朱熹
万物を貫く「理」と、 一粒一粒の「気」は、 どう結びついているのか?
「理」と「気」の形而上学で四書を注釈し、朱子学を東アジアの標準教学に押し上げた南宋の大儒
- 理
- 気
- 格物致知
- 四書集注
時代の空気
華北を失った時代に生きた。靖康の変で金軍が開封を陥れ、宋王朝は南へ退いて臨安に都を据え直していた。失われた中原の記憶と、軍事的に劣位にある屈辱が、士大夫たちの背中にのしかかっていた。科挙で登る官僚制は成熟し、読書と論理と倫理が権力への階段だった。仏教と道教は民衆にも知識人にも深く浸透し、儒学はそれに応える体系を求められていた。気と理、太極と性、内省と格物——理論の塔を再建せねば倫理の足場そのものが流されてしまう、そう感じられる時代だった。
01建炎の福建、早熟の少年
建炎4年(1130年)10月18日(旧暦9月15日)、南宋の福建路尤渓県(現福建省尤渓)で生まれた。姓は朱、名は熹(き)、あわせて朱熹と呼ばれる。字ははじめ元晦、のち仲晦、号は晦庵・考亭・紫陽、晩年は晦翁・滄洲病叟とも称した。父朱松は北宋の進士で程頤系統の宋学を学び、金との和議に反対して御史の任から左遷された硬骨の士人。母は祝氏。四兄弟の末子として育った。
『朱子年譜』は朱熹の早熟を伝える。4歳で父に「天の上には何があるか」と問い、父が「天の上には天がある」と答えると、熹は「その上は何か」と押したという。紹興13年(1143年)、14歳で父を失い、母とともに福建建陽の外祖の家へ寄寓した。父の遺言で胡憲・劉勉之・劉子翬の三先生(父の友人、いずれも二程の学脈)に学ぶ。禅にも道教にも一時深入りしつつ科挙の準備を進め、紹興18年(1148年)19歳で進士及第、3年後には福建同安の主簿に任じられて初めて官途に就いた。
02李侗に師事、洛学の正統へ
紹興23年(1153年)、24歳で李侗(延平先生)に会う。は二程(程顥・程頤)の弟子楊時の三代目の門人で、北宋の洛学を正統に受け継いでいた。李侗は朱熹に、禅と儒の混濁を退け、未発已発(心が発する前と後)の工夫と日用平常のなかの天理を説いた。
朱熹は以後10年近く、李侗との書簡で儒学の基礎を磨いた。31歳で正式に李侗の門人となり、34歳(1163年)で李侗が没するまでに、程頤の「」の立場を自らのものとした。ここに儒家正統の学脈 ― 周敦頤(太極図説)→張載(正蒙)→程顥・程頤(二程)→楊時・羅従彦・李侗→朱熹 ― の継承が整い、朱熹はこれを道学(宋学)の名のもとで総合していく。
03理と気 ― 形而上の二元
朱熹の形而上学の核心は理気論(理気二元論)である。理とは万物を貫く規範・条理・本質。気とは万物を構成する材質・力・流動。理は「形而上の者にして生物の本」、気は「形而上の上に非ず、生物の具」(『』)。理は一つで気は多様。理があるから事物はあるべくしてあり、気があるから事物は具体的にある。
人の性は理である(性即理、程頤の継承)。しかし現実の人は気質の濁清に偏りを持つため、本性の善が現れにくい。学問は気質の変化のためにある。天地の性(本然の性)と気質の性を区別したこの二元論は、孟子の性善説と荀子の性悪説の長い対立を調停する枠組みとなった。
04格物致知 ― 窮理の方法
性即理ゆえに、心を修める方法は「格物致知」 ― 物に格(いた)りて知を致す ― である。朱熹は『大学』の「格物」を「事物の理を窮める」と解し、『大学章句』に補伝を書き入れた(古本には脱文があるとの判断による補訂で、後に陽明学が異論を唱えることになる)。
一事一物に即して理を窮め、その積み重ねによってある日「豁然貫通」(一気に貫き通る)の悟りに至る、というのが朱熹の修養構想である。居敬(つねに慎み敬する心構え)と窮理(事物の理を探求する)を車の両輪とする。読書もまた窮理の一方法であり、古典を繰り返し精読して字義と道理を味わうことが勧められた。
05四書の確立
朱熹の最大の実績は、『論語』『孟子』『大学』『中庸』をとして一体化し、五経に並ぶ儒家の基本経典に据え直したことである。『大学』と『中庸』はもともと『礼記』の一篇だった。それを独立させ、(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)として総括した。淳熙10年(1183年)に福建武夷山九曲渓畔へ開いた武夷精舎では、門弟と寝食をともにしながら集注の校訂を続けた。注釈作業の前段には淳熙2年(1175年)、呂祖謙との共編で周敦頤・張載・二程の語録を選び抜いた『』を編み、初学者が四書へ進むための階梯としていた。
元の仁宗が1313年に詔を発し、1315年の延祐復科をもって、科挙の試験範囲は四書と朱子集注に実施レベルで定まった。この制度が明清を通じて存続した結果、朱熹の注釈は六百年にわたり東アジア ― 朝鮮・ベトナム・日本(近世の林羅山から伊藤仁斎まで) ― の知識人が必ず通る関門となった。一哲学者の注釈が、これほど長期にわたり試験体系の根幹を占めた例は世界史に類を見ない。
06鵝湖の会 ― 陸九淵との対決
淳煕2年(1175年)、朱熹は呂祖謙の仲介・調停のもと、江西派の陸九淵(象山、1139–1193)と兄の陸九齢と、鵝湖寺(現江西省鉛山)で会合した。である。朱熹は格物窮理による広学を、陸兄弟は「心即理」による先立其大(本心の立脚)を主張した。陸は「支離事業」(朱熹の方法を断片的と批判)、朱は「空疎簡略」(陸の方法を禅的簡略と批判)と応酬した。
この対立は、後に陸九淵の系譜を継いだ王陽明(明中期)との朱陸論争へ展開し、東アジアの儒学を二分する構造的論争となる。が性即理・外から内への方向を取るのに対し、陸王学は心即理・内から外への方向を取る。ただし両者とも儒家の正統を自任していた点は共通する。
衆物の表裏精粗、到らざるなく、吾が心の全体大用、明らかならざるなし。
07慶元党禁、考亭の晩年
朱熹の学は支持を広げたが、政治的には幾度も挫折した。淳煕・紹熙・慶元の三朝にわたり、要職に就いても政敵との対立で短命に終わる。淳煕15年(1188年、戊申)には孝宗皇帝に向けて七千字に及ぶ戊申封事を密封して進言し、君心の正しさ・任賢・抑奸・恤民を直言したが採用は叶わなかった。地方官としては淳煕7年(1180年)知南康軍として江西廬山の白鹿洞書院を再興し自筆の学規を定め、紹熙5年(1194年)知潭州として湖南長沙の岳麓書院を改修するなど、朝廷では退けられた理想を書院教育の場で結実させていった。同年7月の寧宗即位に際しては煥章閣待制兼侍講として召し出され、わずか46日間ではあったが新帝に『大学』を進講して儒家理想の政治を訴えた。しかし外戚の宰相韓侂冑らの策略で罷免される。
慶元元年(1195年)以後、寧宗朝の政争のなかで朱熹の学は攻撃を受け、慶元2年(1196年)には偽学禁令が本格化した。慶元4年(1198年)には趙汝愚をはじめ門人ら59名が「偽学逆党」として名を連ね、官を奪われ禁錮された。慶元党禁である。朱熹は福建建陽の考亭に退き、『楚辞集注』『儀礼経伝通解』などを著しながら晩年を過ごした。病床でも『大学』の「誠意」章の注を改訂し続け、死の前日まで筆を離さなかったと伝える。
慶元6年(1200年)3月9日(旧暦)、考亭の滄洲精舎で没した。71歳。葬儀は党禁のさなかにありながら千を数える門人と縁者が建陽に集まったと伝わる。8年後の嘉定元年(1208年)に党禁が解かれ、「文公」の諡号が贈られた。淳祐元年(1241年)、朱熹は孔子廟に従祀される栄誉を受け、以後朱子と尊称された。
08主要な出来事と著作
- 福建路尤渓県に生まれる(旧暦9月15日)。父朱松は宋学の影響を受けた進士官
- 14歳で父朱松死去。母祝氏とともに福建建陽に寄寓し、胡憲・劉勉之・劉子翬に学ぶ
- 19歳で進士及第。1151年から福建同安主簿として初の任官
- 24歳、李侗(延平先生)と初対面。以後書簡で師事
- 34歳、李侗没。二程の学統を引き継ぎ、孝宗即位で官途が再開
- 鵝湖の会。陸九淵と格物窮理vs心即理で対決。呂祖謙と『近思録』を共編
- 知南康軍として江西廬山の白鹿洞書院を再興、自筆の学規を掲げる
- 福建武夷山九曲渓畔に武夷精舎を開く。集注の校訂と門弟教育を続ける
- 孝宗皇帝に七千字の戊申封事を進上、君心の正と任賢・抑奸・恤民を直言
- 『四書集注』を完成、『大学章句』に格物致知補伝を書き入れる
- 知潭州として湖南長沙の岳麓書院を改修、講学を再興
- 寧宗即位とともに煥章閣待制兼侍講として『大学』を進講(在任46日で罷免)
- 韓侂冑らの主導で慶元党禁。朱熹の学は「偽学」と烙印される
- 趙汝愚以下59名が『偽学逆党籍』に列せられ官を奪われ禁錮
- 3月9日(旧暦)、福建建陽考亭の滄洲精舎で没。享年71
- 党禁解除、「文公」の諡号を追贈
- 孔子廟に従祀。以後「朱子」と尊称される
- 元の仁宗が詔を発し延祐復科で科挙を四書・朱子集注の範囲に定める
残した思想の輪郭
- ― 万物は形而上の理と形而下の気から成り、理は一・気は多様という二元的構造
- 性即理 ― 人の本性は天理そのもの、気質の偏りが現実の人の性を生む
- ― 事物の理を一つずつ窮めることで、ある日豁然と貫通する修養の方法
- ― 慎み敬する心構えと理の探求、両輪による学問の道
- 四書集注 ― 論語・孟子・大学・中庸を四書として一体化、朱子注を科挙の標準教本に
- 道学の総合 ― 周敦頤・張載・二程の宋学を統合し、儒家正統の学統を構築
- と復権 ― 生前は偽学として禁じられたが、死後の再評価で東アジア六百年の教学基礎に
出典と確認メモ
5件- 思想二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: 朱熹は『大学』に脱文があると判断し、格物致知の章に自ら補伝を書き足した。一事一物の理を一つずつ窮めていけば、やがて豁然と貫通し、心の働きが残らず明らかになるという。観念の宣言ではなく、目の前の細部を辿...
- 思想原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 『朱子語類』巻十「読書法上」の読書論の要旨である。自分の思い込みを先に立てて古典を読むと、テキストは自分の鏡になってしまう ― 朱熹はまず心を空にして字義を押さえ、ゆっくり段の主旨へ降りてくる「熟読玩...
一次資料を開く卷十讀書法上。「讀書須是虛心將聖賢言語體之於身」「讀書玩味」「先看本文」等の教説本文。philoglyph 「心を空にして字義を押さえ熟読玩味する手順」の典拠
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 衆物の表裏精粗、到らざるなく、吾が心の全体大用、明らかならざるなし
一次資料を開く格物補伝 (伝五章) verbatim: 「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則眾物之表裡精粗無不到、而吾心之全體大用無不明矣。此謂物格、此謂知之至也。」 (We...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: zhuxi.mdx pullsource 「『大学章句』格物致知補伝(朱熹補)」 は 朱熹 (1130-1200) 撰『大学章句』伝五章「格物致知補伝」 (淳熙 16 年/1189 改訂版) を指す書...
一次資料を開く格物補伝 (伝五章) verbatim: 「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則眾物之表裡精粗無不到、而吾心之全體大用無不明矣。此謂物格、此謂知之至也。」 (c-...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 読書は須(すべか)らく虚心にして義理を体認すべし。先入の意を以て強いて合わすべからず
一次資料を開く卷11「學五」讀書法下 verbatim 教説: 「聖賢言語、當虛心看、不可先自立說去撐拄、便喎斜了」「讀書須將心貼在書冊上、逐句逐字、各有著落、方始好商量」「...
つながり
- 孟子
継承 — 『四書章句集注』(1190前後、1200最終改訂)で『論語』『孟子』『大学』『中庸』を「四書」として定め、孟子の性善説を「本然の性」として理気論の枠組みで再定義。朱熹没後の1313年、元朝が『四書集注』を科挙の公式テクストと定めたことで、以後600年以上にわたる東アジア科挙儒教の正統的解釈となる
- 王陽明
批判的継承 — 若年期に朱子学の「格物致知」を実践し、竹を数日間見続けて悟りに至らず病に倒れる(「格竹」の挫折、『伝習録』下)。1508年龍場駅での「龍場の大悟」を経て、朱熹の性即理・事物に理を求める方向を退け、「心即理」を掲げて心の本体である良知を致す陽明学を確立
- 本居宣長
反発 — 『玉勝間』『うひ山ぶみ』で朱子学的な理気論・性理説を「漢意(からごころ)」として退け、『古事記伝』(1798完成)では漢文風の訓読と朱子学的解釈を廃し古代日本語の音と感情の直接性を復元。もののあはれを核心とする「大和心」の国学を、朱子学的思弁への徹底した反発として構築
- 董仲舒
先駆 — 漢代儒教の宇宙論的国教化が宋明理学の前提を準備(朱熹は『近思録』で董仲舒を儒教的実存の源泉として引用)
さらに読むならFurther Reading
朱熹の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門近思録
朱熹・呂祖謙 編 / 訳: 湯浅幸孫 / 講談社学術文庫
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生きた跡を辿るPlaces
朱熹が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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