者ミシェル・フーコーらがいた。1956年、彼は哲学の(教授資格試験)に合格した。

学位論文の相手に選んだのは、フッサールだった。ドイツの哲学者で、「現象学」という考え方を開いた人である。物事が意識に「いま、ここに」現れる瞬間を、そのまま取り出そうとする学問だった。最初の著作『フッサール哲学における発生の問題』は、1953年から54年にかけて書かれた(刊行は1990年)。

1962年には、フッサールが晩年に書き残した『幾何学の起源』を訳した。そこに長い「序説じょせつ」を付けて出版し、1964年にジャン・カヴァイエス賞を受けた。この仕事で彼が見つけたのは、奇妙なことだった。フッサールは物事の「はじまり」に届こうとする。けれどそのたびに、書かれた文字、すでに残されたに頼らざるをえない。

この小さな発見の中に、のちののすべてが芽生えていた。彼はこれを、フッサールだけの問題とは考えなかった。西洋の哲学そのものが、同じ癖をもっているのではないか。

041967年、三冊の本

1967年、デリダは三冊の本を同じ年に出した。『』、『』、『』。フランスの知識人の世界は、この突然の登場に騒然となった。30代半ばの学者の仕事だった。

三冊を貫く言葉が、脱構築(déconstruction)である。彼はこう言う。西洋の哲学は昔から、声()を文字()より上に置いてきた。話す声は、話す人が「いま、ここ」にいる。文字は、その人がいなくても残る。だから声のほうが本物で、文字はその写しにすぎない。そう考えられてきた。

しかし本を細かく読んでみると、話が逆になる。プラトンからルソー、言語学者ソシュール、フッサールまで、声の純粋さを語る文章には、いつも文字の痕跡が先に入り込んでいる。意味は、その場でぱっと現れるのではない。ほかの言葉との違いによって生まれ、しかも少し遅れてやって来る。彼はこれを、(différance)と名づけた。

脱構築は、本を壊すことではない。本が、自分で立てた前提を自分で裏切ってしまう瞬間がある。それを内側から明るみに出す読み方である。前年の1966年、彼はアメリカのジョンズ・ホプキンス大学で講演していた。この講演はアメリカの大学に衝撃を与え、やがて彼はフランスよりも英語圏で大きな影響を及ぼすことになる。

だがその前に、パリにはパリの戦いがあった。

差延(différance)とは、差異の体系的な戯れ、差異の痕跡の戯れ、そして要素たちが互いに関係づけられるための間隔化のことである

— 『ポジシオン』(1972)。三冊刊行後に受けたインタビューをまとめた本で、「差延とは何か」と問われて答えた言葉

05パリの戦い、そして1968年

1960年代のパリは、三つの大きな考え方がぶつかる舞台だった。レヴィ=ストロースの、ラカンの、アルチュセールのマルクス主義である。構造主義は、人間の文化を目に見えない仕組みから説き明かそうとする考え方だった。デリダはどの派にも入らなかった。そのかわり、どの派の本にも脱構築を仕掛けた。

たとえば人類学者レヴィ=ストロースの『』。そこでは、文字をもたない人びとの社会に文字が入ることを「暴力の導入」と見ていた。文字が来る前には、まっさらな純粋さがあったかのように。デリダは、その本自身の文章を手がかりに、この見方を内側から揺さぶった(『グラマトロジーについて』第二部)。

1968年5月、パリの学生と労働者が街に出て、国じゅうが止まった。五月革命である。デリダはパリ高等師範学校の助手として働きながら、距離をもって事態を見つめていた。どの党派に加わるかではなく、言葉と制度の深いところを問う道を選んだのである。

1972年、彼はまた三冊を出す。『ポジシオン』『散種』『哲学の余白』。そこには、一つの意味に固定できない言葉があふれていた。 ― 薬でもあり、毒でもある語。(supplément) ― 足りないものを補う、しかし補うことで足りなさを示してしまう語。彼の本は、するりと滑る言葉の群れで満ちていった。

その言葉の群れは、大西洋を渡って思わぬ場所に根を下ろす。

06大西洋の向こう側で

1970年代、デリダの考え方はアメリカの人文学に爆発的に受け入れられた。中心はイェール大学だった。、J・ヒリス・ミラーを軸に、ジェフリー・ハートマン、ハロルド・ブルームらの批評家がいた。彼らは「イェール学派」と呼ばれた(ブルームやハートマンは、脱構築と一定の距離を保っていた)。

デリダ自身も1975年からイェールで定期的に教えた。1986年にはカリフォルニア大学アーヴァイン校へ移り、1987年から定期的に教えている。英語圏の大学院生が、彼のもとで育っていった。フランスの哲学者が、英語で読まれる哲学者になったのである。

けれど、この人気には裏側があった。英語圏では、脱構築が「何でもあり」と受け取られることが多かった。どんな読み方でも許される、意味なんて決まらない、という誤解である。デリダは何度も、そうではないと説明を迫られた。

そして1992年。ケンブリッジの手紙は、この誤解と人気とが積み重なった先に届いた。18人の哲学者が「哲学ではない」と言ったものとは、いったい何だったのか。

07ケンブリッジふたたび ― 脱構築とは何だったのか

1992年5月、『タイムズ』の公開書簡に戻ろう。18人が「哲学の水準を満たしていない」と断じたものの正体は、1967年の三冊にすでに全面的に書かれていた。

デリダによれば、西洋形而上学はプラトン以来「現前」を特権化してきた。意味が、話し手の意識に「いま・ここ」で完全に現れているという想定である。この想定のもとで声(パロール)は文字(エクリチュール)より上位に置かれ、文字は声の派生的な写し、不在の話し手を代理する二次的な記号とされた。フッサールの超越論的現象学もまた、この系譜にある。「起源」に到達しようとする現象学の企てが、不可避に書かれた痕跡に依存していく過程 ― 彼が『幾何学の起源』序説で精密に追ったのは、この過程だった。

だがプラトンからソシュール、フッサール、ルソー、レヴィ=ストロースまで、テクストを精読すれば、声の純粋性はつねに文字の痕跡に先取りされている。意味はその場で現前するのではなく、絶えず差異化され、遅延される ― これが差延である。エクリチュールは声の派生物ではなく、意味の可能性の条件そのものである。「テクストの外部は存在しない」とは、この意味において、すべての現前が既にテクスト=痕跡の網目のなかに書き込まれている、ということだ。

脱構築はテクストの破壊ではない。テクスト自身が自らの前提を裏切る瞬間を、内側から明るみに出す精読の実践である。1966年のジョンズ・ホプキンス大学講演「人文科学の言説における構造・記号・遊戯」が米国アカデミーに与えた衝撃も、この読みの実践に由来する。『悲しき熱帯』の読解(『グラマトロジーについて』第二部)も同型である。レヴィ=ストロースが文字を「暴力の導入」と見なすとき、文字なき社会に純粋な現前が投影されている ― デリダはその投影を、テクストの内側から揺さぶった。

1972年の語彙群 ― パルマコン(薬であり毒)、代補(supplément)、ハイメーン(処女膜/間) ― は、いずれも二項対立のどちらにも収まらず、対立そのものを可能にしつつ揺るがせる語である。概念を一つの意味に固定しない、この滑る語彙の戦略こそ、英語圏で「何でもあり」の相対主義と誤読された部分であり、同時に分析哲学の側から「哲学の水準を満たしていない」と判定された部分でもあった。1992年の騒動が可視化したのは、分析哲学と大陸哲学のあいだの深い溝である。投票は授与を可決した。しかし、意味がどこで確定するのかという問いをめぐる溝は、投票では埋まらなかった。

テクストの外部は存在しない(Il n'y a pas de hors-texte)。

— 『グラマトロジーについて』第2部(1967)。ルソー論のなかの一文で、のちに英語圏で「何でもあり」の誤解を招いた

08他者を迎えること、自分と戦うこと

1980年代の終わりから、デリダの関心は、はっきりと倫理と政治へ向かった。1989年の講演「法の力」(1990年に Cardozo Law Review 掲載)、『マルクスの亡霊ぼうれいたち』(1993)、『歓待について』(1997)、『死を与える』(1999)。正義、責任、贈与ぞうよ、歓待かんたい、許し。言葉の読み方をめぐる仕事が、人と人との関わりをめぐる仕事へ広がっていった。

とくに「歓待」(hospitalité)の考えは、当時のヨーロッパの問題に直接つながっていた。不法滞在者や難民を、どう受け入れるのか。彼はこう言う。ほんとうの歓待、「絶対的歓待」は、条件なしにを迎え入れることを求める。しかし法や制度は、条件つきの歓待しか実現できない。この矛盾のまんなかに立ち続けること ― そこが倫理の場所なのだ、と。この晩年の思索を貫いていたのは、盟友めいゆうレヴィナスへの敬意だった。他者を第一に考えた哲学者である。

2003年、デリダは膵臓癌すいぞうがんの診断を受けた。それでも教壇きょうだんに立ち続け、社会科学高等研究院(EHESS)のセミナーを開き続けた。2004年夏、病状が悪化するなか、最後のインタビューが新聞ル・モンドに載った。見出しは「Je suis en guerre contre moi-même(自分自身と戦争している)」(2004年8月19日付)。彼は74年の人生を振り返り、自分の死をどう引き受けるかを率直に語った。この対話は翌2005年、『Apprendre à vivre enfin / 生きることを学ぶ、ついに』として本になった。

2004年10月8日、パリの病院で息を引き取った。74歳だった。シラク大統領が公式の弔意ちょういを述べ、世界中の新聞が一面で報じた。パリ南郊リス=オランジスの墓地に、ユダヤ式でもキリスト教式でもない、簡素な儀式で埋葬まいそうされた。墓碑には、名前と年号だけが刻まれた。

学校を追われた12歳の少年は、「哲学ではない」と言われた61歳の哲学者になり、名前と年号だけを残して去った。彼が生涯かけて問い続けたのは、意味がどこで決まるのか、ということだった。あなたが今読み終えたこの文章の意味は、どこで確定しただろうか。読み返したとき、それは同じ場所にあるだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 仏領アルジェリア、エル・ビアール(アルジェ近郊)のセファラド系ユダヤ家庭に誕生
  2. ヴィシー政権下のユダヤ人排除令で学校から追放される
  3. パリ高等師範学校(ENS)入学。アルチュセールに師事
  4. 哲学のアグレガシオン(教授資格)合格
  5. フッサール『幾何学の起源』仏訳と序説を刊行(カヴァイエス賞は1964年)
  6. ジョンズ・ホプキンス大学で講演、米国アカデミーに登場
  7. 『エクリチュールと差異』『声と現象』『グラマトロジーについて』三冊同時刊行
  8. 『ポジシオン』『散種』『哲学の余白』刊行
  9. イェール大学で定期的に教える。イェール学派の形成
  10. 国際哲学学院(Collège international de philosophie)共同設立、初代院長
  11. ケンブリッジ大学名誉博士号騒動、投票の末に授与
  12. 『マルクスの亡霊たち』刊行。冷戦後のマルクス主義再読
  13. 10月8日、パリで膵臓癌のため死去。享年74。リス=オランジス墓地に埋葬

残した思想の輪郭

  • 脱構築 ― テクストが自身の前提を裏切る瞬間を内側から読み出す、破壊ではなく精読の実践
  • 差延(différance) ― 意味は現前せず、差異化と遅延のうちに絶えず先送りされる
  • エクリチュールの先行性 ― 声の純粋性は幻想で、文字・痕跡こそが意味の可能性の条件である
  • テクストの外部はない ― すべての現前は既にテクスト=痕跡の網目の中に書き込まれている
  • 歓待の倫理 ― 条件なしの絶対的歓待と、条件付きの法的歓待の矛盾に留まることが倫理の場所
  • マルクスの亡霊 ― 終わらない弔いとしての継承、正義への責任は未来の他者へと開かれる
2004年10月8日、パリで膵臓癌のため死去。74歳。リス=オランジス(Ris-Orangis)の墓地に埋葬された。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

デリダの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

生きた跡を辿るPlaces

デリダが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • リス=オランジス墓地墓所

    リス=オランジス(エソンヌ県), フランス

    2004年没。パリ郊外の自宅近くの目立たぬ墓地に葬られた。墓碑には本名「Jackie」が刻まれている

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

デリダを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。