ソシュール
言葉の意味は、 どこから生まれるのか?
言語を差異の体系として捉え直し、20世紀の言語学と構造主義の扉を開いたジュネーヴの学者
- 記号
- シニフィアン/シニフィエ
- ラング
時代の空気
19世紀後半、印欧語族の音韻法則を一つひとつ詰めていく歴史比較言語学の黄金期だった。ボップ、グリム、ブルークマン、レスキーンらが家系図を引き直し、ライプツィヒでは青年文法学派 (Junggrammatiker) が「音韻法則に例外なし」と宣言する。ジュネーヴの裕福な学者一族では祖父ニコラ=テオドールが植物生理学、父アンリが昆虫学・鉱物学を究め、ピクテの東洋学サロンが食卓まで延びていた。象徴主義詩のアナグラム文化、未公刊の大著を遺すヨーロッパ的慣行、20世紀人文学の地殻変動の予感が、レマン湖の水面に静かに重なりつつあった。
01ジュネーヴの学者一族
1857年11月26日、スイスのジュネーヴに生まれた。曽祖父オラース=ベネディクトは『アルプス紀行』で名高い博物学者・地質学者、祖父ニコラ=テオドールは植物生理学者として光合成研究に貢献した化学者、父アンリは昆虫学・鉱物学者で、フランスから逃れてきたユグノー(プロテスタント)系の血を継いでいた。祖先にも自然誌学者、地理学者が名を連ねる。母ルイーズ・ド・プルタレスの家は社交と芸術に通じた旧家の出で、邸宅にはアドルフ・ピクテを中心とする東洋学・比較神話学のサロンが頻繁に開かれていた。フェルディナンは八人兄弟の長子で、弟のなかにも数学者ルネ、中国学者レオポルドらが育ち、のちに息子レーモン(Raymond de Saussure)は精神分析家として名を成した。ジュネーヴ湖畔の邸宅で、学問が家族の日常だった。
少年期はベルン州のホーフヴィル校で寄宿生活を送った。フェルディナンは言語に早くから才能を見せ、14歳のとき、印欧諸語に共通する語根の体系について短い論考(後年『諸言語に関する一般体系論』として知られる)を書き、ピクテに見せている。祖父の書斎に眠るサンスクリット文法書を独学で読み始めた。少年の関心は、目の前の言葉そのものの背後にある体系へ向かっていた。
02ライプツィヒ、21歳の天才論文
1875年、ジュネーヴ大学で物理学と化学を学び始めたが、すぐに言語学へ転じた。1876年、当時ヨーロッパの比較言語学の中心だったライプツィヒ大学に留学。クルツィウス、ブルークマン、レスキーン、オストホフら「青年文法学派」(Junggrammatiker)のもとで印欧語の音韻法則を徹底的に叩き込まれた。「音韻法則に例外なし」という当時最先端のテーゼに、若いソシュールは深く影響を受けると同時に、しずかな違和感も抱いていく。
1878年末、21歳のソシュールは(Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes)を刊行した(奥付は1879年)。サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語の母音交替の背後に、まだ発見されていないソナント係数 (coefficient sonantique、後の「喉音」laryngeal)を仮定するという大胆な提案だった。当時はすぐには受け入れられなかったが、ヒッタイト語は1915年にフロズニーにより解読され、1927年にポーランドの言語学者イエジ・クリウォヴィチが、ヒッタイト語の子音 ḫ をソシュールの仮説と対応づけたことで、半世紀を経て彼の直観が実証された。この一件は印欧言語学の伝説となり、後の研究者は喉音仮説の系譜にソシュールの名を欠かさず刻み続ける。
03パリで10年、静かな名声
1880年、ライプツィヒで博士論文『サンスクリットにおける絶対属格の用法について』を提出し、学位を得た。同年、高等研究実習院 (École Pratique des Hautes Études, EPHE) の招聘を受けてパリに移り、ミシェル・ブレアルのもとでゴート語・古高ドイツ語・比較文法を教えた。1881年から1891年まで、パリ言語学会 (Société de linguistique de Paris) の副書記 (secrétaire-adjoint) を10年にわたり務め、学会運営の実務を担った。
このパリ時代、彼は弟子たちから敬愛された名教師だった。アントワーヌ・メイエ、ルイ・アヴェ、モーリス・グラモン、ポール・パシらがその講義を聴いた。しかし1894年以降、論文はほとんど書かなかった。語源研究の論考をいくつか出す程度で、覚書の続きも書かれなかった。残された手記には、「言語学はその術語自体に混乱がある」「対象を語ろうとすると対象が崩れる」と繰り返し綴られている。彼は学問を一つの体系として組み上げる作業の難しさに苦悩しながら、密かに基礎の組み直しを考え始めていた。深く沈潜する時期だった。
04ジュネーヴ帰郷、サンスクリットの椅子
1891年、故郷ジュネーヴ大学がサンスクリットと印欧比較言語学の講座を新設し、ソシュールを迎えた。以後22年間、彼はこの大学で教え続ける。1892年にマリー・フェシュ(Marie-Eugénie Faesch)と結婚し、三人の息子(ジャック、レーモン、アンドレ)を授かった。静かな家庭人としての生活が始まった。
この時期、彼は公にはほとんど書かなかったが、研究ノートの山は残した。1906年から1909年頃にかけて、ホメロス、ウェルギリウス、ルクレティウスら古代詩人の詩行に「隠れた名前」のアナグラムを探す研究に数年没頭した()。同時代の象徴主義詩がアナグラムを意識的に組み込んでいた文学的気分とも響き合う仕事だった。確証を得られず本人は中断したが、ノート99冊・万単位の用例カードが残され、1971年にジュネーヴの批評家ジャン・スタロビンスキが『言葉のしたの言葉 (Les mots sous les mots)』として一部を公刊するまで、半世紀以上にわたり書庫に眠った。言語の表面の下に潜む体系を捕まえたい ― その衝動が、彼の思考を次第に一般言語学の根本問題へと引き寄せていった。
051907–1911、三度の一般言語学講義
1906年、同僚ヴェルテーマー教授の退任に伴い、ジュネーヴ大学から「一般言語学」(Linguistique générale)の講座を担当するよう求められた。ソシュールは躊躇したが、1907年、1908–09年、1910–11年と三度にわたってこの講義を開講した。受講生は各回6〜12名ほどの少人数で、エミール・コンスタンタン、アルベール・リードランジェ、ジョルジュ・デガリエらが詳細な筆記ノートを残している。
この講義で彼が提示した概念が、20世紀言語学の地図を書き換えることになる。
- (langue)と(parole):社会的体系としての言語と、個々の発話
- (signifiant, 音のイメージ)と(signifié, 概念)
- :両者の結びつきに必然はなく、社会的慣習が結ぶ
- 差異の体系:言語に肯定的な項はなく、他の項との差異だけが意味を生む
- :ある時点の体系としての言語と、時間を通じた変化
- 連辞(syntagme)と連合(paradigme)の二軸
ソシュール自身は一冊の本も出さなかった。書けば書くほど対象が崩れると感じていた、と彼の手記は率直に告げる。1912年、健康が悪化し、講義は中断された。
言語のなかには差異しか存在しない。
06弟子たちの救出 ― 『一般言語学講義』1916
1913年2月22日、ソシュールはヴォー州ヴュフラン=シャトー(Vufflens-le-Château)近郊の館で肺癌のため息を引き取った。55歳。あまりに早い死だった。
は、師の死後、講義ノートを受け継ぐことを決意した。二人はジュネーヴ大学の同僚であり弟子筋ではあったが、ソシュールの三度の講義を直接聴いてはいなかった。彼らはコンスタンタン、リードランジェら受講生たちからノートを集め、互いに突き合わせ、削られた覚書や断片を補い、三年をかけて(Cours de linguistique générale)を編纂した。1916年、パリとローザンヌで刊行された。
これは厳密には「ソシュール自身の書物」ではない。弟子たちの編集と解釈が深く入り、章立ても含めて再構成されたテクストである。後に1957年にゴデルが学生ノートを照合し、1968年以降ルドルフ・エングラーが『講義』批判校訂版 (édition critique)を編んで原ノートとの異同を逐語的に示し、近年は『一般言語学のエッセイ』(2002)が直接の手稿群を公開した。それでも、構造主義言語学、構造主義人類学、ロシア・フォルマリスム、プラハ学派、パリの構造主義とポスト構造主義の出発点になったのは、まずもって1916年版の『講義』である。ヤコブソン、レヴィ=ストロース、バルト、ラカン、デリダが、みなここから出発する。
07ヴュフランの館、遅れて届く名声
ソシュールの墓はジュネーヴのキング墓地(Cimetière des Rois)にある。生前、彼は自分の講義が世界を変えるとは夢にも思わなかった。研究ノートの多くは長らく家族の倉庫に眠った。
1996年、ジュネーヴ家のオランジュリー(温室)を整理していた際に新たな手稿群が発見された。『一般言語学講義』の元になる草稿「De l'essence double du langage」をはじめ、未発表のノートが大量に見つかり、2002年にシモン・ブーケとルドルフ・エングラーの編で『一般言語学のエッセイ』(Écrits de linguistique générale)として刊行された。そこには弟子たちが編集した『講義』とは微妙に異なる、よりためらいがちで、より慎重な「本物のソシュール」の声が記録されていた。構造主義の出発点であるはずのテクストが、死後80年を経てなお更新され続けている。
08主要な出来事と著作
- ジュネーヴの名門学者一族に誕生
- ライプツィヒ大学留学。青年文法学派のもとで印欧比較言語学を学ぶ
- 21歳、『印欧諸語母音原初体系覚書』刊行(奥付1879)。喉音の先駆的仮定
- 博士論文『サンスクリットにおける絶対属格の用法』。パリのEPHEで教え始める
- パリ言語学会副書記。メイエ、グラモンら次世代の比較言語学者を育てる
- ジュネーヴ大学教授に就任。サンスクリット・比較文法担当
- マリー・フェシュ(Marie-Eugénie Faesch)と結婚
- 三度にわたって「一般言語学」講義を開講
- 2月22日、ヴォー州ヴュフラン=シャトー近郊で癌により死去。享年55
- 弟子バイイとセシュエの編纂により『一般言語学講義』刊行
- クリウォヴィチが既解読のヒッタイト語資料からソシュールの喉音仮説を実証
- スタロビンスキ『言葉のしたの言葉』、未公刊のアナグラム研究を一部公刊
- ジュネーヴで新たな手稿発見、ブーケ・エングラー編『一般言語学のエッセイ』刊行
残した思想の輪郭
- ラングとパロール ― 社会的体系としての言語と個々の発話を区別し、言語学の対象を定義した
- 記号の恣意性 ― シニフィアンとシニフィエの結合に必然はなく、社会的慣習が結ぶ
- 差異の体系 ― 言語には肯定的な項はなく、他項との差異だけが各項の価値を定める
- 共時態と通時態 ― ある時点の体系としての言語研究を、歴史的変化の研究から切り離した
- 喉音仮説 ― 印欧祖語に未発見の子音を仮定、ヒッタイト語解読で半世紀後に実証された
- 構造主義の母胎 ― 言語学を超えて人類学・精神分析・文芸批評の20世紀的展開の出発点となった
- 主著は弟子の再構成 ― 『一般言語学講義』はバイイとセシュエが学生ノートから編んだテクストで、本人の手稿ではない
出典と確認メモ
5件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: ジュネーヴ大学で1906年から三度にわたり行われた一般言語学講義、ソシュール自身は書物を残さず、没後1916年に弟子シャルル・バイイとアルベール・セシュエが学生ノートを編んで刊行した。単語は実体ではな...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: これは厳密には「ソシュール自身の書物」ではない。弟子たちの編集と解釈が深く入り、章立ても含めて再構成されたテクストである。後に1957年にゴデルが学生ノートを照合し、1968年以降ルドルフ・エングラー...
- 思想原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 残した思想の輪郭 / - ラングとパロール ― 社会的体系としての言語と個々の発話を区別し、言語学の対象を定義した / - 記号の恣意性 ― シニフィアンとシニフィエの結合に必然はなく、社会的慣習が結...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 言語のなかには差異しか存在しない。
一次資料を開くDeuxième Partie, Chapitre IV 'La valeur linguistique', §4 (p. 166): 'dans la lan...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: saussure.mdx pullsource 「『一般言語学講義』第2部第4章」は、Bally-Sechehaye 編 Cours de linguistique générale (1916) D...
一次資料を開くBally-Sechehaye 編 Cours de linguistique générale (Payot, 1916) Deuxième Partie 第...
つながり
- レヴィ=ストロース
先駆 — ニューヨーク亡命中の1942年にヤコブソンを介して音韻論(プラハ学派)経由でソシュール『一般言語学講義』(1916)の構造的記号観を吸収、『親族の基本構造』(1949)『構造人類学』(1958)『野生の思考』(1962)で親族・神話・分類体系を記号の差異体系として分析、20世紀構造主義を始動
- デリダ
批判的継承 — 『グラマトロジーについて』(1967)第一部第二章でソシュール『一般言語学講義』を精読し、音声中心主義(phonocentrisme)を抽出、シーニュの差異体系を肯定しつつ「音声言語の優位」を退け、書字(エクリチュール)を起源として差延(différance)の概念を導入
さらに読むならFurther Reading
ソシュールの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門一般言語学講義
フェルディナン・ド・ソシュール / 訳: 小林英夫 / 岩波書店
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丸山圭三郎 / 講談社学術文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ソシュールが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ジュネーヴ大学所属
ジュネーヴ, スイス
ソシュールが一般言語学講義を行った大学。死後、学生ノートから『一般言語学講義』が編まれた
- ソシュールの墓(ヴュフラン墓地)墓所
ヴュフラン=ラ=ヴィル, スイス
ジュネーヴ近郊、ソシュール家の領地近くの墓地に眠る
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ソシュールを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フェルディナン・ド・ソシュール」項
WikipediaWikipedia 日本語版「一般言語学講義」項
ソシュールの講義録、弟子により編纂
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ferdinand de Saussure"
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