ソシュール
一冊も本を書かなかった人が、 なぜ世紀を変えたのか?
言語を差異の体系として捉え直し、20世紀の言語学と構造主義の扉を開いたジュネーヴの学者
- 記号
- シニフィアン/シニフィエ
- ラング
音の変化の法則を競って探した時代。言葉そのものの仕組みを問う人は、まだいなかった。 — ひらく
時代の空気
19世紀後半、印欧語族の音韻法則を一つひとつ詰めていく歴史比較言語学の黄金期だった。ボップ、グリム、ブルークマン、レスキーンらが家系図を引き直し、ライプツィヒでは青年文法学派 (Junggrammatiker) が「音韻法則に例外なし」と宣言する。ジュネーヴの裕福な学者一族では祖父ニコラ=テオドールが植物生理学、父アンリが昆虫学・鉱物学を究め、ピクテの東洋学サロンが食卓まで延びていた。象徴主義詩のアナグラム文化、未公刊の大著を遺すヨーロッパ的慣行、20世紀人文学の地殻変動の予感が、レマン湖の水面に静かに重なりつつあった。
01書かれなかった本
1913年2月22日。スイス、ヴォー州の療養地ヴュフラン=シャトー(Vufflens-le-Château)近郊の館で、ひとりの学者が息を引き取った。フェルディナン・ド・ソシュール、55歳。病は肺癌だった。あまりに早い死だった。
彼は21歳で、のちに伝説と呼ばれる論文を書いた人だった。弟子たちに敬愛された名教師でもあった。それなのに、晩年の考えをまとめた本は一冊もない。残されたのは、研究ノートの山だった。詩に隠れた名前を探したノートだけで、99冊にのぼる。
ジュネーヴ大学の同僚、は、師の講義ノートを受け継ぐことを決意した。ただし二人は、その講義を直接聴いてはいなかった。三年後の1916年、彼らの手で一冊の本が世に出る。20世紀の学問の地図を書き換える本である。
なぜ、この人は自分で本を書かなかったのか。なぜ、世紀を変えた本に、本人の手は入っていないのか。時は56年前、レマン湖のほとりに戻る。
02湖のほとりの学者一族
1857年11月26日、フェルディナンはスイスのジュネーヴに生まれた。家は代々の学者だった。曽祖父オラース=ベネディクトは『アルプス紀行』で名高い博物学者・地質学者。祖父ニコラ=テオドールは植物の光合成を研究した化学者。父アンリは昆虫と鉱物の学者だった。フランスから逃れてきたユグノー(プロテスタント)の血を継ぐ一族である。祖先にも自然誌学者、地理学者が名を連ねる。
母ルイーズ・ド・プルタレスは、社交と芸術に通じた旧家の出だった。邸宅では、東洋学者アドルフ・ピクテを中心とするサロン(学者たちの集まり)が頻繁に開かれた。フェルディナンは八人兄弟の長子である。弟には数学者ルネ、中国学者レオポルドが育った。のちに息子レーモン(Raymond de Saussure)は家として名を成す。ジュネーヴ湖畔の邸宅で、学問が家族の日常だった。
少年期はベルン州のホーフヴィル校で寄宿生活を送った。言葉への才能は、早くから見えていた。14歳のとき、印欧諸語に共通する語根の体系について、短い論考を書いた。印欧諸語とは、ヨーロッパからインドまで広がる、親戚どうしの言葉たちのことである。この論考(後年『諸言語に関する一般体系論』として知られる)をピクテに見せている。祖父の書斎に眠るサンスクリット文法書も、独学で読み始めた。
少年の関心は、目の前の言葉そのものではなかった。その背後にある体系、つまり仕組みへ向かっていた。だが当時、その学問の中心はジュネーヴにはなかった。ドイツの、ライプツィヒにあった。
03ライプツィヒ、21歳の覚書
1875年、ジュネーヴ大学で物理学と化学を学び始めた。だが、すぐに言語学へ転じる。1876年、18歳でライプツィヒ大学に留学した。当時、ヨーロッパの比較言語学の中心はここだった。比較言語学とは、親戚どうしの言葉を比べて、元の姿をさぐる学問である。
ここにはクルツィウス、ブルークマン、レスキーン、オストホフがいた。「青年文法学派」(Junggrammatiker)と呼ばれる学者たちである。合言葉は「音韻法則に例外なし」。音の変化には、必ず決まった法則がある、という当時最先端の考えだった。若いソシュールは深く影響を受けた。同時に、しずかな違和感も抱いていく。
1878年末、21歳のソシュールは一冊を刊行した。(Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes)である(奥付は1879年)。サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語では、母音が規則的に入れ替わる。その背後に、まだ誰も発見していない音があるはずだ。彼はそう仮定した。ソナント係数(coefficient sonantique)、のちに「喉音」(laryngeal)と呼ばれる音である。
大胆な提案は、すぐには受け入れられなかった。証拠が出たのは、半世紀後である。1915年、フロズニーがヒッタイト語を解読した。1927年、ポーランドの言語学者イエジ・クリウォヴィチが、ヒッタイト語の子音 ḫ をソシュールの仮説と対応づけた。21歳の直観は、こうして実証された。この一件は印欧言語学の伝説となり、後の研究者は喉音仮説の系譜にソシュールの名を欠かさず刻み続ける。
だが伝説の主は、その日を見ることはなかった。若き俊英の前には、まずパリの10年が待っていた。
04パリの10年、静かな名声
1880年、ライプツィヒで博士論文を提出した。『サンスクリットにおける絶対属格の用法について』。22歳で学位を得た。同じ年、パリの高等研究実習院(École Pratique des Hautes Études, EPHE)に招かれた。ミシェル・ブレアルのもとで、ゴート語、古高ドイツ語、比較文法を教えた。1881年から1891年まで、パリ言語学会(Société de linguistique de Paris)の副書記(secrétaire-adjoint)も10年務めた。学会の運営の実務を担う役目である。
パリでの彼は、弟子たちから敬愛された名教師だった。、ルイ・アヴェ、モーリス・グラモン、ポール・パシ。のちの言語学を担う若者たちが、その講義を聴いた。
1891年、故郷のジュネーヴ大学が彼を呼び戻す。だが故郷に戻った彼を待っていたのは、名声ではなく、長い沈黙だった。
05ジュネーヴ帰郷、隠れた名前を探して
1891年、ジュネーヴ大学はサンスクリットと印欧比較言語学の講座を新設した。ソシュールが、その椅子に迎えられた。以後22年間、彼はこの大学で教え続ける。1892年にマリー・フェシュ(Marie-Eugénie Faesch)と結婚した。三人の息子(ジャック、レーモン、アンドレ)を授かる。静かな家庭人としての生活が始まった。
しかし1894年以降、論文はほとんど書かなかった。語源研究の論考をいくつか出す程度だった。覚書の続きも書かれなかった。残された手記には、こう繰り返し綴られている。「言語学はその術語自体に混乱がある」「対象を語ろうとすると対象が崩れる」。術語とは、学問の中で使う専門の言葉のことだ。言葉を研究する学問なのに、その道具となる言葉があいまいだった。彼は学問を一つの体系として組み上げる難しさに苦しみながら、密かに基礎の組み直しを考え始めていた。深く沈潜する、つまり深く沈む時期だった。
公には書かない代わりに、研究ノートの山が残った。1906年から1909年頃、彼は不思議な研究に数年没頭する。、ウェルギリウス、ルクレティウス。古代の詩人たちの詩行に「隠れた名前」を探したのだ。文字を並べ替えると、別の言葉が現れる。アナグラムである。のちに「」と呼ばれる仕事だ。同時代の象徴主義の詩人たちも、アナグラムを意識的に詩に組み込んでいた。その文学的な気分とも響き合う研究だった。
確証は得られず、本人は中断した。ノート99冊、万単位の用例カードが残された。1971年、ジュネーヴの批評家ジャン・スタロビンスキが『言葉のしたの言葉(Les mots sous les mots)』として一部を公刊する。それまで半世紀以上、ノートは書庫に眠った。言語の表面の下に潜む体系を、つかまえたい。その衝動が、彼の思考を次第に一般言語学の根本問題へ引き寄せていく。そこへ、大学からひとつの依頼が来た。
061907–1911、三度の一般言語学講義
1906年、同僚ヴェルテーマー教授が退任した。ジュネーヴ大学はソシュールに、「一般言語学」(Linguistique générale)の講座を求めた。個別の言葉ではなく、言葉そのものの仕組みを問う講義である。ソシュールは躊躇した。それでも1907年、1908–09年、1910–11年と、三度この講義を開いた。49歳から53歳にかけてのことである。受講生は各回6〜12名ほどの少人数だった。エミール・コンスタンタン、アルベール・リードランジェ、ジョルジュ・デガリエらが、詳細な筆記ノートを残している。
この小さな教室で語られた考えが、20世紀言語学の地図を書き換えることになる。
- (langue)と(parole):みんなで共有する言葉の仕組み(社会的体系)と、一人ひとりの実際の発話
- (signifiant, 音のイメージ)と(signifié, 概念):「イヌ」という音の像と、「犬」という考え
- :音と概念の結びつきに必然はなく、社会的慣習が結ぶ
- 差異の体系:言語に肯定的な項はなく、他の項との差異だけが意味を生む
- :ある時点の体系としての言語と、時間を通じた変化
- 連辞(syntagme)と連合(paradigme)の二軸:言葉を横に並べる軸と、入れ替える軸
ソシュール自身は一冊の本も出さなかった。書けば書くほど対象が崩れると感じていた、と彼の手記は率直に告げる。1912年、健康が悪化し、講義は中断された。教室に残ったのは、学生たちのノートだけだった。
言語のなかには差異しか存在しない。
07弟子たちの救出 ― 『一般言語学講義』1916
そして1913年2月22日、ヴュフランの館。物語は冒頭に戻る。ソシュールは55歳で世を去った。本は書かれなかった。彼の手記が、その理由を静かに語っている。対象を語ろうとすると、対象が崩れる。書くための言葉そのものが、まだ整っていなかった。
シャルル・バイイとアルベール・セシュエは、師の死後、講義ノートを受け継ぐことを決意した。二人はジュネーヴ大学の同僚であり弟子筋ではあったが、ソシュールの三度の講義を直接聴いてはいなかった。彼らはコンスタンタン、リードランジェら受講生たちからノートを集め、互いに突き合わせ、削られた覚書や断片を補い、三年をかけて(Cours de linguistique générale)を編纂した。1916年、パリとローザンヌで刊行された。
これは厳密には「ソシュール自身の書物」ではない。弟子たちの編集と解釈が深く入り、章立ても含めて再構成されたテクストである。後に1957年にゴデルが学生ノートを照合し、1968年以降ルドルフ・エングラーが『講義』批判校訂版 (édition critique)を編んで原ノートとの異同を逐語的に示し、近年は『一般言語学のエッセイ』(2002)が直接の手稿群を公開した。それでも、言語学、構造主義人類学、ロシア・フォルマリスム、、パリの構造主義とポスト構造主義の出発点になったのは、まずもって1916年版の『講義』である。、レヴィ=ストロース、バルト、、デリダが、みなここから出発する。
言語のなかには差異しか存在しない。
08ヴュフランの館、遅れて届く名声
ソシュールの墓はジュネーヴのキング墓地(Cimetière des Rois)にある。生前、彼は自分の講義が世界を変えるとは夢にも思わなかった。研究ノートの多くは、長らく家族の倉庫に眠った。
1996年、ジュネーヴ家のオランジュリー(温室)を整理していた際に、新たな手稿群が発見された。『一般言語学講義』の元になる草稿「De l'essence double du langage」をはじめ、未発表のノートが大量に見つかった。2002年、シモン・ブーケとルドルフ・エングラーの編で『一般言語学のエッセイ』(Écrits de linguistique générale)として刊行された。そこには弟子たちが編集した『講義』とは微妙に異なる声があった。よりためらいがちで、より慎重な「本物のソシュール」の声である。構造主義の出発点であるはずのテクストが、死後80年を経てなお更新され続けている。
本人は書かなかった。それでも、その考えは世界に届いた。では、いま私たちが読んでいる「ソシュール」は、いったい誰の言葉なのだろう。
09主要な出来事と著作
- ジュネーヴの名門学者一族に誕生
- ライプツィヒ大学留学。青年文法学派のもとで印欧比較言語学を学ぶ
- 21歳、『印欧諸語母音原初体系覚書』刊行(奥付1879)。喉音の先駆的仮定
- 博士論文『サンスクリットにおける絶対属格の用法』。パリのEPHEで教え始める
- パリ言語学会副書記。メイエ、グラモンら次世代の比較言語学者を育てる
- ジュネーヴ大学教授に就任。サンスクリット・比較文法担当
- マリー・フェシュ(Marie-Eugénie Faesch)と結婚
- 三度にわたって「一般言語学」講義を開講
- 2月22日、ヴォー州ヴュフラン=シャトー近郊で癌により死去。享年55
- 弟子バイイとセシュエの編纂により『一般言語学講義』刊行
- クリウォヴィチが既解読のヒッタイト語資料からソシュールの喉音仮説を実証
- スタロビンスキ『言葉のしたの言葉』、未公刊のアナグラム研究を一部公刊
- ジュネーヴで新たな手稿発見、ブーケ・エングラー編『一般言語学のエッセイ』刊行
残した思想の輪郭
- ラングとパロール ― 社会的体系としての言語と個々の発話を区別し、言語学の対象を定義した
- 記号の恣意性 ― シニフィアンとシニフィエの結合に必然はなく、社会的慣習が結ぶ
- 差異の体系 ― 言語には肯定的な項はなく、他項との差異だけが各項の価値を定める
- 共時態と通時態 ― ある時点の体系としての言語研究を、歴史的変化の研究から切り離した
- 喉音仮説 ― 印欧祖語に未発見の子音を仮定、ヒッタイト語解読で半世紀後に実証された
- 構造主義の母胎 ― 言語学を超えて人類学・精神分析・文芸批評の20世紀的展開の出発点となった
- 主著は弟子の再構成 ― 『一般言語学講義』はバイイとセシュエが学生ノートから編んだテクストで、本人の手稿ではない
つながり
- レヴィ=ストロース
継承 — 亡命先のニューヨークでその記号観を受け取り、親族と神話の分析に開いた人類学者がいる。
- デリダ
批判的継承 — その講義を精読し、差異の体系を肯定しながら音声の優位だけを退けた読み手がいる。
さらに読むならFurther Reading
ソシュールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門一般言語学講義
フェルディナン・ド・ソシュール / 訳: 小林英夫 / 岩波書店
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生きた跡を辿るPlaces
ソシュールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ジュネーヴ大学所属
ジュネーヴ, スイス
ソシュールが一般言語学講義を行った大学。死後、学生ノートから『一般言語学講義』が編まれた
- ソシュールの墓(ヴュフラン墓地)墓所
ヴュフラン=ラ=ヴィル, スイス
ジュネーヴ近郊、ソシュール家の領地近くの墓地に眠る
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ソシュールを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フェルディナン・ド・ソシュール」項
WikipediaWikipedia 日本語版「一般言語学講義」項
ソシュールの講義録、弟子により編纂
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ferdinand de Saussure"